2019年6月28日金曜日

虚言癖の子ども


娘の保育園の友だちに、Tちゃん(五歳)という子がいる。

あるとき、娘とTちゃんが鉄棒で遊んでいた。
娘はいちばん右端、Tちゃんは左端。
Tちゃんが手を滑らせて鉄棒から落ち、顔を地面に打って泣きだした。

それを見ていたぼくは、泣きわめくTちゃんを抱きかかえて、少し離れたところにいるTちゃんのおかあさんのところに連れていった。
おかあさんはTちゃんを家に連れてかえった。


翌日、Tちゃんのおかあさんに会ったので
「Tちゃん大丈夫でした?」
と尋ねた。
Tちゃんのおかあさんは「大丈夫でした。ありがとうございました」と言った後で、言いにくそうにこう口にした。

「Tが、Mちゃん(ぼくの娘)に突き落とされたって言ってるんですけど……」

ぼくはびっくりした。
事実無根だ。現場を見ていたのだからまちがいない。
「いやいやいや、落ちるとこを見てましたけど、そのときうちの娘とTちゃんはぜんぜん離れたところにいたので、押してなんかいませんよ!」

Tちゃんのおかあさんは「すみません」と頭を下げて、
「T! なんでそんな嘘つくの! Mちゃんに謝りなさい!」とTちゃんをきつく叱った。

ぼくはまだ驚いていた。
どうしてそんな嘘をつくのだ。

Tちゃんのおかあさんが言ってくれたから嘘だと判明したけど、そうでなければうちの娘が「友だちを鉄棒から突き落としてケガをさせたやつ」という汚名を着せられるところだった。
Tちゃんのおかあさんも言いにくかったとおもうが、言ってくれてよかった。おかげで誤解が解けた。
ぼくだったら黙って距離をとっていただろう。



また別の日。

Tちゃんのおかあさんと話していると、Tちゃんが通っていたプール教室をやめたと聞いた。

「なんでやめたんですか?」
と訊くと、
「Tちゃんが、プールのコーチにおぼれさせられたっていうんで。そんなところに通わせられないなとおもって」
とのこと。

えっ。

とっさにぼくがおもったのは「それまたTちゃんの嘘では……」ということ。

プール教室でコーチがわざと幼児をおぼれさせるなんてことするだろうか。
プール教室には他の子やコーチもたくさんいる。窓ガラス越しに保護者が見ることもできるそうだ。
もちろん真相はぼくにもわからないが、99%嘘だろう、とぼくはおもった。
せいぜい「Tちゃんがおぼれてしまったことに気付くのが遅れた」ぐらいだろう。それをTちゃんが「おぼれさせられた」といったんじゃないのか。

子どもなんて平気で嘘をつくし、自分が嘘をついたという自覚すらなくしてしまう。
だからTちゃんがそういう嘘(たぶん)をついたことはそれほど驚くに値しない。

それよりぼくが驚いたのは、Tちゃんのおかあさんが「プールのコーチにおぼれさせられた」というTちゃんの言葉を全面的に信じていることだった。

ぼくだったら「自分の子が嘘をついているんだろうな」とおもうし、仮に「万が一ということもあるから念のためプール教室を退会させよう」となったとしても「娘がコーチにおぼれさせられた」なんて不確かかつ他人に迷惑をかける情報(ソースは五歳児の発言のみ)を他人に言ってまわったりしない。

いや、それ信じちゃうの……?

こんなこと言ったらアレですけど、おたくのお子さん、ちょっと虚言癖があるんじゃないでしょうか……。
それなのに、信じちゃうの……?

いや、ちがうか。
「Tちゃんに虚言癖があるのにおかあさんが信じてしまう」のではなく、「おかあさんがなんでも信じてしまうからTちゃんが真っ赤な嘘をつくようになった」なんじゃないだろうか。
おかあさん、素直すぎるでしょ。悪い意味で。


とおもったけど、もちろんぼくは何も言わなかった。
こわいのでTちゃん母子とは距離を置いたほうがいいな、とおもっただけだ。


2019年6月27日木曜日

【読書感想文】最高の教科書 / 文部省『民主主義』

民主主義

文部省

内容(e-honより)
「民主主義」―果たしてその意味を私たちは真に理解し、実践しているだろうか。昭和23年、文部省は新憲法の施行を受けて当代の経済学者や法学者を集め、中高生向けに教科書を刊行した。民主主義の根本精神と仕組み、歴史や各国の制度を平易に紹介しながら、戦後日本が歩む未来を厳しさと希望をもって若者に説く。普遍性と驚くべき示唆に満ちた本書はまさに読み継がれるべき名著といえる。全文収録する初の文庫版!

昭和二十三年に文部省(現在の文科省)が中高生に向けて刊行した教科書の復刻版。
民主主義とは何か、なぜ民主主義の社会であるべきなのか、民主主義を根付かせるには何をしたらいいのか。こうしたことが丁寧に書かれている。教科書でありながらすごく重厚な本だ(刊行されたときは上下巻だったそうだ)。

昭和二十三年ということはまだ日本は独立国ではなく連合国の占領下にあった時代。
当然この教科書もGHQのチェックが入った状態で書かれたはずだ。

軍国主義の大日本帝国がこてんぱんにやられ、民主主義という新しい風が吹き込んでくる。その中で、当時の学者や官僚が若者に対してどんなことを期待をしていたのか。
この本を読むと、当時の「新しい時代の幕開け」という空気が感じられる。
当時の国の中枢にいた人たちが、いかに日本が民主主義国家として生まれ変わることに期待してひしひしと伝わってくる。

残念ながらその期待は七十年たった今もかなえられていないけれど。



七十年前に刊行された本だが、驚くほど今の世の中にあっている。
悲しいことに。
そう、ほんとに悲しい。
「七十年前はこんなことをありがたがっていたのか」と言える世の中であってほしかった。
「この頃は国民主権があたりまえじゃなかったんだねえ。政府が国民を押さえつけようとしていたなんて今では考えられないねえ」と言える世の中であってほしかった。


『民主主義』の中で「こんな世の中にしてはいけない」と書かれている社会に、今の日本はどんどん近づいている。
 全体主義の特色は、個人よりも国家を重んずる点にある。世の中でいちばん尊いものは、強大な国家であり、個人は国家を強大ならしめるための手段であるとみる。独裁者はそのために必要とあれば、個人を犠牲にしてもかまわないと考える。もっとも、そう言っただけでは、国民が忠実に働かないといけないから、独裁者といわれる人々は、国家さえ強くなれば、すぐに国民の生活も高まるようになると約束する。あとでこの約束が守れなくなっても、言いわけはいくらでもできる。もう少しのしんぼうだ。もう五年、いや、もう十年がまんすれば、万事うまくゆく、などと言う。それもむずかしければ、現在の国民は、子孫の繁栄のために犠牲にならなければならないと言う。その間にも、独裁者たちの権力欲は際限もなくひろがってゆく。やがて、祖国を列国の包囲から守れとか、もっと生命線をひろげなければならない、とか言って、いよいよ戦争をするようになる。過去の日本でも、すべてがそういう調子で、一部の権力者たちの考えている通りに運んでいった。
 つまり、全体主義は、国家が栄えるにつれて国民が栄えるという。そうして、戦争という大ばくちをうって、元も子もなくしてしまう。

美しい国にしよう、国家秩序のために基本的人権を制限しよう、と叫ぶ連中が幅を利かせている。
増税や社会負担増加で今は苦しくても国家が経済的に成長すればやがては楽になる。君たち庶民もいつかはトリクルダウンにあずかれるのだから耐えなさい。

今の日本を支配しているのは、まさにここに書かれている「全体主義」そのものだ。

情報伝達手段は発達したはずなのに、資料は廃棄され、データは捏造され、公共放送機関は人事権という金玉を政府に握られ、権力者はなんとかして情報を隠そうとする。
 これに反して、独裁主義は、独裁者にとってつごうのよいことだけを宣伝するために、国民の目や耳から事実をおおい隠すことに努める。正確な事実を伝える報道は、統制され、さしおさえられる。そうして、独裁者の気に入るような意見以外は、あらゆる言論が封ぜられる。たとえば馬車うまを見るがよい。御者はうまが右や左を見ることができないように、目隠しをつける。そうして御者の思うとおりに走らなければ、容赦なくむちを加える。馬ならば、それでもよい。それが人間だったらどうだろう。自分の意志と自分の判断とで人生の行路をきりひらいてゆくことのできないところには、民主主義の栄えるはずはない。

個人的には「熱い正論をふりかざす人間」が苦手なのだが、今の世の中に欠けているのは理想論なんじゃないかとおもう。

こういうことって今、誰も言わないでしょ。
人権は大事だ、一人の生命は地球より重い、権力は弱者のためにこそ使うべきである。

そんなことあたりまえだとおもっているから誰も口にしない。
でもほんとはあたりまえじゃない。我々が享受している自由は先人たちの不断の努力によって支えられてきたもので、天からふってくるものじゃない。気を抜くと権力者によってすぐに奪われてしまうものだ。
めんどくさくてもちゃんと正論を言わなきゃいけない。

ぼくは星新一作品を読んで育ったので熱い意見に冷や水をぶっかけるような「シニカルな視点」が好きなのだが、シニカルな意見がおもしろいのは熱い議論があってこそだ。
みんなが冷や水をぶっかけてたら風邪をひいてしまう。

今って、国のトップに立つような人たちですら
「現実的に全員を救うのはムリっしょ」
「世界平和なんか達成されるわけないっしょ」
「立場がちがう人と話しあったってムダっしょ」
みたいなスタンスじゃないですか。
理想とかビジョンに興味がないし、そのことを隠そうともしない。
作家だとか落語家だとかが片頬上げながらそういうこというのはいいけど、でもそれを政治家がいったらおしまいでしょ。

「愛は地球を救う」ってのはきれいごとすぎて気持ち悪いけど、でももしかしたら愛は地球を救うんじゃねえかって気持ちも一パーセントぐらい持っておきたい。
ひょっとしたらほんとに愛が地球を救うかもしれない。そういう夢を見せてくれるのが政治家の仕事なんじゃないかとこのごろはおもっている。



この本、前半はビジョンを提示し、中盤以降は諸外国の民主主義の成り立ちや日本における政治・社会の変遷をたどることで民主主義国家の実現に向けた方法論を考察するという構成になっている。

この構成がすばらしい。ただきれいごとを語るだけではなく、過去の失敗例や外国の事例なんかがあることで具体的に考えるための手助けになっている。
GHQ検閲下にあったはずなのにアメリカの制度を手放しで褒めているわけではないのもすばらしい。
ほんとよくできた教科書だ。

 だからイギリスは君主国ではあるが、政治の実際の中心を成すものは議会である。中でも、国民によって選ばれ、国民を代表しているところの庶民院である。庶民院を中心とするイギリスの議会は、立法権を持った最高の国家機関であって、同時に、政府の行ういっさいの行為を批判するという重大な役割を果たしている。政府は議会の多数党の支持を受けているが、議会にはかならず反対党があって、政府の政策を常に批判し攻撃する。
 これに対して、政府は、くり返してその政策を説明し、弁解し、擁護しなければならない。政府は、それによってたえずその政治方針が正しいかどうかを反省することになるし、国民は、それによって常に政治問題の中心点に批判の目を注ぐこととなる。このような政治上の議論が公明に行われる舞台として、議会は最も重要な機能を果たしているし、イギリスの議会は、この重要な任務を模範的に遂行しているといってよい。

よく「野党はなんでもかんでも反対してばかりだ」といって揶揄する人がいる。

ぼくは「野党はなんでもかんでも反対」でもいいとおもっている。野党が賛成ばかりになったらもうその国の民主主義は終わりだ。
自民党が下野したときも与党案に反対ばかりだった。それでいいのだ。反対意見にさらに反論することで議論が深まり、より完成度の高い法案ができる。

学生が論文を書いたら、指導教官がそれをチェックする。疑問を投げかけたり不備を指摘したり書き直しを命じたりする。
それを受けて学生は論文を書きなおす。より説得力を増した論文ができあがる。
この肯定を「教授は人の論文にケチをつけてばかりだ」といって否定する学生がいたらバカだとおもわれるだけだろう。法案も同じだ。



ぼくはこないだ「民主主義よりもっといいやりかたがあるんじゃないか?」という記事を書いた。
 → 「いい独裁制」は実現可能か?

この本では、そういった反論も予想した上で、それでもやはり民主主義が最善だと結論づけている。
 人間は神ではない。だから、人間の考えには、どんな場合にもまちがいがありうる。しかし、人間の理性の強みは、誤りに陥っても、それを改めることができるという点にある。しかるに、独裁主義は、失敗を犯すと、かならずこれを隠そうとする。そうして、理性をもってこれを批判しようとする声を、権力を用いて封殺してしまう。だから、独裁政治は、民主政治のように容易に、自分の陥った誤りを改めることができない。
 これに反して、民主主義は、言論の自由によって政治の誤りを常に改めてゆくことができる。多数で決めたことがまちがっていたとわかれば、こんどは正しい少数の意見を多数で支持して、それを実行してゆくことができる。そうしているうちに、国民がだんだんと賢明になり、自分自身を政治的に訓練してゆくから、多数決の結果もおいおいに正しい筋道に合致して、まちがうことが少なくなる。教育がゆきわたり、国民の教養が高くなればなるだけ、多数の支持する政治の方針が国民の福祉にかなうようになってくる。そういうふうに、たえず政治を正しい方向に向けてゆくことができる点に、言論の自由と結びついた多数決原理の最もすぐれた長所がある。民主主義が、人類全体を希望と光明に導く唯一の道であるゆえんも、まさにそこにある。

ぼくは二大政党制を支持していない(当然小選挙区制も)。
それは、まちがいを認めなくさせるシステムだからだ。

政治における過ちは、ミスを犯すことではない。ミスを犯したことを隠すことだ。
「過ちを隠したい」という気持ちは誰しも持っている。それはなくせない。「権力者は過ちを隠そうとする」という前提で制度の設計をするしかない。

二大政党制は、為政者のミスで政党全体の権力が失われてしまうので、政党レベルで「ミスを覆い隠そうとする」力がはたらく。
集団が全力でミスを覆い隠そうとした場合、それを暴くのは並大抵のことではない。たとえば個人の殺人はほぼ間違いなく犯人が検挙されるが「村ぐるみで一致団結して殺人を覆い隠そうとした」場合はかなりの確率で逃げおおせることができるだろう。

民主主義国家にとって必要なのは嘘がばれやすくする仕組みなのだが、二大政党制は不都合な事実を隠蔽しやすくさせる。

党内で常に権力闘争が起こっているかつての自民党の状況のほうが、むしろ健全(いちばんマシ)なんだったとつくづくおもう。



人類の歴史を見ても、権力者が他者の人権を制限してきた時代のほうがずっと長かった。
今は「たまたま、例外的に民主主義が保たれているだけ」だ。

この本には「明治憲法の下でも民主主義国家になることはできた」と書いてある。少なくとも明治憲法をつくった人たちは国民主権の世の中にしたいという高邁な精神を持っていたはずだ。
けれど明治憲法にはいくつかの不備があり、二・二六事件などをきっかけにあっという間に軍部の暴走を許すことになった。今の日本国憲法も完璧ではない。その穴を拡げる改憲をしようと目論んでいる政治家もいる。
ちょっとしたことをきっかけに民主主義は崩されてしまうだろう。


すごくいい本だった。
今の中高生にこそ読んでほしい(まさかこれを読まれたら困ると考える為政者はいないよね?)。

しかし、戦争を経験している世代が民主主義の大切さを唱えていたのに、こういう教育を受けてきた世代が大臣や総理になったとたんに崩壊しはじめるってのはなんとも皮肉な話だよね。
教育って無力なのかもしれないと絶望的な気持ちになる。

まあ、今の二世三世大臣たちがまともに学校教育を受けていなかっただけ、という可能性も大いにありそうだけど……。

【関連記事】

【読書感想エッセイ】 岩瀬 彰 『「月給100円サラリーマン」の時代』



 その他の読書感想文はこちら


2019年6月26日水曜日

【読書感想文】会計を学ぶ前に読むべき本 / ルートポート『会計が動かす世界の歴史』

会計が動かす世界の歴史

なぜ「文字」より先に「簿記」が生まれたのか

ルートポート

内容(e-honより)
“お金”とは何か?私たちの財布に入っているお金には100円、1000円、10000円などの価値がつけられています。しかし、ただの金属、紙切れにすぎないものをなぜ高価だと信じているのでしょうか。貨幣や紙幣に込められた絶大な影響力―。その謎を解く手がかりは人類と会計の歴史のなかにあります。先人たちの歩みを「損得」という視点で紐解きながら「マネーの本質を知る旅」に出かけましょう。

おもしろい本だった。

この本を読んだからといって会計の実務的な知識は身につかない。賃借対照表も勘定項目も出てこない。
ただ、会計の基本となる考え方はわかる。なぜ複式簿記が生まれたのか、なぜ複式簿記でなければならないのか、もし簿記がなければどういったことが起こるのか。

ぼくは少しだけ簿記をかじったことがあるが、すぐに投げだしてしまった。理由のひとつが、「なぜ借方貸方に分けて書くのか」がちっとも理解できなかったこと。
先にこの本を読んでいたらもう少し会計に興味を感じられていたかも。



 私たち人類が記録を残すようになったのは、歴史や詩、哲学を記すためではありません。経済的な取引を残すために、私たちは記録のシステムと、そして文字を発明したのです。
 さらに注目すべきは、これがお金――金属製の硬貨――が発明されるよりも、ずっと以前のできごとだということです。
 貨幣としての硬貨が登場したのは、紀元前7世紀ごろのリディア(現・トルコ領)というのが西洋では定説になっています。しかし、それよりもはるかに古い時代から人々は「簿記」を使って取引をしていたわけです。
 お金よりも先に文字があり、文字よりも先に簿記があったのです。

漠然と、昔の人は物語や詩を残すために文字を発明したのだとおもっていた。
でもそんなわけないよね。

なぜなら物語や詩や哲学は、正確に伝える必要がないから。人から人に語り継がれるうちに不必要なものが削られ、おもしろいものがつぎたされ、少しずつ洗練されながら伝わってゆく。

でも商取引の記録はそういうわけにはいかない。「より良いもの」になってはいけない。
文字の最大の長所は、時代を超えて正確に記録できることにある。

「文字が商取引の記録のために生まれた」のは言われてみれば当然なんだけど、おもいいたらなかったなあ。



 一般的には「農耕の開始によって人類は豊かになった」というイメージがあります。約1万年前、貧しい狩猟採集生活を憂えた私たちの先祖は、素晴らしい創造性を発揮して、豊かな農耕定住生活を手に入れたのだ、と。
 しかし最近の研究では、まったく異なる姿が明かされつつあります。
 気候変動によって狩猟採集で得られる動植物が減り、さらに人口増加によって食糧難に陥ったために、仕方なく農耕を始めたというのです。
 実際、農耕の開始により人々の生活水準は落ち、死亡率は上昇しました。
 狩猟採集生活では木の実や肉類などをバランスよく食べられるのに対し、農耕定住生活では食事が穀物ばかりになり、栄養素がデンプン質に偏ります。また、定住生活では人口密度が高くなります。身体的な接触が増え、さらに排泄物などで土壌や水源が汚染されて、疫病が簡単に蔓延します。

死亡率だけでなく、狩猟採集生活のほうが農耕生活よりも時間的余裕の面でも恵まれていたと聞いたことがある。

今も南米奥地などでは狩猟採集生活をする部族があるが、彼らはあまり働かない(特に男は)。
たまに狩りに出るが、それも一日に数時間。あとは酒を飲んだり遊んだりして暮らしている。
原始的な生活をしている彼らこそが真の高等遊民なのかも。

一方農耕民族はそうはいかない。決まった時期に種子を撒き、水をやり除草をおこない、害虫を駆除し、実をつければ急いで収穫をおこなわなければならない。
天候に左右される要素も大きいし、「今日はだるいからその分明日がんばるわ」が許されない生活だ。

どっちが楽かというと圧倒的に狩猟採集民族だ。
でも狩猟採集生活は、より多くの土地を必要とする。多くの人間が狩猟採集をはじめたら、あっという間に肉も魚も木の実もなくなる。

人類は増えすぎた人口を養うために、自然の摂理に逆らう農耕をはじめた。

農業を「自然な営み」だとおもっている人がいるが、とんでもない。
農業こそがもっとも自然と対極にある人工的な営みだ。



会計の歴史をふりかえる本なので数百年前のヨーロッパの話が多いが、現代の日本に通ずる話も多い。
 ヨーロッパ諸国では近世以降、戦争の大規模化にともない戦費も増大しました。王の財産だけでは国家運営を賄いきれず、かといって借金にも限界があります。最終的には、国民から徴収した税金によって国家を運営せざるをえなくなりました。「租税国家」の誕生です。
 国民は税金を納める代わりに、議会を通じて税の使い道を監視させるように要求しました。現代では当たり前になった議会制政治や国民主権は、租税制度の発展にともない産声を上げたと言えます。
 イギリスでは17世紀の清教徒革命や名誉革命によって、この「納税者による監視」の習慣が根付いていました。一方、フランスは情報開示の面で大きく後れていました。このことが庶民の不満を制御できないレベルまで膨らませて、革命をもたらしてしまったのでしょう。
 このような歴史的経緯から言えば、納税と正確な情報開示はセットであるべきだと考えられます。
 もしも政府が積極的に情報の改竄や隠蔽を行うのなら、それは納税者の不信を招くだけでなく、徴税そのものに対する正当性を失わせます。私たちが税金を納めるのは、それが自国の繁栄という目的のために正しく使われると信じているからにほかなりません。国家に対する国民の信頼を維持するためには、公文書管理の徹底を避けては通れないでしょう。
生まれたときから「国民」として生きていると忘れそうになるけど、政府は一時的に権力を貸与されているだけで、主権は国民にある。

「徴税権」も政府が当然持っているものではなく、あくまで国民によって許されているだけの権利。「徴税してもいいよ。ただし公正にね」と、我々国民が政府に一時的な許可を与えてやっているにすぎない。

だから政府は徴税や税金を使う行為に対して、そのすべてをオープンにして正当性に関して国民の審判をあおがなければならない。
投資信託会社が運用実績を公表する責を負っているように。

だから書類を廃棄するとかデータの改竄をおこなうなんてのは正当性以前の問題だ。

投資信託会社を選べるように納税先(政府)も選べたらいいのになあ。
ぼくならぜったいに今の日本政府は選ばないな。

【関連記事】

【読書感想】関 眞興『「お金」で読み解く世界史』



 その他の読書感想文はこちら


2019年6月25日火曜日

もしかして好かれていたのか


夜中にのどの渇きをおぼえて目が覚めた。お茶を飲んでもう一度布団に入ったとき、気がついた。
「あっ、もしかして!?」

突然として、点と点がつながって線になった。

今にしておもう。
もしかして、好かれていたのか?



Tちゃんという女ともだちがいた。

大学生のとき、仲良くしていた友人だ。

お酒を飲んだり、いっしょにライブに行ったり。何度も遊んだ。
Tちゃんは酒癖が悪かったので、何度も介抱した。酔いつぶれたTちゃんをおぶってぼくの家まで連れてかえり、泊めてやったこともある(二人きりではない)。
逆にぼくがTちゃんの家で酒を飲んで酔いつぶれてしまったこともある。

Tちゃんは愛嬌のある子だったが決して美人ではなかった。
開けっぴろげの性格で、自分は処女だと公言していた。
少しも気取ったところがなく、話していると男ともだちといっしょにいるようでとても気安くつきあえる友人だった。

よく遊んでいたが、ぼくに彼女ができ、その後少ししてTちゃんも結婚した。
今では疎遠になっている。

そのTちゃんのことをふと思いだして
「あれ、もしかしてTちゃんはぼくのことを好きだったのか?」
と唐突におもったのだ。



バイトで忙しいはずなのに飲み会に誘うとほぼ必ず来てくれたこと。

酔っぱらうときまってぼくの腕にしがみついてきたこと。

家に遊びにきたとき、ぼくの母親と話すときに異常に緊張していたこと。

ぼくの恋愛相談に乗ってくれたあと、「どうせ犬犬は〇〇ちゃんのことが好きやもんな……」とつぶやいていたこと。

バレンタインデーにチョコレートをくれたTちゃんにふざけて「Tちゃんはオレのこと好きやもんなあ」と云ったら黙ってしまったこと。

彼女ができたと言ったら「寂しいけどしかたないことだとおもいます」と妙にかしこまったメールがきたこと。

それ以降、あまり誘いに乗ってくれなくなったこと。


当時はなんともおもわなかったことが、十数年たった今いっぺんに思いだされて、
「あっ、Tちゃんはぼくのことを好きだったのかも!」
とおもったのだ。


自慢じゃないが、ぼくは女性から好意を寄せられたことはほとんどない。
だからいろんなサインを見落としていたのかもしれない。

一度そうおもうと、あれもこれも、好かれていたという仮説を裏付ける根拠のようにおもえてくる。
逆に「なんで当時はTちゃんの好意に気づけなかったんだ?」とふしぎだ。
(Tちゃんに確認をとったわけではないのでまちがってるかもしれないけど)



漫画でよくあるシーン。

主人公のことを好きなヒロインが、おもわせぶりなことをいう。
「あたしじゃダメ……?」みたいな台詞。
それもう98%告白じゃん、みたいなこと。

なのに主人公は気づかない。
「おまえは大事な仲間のひとりだよ」
みたいなことを言ってしまう。

ヒロインは「もう、ほんとにニブいんだから!」なんていってふくれてしまう。
それでも主人公は「え? なにが?」と気づかない。


こういう展開を見るたび、ぼくはおもっていた。
嘘つけ―!
こんなかわいい子にあからさまに好意を寄せられて、気づかないわけないだろー!
なにすっとぼけてんだよ、ビンビンになってくるくせに!

と。


でも、案外ありうる話かもしれない。
自分が好意を寄せていない人からの好意は、ぜんぜん気がつかないものなのかもしれない。

好きな子に対しては、常に「もしかして自分のこと好きなんじゃ……」と考えながら生きている。
どんな些細な兆候も見逃すまいと注意を欠かさない。
こちらを見て笑った、たまたますれちがった、言葉を交わした、たったそれだけのことで「自分を好きだからにちがいない」とおもいこんでしまう。

すべてが「自分を好きにちがいない」という仮説を裏付ける傍証となる(まちがった推理なんだけど)。

でも、それ以外の人にはてんで関心を払わない。
『おしりたんてい』レベルのわかりやすすぎる手がかりですら見逃してしまう。マルチーズ署長のように。


ぼくは妻と付き合うとき、交際を申しこんだが「そういうふうに見られない」という理由でフラれた。
でも数ヶ月後に改めて申しいれたときにはオッケーをもらえた。

たぶん、一度好意を伝えたことで「恋愛対象」として見てもらえるようになったのだとおもう。

ぼく自身、高校時代に「〇〇ちゃん、おまえのこと好きみたいだよ」という不確かな情報を耳にして、それまでなんともおもっていなかった〇〇ちゃんをまんまと好きになってしまったことがある(結局うまくいかなかった)。

「好かれている」とおもうことは、恋愛の入口として大きなステップになる。



三十歳をすぎて、
「ちゃんと言語化しないとまず好意は伝わらない」
「好意を伝えてからが、好きになってもらえるかどうかの審査のはじまり」
ということにようやく気づいた。

たぶんモテる人はとっくに気づいてたことなんだろうけど。

ぼくはもう結婚して(今のところは)離婚・再婚の予定もないので今さら気づいたところでどうしようもないのだが、未来ある若者の役に立ってくれればというおもいで書き記す。


2019年6月24日月曜日

【読書感想文】時間感覚の不確かさと向き合う / ニコリ『平成クロスワード』

平成クロスワード

ニコリ

内容(e-honより)
平成元年から平成31年まで、それぞれの年にちなんだ言葉を満載したクロスワードパズルを1年につき1問ずつ収録しました。各年の出来事を詳しく解説したページもあります。遊んで、読んで、平成を改めて振り返りましょう。

ぼくはニコリのパズルが大好きだ。
ニコリといっても伝わらないかもしれない。パズルばかりつくっている出版社だ(他の事業もあったらごめんなさい)。

小学生のときに父親がニコリの数独の本を買ってきて、すっかりはまった。
それから「数独」や「ぬりかべ」「スリザーリンク」の本を買いこみ、いろんなパズルが載った雑誌(その名も『ニコリ』)があるのを知ると買い求めた。
『ニコリ』は近所では買えず、わざわざ電車に乗って大きなおもちゃ屋さんに買いにいっていた(当時『ニコリ』はふつうの書店に置いておらずおもちゃ屋で売っていたのだ)。

買いにいくのが面倒になると定期購読をした。
ぼくが買いはじめたころ『ニコリ』は季刊(年4回発行)だったのだが、やがて隔月刊になり、そして月刊ペースになり、そしてまた季刊に戻った。
いろいろ試行錯誤中の雑誌だということが伝わってきて、余計に愛着が湧いた。

ぼくは学生時代数学が得意だったが、それは『ニコリ』で論理的な考え方を身につけたからだと確信している。

受験を機に定期購読はやめてしまったが、その後も目についたときに買っている。
書店で働いていたときには、権力を私物化してニコリを入荷できるよう手回しした。



前置きが長くなったが、そんなパズル界の第一人者であるニコリ社から刊行された『平成クロスワード』。
クロスワードで平成の時代をふりかえるという、重厚なパズル本だ。

これはおもしろそうと早速購入して解いてみたのだが、期待通りのすばらしい本だった。

その年の出来事、流行ったこと、活躍した人などがパズルのカギになっている。


クロスワードも多く解いていると「またこれか」っておもうことが多いんだよね。
たとえば「小粒でもぴりりと辛い香辛料。この香りがする天然記念物もいる」とか。だいたい同じようなヒントになってくるんだよね。

でも平成クロスワードのカギは固有名詞が多い。
「事件の名前」とか「不祥事を起こした議員」とか「流行ったおもちゃ」とかがカギになるのはすごく新鮮。
ふだん使わない筋肉を使っているような心地よさがある。

それに、「あーあれなんだったけー。ここまで出てるのにー」という感覚+「だんだんヒントが増えてくるクロスワード」はすごく相性がいい。

「平成をふりかえる」系の本はたくさん出版されたけど、クロスワードでふりかえるってのはすごくいい試みだね。



クロスワードの後には年ごとに起こった事件や流行ったものなどが丁寧にまとめられていて、パズルとしてはもちろん読み物としてもおもしろかった。

いかに自分の中の時間感覚が不確かなだったかを実感した。
郵便番号が七桁になったのと『タイタニック』のヒットとプリウスの発売って同じ年だったんだ、とか。
ぼくの中ではプリウスっていまだに「新型ハイブリッドカー」の位置づけだったんだけど(車にぜんぜん興味ないので)、こうして見るとずいぶん古いなあ。


あと自分の老化、具体的には知的好奇心の衰えと記憶力の低下。
二十年前のノーベル賞受賞者はおぼえてるのに、ここ数年はぜんぜんわからない……。答えを見てもぜんぜんピンとこなかった……。



 その他の読書感想文はこちら