2019年6月21日金曜日

次女がかわいい。


次女がかわいい。

生後八ヶ月。
よく笑う。かわいい。
ハイハイをする。かわいい。
つかまり立ちをする。かわいい。
立ち上がってしりもちをつく。かわいい。
失敗して後ろにひっくりかえる。かわいい。
手づかみで野菜を食べる。かわいい。
ぼくの髪の毛をつかむ。かわいい。
パチパチ手をたたく。かわいい。
腕も脚も太い。かわいい。
寝ている。かわいい。
起きた。かわいい。

何をしていてもかわいい。
長女のときはここまでかわいかっただろうか。いや、ここまでかわいいとはおもっていなかった。


誤解のないようにいっておくと、長女の器量が劣っているわけではない。
親としてはどちらも同じぐらいかわいい。

ただ長女が赤ちゃんのときは、こちらに「ひたすらかわいがる余裕」がなかった。

けがをしないように。
病気にならないように。
正常に発達しているか。
先天的な異常はないか。
他の子と比べてどうか。
この時期に親がやるべきことはなにか。
逆になにをしてはいけないのか。
今のうちに写真を撮っておかなければ。
どうすればかしこい子に育つのか。

いろんなことが心配で、手放しでかわいがるような心持ちではなかった。

二人目ともなるといろんなことがわかってきて、肩の力を抜いて子どもと向きあえるようになった。
ちょっとぐらいこけても平気、子どもなんて病気になるもの、たぶん正常に育ってるのだろう、まあ少々失敗してもなんとかなるさ。

そんな余裕が出てきたおかげで、かわいさをそのまま「かわいい」と受けとれる。
逆にいえば、長女のときにはいろんなかわいさを見過ごしていたんだとおもう。悪いことをした。


超一流の寿司を食っていても、「そろそろ終電が」とか「財布のお金たりてたっけ」とか「こんな食べ方してマナー違反じゃないか」とか心配していたらきっとうまくないだろう。
同じように、心配事が多いとかわいい子どももかわいいとはおもえない。


孫がかわいいのも同じ理屈だろう。
過去に子育てをした経験がある、多くの子どもを見てきた、自分が育てなくてもいい。
心配しなければいけないことが少ない分、かわいさもひとしおなのだとおもう。


次女がかわいいのは「ぼくがかわいがりかたを習得した」というのもある。

かわいがるのは誰でもできることじゃない。じつはけっこう技量がいる。

いきなり赤ちゃんにほおずりして「おーかわいいな~! おまえはなんでそんなにかわいいんだ~! このぷにぷにのほっぺ! このむちむちの腕! かわいすぎて食べちゃいたい! よし食べよう。かぷっ!」というのは、いい大人にとってはなかなかむずかしい。
はじめてだと、羞恥心がじゃまをしてうまくやれない。
周りに誰もいなくても、内なる自分が「おまえなにやってんだ」と冷や水をぶっかけてきたりする。

だが親として何年も生きていると、子どもの前でばかをやることにも慣れてくる。
恥も外聞もなく全力でほおずりして甘い声を出せるようになる(とはいえさすがに外ではやらないが)。
親ばかになるのもこれはこれでなかなか技量が必要なのだ。


ぼくが次女をかわいがるのは「長女に見せるため」でもある。
「赤ちゃんはこうやって愛情を注いでやるものなんだよ」
「おとうさんは子どものことをこんなに好きなんだよ」
と見せつけることによって、
「君も赤ちゃんのときにはこんなにかわいがられてたんだよ」
「君もおとうさんおかあさんに愛されてるんだよ」
と教えてやるのだ。

じっさいは長女のときはここまでやっていなかったんだけど。
でも「君のときも同じぐらいかわいがってた」という嘘の記憶を長女に植えつけるためにやっているのだ!

長女と次女


2019年6月20日木曜日

視覚障害者を道案内

視覚障害者の手を引いて道案内した。

音の鳴らない信号にさしかかったところで
「ふだんはどうやって渡ってるんですか」と訊いたら、
「勘です。音でだいたいわかりますけど最近は静かな車が多くて困ります」
と言っていた。

また、あまりに交通量が多い交差点だと、ひっきりなしに走行音があるのでやはり怖くて渡れないのだという。

うるさすぎてもだめだし、静かすぎてもだめなのだ。

そんなこと考えたこともなかった。


ひとりでも歩けるが、そんなふうに渡れない道を避けて歩くことになるので、ひとりだと時間がかかるそうだ。

「だからこうしていっしょに歩いてくれる人がいると助かります」
とってもらえた。

よかった。
「余計なお世話かな」とおもいながらもおもいきって「案内しましょうか」と声をかけてみてよかった。

ということで、同じように躊躇している人がいたらぜひ声をかけるといいよ。

2019年6月19日水曜日

【読書感想文】げに恐ろしきは親子の縁 / 芦沢 央『悪いものが、来ませんように』

悪いものが、来ませんように

芦沢 央

内容(e-honより)
助産院に勤める紗英は、不妊と夫の浮気に悩んでいた。彼女の唯一の拠り所は、子供の頃から最も近しい存在の奈津子だった。そして育児中の奈津子も、母や夫、社会となじめず、紗英を心の支えにしていた。そんな2人の関係が恐ろしい事件を呼ぶ。紗英の夫が他殺死体として発見されたのだ。「犯人」は逮捕されるが、それをきっかけに2人の運命は大きく変わっていく。最後まで読んだらもう一度読み返したくなる傑作心理サスペンス!

嫌な小説だった。いい意味で。
読んでいる間ずっと嫌な気持ちになる。
なんでこいつはこれをしないんだよ、こいつほんと無神経で嫌なやつだな、こいつの言動いちいち癇に障るな。
登場人物がみんなじわっと嫌なやつ。わかりやすい悪人じゃなくて、無神経だったり小ずるかったり怠慢だったり。身の周りにいそうな嫌なやつ。というか自分の中にもひそむ嫌な部分。

己の嫌な部分をつきつけてくれるような小説がぼくは好きなんだよね。読んでいてむかむかするのが。

こういう些細なエピソードとか。
 きっかけは、互いに結婚してからもふた月に一回程度のペースで会い続けていた短大時代の友人、倫代からの年賀状だったと思う。
 たしかに紗英は、彼女からの年賀状を見るのが憂鬱だった。互いに子どもがおらず、会えば仕事の話と旦那への愚痴で盛り上がれていた倫代が、他のみんなと同じように母親になって関心の先を子どもに変えてしまうのは寂しくもあった。どうせ子どもの写真なのだろうと、紗英はどこか白けた思いで年賀状をめくった。だが、それは紗英のものと同じ干支を使った味気ないものだった。
 なんとなく、嫌な予感がした。口実を作って共通の友達に連絡をとり、どこか祈るような思いでかまをかけた。
 倫代からの年賀状、かわいいね。
 ほんと、ハルキくん、倫代によく似てるよね。
 返ってきた答えに、やっぱり、となぜか勝ち誇るような思いで考えた。やっぱり、そうだった。倫代は、子どもがいる友達には子どもの写真入りの年賀状を、使い分けていた。
 わたしだってそうじゃないか、と紗英は何度も自分に言い聞かせた。わたしだって、結婚していない友達には結婚の話はしにくいと思っている。気遣いというそぶりで、見下している。――こんな話をしたら自慢に聞こえてしまうかもしれない、傷つけたらかわいそう、と。
 だから、倫代のことをひどいと思うことなんかできないのだと、そう考えながら、倫代の年賀状を捨てていた。

子どものいない相手には子どもの写真を載せない年賀状を送る。
気遣いのつもりなんだろうけど、その奥には優越感がにじみでている。それが受け取り手にも伝わる。気づいたからといって「そういう気遣いはやめて」とは言えない。悪意があってやってるわけじゃないし。たぶん。悪意じゃないから余計にもどかしい。


ぼくも三十代半ばになって、いっしょに人生の道を歩いているとおもっていた友人たちがいつのまにか別の道を行っていることに気づくようになった。
高校時代の友人たちとしょっちゅう集まっていたけど、結婚している者と独身とにわかれる。結婚している者同士でも子どもがいる者といない者にわかれる。すると遊びに誘うのにも気を遣う。「あんまり誘ったら奥さんに悪いかな」「子連れで遊びに行くんだけど子どものいないやつはいづらくなるかも」と。
男同士でもそうなのだから、女同士だったらもっと顕著なのだろう。

女にとっての出産・育児は男よりもずっと大きなイベントだ。時間も体力もとられるし、出産・育児によって失うものも大きい。その代わり、得られる喜びもまた大きい(そうおもわないとやってられない)。
出産・育児を経験した女と、そうでない女はべつの生き物になってしまう。
また「望んで産んだ」「産んで後悔した」「産みたいけど産めない」「産みたいとおもわない」などいろんな事情あるので、それぞれがそれぞれに羨望や劣等感や憧れなど複雑な感情を抱くのだろう。男であるぼくが想像するよりずっと。



いわゆるイヤミス(イヤなミステリ)としてもおもしろかったが、純粋に小説としての完成度も高かった。

前半で丁寧に違和感をちりばめ、中盤で種明かしをして伏線を回収。これによって前半で語られた事実ががらりと様相を変えて見えてくる。そして後半でさらに話が二転三転。
母と娘の愛憎、いやまっすぐな愛情(ずいぶん歪んでるけど)を表現してみせる。

この愛情の表現がすごい。
愛情という名のケーキを天ぷらにして味噌とタルタルソースをつけて出してみました、みたいな感じ。幸せの象徴のようなケーキをゲテモノ料理にしてしまう。

この歪んだ愛情に支えられた関係は、母と娘じゃないと成立しない。
父と娘や母と息子なら、ここまでの憎しみと紙一重の愛情は生まれない。父と息子なら早い段階で衝突して壊れてしまう。
憎しみに近い感情を持ちながら離れることができない、ってのはやっぱり母と娘だからこそ保たれる関係なんだろうな。


瀧波ユカリさんの『ありがとうって言えたなら』というコミックエッセイを思いだした。
『ありがとうって言えたなら』には、死を前にしても娘に対して攻撃的にふるまう母親が描かれていた。
献身的に支えようとしているのに攻撃的な言葉を投げつけてくる母に対して、娘である瀧波さんは憤り、悲しみ、呆れ、哀れみ、戸惑う。
あれもやはり母と娘だからこその関係性だったのだろう。

そりのあわない友人なら付き合いを絶てる。夫婦でも別れられる。きょうだいでも大人になってしまえば距離をとれる。でも親子の場合はなかなかそうはいかない。
親子関係は一生ついてまわる。場合によってはどちらかが死んでも。
親子だから離れられない。離れられないから憎しみあう。

げに恐ろしきは親子の縁よのぅ。


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【読書感想】瀧波 ユカリ『ありがとうって言えたなら』



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2019年6月18日火曜日

レジ袋と傘袋


レジ袋有料のスーパーマーケットが増えた。
どこもだいたい二円ぐらい。

ぼくはレジ袋をもらうことが多い。
買い物用のエコバッグを持っているにもかかわらず。
なぜなら、レジ袋がほしいからだ。

うちのマンションにはダストシュートがあって生ごみを投入することができるが、一辺三十センチメートルまでという制約がある。
ここに入れるのにスーパーのレジ袋がちょうどいいのだ。

他にも、レジ袋はいろんな場面で重宝する。
プールに行ったときに濡れた衣服を入れたり、銭湯に行くときに脱いだ服を入れたり、子どもの着替えやおむつを入れたり、出先でごみ箱がないときにごみを持ち帰ったり、公園のベンチが濡れているときに下に敷いたり、子どもがダンゴムシを見つけて家で飼いたいと言いだしたときにダンゴムシを入れたり……。

ごみ袋は一枚五円ぐらいするので、スーパーで買い物をするときにレジ袋をもらうほうが安い。

というわけで、ぼくはレジ袋削減にはぜんぜん貢献していない。



レジ袋有料化ってほんとに環境問題に対して効果あるんだろうか。

いや、ないことはないとおもうんだけど。
どんなものだって廃棄量を増やすよりは減らすほうが地球にやさしいにきまってる。
でもどこまで効果あるんだろうか。


最近、大手飲食チェーンでいっせいにストローがなくなったけど、それも効果があるのか疑問だ(ちゃんと調べたわけじゃないから大きな声では言えないけれど)。

効果はゼロではないんだろうけど、どっちかっていったら気休め程度なんじゃないかとにらんでいる(くりかえしになるけど、ちゃんと調べたわけじゃないからね)。

ベルマーク集めや甲子園の応援と同じで、「結果ではなく取り組んだという姿勢こそが大事なのだ」というパフォーマンスなんじゃないのか。



ぼくが「レジ袋削減・ストロー削減」の効果に対して懐疑的なのは、もっと無駄だとおもうことがあるからだ。

たとえばコンビニだとペットボトル一本でもビニール袋に入れられるし(いりますかと訊いてくる店員もいるが)、パックの飲み物を買うと頼んでもないのにストローをつけてくる。
1000mlの牛乳パックを買っても長いストローがついてくる。あれに長いストロー刺して直接飲む人がそんなに多いとはおもえないのだが。

ほんとにレジ袋やストローが環境に良くないのであれば、もっとコンビニ大手に対して圧力をかけなきゃいけないんじゃなかろうか。
それがおこなわれていないのは、じつはたいした影響がないからなんじゃないだろうか。


あと、スーパーの傘袋も甚だ疑問だ。

近所のスーパーでは、レジ袋の代金として一枚二円をとるくせに、雨の日には入口に傘袋を吊るしている。
客はそれに傘を入れ、店を出るときにはぽいっと捨てる。
すごく無駄だ。
レジ袋はさまざまな用途に再利用されるが、傘袋は再利用されているようにはみえない(ぼくが知らないだけかもしれないけど)。

や、必要性はわかるんだけど。
店内が汚れたら清掃コストがかかるし、フロアが濡れて客が滑って怪我でもしたら店の責任も問われるかもしれないし。

でもなあ。
一分で出ていくような客でも傘袋を使うし。
かとおもうと傘袋を使おうとせずにびしょ濡れの傘で店内を濡らしまくる迷惑な客もいるし。
九割の客が傘袋を使っても、一割が使わなければあんまり意味がない。

レジ袋より先に傘袋減らせよ、とおもうんだよね。
とはいえ傘袋を有料にしたら誰も使わなくて店内がびちょびちょになっちゃうから、ああやって無料で置いとくしかないんだろうけど。
にしても無駄の多い仕組みだ。


店側がナイロンの傘袋でもつくって、再利用可にするとかどうでしょう。
店名をでっかく書いておけば持ってかえる人も少ないだろうし。
それでも持ちだして、そのへんに捨てるやつはけっこういるかな。

なにしろ日本人の約半数は民度が平均以下だからな(この「約半数は平均以下」はほぼなんにでもあてはまるので便利な言い回しだ)。


2019年6月17日月曜日

【読書感想文】登山のどろどろした楽しみ / 湊 かなえ『山女日記』

山女日記

湊 かなえ 

内容(Amazonより)
こんなはずでなかった結婚。捨て去れない華やいだ過去。拭いきれない姉への劣等感。夫から切り出された別離。いつの間にか心が離れた恋人。…真面目に、正直に、懸命に生きてきた。なのに、なぜ?誰にも言えない思いを抱え、山を登る彼女たちは、やがて自分なりの小さな光を見いだしていく。新しい景色が背中を押してくれる、感動の連作長篇。

登山をテーマにした連作短篇集(説明文には「連絡長篇」とあるがこれを長篇とはいわんだろ)。

上司と不倫をしている同僚といっしょに山に登ることになった、結婚を目前に迷いが生じているOL。
婚活パーティーで知り合った男性と山に登ることになった、バブルの香りを引きずった女。
一緒に登山をするもやはり価値観の違いから喧嘩になる姉妹。

どの話も主人公は女性だが、いわゆる「山ガール」の浮かれた感じとはほど遠い。年齢は三十~四十歳ぐらい。どの女もそれぞれに鬱屈たる思いを抱えている。
 姉と二人で歩いた時は、私は姉に独身でいることや経済的に不安定な生活を送っていることを責められるのではないかとモヤモヤした気分を抱えていたし、姉は自身の離婚問題について深く悩んでいた。それぞれの答えを探すような思いで急坂ばかりが続く山道を歩いていたのだ。大雨の中を。
 山は考え事をするのにちょうどいい。同行者がいても、一列で黙って歩いていると、自分の世界に入り込む。そこで自然と頭の中に浮き上がってくるのは、その時に心の大半を占めている問題だ。自分の足で一歩一歩進んでいると、人生だって、自分の足で進んでいかなければならないものだと、日常生活の中では目を逸らしていた問題についても、まっすぐ向き合わなければならないような気がしてくる。頂上までこの足で辿り着けたら、胸の内にも光は差してくるのではないかという期待が背中を押してくれる。そうやって、己と向き合いながら歩くのが登山だと思っていた。
ぼくもときどき山登りをする。といっても1000メートルぐらいの山に日帰りで登るぐらい。ロープウェイを使うこともあるし、ハイキングの延長といった程度だ。
それでも登山中下山中はすごくしんどいし、頂上に達したときには喜びも味わえる。山登りの楽しさは一応知っているつもりだ。

友人と登ることが多いが、歩いている間はあまり話さない。しんどいのでそんな余裕がないからだ。
黙って足を動かしていると、いろんなことを考える。何年も前の情景がふっと浮かんできたり、過去の嫌な思い出がよみがえることもある。
苦しい思いをしながら思索にふけっていても、とても清々しい気持になんてならない。
「あのときああいえばよかったな」とか「もう気にしていないつもりだったけどやっぱりアイツ嫌いだわ」とか、わりとネガティブなことを考えているような気がする。
気がする、というのは後々まで覚えていないからだ。
山登りというさわやかなイメージとは裏腹に、登っている間はいろんなことに腹を立てている。でも登ったら忘れてしまう。
内なる「むかつく」をおもいっきり出せるのが山なのだ。

とことんまで自身の内面と向き合い、嫌なものを表に出す。
登山というのはアウトドアの代表のように扱われるけど、じつは内向的な行為なんじゃないかな。
サウナで脂汗をたっぷりと流すのに似ているかもしれない。身体的には健康によいのかもしれないが、精神的にはなんとなく不健康的な感じがするのもいっしょだ。



そんな登山のどろどろした楽しみを存分に描いている『山女日記』。
全篇最後は前向きなラストになっているのは好みではないが、「山登り中のいろんなことにむかつく心情」を思いださせてくれる、いい小説だった。

中でも印象に残ったのが『槍ヶ岳』という短篇。
ほんとにイヤなおばさんが出てくるのだが、「言動がいちいち癇に障るけど面と向かって指摘するほどではない」という絶妙なイヤさ。
いやあ、不愉快だ。はっはっは。

ぼくは不愉快な小説が好きなので、湊かなえ氏にはこういうのをもっと期待しちゃうな。山を登りきったときの晴れ晴れとした気持ちじゃなくて登る途中の悶々とした心情にスポットを当てた小説を。


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