2019年5月24日金曜日

娘の知ったかぶり


毎晩、五歳の娘に本を読んでいる。

以前は絵本を読んでいたが、最近は小学校低学年向けのいわゆる児童書が多い。

「絵のないページがある本」は娘が嫌がるので、「どのページにもイラストがある本」を図書館で借りて読んでいる。

一冊読むのに三十分くらいかかる。
という話を他のおとうさんおかあさんにすると「たいへんですね」といわれるが、ぼくからしたらむしろ楽になったと感じている。

絵本を読むほうがぼくはつらかった。
絵本って「内容が単調」または「ストーリーが不条理」なことが多い。

子どもにはそれがおもしろいのかもしれないが、大人からすると「おもったとおりの展開」か「意味わかんねえ」のどっちかになることが多く、退屈きわまりなかった。

その点、児童文学はストーリーは整合性がとれつつもそこそこ裏切りや謎解きの要素があって、大人も楽しめる。

最近読んだ本だと、石井 睦美『すみれちゃん』シリーズなんて、五歳~八歳の少女の動きが丁寧に描かれていてすごくよかった
娘もいたく気に入って、ぼくに読んでもらった翌日にひとりで読みかえしていた。


あとは富安陽子さんの『サラとピンキー』シリーズもおもしろいし、角野英子さん(『魔女の宅急便』の作者)の本もはずれがない。

ぼくも娘といっしょに夜の読書の時間を楽しんでいる。



さて、児童書を読んでいるとときおりむずかしい表現に出会う。

「じゆう」とか「こどく」とか「ふこうへい」とか。
ものの名前ではない、概念を表す言葉。

こういった言葉が出てくると、ぼくは娘に尋ねる。
「ふこうへいってどういう意味かわかる?」

娘は、わかれば自分なりに説明してくれるし、わからなければ「わからない」と言い、ぼくが説明してやる。

以前は、よく知ったかぶりをしていた。
「知ってる」というので「どういう意味?」と訊くと、まるで答えられないことがたびたびあった。

娘もいっちょまえにプライドが出てきて、虚勢を張るようになったのだ。

そのたびにぼくは注意をした。
「知らないことがあるのは恥ずかしいことじゃないよ。でも知らないのに知ってるふりをするのはすごくかっこわるいことだし、自分が困るよ」
と。

知ったかぶりをしたときはたしなめるが、知らないというときはわざとらしいぐらい優しく教えてやる。
これを何度もくりかえしていたら、知らないことは素直に知らないといってくれるようになった。



今のところ、ぼくの中での唯一の教育方針は「学ぶことの愉しさを知ってもらう」だ。

わからないことがわかるようになる。こんなに愉しいことはない。

嫌々勉強することがないように、「本読んでいいよ」「パズルしよっか」ということはあるが、「本を読みなさい」「勉強しなさい」とは言わないようにしている。

愉しく学ぶ上で最大の障壁となるのが「知ったかぶり」だ。
知ったかぶりをしたとたん、学びはストップする。

だから知ったかぶりをしたときは容赦なく糾弾するし、わからないことに対しては決して責めずに教えていこうとおもう。

自戒の念もこめて。


2019年5月23日木曜日

ゲスい飲み会


前いた会社は若い営業社員が多く、体育会系のノリだった。

ある飲み会のとき、男性社員数人が新しく入った美人社員をつかまえて
「この会社の男の中で誰がいちばんタイプ?」
と訊いていた。

ぼくは少し離れた席でそれを聞いていて「美人もたいへんだな」とおもっていた。

先輩社員に対して「それセクハラですよ」とはなかなか言えないだろう。

適当に受けながしても、この手の質問をするやつは相手の気持ちなんて考えないから答えるまでしつこく訊くだろう。

「みんないい人なんで全員です」なんて返事では済ませてもらえないだろう。

かといって適当に誰かの名前を挙げて、本気にされても困るだろう。仕事もやりづらくなるだろう。


すると美人は言った。
「犬犬さん(ぼくのこと)です」と。

なるほどな、とぼくは感心した。

ぼくは、その会社ではめずらしい既婚者だった。
既婚者、しかも別部署で仕事上の接点がほとんどない人の名前をあげておけば、本気にされる可能性も低い。
もともと仕事上のつきあいもないから、万が一気まずくなっても大丈夫。

さすがは美人。
しょうもない質問をかわしなれてるなあ、と感心した。

と同時に、こうもおもった。

逃げ口上に使われただけとわかってはいても、おっさんはちょっとドキドキしちゃうんだからな!




またべつの飲み会のとき、男性社員三人が女性のSさんをつかまえてこんな質問をした。

「この三人の中でつきあうとしたら誰がいい?」
(ゲスな会話ばっかりしてるとおもわれるかもしれないが、じっさいゲスいやつばっかりの会社だったのだ)

すると、Sさんはこう答えた。
「んー。顔だけでいったら〇〇さんかなー。でもつきあって楽しそうなのは××さん。結婚するなら△△さんかな」

おお。
三人ともにいやな気をさせない返事。と同時に三人とも恋愛対象ではありませんよと伝えている。うまい。
さすがは営業成績トップのSさんだ。

はぐらかされた三人は、気を良くしたような、少しがっかりしたような、なんとも言えない顔をしている。
完全にSさんが上手だったな。


三人は懲りずに、横にいたべつの女性Nさんに同じ質問をした。
「この三人の中でつきあうとしたら誰がいい?」

するとNさんは間髪を入れずに答えた。
全員イヤです

男「えっ、いや、じゃあ地球上にこの三人しか男がいないとしたら?」

Nさん「そのときは誰ともつきあわずに死んでいきます


お、おとこまえー!

隣で聞いていたぼくが、Nさんに惚れそうになってしまった。


2019年5月22日水曜日

精神病という病


昨年、小学校の同級生と約二十年ぶりに再会した。

Facebookで友だち申請が来た。
「今どこにいんの?」
「〇〇市」
というやりとりをへて、
「近いやん。じゃあそのうち飯でも行こか」
と送ったら、
「いつにする?」
と返事があった。

ぼくの送った「そのうち飯でも行こか」は挨拶みたいなものだったので、具体的な日程調整を持ちだされて少し当惑した。
だがなつかしいという気持ちもあったので日程と場所を決めて会うことにした。


待ち合わせ場所にいた彼は、以前とずいぶんちがって見えた。

最後にあったのは高校生のとき。それから二十年もたつのだから変わっているのはあたりまえだ。
ちがって見えたというのは、「二十年もあればこれぐらい変わるだろう」というぼくの予想をはるかに超えて変わっていたということだ。

一言でいうと、彼は老けこんでいた。
二十年たったとはいえ、ぼくたちはまだ三十代半ば。
「老けこむ」と形容されるような年齢ではない。

だが、ひさしぶりに会った彼はぼくより十歳以上も年上に見えた。三十代、だよな?

おどろきを、ぼくはあえて口にした。
「老けたなー!」

すると彼は言った。
「え? そんなに老けた?」
真顔で。
かぼそい声で。

てっきり「ほっとけ!」「おまえもやろ!」的な言葉が返ってくるとおもっていたぼくはおもわずたじろいでしまった。

「あ、いや、お互いさまやけどな」
とあわててフォローまで入れてしまった。

そのまま近くの店に入り、注文をしてから話をはじめた。

「久しぶりやなー。高校卒業以来やな。同窓会にも来てなかったもんな?」

 「まあな」

「ってことは……だいたい二十年ぶりか」

 「そうやな」

どうも会話がぎこちない。

「学生時代の友人とひさしぶりに再会」という経験は何度かあるが、話しはじめたらすぐに昔のペースをとりもどせるようになるものだ。

だが今回はぜんぜんペースがつかめない。というより、こちらのペースに彼が乗ってこない。

「仕事何してんの?」と訊くと、少しの沈黙の後、彼が口を開いた。

「おれ、精神科にずっと通ってて、最近になってやっと外に出られるようになってん。市役所に仕事紹介してもらって。週に三日、短時間やけど」

「えっ。精神科? いつから?」

「二十歳ぐらいのときから」

「ってことはもう十年以上?」

「そう」

訊くと、専門学校に通うようになってから人と会うのがこわくなり、しばらく社会から隔絶された生活を送っていたという。
精神病院に三回入院したという。監獄のようで気が狂いそうだったという。今でも人と会うのがこわい、それどころかテレビを観るのもこわいという。

彼の言葉を聞いて、ぼくは言葉を失った。

小学生のときは毎日のように遊んでいた友だちだ。
人にはない独特な発想をもったやつで、休み時間になるとクラスの男子たちが彼のまわりに集まってきた。
ぼくらは野球をしたり、ゲームをしたり、漫画の貸し借りをしたり、勝手に人の家の敷地内に入って教師から叱られたりした。つまり、ぼくも彼もごくごくふつうの男子小学生だった。

精神病患者が世の中にいるということは知っていた。精神病院という施設があることも。
だが、ぼくの記憶の中にある彼と、精神病院というのがどうしても結びつかなかった。
そういうのってもっと特別な人が入るところじゃないの? 生まれたときからそういう気質のある人が。

小学生のときの彼をおもいだしていた。
野球をするときはめずらしい左投右打だった彼、自分でつくったオリジナルのゲームをノートに書いていた彼、漫画の台詞を真似していた彼、オリジナルキャラクターを校舎の壁に落書きして担任に怒られていた彼、ふだんはどちらかといえばおとなしいほうなのに林間学校で担任から叱られたときだけは泣いて抗議していた彼。

どのエピソードを思いかえしても、彼が「人が怖いからテレビも観られへんねん」と言う人間になるようにはおもえなかった。
もちろんぼくは医者でもなんでもないからどんな人が精神病になりそうかなんてわからないんだけど、でも、ちがうだろ。
なぜ彼が。

もやもやした思いがこみあげてきたが、ぼくにできることはほとんどないがせめてこれ以上彼を苦しめないように、とおもってあたりさわりのない昔話をして別れた。



それから数日たっても、彼のことが頭から離れなかった。

ふとおもった。
「彼が精神病じゃなくて他の病気でも同じように感じただろうか?」

たとえば、ひさしぶりに会った友人が胃の病気になっていた。
ずっと体調が悪くて仕事もままならない。あまり外にも出歩かないのだと聞かされた。

「それはたいへんだなあ」とはおもうだろう。
でも「どうして彼が」とはおもわない。
「小学生のときはあんなに元気だったのだから病気になるなんて信じられない」ともおもわない。

「気の毒なことだけど、誰だって病気にはなるしな。まあそういうこともあるだろう」と受けとめるだろう。

精神病も他の病気も、現象としてはたいして変わらない。たぶん。

脳内である物質が多く分泌されたとか、どこかしらがうまくはたらかなくなったとか、原因はそんなもんだろう。
胃の具合が悪くなるのと、本質的に変わりはない。
胃の細胞の調子が悪くなれば食べ物をうまく消化できなくなるし、脳細胞の調子が悪くなれば人とうまく話せなくなる。それだけのことだ。

だから病気になるのはたいへんなことだけど、それが精神病だからってことさら深刻に受けとめるのは余計なことかもしれないな、とおもいなおした。
絶句するほどのことじゃなかったな。

「彼にどんな言葉をかけてやればよかったのだろう」と悶々としていたけど、「たいへんやなー。早く良くなるといいな」ぐらいでよかったのかな。
次会うときは、そう言ってやろう。


2019年5月20日月曜日

【読書感想文】平均が良くなれば世の中は良くなるのか / 『FACTFULNESS』

FACTFULNESS (ファクトフルネス)

ハンス・ロスリング オーラ・ロスリング アンナ・ロスリング・ロンランド
上杉 周作(訳) 関 美和(訳)

内容(e-honより)
ここ数十年間、わたしは何千もの人々に、貧困、人口、教育、エネルギーなど世界にまつわる数多くの質問をしてきた医学生、大学教授、科学者、企業の役員、ジャーナリスト、政治家―ほとんどみんなが間違えた。みんなが同じ勘違いをしている。本書は、事実に基づく世界の見方を教え、とんでもない勘違いを観察し、学んだことをまとめた一冊だ。

貧困は解消されていない、あいかわらず世界中で多くの子どもたちが栄養失調で苦しみ、若くして命を落としている……。

そんなのはすべて間違いだ、世の中はまちがいなく良くなっているのだ、と多くの証拠を挙げて主張するのが『FACTFULNESS』だ。


話題になっているのは知っていた。
おもしろそうな本だとおもっていた。
でもぼくの「流行りものには手を出したくない」という悪い癖が顔を出し、「そのうち読もう」と放置していた。

ところが、訳者の一人である上杉周作氏が書いたnote( 『ファクトフルネス』批判と知的誠実さ: 7万字の脚注が、たくさん読まれることはないけれど )を読み、
「こんなに知的誠実さを持った人の訳した本がおもしろくないわけがない! すぐ買ってお金を落とさねば!」
という謎の使命感に駆られ、購入した。


やはり話題になっているだけあって、おもしろかった。
中盤以降は同じようなことのくりかえしでやや退屈だったが前半はめっぽうおもしろかった。

誤った"常識"を正してくれる良書であることはまちがいない。
翻訳もいいし、ぜひ多くの人に読んでもらいたい。



まずは、上記上杉氏が作成した チンパンジークイズ をやってみてほしい。

全部三択問題で十二問。すべて勘で答えても四問は正解する計算になる。
しかし、ほとんどの人の正答数は四問を下回る。誤った知識が邪魔をするのだ。生兵法は大怪我の基。

ぼくも大半まちがえた。
じっさいは、ぼくがおもっているよりずっと世界は良くなっているのだ。
 メディアや活動家は、あなたに気づいてもらうために、ドラマチックな話を伝えようとする。そして悪いニュースのほうが、良いニュースや普通のニュースよりもドラマチックになりがちだ。また、なんらかの数字が長期的には伸びていても、短期的に落ち込むことがあった場合、それを利用して「危機が迫っている」という筋書きを立てるのはたやすい。
 世界はオープンになり、人々はネットでつながり、報道の質も上がった。悪いニュースは、以前よりずっと広まりやすくなった。
 悲惨なニュースを見たときは、自分にこう尋ねてみよう。「このニュースと同じくらい強烈な『明るい』話があったとしたら、それはニュースになっていただろうか?さまざまな大きな進歩のニュースは、はたして自分の耳に入ってくるだろうか?溺れなかった子供がニュースになるだろうか?溺れる子供の数や、結核で亡くなる人の数が減っていることに、窓の外を見て気づけるだろうか?ニュースを読んだり、慈善団体のパンフレットを見たりして気づけるだろうか?」
 良い変化のほうが悪い変化より多かったとしても、良い変化はあなたの耳には入ってこない。あなたが探すしかない。統計を見れば、良い変化がそこらじゅうにあることに気づけるだろう。「悪いニュースのほうが広まりやすい」と心得ておけば、毎日ニュースを見るたびに絶望しないですむ。大人も子供も、ぜひこの考え方を身につけてほしい。
悪いことが起こったときはニュースになる。
人が殺された、新しい病気が流行っている、戦争がはじまった、痛ましい事故が起こった、天災が起こった。

けれどいいことはあまりニュースにならない。
赤ちゃんがたくさん産まれて健康に成長している、医療機関が多くの命を救った、戦争を未然に防いだ、事故数が昨年より減少した、今年は地震が起こらなかった。
そんなことはニュースにならない。
赤ちゃんが産まれてすくすく育っていることがニュースになるのはパンダだけだ

だから世の中はどんどん悪くなっていっているような気がする。
少年犯罪も高齢ドライバーによる交通事故も餓死も戦死も難民も減っている。

そこをついつい忘れて「昨今の日本は……」とか「最近の若いやつは……」と言いたくなってしまう。気を付けなければ。



今の日本には、「食っていけない」「病気になっても医者に診てもらえない」「我が子に教育を受けさせられない」というレベルの貧困にあえぐ人はほぼいない。

『FACTFULNESS』では経済状態に応じて、レベル1(最貧層)~レベル4に分けている。
日本人の大半は最も豊かな層であるレベル4に位置している。「金がない」「貧困世帯だ」とおもっている人たちも、世界水準で見ればほとんどはレベル4だ。
1日に32ドル以上の収入があり、家の蛇口をひねれば水道が出てきて、ガスで調理ができ、自動車で移動をする。
ぼくらはレベル4の生活をしているし、ぼくらの親世代もたぶんレベル4の暮らしを送っていた。
だからレベル1やレベル2の人々の暮らしをまるで理解していない。
 結論から言うと、レベル1や2にいる国では、「病院のベッドで、医者が子供の命を救う」ことは比較的少ない。たしかに、「ベッドの数」や「医者の数」といった指標はわかりやすいし、政治家はハコモノを建てるのが大好きだ。しかし、子供の生存率が伸びる理由の多くは、病院の外にある。地域の看護師や助産師、そして教育を受けた親たちが講じた、病気の予防策が効果を上げている。特に、母親の影響は大きい。世界中で、子供の生存率が伸びている原因を調べてみると、「母親が読み書きできる」という要因が、上昇率の約半分に貢献している。
 多くの子供が命を落とさなくなったのは、子供がそもそも重い病気にかからなくなったからだ。訓練を受けた助産師が、母親を妊娠中から出産時までサポートする。訓練を受けた看護師が、子供に予防接種を行う。親たちは子供を寒さから守り、清潔に保つ。子供が食べ物に困ることもない。周りにいる人もきちんと手を洗う。そして母親は、薬のビンに書かれている注意書きを読むことができる。
病気でなくなる子どもが多いと知ると、ぼくらは「病院を建てて医師や看護師の数を増やせばいい」とおもう。
でもそれはレベル3やレベル4の人の発想だ。ほんとに貧しい人たちはそもそも病院に行けないのだ。

この本の中では、子どもの死を減らすためには医療の充実より、たとえば交通を整備することのほうが重要だと書いている。
道路をきれいにして町へ向かうバスが走れるようにする、そうすれば病院に行けるようになる。

なるほど、たしかにこういう発想はなかったな。
想像力は大事だが、想像力には限界がある。自分から遠すぎる世界の暮らしは想像の範疇を超えている。



貧困は減っている、ということが『FACTFULNESS』にはくりかえし書かれている。

うん、たしかにそうなんだろう。事実なんだろう。

でも、なんかしっくりこない。
平均として世界が良くなっているといわれても、それがどうしたという気がする。

ぼくらが実感する不幸って相対的なもんなんだよね。
もちろん生きていけないほどの貧困は重要問題で、最優先で解決しなきゃいけないことなんだけど。
でもそれを解決したからいいってもんじゃないんだよね。

江戸時代の殿さまは今のぼくらよりまずいものを食べて汚い身なりをしてろくな医療を受けられなかった。冷暖房もなかったし娯楽も乏しかった。
今の基準でいえば貧困に相当するだろう。レベル1~レベル4で言えばレベル2ぐらいの暮らしだ。
でも殿さまが経済的に不幸だったかというと、まったくそんなことはない。

同じように、現代の裕福な生活だって百年後の人たちから見たら貧しい暮らしに見えるだろう。
自動移動装置もナノ医療も標準食品もオート秘書も安全住宅もなしに生活してたの、かわいそう、と言われるかもしれない。
百年後にも『FACTFULNESS』みたいな本が出版されて、世界は悪いことだらけのように見えるけど、でも2019年頃に比べると世の中にはこんなにも良くなっているんです! と書かれているかもしれない。
だからってぼくらが不幸だということにはならないし、2119年の人たちが幸福だということにもならない。

シリコンバレーのエンジニアの平均年収は、日本円にして1000万円を超えているという。
そこに暮らす年収800万円の人は、経済的な満足感は得にくいだろう。あなたは世界水準で見ればたいへんなお金持ちなんですよ、といわれても納得できないだろう。
ぼくらが感じる幸福や満足は「隣人と比べた」相対的なものだからだ。

その考えはぼくらの脳の仕組みに由来するものであって正確な考えではないのですよといわれたって、現に幸福につながらない以上なんの気休めにもならない。

『FACTFULNESS』には、「相対的な満足度」の話がほとんど出てこない。
著者が見落としていたわけではなく、本題がぶれるから意図的に書かなかったんだろうけど、ぼくはひっかかりを感じてしまう。

極端なことをいうと、「みんなが年収200万円の世界」と「9割が年収100万円で1割が年収1億円の世界」を比べたとき、後者のほうが平均収入が増えてるでしょ、だから後の世の中が良いんですよ、と言われているようなひっかかり。

そこまで極端なことを言わなくても、「みんなが年収200万円の世界」が「半分が年収250万円で半分が年収1000万円の世界」になったとしたらどうだろう。
みんな年収増えましたよ、以前に比べて不幸になった人はいませんよね、といえるだろうか。


「格差」という切り口があれば、より満足度の高い本になったかなあ。


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2019年5月16日木曜日

ごめんって言った


(途中まで実話)

公園で子どもたちとあそんでいると、不意にKちゃん(三歳)が火がついたように泣きだした。
その場にいた大人が目を離したすきに、なにか痛い目に遭ったらしい。
「どうしたの?」と訊いても、泣くばかりで要領を得ない。

Kちゃんの隣にいたMちゃん(やはり三歳)に
 「Kちゃんがなんで泣いてるのか知ってる?」
と訊くと、
「Mちゃん、ちゃんとごめんって言ったよ!」
との返事。

どうやらKちゃんとMちゃんがぶつかったかなにかしたらしい。


ぼく「何が起きたのか知りたいから教えてくれるかな?」

M「Mちゃん、ごめんって言ったよ!」

ぼく「うん、それはわかった。べつにMちゃんのことを怒ってるわけじゃないんだよ。何があったか教えてほしいだけ」

M「Mちゃん、ごめんって言った!」

ぼく「うん、ちゃんとごめんなさい言えてえらかったね。で、Kちゃんはなんで泣いてるのかな?」

M「ごめんって言った!」

ぼく「ほら、おじさんぜんぜん怒ってないでしょ。おじさんは何があったのかを知りたいだけなんだよ。ぶつかったの? どことどこがぶつかったのかな? それによって手当てのしかたも変わってくるから」

M「ごめんって言ったのにー!(泣)」

ぼく「ご、ごめん……」


そこに駆けよってくるMちゃんのおとうさん。


M父「おい、どうしたんだ。なんでうちの子は泣いてるんだ!」

ぼく「私、ごめんって言いましたよ!」

M父「うちの子に何をしたんだよ!」

ぼく「私はきちんとごめんって言いました!」

M父「いや、そうじゃなくてなんでうちの子が泣いてるのかって訊いてるんだよ!」

ぼく「ですからごめんと言ったと言ってるじゃないですか!」