2019年5月8日水曜日

【読書感想文】原発の善悪を議論しても意味がない / 『原発 決めるのは誰か』

原発 決めるのは誰か

吉岡 斉  寿楽 浩太  宮台 真司  杉田 敦

内容(e-honより)
「脱原発」を求める多数の声があるのに、政策の決定過程には反映されず、福島原発事故以前の原子力政策への回帰が進められている。政策を実際に決めているのは誰であり、本来は誰であるべきなのか。専門知識が求められる問題に、私たちはどう関わっていけるのか。科学技術政策を専門とする2氏の報告と、社会学者・政治学者を加えた4氏の討論を収載。

原発稼働に関する議論を見ていると、うんざりする。
稼働賛成派は「政府、電力会社が安全だと言っているから」「原発を止めて電気が止まっていいのか」と主張し、反対派は「リスクがあるから」「原発はとにかく危険」と主張する。

傍から見ていると「どっちも感情的になっているだけで永遠にわかりあえる日はこないだろうな」としかおもえない。

「健康・環境面からの意見」VS「(短期的)経済的な意見」というまったく異なる土俵で闘ってたって、そりゃあわかりあえないだろう。

原発という金のなる木を守ろうとする人の「大丈夫だ」も、リスクがどの程度なのかを調べようともしない人の「危険だ」も、どっちももう聞きたくない。

落ちついた、両論併記の議論をぼくは読みたいんだ!



ということで『原発 決めるのは誰か』を読む。

原発の構造とか安全性とか事故があったときの影響などにはほとんど触れられていない。
テーマは、タイトルの通り「決めるのは誰か」だ。

民衆による多数決で正しい判断が下せるのか、少数の専門家に任せていいのか、任せるとしたらその少数は誰がどうやって選ぶのか。
「決定」について多くのページが割かれている。

これはいいスタンス。
たしかに原発の善悪を議論しても意味がない。
原発利権を享受している人からしたら原発は「いいもの、正しいもの」だし、リスクのほうが大きい人からしたら「悪いもの、誤ったもの」だ。
そこを議論しても、立場がちがう以上いつまでも平行線だ。


まず前提として、原発は(少なくとも今日本にある原発は)時代遅れのものだ。
 まさに、「これでもか」というぐらいの過保護のなかで、日本の原発政策は進められてきたことがわかると思います。普通の経済感覚からすれば、原子力を進めるという道理はないのです。原子力というのは、言ってみれば極めて経営リスクの高い技術でして、国家の保護なしに競争市場に放り込むとすぐま敗北してしまうような技術なのです。
 全原発を即時廃止する道が最もわかりやすい選択肢ですが、原発を残す場合でも経済的にありうる道は、新増設はせず、既にある原発について投資を回収できるまで動かして、回収し終わったら止めていきゴールは完全な脱原発ということだろうと思います。もちろん安全面からはそれもどうかという話になるわけですが、この道以外には、原発を残していく経済的なメリットはまったくありません。ドイツが決めたのはまさにそういう路線です。今あるもののうち比較的新しいものは動かして使っていくが、なるべく早めに廃止し、新増設はせずに、二〇一二年には完全に脱原発を達成するというものです。日本もドイツと同じことをやるのが一番穏当だと、私は以前から言ってきました。「即ゼロがベターであるけれども、ドイツ方式でもいい」というのが現在の考えです。
原子力発電については、安全性を基準として追加しつつも、原子力発電は安定供給、コスト、環境保全の三つの面が優れているとしています。この三つの面は3E(Energysecurity,Economy,Environment)と呼ばれてきたものです。福島事故によって何年もほとんどの原発が長期停止していることを考えると、供給安定性が劣悪であることは明らかです。福島事故により何十兆円もの被害が出ることが確実であることを考えると、事故の後始末コストと損害賠償コストを加算すれば、原子力発電のコストは火力よりも大幅に高くなるはずです。さらに環境保全については、大量の放射能放出によって半永久的に居住不能な広大な地域を発生させてしまったことを、どう考えるのでしょう。福島事故は日本史上最大の公害事件であり、それでも環境保全性が優れているというのは道理に反します。
その証拠に、諸外国はどんどん原発を捨てている。
原発には先がない、というのが世界の共通認識なのだ。

それでも日本が原発に依存しようとしている理由は
「ここでやめたら今までやってきたことが無駄になる」
「過去の失敗を認めたら誰が責任をとるのか」
という二点のみ。

これは先の大戦で大敗につながったときとまったく同じ発想。
損切りができずにまごまごしているうちに撤退が遅れ、ますます損害が大きくなっているというのが今の状況だ。

もしも、もしもだよ。
シムシティみたいに国土を全部更地にできたとして。
「さあ、ゼロから国づくりをやりなおしましょう」
ということになったとき。
それでも原発建設を選ぶ人はひとりもいないだろう。

結局、原発を動かすかどうかを決める上で考えなければならないのは
「原発はいい選択か」ではなく(それはもう答えが出ている)、
「そうはいっても日本にはたくさん原発がある。これをどうするのか」なのだ。

シムシティとちがって、現実はリセットすることはできないのだから。



とはいえ。
原発がいい選択ではないからといって、
「原発は悪だ! 原発をゼロに!」
と叫んでもどうにもならない。

ガソリン車もパチンコもタバコも良くないものかもしれないが、現にその恩恵を受けている人、それで飯を食ってる人がいる以上、すぱっとなくせるものではない。原発も同じ。

それに「今だけ」を考えるのであれば、原発は悪くない選択肢だ。
原油価格に左右されにくいし、発電コストも比較的やすい。地球温暖化対策にもなる。
なにより、日本にはすでに多くの原発がある。
既存のものを使えるというのは大きい。

だから「段階的に廃止」「原発利権を享受している人には別のメリットを」というのが現実的な選択肢になる。
 また、原子力専門家に退場してもらえば、それで問題が解決するわけではありません。原子力から撤退するにしても、廃炉や放射性廃棄物のことなどがありますから、彼らの専門知は必要なのです。安易に彼らを追い出してしまったとしたら、私たち自身が専門的な問題と向き合ったり、あるいは実際に放射性物質のようなリスクのあるものを、専門知識を欠いたまま扱ったりしなければならなくなりかねません。少なくとも現状では、そうした専門知の多くは「ムラ」の中にあるわけですから、それをどうやって私たちの側に取り戻すのかを考えねばなりません。その延長線上にコミュニケーションの話もあるのではないでしょうか。「ムラ」を解体することが必要だとしても、それは、現時点で「ムラ」に属していると思われる原子力専門家をパージすることではない。彼らを「ムラ」のメンバーから市民社会の一員へと取り戻すことが必要なのです。
(中略)
 しかし同時に、どうして欲しいのか、どういう基準で仕事をして欲しいのかということを、ポジティブな言い方、建設的な方向で伝えることももっとあってよいと思うのです。「これをするな」と同時に、「これをしてほしい」という言い方が必要です。例えば、福島原発事故の被害を受けられた皆さんから、被害を少しでも回復したり、未来を切り拓いたりするために、原子力の専門家に対して「こういう研究をしてほしい」とか、「こういう技術を考えてほしい」ということを伝えるチャンネルがあってもいいと思うのです。私たちが何を望み、何は望まないのか、そのことを伝えるのも、リスク・コミュニケーションの真髄のひとつだと思います。「これが一番いい政策なのだから、あなたたちは不要です。それを理解しなさい」というモードで接しては、彼らのコミュニケーションが一方的であるのと同じ意味でこちらも一方的な要求になってしまって、敢えて言えばイデオロギー対立、プロパガンダ合戦になってしまいます。それでは不毛な争いが続くばかりで、結局、一番困っている人たちは困ったまま、厄介な問題は手が付けられないままという結果を招きかねません。

「原発なんて害悪しかないよ」といわれたら、深く関わっている専門家ほど「いや必ずしもデメリットだけではない」と反発したくなるだろう。
それよりも「五十年後になくすために知恵を貸してほしい」「原発よりももっと安全でもっと低コストな発電方法を考えてほしい」という言い方をすれば、話は前向きに進みやすくなる。

同じく、「原子力ムラが不当な利益を享受している!」と糾弾しても反発を招くだけ。
維持・開発に使っているのと同じお金を減炉・廃炉のために落としてやるようにすれば、少なくとも「今ある利益を失う」という理由での反発はなくなる。

利権というと悪いもののように言われるけど、利権があるからこそ原発や基地のような「みんなイヤだけどどこかが引き受けなければならないもの」を設置できるわけなのだから、なくすことは不可能だ。ある程度は目をつぶるしかない。

こういう道筋をつくるのが政治なんだとおもうけどねえ。
宮台 野次や吊し上げが典型ですが、糾弾モードの振る舞いが、市民運動側に蔓延していないでしょうか。そうしたことをやはり問いたいのです。相手方との合意に至ろうとか、知らなかった何かに気づこうという構えが、ほとんど見られないのは問題ではないか、ということです。
僕が大事だと考えるのは価値専門家です。ドイツのメルケル首相が、東日本大震災が起きて二カ月も経たずに二〇二〇年代には原発をやめると決めました。きっかけは、メルケルが招集した宗教学者、倫理学者、社会学者などからなる、安全なエネルギー供給のための倫理委員会です。
 原子力問題を、価値の問題、倫理の問題として議論しているのです。低線量被曝などの未確定の長期リスクについて、誰も責任がとれないのなら引き受けるのは非倫理的ではないか、一○○○年に一回だから無視していいというのは、後は野となれ山となれ的な反倫理ではないのか、などなど。
この姿勢、大いに学ばなくてはならない。
日本の議論は「カネ(それも今のカネ)」の発言力が強すぎるんだよなあ。

原発にかぎらず。

【関連記事】

【読書感想文】原発維持という往生際の悪さ/山本 義隆『近代日本一五〇年』



 その他の読書感想文はこちら


2019年5月7日火曜日

駅のエレベーターに乗るやつは


子どもが生まれてから、駅のエレベーターに乗るようになりました。

それまでは駅のエレベーターに乗ったことなんて、ほとんどありませんでした。
海外旅行に行くときにスーツケースを持っていたから使ったかな? という程度。つまり人生で数回しか利用したことがない。

ベビーカーを押して出かけるようになってからは、駅のエレベーターをたびたび利用します。
ベビーカーだと階段やエスカレーターで移動できないからね(たまに子ども乗せたままエスカレーターで移動してる人いるけどあぶないからやめたほうがいい)。

そして気づいたことがあります。

大きな荷物もないのに、そして身体が悪いわけでもないのに駅のエレベーターを利用するやつは頭がアレ。




ふつう使わないでしょ。

ベビーカー? 当然エレベーター使うよね。
車椅子? 当然。
でかいスーツケース持ってる? わかる。
コントラバス持ってる? わかる。
松葉杖? わかる。
高齢者? わかる。

でも、健康で、大きな荷物もなく、若い人なら、まず駅のエレベーターを使わない。

だって不便だから。
エレベーターがある駅にはまずまちがいなくエスカレーターがありますし。
駅のエレベーターはあんまり大きくないですし。

だからエスカレーターや階段を使うほうがずっと早い。

百貨店とか高層ビルならまだわかりますけどね。
10階までエスカレーターで移動するのは時間かかるから。

でも、駅なんか1階分じゃないですか。深い地下鉄でも2階分ぐらいじゃないですか。
ぜったいエスカレーターのほうが早い。
それでもエレベーターを使う人がいるんです。


いやいいんですよ。誰が使ったって。
健康で荷物が少なくて若いやつは使うな、なんてどこにも書いてませんからね。

でも「健康で荷物が少なくて若いのに駅のエレベーターを使うやつ」は、ぼくが観測したかぎりではほぼ100%社会性がない。

具体的にいうと、車椅子の人がいようが、ベビーカーを押したおかあさんがいようが、ぜったいに譲らない

「私が先に並んでたんだからとうぜん私が先よ」という顔でさっさとエレベーターに乗りこむ。
車椅子の人を押しのけるようにしてエレベーターに乗りこんでしまうやつさえいる。



あなたは、エレベーターが到着するのを待っています。荷物は鞄ひとつだけです。

待っているのは、あなた、その後ろに車椅子の人、赤ちゃんをベビーカーに乗せたお母さん。

エレベーターが到着しました。ぎりぎり全員は乗れそうにありません。
十メートル先には階段とエスカレーターがあります。

あなたはどうしますか?


そうですね。
いい大人は、車椅子とベビーカーに譲って、自分は階段かエスカレーターを利用しますよね。

べつに優しいとかじゃなくて、ふつうの感覚ですよね。
だって車椅子やベビーカーでは階段やエスカレーターを上がれないのですから。

でもね。
そういうふつうの感覚を持った人は、はじめから駅のエレベーターを利用しないんです



いやほんと譲らないんですよ、あいつら。
びっくりするぐらい。

男もいるし女もいる。二十代もいるし五十代もいる。
でもぜったいに車椅子やベビーカーより自分が優先。

こういう人が世の中にいるということをぜんぜん知りませんでした。
ベビーカーを押して出かけるようになって、はじめて知った。


わかりませんけどね。
見た目ではわからないだけで、ペースメーカーつけてるのかもしれませんけどね。難病かかえてるのかもしれませんけどね。
にしたって、エスカレーター使えよとおもっちゃうんですよ、ぼくは。

わかりませんけどね。
難病をかかえていて、かつエスカレーター恐怖症なのかもしれませんけどね。


しかしなあ。
「エレベーターでは車椅子やベビーカーを優先させる」なんてのはモラルの話だから、他人が強制するようなことじゃあないんですが。
だから、車椅子より先にさっさとエレベーターに乗りこむ人を見てもぼくは何も言わないんですが。
心の中で「クズ野郎」と毒づくだけですが。


2019年5月2日木曜日

【読書感想文】三浦 綾子『氷点』

氷点

三浦 綾子

内容(e-honより)
辻口病院長夫人・夏枝が青年医師・村井と逢い引きしている間に、3歳の娘ルリ子は殺害された。「汝の敵を愛せよ」という聖書の教えと妻への復讐心から、辻口は極秘に犯人の娘・陽子を養子に迎える。何も知らない夏枝と長男・徹に愛され、すくすくと育つ陽子。やがて、辻口の行いに気づくことになった夏枝は、激しい憎しみと苦しさから、陽子の喉に手をかけた―。愛と罪と赦しをテーマにした著者の代表作であるロングセラー。

1965年刊行、何度も映像化されている古典的作品。

病院の院長である父親、美しく優しい母親、かわいい息子と娘。
絵に描いたような幸せな家庭の運命が、ある日娘が殺害されたことで大きく転換する。
父親は殺人犯ではなく男と逢引きをしていた妻を憎み、妻への復讐のために犯人の娘を養子として引き取る……。

「原罪」という重いテーマを扱った作品(著者の三浦綾子氏はクリスチャンだそうだ)。
家族それぞれが秘密を抱えて互いに欺きながら暮らしてゆくうちに、幸せいっぱいの家族が徐々に壊れてゆく描写はスリリングで読みごたえがあった。

日本での殺人事件の半数以上が家族間の殺人だそうだ。身近で関わりが深いからこそ、愛情が憎悪にかわったときの恨みも半端ではない。
幸いぼくは親や姉や妻や子に対して殺意を抱いたことはないけど、激しい憎しみを抱いたことはある。「あのときあんなことを言われた」と二十年たっても根に持っていることもある。逆に親や姉だってぼくに対してひとかたならぬ恨みを持っているかもしれない。

今は親族と良好な関係を築いているけれど、なにかのきっかけで相手の人生をぶっこわしてやりたいと望むほどの憎悪に変わらないともかぎらない。

……そんなことを『氷点』を読みながら考えて背筋が冷たくなった。
愛情と憎悪は紙一重なのだとつくづくおもう。


家族間の深い愛情と深い憎しみを描いた『氷点』、これがほぼデビュー作だというからすごい。

まあ文章はあまりうまくないんだけど……(というか同じ段落の中で視点がころころ変わるのって第三人称小説でぜったいにやってはいけないことだろ)。

でも、「船舶事故」「失踪した看護師」といった“特に回収されないエピソード” がちょこちょこあるのは好きだ。
こういう本筋に関係あるのかないのかわからないエピソードがあると、小説にぐっと深みが与えられるね。



しかしクリスマスにプレゼントをもらうということ以外ではキリスト教とは関わりのない人生を歩んできたぼくにとっては、「原罪」なるものはよくわからない。
人は生まれながらにして罪を負っているとか、親が殺人犯だったから子どもが罪を感じるとか、とうてい理解できないんだよなあ。

「人は罪を犯しうる存在である」と言われればそのとおりだとおもう。
ぼくだって環境によっては殺人犯になっていたかもしれない。逆に、ヒトラーやポル・ポトのような悪名高い人物だって、べつの時代や場所に生まれていたら平凡な人生を歩んでいたとおもう。

でも、だからこそ「罪を犯しうる存在であるにもかかわらず、大した悪事もはたらかずに生きている」ことを肯定的に評価すべきなんじゃないかとおもうんだけど。

生まれながらにして清いものではないからこそ、まあまあ清く生きているのってすばらしいことだといえるんじゃない?


【関連記事】

【読書感想文】虐げる側の心をも蝕む奴隷制 / ハリエット・アン ジェイコブズ『ある奴隷少女に起こった出来事』



 その他の読書感想文はこちら


2019年5月1日水曜日

ノーヘルと警官


大学生のときのこと。
原付で駅まで行き、駅前の駐輪場に原付を止めて電車で出かけた。
駅まで帰ってきたのは23時頃。

「あれ? ヘルメットがない」

原付の座席下のヘルメット入れに荷物を入れていたので、ヘルメットはカゴの中に入れていた。
それがなくなっている。
周りを見まわしたが見つからない。
どうやら盗まれたらしい。

「ヘルメットなんか盗むやつがいるのか。しょうもないことするやつがいるなー」

ショックではあったが、そんなに高価なものではない。
すぐに気を取り直した。どうせ古いヘルメットだ。また買えばいい。

だが問題は今のことだ。
駅から自宅までは原付で二十分。
この距離を原付を押して歩くのはたいへんだ。

「しょうがない。ノーヘルで行くか」


田舎、それも深夜なので車通りは少ない。
ほとんど車ともすれちがわない。パトカーとも出くわさない。順調だ。

だが十五分ほど走ったところで、ぼくは原付を降りた。
この先に交番がある。
さすがに交番の前をノーヘルで通るのはまずいだろうとおもい、そこからは原付を押しながら歩いた。

交番の前を通ると、中にいた警官のおっちゃんが出てきて呼びとめられた。
「なんでバイク押してんねん」

夜中に原付を押しながら歩いているのだから警官が不審におもうのも無理はない。

ぼく「〇〇駅前に原付止めてたんですけど、ヘルメット盗まれたんですよ」

警官「そっか。でも一応調べさせてもらうで」

といって盗まれたものでないかの確認をはじめた。
もちろん盗難車でないことはすぐに判明した。


警官「それで〇〇駅からずっと押してきたんか。だいぶ遠かったやろ」

ぼく「でもノーヘルで乗るわけにはいかないですからね。しゃあないですわ」

警官「まあな」

ぼく「交番でヘルメット貸してもらえないですか」

警官「残念やけど貸せるヘルメットはないなー」

ぼく「そうですか。じゃあまた押していきますわー」

警官「そっか。がんばりやー」


よしっ、なんとか交番の前をやりすごした。
ここから家までは交番もないし車通りもほとんどない。

安堵して一息ついたぼくに、警官のおっちゃんがぼそりと言った。

「にいちゃん、原付のエンジンあったかかったで」


あっ、と声が出た。

最初からばれていたのだ。
警官のおっちゃんはわかっていて、騙されたふりをしてくれていたのだ。

あわててふりかえったが、おっちゃんはニヤリと笑って何も言わずに交番に帰っていった。


ぼくは心の中でおっちゃんに礼をいって、またバイクを押して歩いた。
そして交番から見えないところまで来ると、ノーヘルで走って帰った。


2019年4月30日火曜日

【読書感想文】爬虫類ハンターとぼくらの常識の差 / 加藤 英明『世界ぐるっと 爬虫類探しの旅』

世界ぐるっと 爬虫類探しの旅

~不思議なカメとトカゲに会いに行く~

加藤 英明

内容(Amazonより)
人をも飲み込むドラゴン、コモドオオトカゲ。体重250kgを超える巨大なリクガメ、ガラパゴスゾウガメ。大きく開いた口で相手を威嚇する奇妙なオオクチガマトカゲ。世界には不思議な爬虫類が数多く存在する。そんな変わった動物たちを探し求めて、一人の男が旅に出た。若き動物研究家が過酷なフィールド探索の先に見た生き物たちの世界とは! ? 爬虫類専門誌「季刊ビバリウムガイド」で好評連載中の現地レポートから、選りすぐりの9編を収録。雑誌未掲載カット、「海外フィールド旅行の極意」をまとめた書き下ろしのコラム集も同時収録。

テレビ番組『クレイジージャーニー』でおなじみ、爬虫類学者である加藤英明さんの著書。
あの番組での加藤さんの姿があまりにすごかったので、本を手に取ってみた。
(どうすごいのか言葉では伝えようがない。番組を観たことがない人は加藤さんの回だけでもぜひ観てほしい。最高だから)

加藤さんの本は何冊か出ているが、番組でブレイクした後に出されたものは加藤さんの写真が多すぎる。
売るためにはしかたないのだろうが、加藤さんも本意ではないだろう。あくまで主役は爬虫類だ。

そこで『世界ぐるっと 爬虫類探しの旅』を購入。番組放送前に刊行された本なので著者の写真はほぼなく、爬虫類の写真が充実している。いい。



加藤さんにはとうてい及ばないが、ぼくも爬虫類が好きだ。

子どもの頃は、近所でつかまえたカメとトカゲを飼っていた。ヤモリもよく捕まえた。
大人になってからも、娘を連れて爬虫類展に行ったりしていた(ただ爬虫類を売るためのイベントだったのであまりおもしろくなかった)。

子どもの頃はよくトカゲやカナヘビを捕まえたものだ。大人になってから捕まえようとすると、めちゃくちゃすばしっこくてとうてい捕まえられそうにない。
子どものときはどうしてあんなにトカゲを捕まえられたんだろう。
たぶん迷いがなかったからなんだろうな。「ケガをしないように身の安全を確保してから」とか「万一毒を持ってたらどうしよう」とか「強く握りしめて殺しちゃわないように」とか考えていなかったから。
「捕まえたい」という気持ちしかなかった。

そして、加藤英明さんはその気持ちを持ったまま大人になった人だ。
『クレイジージャーニー』では、爬虫類を捕まえるために茂みの中を猛ダッシュしたり滝つぼにダッシュしたり洞穴に躊躇なく腕をつっこんでいる加藤さんの姿を見ることができる。
あれはトカゲを追いかけていたときのぼくの姿だ。なつかしい。

 生き物探しは難しい。たとえ本に、“ウズベキスタンに生息している”と書かれていても、局所的に生息している生き物を見つけるのは至難の業。少し離れただけで、生き物の相が変わってしまう。村人から情報を得ても、すでに人が入りこんだ後の土地だけに、生き物が消えていることが多い。長い時間をかけ、荒地に順応してきた生き物たち。彼らは、環境の変化にすぐには適応できないのである。そんなわけで、何がどこにいるかを知るには、自分の足を使わなくてはならない。頼りになるのは、生き物の痕跡。砂漠の生き物の多くは、足跡を残してくれるのでありがたい。足跡だけならガマトカゲ。尾を引きずった跡があればエレミアス。1本の筋だけで足跡がなければ何かしらのヘビ。運良く足跡の先に生き物の姿が見える場合もあれば、巣穴にまで続いている場合もある。もちろん途中で途絶えることもある。風に吹き消されたり、鳥に襲われたり。生き物が残す痕跡からは、生き物の存在はもちろんのこと、種類や生態、近況まで様々な情報を得ることができる。たとえば、グラミカソウゲンカナヘビ(Eremias grammica)。他種のエレミアスより大きく体重があるので、足跡の幅は広くはっきりと砂上に残る。その痕跡が、巣穴から延々と続くので、後を追えば行動範囲がわかる。歩いたのか、それとも走ったのか、いつ頃どこに寄り道をしたのか...。砂漠に棲む生き物の生態は、ジャングルに生きるものよりも遥かに察しやすいのである。

砂漠に残ったわずかな足跡を頼りにこれだけの情報をつかむのだ。すごい。爬虫類採集界のシャーロック・ホームズだ。

こういう解析ができなければ爬虫類ハンターとしてはやっていけないのだろう。
剣の達人が「剣を抜く前に勝負は決まっている」なんてことを言うが、爬虫類ハントも「爬虫類を見つけたときには勝負は決まっている」んだろうな。

いやあ、自分とはまったく縁のない世界ではあるが、どの道でも熟練したプロの技術というのはすごい。



ヘビを捕獲したときの記述。
ヘビは警戒心が強く、一度隠れるとなかなか外に出てこない。待っていれば日が暮れるので、ヘビが潜り込んだと思われる穴を掘り起こす必要がある。どんな種類が出てくるかわからない楽しみはあるが、これでは時間がかかってなかなか先に進めない。それでも炎天下の中、巣穴を掘ること30分。ようやく1匹のヘビが姿を現した!
 住処を壊され引き出されたのは、カンムリヘビ(Spalerosophis diadema)。相当怒っている。体をアコーディオンのように畳むと、勢いよく飛びついてきた。これが本来の野生の姿。気が荒い。私は後ずさりしながらもカメラのシャッターを切るが、リーチが長く何度も牙がレンズにぶつかってしまう。毒がないので安心なのだが、咬まれるのはごめんだ。容赦なく何度も何度も飛びつき迫ってくるカンムリヘビ。まるで漫画で見る世界。敵に対する執着心はとても強い。しかし、さすがのカンムリヘビも、体力には限界がある。20回も飛びつけばあとはスルスルと逃げて行く。そんなヘビの尾をつかみ、捕獲成功。野生個体は筋肉の発達が著しく、体に張りがある。気の強さと強靱さを兼ね備えたカンムリヘビ。アフリカ北部からインドまで広く分布している理由がよくわかる。
「ヘビのように執念深い」なんて言いまわしがあるけど、加藤さんはヘビよりずっと執念深い。

ヘビがいるかどうかもわからないのに炎天下に30分穴を掘り、20回もとびかからせ、ヘビが疲れきって逃げようとしたところを捕獲。
ヘビは命が賭かっているから必死になるのは当然だけど、加藤さん側は「ヘビを捕まえてみたい」という好奇心だけでここまでやってしまうのだ。

加藤さんに目をつけられたヘビは災難だな。つくづく同情してしまう。



加藤さんの行動はめっぽうおもしろいんだけど、この本、あまり読みやすくない。

なぜなら、加藤さんの文章が「爬虫類にくわしい人」に向けて書かれているから。

加藤さんが「これぐらいは一般常識でしょ」という感じであっさり書いていることがよくわからない。
加藤さんの一般常識とぼくの一般常識に大きなずれがあるのだ。

「ぺリングウェイアダーはアフリカアダーの仲間」
とか。
いやおなじみみたいに書いてるけど、まずアフリカアダーを知らないから。

「不思議なのは、島民がカメに関心がないこと」
とか。
いやそれを不思議と思うのは加藤さんだけだから。
食用にもならないし特に害もない生き物に関心を持たないのはふつうだから。

「トカゲの気持ちになって考えてみればどこにいるかわかる」
とか。
他の人間の気持ちですらわからないのに爬虫類の気持ちなんてわからないから。


爬虫類ハンターとそうでない人の間の「常識」に乖離がありすぎて、なんだか読みづらいんだよね。
加藤さんが「ほらこれおもしろいでしょ!」って力説してるところが、こっちからすると「はあそうですか……」みたいになってしまう。


やっぱりあれだね。
爬虫類と加藤さんは本で読むより、じっさいに動いているところを見るほうがずっとおもしろいな。

【関連記事】

大人の男はセミを捕る



 その他の読書感想文はこちら