2019年4月30日火曜日

【読書感想文】爬虫類ハンターとぼくらの常識の差 / 加藤 英明『世界ぐるっと 爬虫類探しの旅』

世界ぐるっと 爬虫類探しの旅

~不思議なカメとトカゲに会いに行く~

加藤 英明

内容(Amazonより)
人をも飲み込むドラゴン、コモドオオトカゲ。体重250kgを超える巨大なリクガメ、ガラパゴスゾウガメ。大きく開いた口で相手を威嚇する奇妙なオオクチガマトカゲ。世界には不思議な爬虫類が数多く存在する。そんな変わった動物たちを探し求めて、一人の男が旅に出た。若き動物研究家が過酷なフィールド探索の先に見た生き物たちの世界とは! ? 爬虫類専門誌「季刊ビバリウムガイド」で好評連載中の現地レポートから、選りすぐりの9編を収録。雑誌未掲載カット、「海外フィールド旅行の極意」をまとめた書き下ろしのコラム集も同時収録。

テレビ番組『クレイジージャーニー』でおなじみ、爬虫類学者である加藤英明さんの著書。
あの番組での加藤さんの姿があまりにすごかったので、本を手に取ってみた。
(どうすごいのか言葉では伝えようがない。番組を観たことがない人は加藤さんの回だけでもぜひ観てほしい。最高だから)

加藤さんの本は何冊か出ているが、番組でブレイクした後に出されたものは加藤さんの写真が多すぎる。
売るためにはしかたないのだろうが、加藤さんも本意ではないだろう。あくまで主役は爬虫類だ。

そこで『世界ぐるっと 爬虫類探しの旅』を購入。番組放送前に刊行された本なので著者の写真はほぼなく、爬虫類の写真が充実している。いい。



加藤さんにはとうてい及ばないが、ぼくも爬虫類が好きだ。

子どもの頃は、近所でつかまえたカメとトカゲを飼っていた。ヤモリもよく捕まえた。
大人になってからも、娘を連れて爬虫類展に行ったりしていた(ただ爬虫類を売るためのイベントだったのであまりおもしろくなかった)。

子どもの頃はよくトカゲやカナヘビを捕まえたものだ。大人になってから捕まえようとすると、めちゃくちゃすばしっこくてとうてい捕まえられそうにない。
子どものときはどうしてあんなにトカゲを捕まえられたんだろう。
たぶん迷いがなかったからなんだろうな。「ケガをしないように身の安全を確保してから」とか「万一毒を持ってたらどうしよう」とか「強く握りしめて殺しちゃわないように」とか考えていなかったから。
「捕まえたい」という気持ちしかなかった。

そして、加藤英明さんはその気持ちを持ったまま大人になった人だ。
『クレイジージャーニー』では、爬虫類を捕まえるために茂みの中を猛ダッシュしたり滝つぼにダッシュしたり洞穴に躊躇なく腕をつっこんでいる加藤さんの姿を見ることができる。
あれはトカゲを追いかけていたときのぼくの姿だ。なつかしい。

 生き物探しは難しい。たとえ本に、“ウズベキスタンに生息している”と書かれていても、局所的に生息している生き物を見つけるのは至難の業。少し離れただけで、生き物の相が変わってしまう。村人から情報を得ても、すでに人が入りこんだ後の土地だけに、生き物が消えていることが多い。長い時間をかけ、荒地に順応してきた生き物たち。彼らは、環境の変化にすぐには適応できないのである。そんなわけで、何がどこにいるかを知るには、自分の足を使わなくてはならない。頼りになるのは、生き物の痕跡。砂漠の生き物の多くは、足跡を残してくれるのでありがたい。足跡だけならガマトカゲ。尾を引きずった跡があればエレミアス。1本の筋だけで足跡がなければ何かしらのヘビ。運良く足跡の先に生き物の姿が見える場合もあれば、巣穴にまで続いている場合もある。もちろん途中で途絶えることもある。風に吹き消されたり、鳥に襲われたり。生き物が残す痕跡からは、生き物の存在はもちろんのこと、種類や生態、近況まで様々な情報を得ることができる。たとえば、グラミカソウゲンカナヘビ(Eremias grammica)。他種のエレミアスより大きく体重があるので、足跡の幅は広くはっきりと砂上に残る。その痕跡が、巣穴から延々と続くので、後を追えば行動範囲がわかる。歩いたのか、それとも走ったのか、いつ頃どこに寄り道をしたのか...。砂漠に棲む生き物の生態は、ジャングルに生きるものよりも遥かに察しやすいのである。

砂漠に残ったわずかな足跡を頼りにこれだけの情報をつかむのだ。すごい。爬虫類採集界のシャーロック・ホームズだ。

こういう解析ができなければ爬虫類ハンターとしてはやっていけないのだろう。
剣の達人が「剣を抜く前に勝負は決まっている」なんてことを言うが、爬虫類ハントも「爬虫類を見つけたときには勝負は決まっている」んだろうな。

いやあ、自分とはまったく縁のない世界ではあるが、どの道でも熟練したプロの技術というのはすごい。



ヘビを捕獲したときの記述。
ヘビは警戒心が強く、一度隠れるとなかなか外に出てこない。待っていれば日が暮れるので、ヘビが潜り込んだと思われる穴を掘り起こす必要がある。どんな種類が出てくるかわからない楽しみはあるが、これでは時間がかかってなかなか先に進めない。それでも炎天下の中、巣穴を掘ること30分。ようやく1匹のヘビが姿を現した!
 住処を壊され引き出されたのは、カンムリヘビ(Spalerosophis diadema)。相当怒っている。体をアコーディオンのように畳むと、勢いよく飛びついてきた。これが本来の野生の姿。気が荒い。私は後ずさりしながらもカメラのシャッターを切るが、リーチが長く何度も牙がレンズにぶつかってしまう。毒がないので安心なのだが、咬まれるのはごめんだ。容赦なく何度も何度も飛びつき迫ってくるカンムリヘビ。まるで漫画で見る世界。敵に対する執着心はとても強い。しかし、さすがのカンムリヘビも、体力には限界がある。20回も飛びつけばあとはスルスルと逃げて行く。そんなヘビの尾をつかみ、捕獲成功。野生個体は筋肉の発達が著しく、体に張りがある。気の強さと強靱さを兼ね備えたカンムリヘビ。アフリカ北部からインドまで広く分布している理由がよくわかる。
「ヘビのように執念深い」なんて言いまわしがあるけど、加藤さんはヘビよりずっと執念深い。

ヘビがいるかどうかもわからないのに炎天下に30分穴を掘り、20回もとびかからせ、ヘビが疲れきって逃げようとしたところを捕獲。
ヘビは命が賭かっているから必死になるのは当然だけど、加藤さん側は「ヘビを捕まえてみたい」という好奇心だけでここまでやってしまうのだ。

加藤さんに目をつけられたヘビは災難だな。つくづく同情してしまう。



加藤さんの行動はめっぽうおもしろいんだけど、この本、あまり読みやすくない。

なぜなら、加藤さんの文章が「爬虫類にくわしい人」に向けて書かれているから。

加藤さんが「これぐらいは一般常識でしょ」という感じであっさり書いていることがよくわからない。
加藤さんの一般常識とぼくの一般常識に大きなずれがあるのだ。

「ぺリングウェイアダーはアフリカアダーの仲間」
とか。
いやおなじみみたいに書いてるけど、まずアフリカアダーを知らないから。

「不思議なのは、島民がカメに関心がないこと」
とか。
いやそれを不思議と思うのは加藤さんだけだから。
食用にもならないし特に害もない生き物に関心を持たないのはふつうだから。

「トカゲの気持ちになって考えてみればどこにいるかわかる」
とか。
他の人間の気持ちですらわからないのに爬虫類の気持ちなんてわからないから。


爬虫類ハンターとそうでない人の間の「常識」に乖離がありすぎて、なんだか読みづらいんだよね。
加藤さんが「ほらこれおもしろいでしょ!」って力説してるところが、こっちからすると「はあそうですか……」みたいになってしまう。


やっぱりあれだね。
爬虫類と加藤さんは本で読むより、じっさいに動いているところを見るほうがずっとおもしろいな。

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2019年4月26日金曜日

【短歌集】デブの発想


「これぐらい残していてもしょうがない」 デブへといざなう魔法の言葉



頼まないやつはぜったい損してる デブで良かった大盛無料



太れども太れども猶わが生活楽にならざり太い手を見る



太るほど消費カロリー増えるから 太るはむしろ痩せへの近道



鉄道のチケット大人と小人だけ 「1.5人」のチケットなくてもいいのか



「唐揚げにレモンかけてもいいですか」 なぜ我に訊く 代表者じゃない



お土産に買ったサブレが不人気で 我が身を挺して責任をとる



妊婦より重い身体を持ちあげて お腹の我が子をやさしく撫でおり



2019年4月25日木曜日

ぼくの優しさ


ぼくは毎月UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)というところに寄附をしている。月二千円だけど。

近所のお好み焼き屋さんが「こども食堂」というのをやっていて、いろんな事情で満足に家で食事をとることができない子どもたちにごはんを提供している。
店頭に「子ども食堂のためのカンパをお願いします」と書かれた募金箱があるので、行くたびに五百円ぐらい寄附している。

我ながらえらいぜ。




さて。
近所にGくんという小学三年生の男の子がいる。

どこに住んでいるのかは知らないが、近くの公園でよく会う。
娘(五歳)やその友だちと遊んでいると「ぼくも入れてー」と近寄ってくるので、「人なつっこい子だな」とおもっていた。

だが、何度かいっしょに遊んでいるうちに首をかしげたくなることが増えてきた。

Gくんが親といっしょにいるところを見たことがない。
同級生と遊んでいるわけでもない。
いつもひとりで公園に来ている。

小学三年生の男の子が、三歳下の女の子たちが遊んでいるところに「入れてー」というものだろうか。
ちょっとふつうじゃない気がする。

娘やその友だちも、はじめはいっしょに遊んでいたのだが、あからさまに嫌がるようになってきた。
「Gくんと遊びたくない」と言うようになった。

だが避けられていることも気にせず、Gくんは「入れて―」と近寄ってくる。

その場にいる大人たちが「うーん、ちっちゃい子だけで遊びたいみたいだからごめんね」と断るのだが、Gくんは「大丈夫だよ、おれ手加減してあげる」などと食い下がるので閉口してしまう。

妻に聞くと、Gくんは平日もやはり一人で公園をうろうろしているそうだ。
学童保育にも行っていない。しかし親といっしょにいるところを誰も見たことがない。



一度、ぼくと娘で買い物に行く途中で、Gくんに会った。
「どこいくの?」と訊かれて「スーパー」と答えると、Gくんも後からついてくる。
娘はGくんと目を合わせようともしない。

娘とぼくが「お菓子買って」「一個だけだよ」と話していると、Gくんが「あーお菓子かー、おれもほしいなー」と言う。
あきらかに「買ってあげるよ」と言わせたがっている。

ぼくはその意図に気づかぬふりをして「家に帰って食べたら?」と言う。
するとGくん、「誰もいないもん。おかあさんは家に来てないし」。

おかあさんが家に来てない
「家にいない」とか「帰ってきてない」だったらわかるが、「家に来てない」なんて言い方をするか?
幼い子ならまだしも、三年生だったらそんな間違いはしないだろう。つまり、おかあさんといっしょに住んでいないんじゃないだろうか。
いろいろ事情がありそうだ。

よく見ると、Gくんの靴はボロボロだ。
食うに困るほど家が貧しいわけではないのだろう、このまえ携帯ゲーム機を持って公園に来ているのを見た。

ネグレクト、という言葉が頭に浮かぶ。

年下の女の子と遊びたがる、同世代・同性の友だちといるところを見たことがない、親といるところも見たことがない、いつも一人で公園にいる、靴がボロボロ、よく知らない大人にお菓子をねだる。
ひとつひとつは大したことじゃないのかもしれないが、これだけ積み重なると心配になる。


しかしそれ以上は訊くことはしなかった。
質問してややこしい話が出てきたら困るな、とおもった。

Gくんはスーパーまでついてきたが、Gくんがお菓子売場に走っていった隙に、ぼくは娘の手を引いて隠れるように他の売場へ移動した。



どこか遠くの難民や、会ったことのない貧しい子どもには寄附をする。
でも目の前にいる、問題を抱えていそうな子どもからは目を背ける。

ぼくの「優しさ」はそんなもんだ。


2019年4月23日火曜日

五歳児の描く絵の構図


こないだ娘の保育園で発表会があった。

後日、教室の壁に園児たちの絵が飾ってあった。
それぞれが発表会の絵を描いたものらしい。

ほとんどの子の絵は、こんな構図だった。

A

舞台の上に、自分を含む園児たちがいる。
それを舞台下から保護者が観ている。

ぼくが描くとしても、こんな構図にするとおもう。

でもSくんという男の子だけ、まったくちがう構図の絵を描いていた。

B
こんなの。
手前に自分たちがいて、奥に保護者を描いている。

おおっ、と感心した。



感心した理由はふたつ。

ひとつは、Sくんが目にしたとおりの構図で絵を描いていたこと。
舞台の上にいた園児たちには、Bの光景が見えていたはず。

見えたものを見えたままに描くことは案外むずかしい。

前髪が長い人だと視界に自分の前髪が入っているが、「見えたままをそのまま描いてください」と言われても、まず自分の前髪は描かない。
無意識のうちに消してしまうのだ。

逆に、見えていないものを描いてしまうこともある。
馬を見る。自分のいる位置からは脚が三本しか見えない。
けれどその馬を描くときは、無意識のうちに見えていない脚を補完して四本脚の馬を描いてしまう。
「馬は四本脚」という常識が、見えたとおり三本脚の馬を描くことを妨げるのだ。

見たままのことを描くことはむずかしい。脳が勝手に補完修正してしまうから。

だから、見たとおりの構図で絵を描いたSくんに感心した。
子どもならではの視点かもしれない。
(とはいえSくんには見えていなかったはずの"自分"も描いているのでその点は見たままじゃないが)



ぼくが感心したもうひとつの理由は、
他の子たちが客観的な視点を持ちあわせているということ

Aの構図の絵を描こうとおもったら、「自分がどう見ているか」だけでなく「自分がどう見られているか」という意識を持たなくてはいけない。

五歳児がそんな意識を持っているとは、おもってもいなかった。
うちの娘を見ていても「常に世界は自分を中心にまわっているんだろうなあ」とおもっていたので、「他者の視点」を持っているということが驚きだった。

大人でも「他者の視点」が欠けている人は多い。

後ろから人が来ているにもかかわらず電車に乗ったところで立ちどまる人や、階段をのぼりきったところで立ちどまってきょろきょろする人は、「他者の視点で自分を見る」という意識がまったくないのだろう(少なくともその瞬間は)。

へえ。ちゃんと客観的に自分の姿を見られるんだ。



五歳児が子どもであることに感心して、同時に五歳児が大人であることにも感心した。


2019年4月22日月曜日

女装おじさんは何色か


街中でたまに女装しているおじさんいるんじゃないですか。

あれ、たいてい派手な赤やピンクのスカート穿いてるんだよね。なんでなんだろうね。

派手な赤やピンクのスカートなんて女の人でもほとんど穿いていない。
穿くのは幼い女の子か、女装おじさんだけだ。

幼い女の子と女装おじさんに共通するのは、どちらもまだ「女の恰好」に慣れていないこと。



娘が三~四歳のとき、もう恥ずかしいぐらいにピンクの服を着ていた。
「女の子はピンクを着なきゃ!」という意識に憑りつかれていたんだと思う。ピンクのシャツにピンクのスカート、ピンクの靴下。

「ピンクでかためるより、ワンポイントぐらいでピンクをとりいれたほうがより強調されてかわいいよ」とアドバイスしたこともあるが、幼児にわかるはずもなく。
ずっと林家パー子みたいなファッションをしていた。

そんな娘も五歳になってようやくピンクの波状攻撃から卒業して、黒の上下に靴下だけピンク、のようなまともなコーディネートをしてくれるようになった。

ようやく「女の子でいること」に慣れてきたのかもしれない。
慣れたことで「ザ・女の子らしい恰好」から脱却できたのかな。



慣れていないからこそ形にこだわる、という現象はよく見られる。

二十歳ぐらいの人のほうが「社会人たるもの、スーツのときはいちばん下のボタンをはずして、靴とベルトの色はそろえて、財布は……」と細かく気にしている。
スーツ生活の長いおじさんはそんなことは言わない。靴なんか歩きやすければなんでもいいやとか色の組み合わせなんかどうでもいいやとか思うようになる。よほど変じゃなければいいじゃないか。
それこそが板についてきたということなのだろう。自分のものにしたからこそ型をくずすことができる。
古い例えになるが、王貞治の一本足打法や野茂英雄のトルネード投法やイチローの一本足打法は基本をきっちりものにしたからこそたどりついた境地で、野球をはじめたばかりの人がそのスタイルだけを真似してもうまくいかない。初心者は型をきっちり身につけるののが上達へのいちばんの近道だ。

女装おじさんが「女らしい恰好」という型をくずすことができないのは、まだ「女であること」に慣れていないからだろう。



では、女装に慣れた女装おじさんはどうだろう。
もう三十年女装やっています、というおじさん。
たぶん派手なピンクはとっくに卒業して、ブラックとかグレーとかシックな恰好をしているんだろう。
フリルのついた服やスカートにこだわらず、Tシャツとかジーンズとかパンツスーツとかを上手に着こなしているはずだ。

その結果、傍目にはもうほとんど「女装おじさん」と認識できなくなる。

女装おじさんがみんなピンク色の服を着ているのではなく、ぼくらが「女装おじさん」と認識できるのは女装おじさんの中でもピンク色の服を着ている初心者だけなのだ。

もしかしたらそこにいるTシャツにジーンズのおじさんや黒のスーツのおじさんも、じつは女装おじさんなのかもしれない。