2019年3月6日水曜日

子育ての役割分担


ひとりで子育てするのってむずかしいな、と最近特に感じる。

上の娘が五歳になり、もうすっかり一人前に見栄や意地を持っているな、と感じるようになった。
「早く着替えて」と注意されると 「今やろうとしてたのに!」と言いかえす。
「ぬぎっぱなしのパジャマ片付けて。出かけるから靴履いて」と言われると 「いっぺんに言われてもできへんやろ!」と反論する。
「早くお風呂入らないと絵本読む時間なくなっちゃうよ」と言われると 「おかあさんがそんなきつい言い方するからやろ!」と論点をすりかえて怒鳴る。

そこそこ弁も立つようになり、特に母親とぶつかることが多くなった。
(ぼくとあまりぶつからないのは、ぼくの場合、相手が五歳児であってもこてんぱんに言い負かそうとするし、「置いていくよ」と言ったらほんとに置いていくからだ。妻は「置いていくよ」と言いながらも待ってあげるので、娘も「どうせ置いていかれないだろう」とたかをくくって従わない)



妻と娘が喧嘩をしている間、ぼくは基本的に放っておく。感情的になっている人に第三者が何を言っても無駄だからだ。

喧嘩がひと段落すると、ぼくはふてくされて泣いている娘に近づいてゆき、
「ああいう言い方をしているとおかあさんもイヤな気持ちになると思うよ。そういう言い方はやめようね。〇〇って言ってたらお互い気持ちよく過ごせるんじゃない?」
とか
「おかあさんにいっぺんにいろいろ言われてイヤやってんな。でも最初に注意されたときにパジャマを片付けてたら言われなくて済んだやんか。今度からは早めに片付けような。その代わり、おかあさんにもいっぺんにいろいろ言わないようにおとうさんから言っとくわ」
とか言葉をかけて、事態の収束をはかる。刺激しないようになるべく優しい声で。

すると娘も、自分がわがままを言っていたということをわかっているので、泣きながらうなずいて「おかあさんごめんね」と言うことになる。

第三者の仲裁というのはとても大事だ。



これが親子ふたりっきりだとなかなかうまくいかないだろう。

喧嘩の当事者が「そんな言い方したらあかんで!」と言っても相手は耳を貸さないだろうし、「おかあさんも悪かった」と言って頭を下げれば子どもは「どんなわがままを言っても意地をはりつづければ相手が謝ってくる」と学んでしまうだろう。

べつに親である必要はないんだけど、子育てをする上で大人が複数いるのと二人しかいないのでは、難易度がぜんぜん違う。
単純なリソースの問題だけでなく、「叱る人/フォローする人」「厳しくする人/優しくする人」「現実を教える人/理想を教える人」「ばかなことをやってみせる人/たしなめる人」みたいな役割分担をできるメリットはすごく大きい。
一人より二人、二人より三人のほうがずっとやりやすい。

ぼくは「子育てなんてどんどん家庭の外に出すべきだ」と考えている。
一部の自称保守派が「子どもは親が育てるのが正しい」なんてことを言うが、親だけで子育てをする時代なんて、歴史的に見ても世界的に見てもごくごくわずかな例外だ。
できることならうちの子だっていろんな人に育ててほしい(現実的にはなかなかそうはいかないのでせいぜい親戚に預けるぐらいだけど)。逆によその子を預かることもある。
いっときは養子をとることも検討していた。養子はいろんな事情で断念したが、どこの誰とも知らない子を金銭的にサポートしたりもしている。少額だけど。
だからぼくはいろんな子どもの親だし、ぼくの子どもはいろんな家の子だ。

「子どもは親のもの」なんて意識が早く根絶されてくれることを願う。

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2019年3月5日火曜日

本の交換会


本の交換会をやった。


【きっかけ】


本の処分に困ったから。
最近はなるべく電子書籍で買うようにしているが、電子化されていない本も買うのでどうしても本が溜まっていってしまう。
家には数百冊、実家にも二千冊ほどの本がある。その99%はもう読みかえさないだろう。
古本屋に持っていっても二束三文なので労力にみあわない。
かといってまだまだ読める本を古紙として出すのもしのびない。

もうひとつの動機として、恩返し的な気持ちもある。
ぼくが中学生のとき、近くの公民館で定期的にバザーが開かれていた。そこでは本を1冊10円で買うことができたので、金のない学生としてはたいへん重宝した。
今の学生だって「本を読みたいのに金がない」と思っている気持ちは強いだろう。そういう人のために安く、もしくは無料で本が手に入る場所があればいい。
(このへんのことは 金がなかった時代の本の買い方 に書いた)

一方で本の処分に困っている人がいて、一方で本を読みたい人がいる。
この間を結びつけられる本の交換イベントがあればいいのになーと考えた。

調べたら「ブクブク交換」というイベントが見つかった。世界中で開催されているらしい。
しかしこのイベントのコンセプトは
「決められたテーマに合った本を持参して、自己紹介をかねた本の紹介をした後は、本の交換をするといういたってシンプルなコミュニケーション型ブックトークイベント」
というもので、ぼくが求めているものとはまったく違った。
ぼくはコミュニケーションなんて求めていない。黙ってやってきて黙って本を持ってかえるようなのが理想だ。本を選ぶときに他人と話したくない。

もっと無機質な交換会はないだろうかと調べているうちに、そうか、ないなら自分でつくればいいのだとおもいたった。

さっき「若い人のため」的なことも書いたが、同期の大部分は「自分があってほしいとおもうから」という気持ちだけだ。


【イベント内容】


ルールは以下のように設定した。

① 家にあるいらなくなった本を持ってきてください(1人20冊まで)
② 持ってきた本の冊数まで持ってかえることができます
 本、えほん、マンガを持ってきてください!

汚損の激しい本や成人指定図書は当然ながら、古本屋の買取基準を参考にして、雑誌、辞書、教科書、参考書、市販されていない本(付録・カタログなど)も対象外とした。欲しがる人少ないだろうし。
続きものの一部(上下巻の下巻だけとか)も対象外にしようかとおもったけど、『ドラえもん』の5巻だけとかならぜんぜんアリなのでそのへんは参加者の良識に委ねることにした。

当初は「持ってきた冊数+1冊まで持って帰っていい」というルールにしようかとおもっていた。
本が増える喜びがあるし、持ってきていない人でも参加できる。
資本主義に対するアンチテーゼみたいでおもしろいかなーとおもったけど、結局やめた。
本が枯渇してしまったらイベントが回らなくなるので。
それに、万が一「大人数で来て持って帰るだけ」「何度も来て1冊の本を10冊に増やす」みたいな人が現われたときに困るから。いないとはおもうけど、念のため。
(後から思うと、「+1冊」ルールは導入しとけばよかった)


【開催場所】


まずは場所を探した。
幸い、うちのすぐ近くには市民学習センターという公的な施設があり、レンタルスペースがある。
調べたら土日の使用料は2時間半で2,640円。

もうひとつの候補としてショッピングセンター内のレンタルスペースも検討した。
こちらは2時間で4,500円。市民学習センターより割高だが、人通りはこちらのほうがずっと多い(というより市民学習センターにはそこに用事のある人しか来ない)。

どちらにするか迷ったが市民学習センターにすることにした。
値段が安いこともあるが、本の交換会という性質上、たまたま通りかかった人に来てもらってもあまり意味がないからだ(たまたま交換できる本を持っている可能性は低いだろう)。
それなら人通りが多いとこよりも、落ち着いて本を見られる場所のほうがいい。


【宣伝】


さっきも書いたように市民学習センターには用事のある人しか来ない。
宣伝をしなければまったく人のこないイベントになってしまう。

とりあえずフライヤーを作ってみた。
Canva( https://www.canva.com/ )というかんたんにポスターを作れるWebサービスがあったので、これを使って作成。


これを、プリントパック( https://www.printpac.co.jp/ )で印刷。いくつかの会社を比較したが、プリントパックだとA4コート紙100枚で690円という破格の安さ(他社の半値以下)。おまけにはじめてアカウントを作ったら1000ポイントを付与された(1ポイント=1円として使える)ので、実質無料。
すげえ。
無料なのにちゃんとしたフライヤーが100枚も届いた。
プリントパックさん、ありがとう。

これを、娘の通う保育園、マンションの入口、近所の銭湯などに貼らせてもらう。
それから近所の知り合い(ほぼ娘の保育園の保護者)にも配る。
ぼくはしょっちゅう公園でいろんな子と遊んでいるので、そのたびに親に渡した。
とはいえ、100枚印刷したが配ったのは30枚ぐらい。

この時点で「絵本だけの交換会にしようかな」ともおもった。ターゲットをしぼったほうが子育て世帯にアピールできそうだし。

だが、やはり全年齢向けにすることにした。
「児童書を持ってきた小学生が大人向けの小説と交換していく」なんてことが起こったらすごくうれしいから。
それにもともとぼくの本を処分するのが目的で思いついたイベントなのだ。
あぶないあぶない、本末転倒になるところだった。

FacebookとTwitterのアカウントもつくり、ここでも情報発信をすることにした。
ぼくはWebマーケティングの仕事をしているので、このへんは専門分野だ。
広告費も投じてTwitter広告、Facebook広告も配信した。
地元の地名や、「古本屋」などのキーワードでツイートしている人をターゲットにして。遠方の人にリーチしてもあまり意味がないので。

Twitter広告の成果

Facebook広告の成果

すごくざっくりいうと、Twitter広告は3,928円使って17,286回表示され、1,182回のエンゲージメント(クリック、画像表示、いいね、リツイートなどの合計)を獲得。

Facebook広告は、542円使って311回表示され、41回のエンゲージメント。
Twitter広告のほうがよさそうだったので、Facebookはすぐに止めてしまった。

あとYDN(Yahoo!のディスプレイ広告)も配信しようかとおもったが、最低出稿金額が3,000円だったのでやめた。

少額での告知にはTwitter広告がいちばん向いているね。100円からでも配信できるし。ターゲティングの自由度も高いし。


【準備した本】


はじめにある程度の数の本がないと愉しくない。
「10冊の中から選んでください」では話にならないからね。

家にある「超お気に入り」以外の本と、実家にある本をかき集めて、500冊ほど用意。
実家にはあと1,000冊以上あるが、あまりに古い本はやめておいた。東野圭吾や伊坂幸太郎などの人気作家の本を中心に放出。

数はある程度確保できたが、絵本が少ないのが気がかりだった。
うちにもたくさん絵本はあるのだが、上の子が手放したがらないのと、下の子が0歳なのでこれから読むかもしれないと思うと、なかなか供出できない。

だが、隣県に住む姉にこのイベントのことを伝えると段ボールいっぱいの絵本を送ってくれた。
助かった。これでなんとか恰好はついた。


【結果】


忙しくて数えるどころではなかったのだが、2時間ちょっとの間に40人ぐらいが来てくれた。
本を選ぶために30分ぐらい滞在している人もいたので、常に誰かがいる状態。なかなか盛況だった。
広い会場ではなかったので、これ以上来ていたら窮屈だっただろう。
ちょうどいい人の入りだった。

「ふたを開けたら誰も来ない」というのは悲しすぎるので、古くからの友人、実家の両親、義父母、義兄にまで声をかけておいたのが功を奏した。



子どもとその保護者が多かった

半分以上は前もって声をかけていた知人だが、知人の知人、Twitterで知ったという方、近所の古本屋のご主人、たまたま通りかかった人なども来てくれた。
知らない人との交換こそがこのイベントの醍醐味なので、知らない人がたくさん来てくれたのはとてもうれしい。
「次回はいつ?」とも聞かれた。これもうれしい(後で書くけどたぶんもうやらないが)。

本を並べたり、終わってから会場の机や椅子を片付けたり、本をまた箱にしまって自宅まで運んだりするのは、相当多くの人に手伝ってもらった。家族や親戚が主だが、見ず知らずの人も手伝ってくれた。

いろんな人に協力してもらえたおかげで、まずまず成功したといっていいだろう。


【反省点1 お金】


結局使ったお金は、場所代(2,640円)+フライヤー代(0円)+広告宣伝費(4,470円)+雑費(来てくれた子どもに渡すお菓子や百均で買ったブックエンドなど)で、8,000円ぐらいだった。
収益は一円も発生していないので当然ながら赤字である。まあ損するつもりで開催した趣味のイベントなのでべつにいいのだが。

とはいえ、一回限りのイベントとしておこなう分にはぜんぜんかまわないのだが、もし定期的に開催するとなればばかにならない赤字額である。

じつは収益を上げる方法も考えていた。儲ける気はないが、収支±0円ぐらいにはできないだろうかとおもって。
だが参加費をとったらつまらないし、残った本を古本屋に売ったらただの故買屋(金銭ではなく本で買う形だが)になってしまう。
無人古本屋のBOOK ROAD(Twitter:@bookroad_mujin)というところが袋代としてお金をとっていると読んだので、そうか袋だけは有料にするのも手だなとおもったのだが、よく考えたらそれはダメだと気づいた。
なぜなら本の交換会に来る人は、袋やバッグに本を入れてやってくるからだ。有料の袋なんて買わないだろう。

「いいデザインのしおりを安く仕入れて、交換会に来た人に買ってもらう」という案も考えた。「売上は次回開催費にあてます」と書いておけば買ってくれる人もそこそこいたかもしれない。
だが、そんなことをしたら次回も開催しないといけなくなる。趣味でやっているので義務にはしたくない。

それに「気を遣ってくれる人だけお金を払って、そうでない人はタダ」というシステムは不公正な感じがしてイヤだ。

ということで、本の交換会で利益を出す(収支±0円にする)のは不可能だという結論に達した。
問題は、赤字分以上にぼくが愉しめるかどうか、だ。


【反省点2 持ちこまれる本】


金銭的な赤字については想定していたことなのでどうってことなかったのだが、持ちこまれる本の質が(ぼくからみたら)低いことは少なからずショックだった。

あらかじめ禁止していた本は以下の通り。
汚れや破れのひどい本 / 雑誌 / 辞書 / 教科書 / 参考書 / 成人指定図書 / 市販されていない本(付録・カタログなど)
あとは「参加者の判断基準」に任せていたのだが、その基準とぼくの想定との間にズレがあった。 たとえば

・上巻だけ/下巻だけ
・情報が古い実用書(十年前のパソコン書とか旅行ガイドとか)
・カバーのない本
・書き込みのある本
・成人指定図書ではないけど直截的な性描写があるマンガ

とか。
うーん……。ぼくの基準では「常識的に持ってこないだろう」とおもっていたのだが、こういうのを持ってくる人は数人いた。

ギャップの原因は、ぼくが本好きであるがゆえに「本をそんなに好きじゃない人の気持ち」が想像できなかったことだろう。

イベント告知フライヤーには「家にあるいらなくなった本を持ってきてください」と書いた。
「家にあるいらなくなった本」にぼくが込めた意味は、「自分はもう読むことがないけど誰かに読んでほしい本」だった。
そこまで言わなくてもわかるだろうとおもっていた。

もちろんそのへんの意図を汲んで本を持ってきてくれた人もたくさんいた。本好きの人はそうだと思う。「そこそこおもしろかった本」を持ってきたはずだ。
だけど「ただいらない本」を持ってくる人もまあまあいた。

『はじめての確定申告』みたいな本とかさ。ルールには反してないけど、うーん、実用書やビジネス書を持ってこられることは想定していなかったなあ……。
よほどひどい場合を除いて基本的には断らなかったんだけど、ちょっと悲しかった。

ぼくの見通しが甘かったのが悪いんだけどさ。
もし次やるなら「自分はもう読むことがないけど誰かに読んでほしい本」って書いとかないとな。

参加者のモラルに委ねているかぎりはこういう問題はついてまわるだろうし、かといってガッチガチにルールを決めちゃうのもつまらないしなあ。
このへんの匙加減はむずかしい。

「年間20冊以上読む人限定」とかにすれば質は担保されそうだけど、そういう人ばかりを集めるのなら一等地の会場を用意しないといけないし宣伝費もかかるなあ……。


【反省点3 本が増える!】


自宅の本の処分のためにはじめたイベントのはずなのに、結果的に本は増えてしまった。
「10冊持ってくるけど5冊しか持ってかえらない」というような人がけっこういたのが理由だ。
「ぜったいに持ってきただけの冊数は持ってかえってください」というわけにもいかず、開始一時間で数十冊分の本が増えてしまった。

これはまずいと思い、後半に来た人には
「何冊でも持ってかえっていいですよ」と伝えた。
また、たまたま通りがかって中を覗きこんでくれた人に「交換じゃなくても大丈夫です。さしあげますので好きな本を持っていっていいですよ」とまで伝えた。
それでも遠慮するのか、大量に持ってかえる人はいなかった。

十数冊持ってきて「引き取ってもらえますか。交換はいりません」と言ってきた人もいたが、さすがにそれは交換会の趣旨からはずれるので断った。廃品回収ちゃうぞ。

よく考えたら、本を読まない人にとっては本なんていらないものだし、本が好きな人はたいてい(ぼくとおなじように)置き場所に困っているもんなあ。
よほど興味のある本以外はタダでもいらない、ってなっちゃうよなあ。


【反省点4 若人が来なかった】


できることならぼくが提供した本は十代に読んでほしかった。

十代は知識欲がもっとも高まり、人生経験は多くないので吸収する力も強い。体力や時間もあるので手当たり次第に本を読むことができる。
しかし多くの十代は金がない。好きなだけ本を買える十代はほとんどいない。だから十代に本を届けたかった。

しかし、今回のイベントにティーンエイジャーはおそらく一人も来なかった(小学校中学年ぐらいの女の子がひとり来ていただけ)。

これは告知の方法が悪かった。
ぼくの近所の知人に十代はいないし、その親もいない。
ぼくの宣伝方法では本好きの十代に届かなかったのだろう。
近くの中学校や高校にでもチラシを貼らせてもらえばよかったと後悔している。


【総括】


たぶん本の交換会はもう二度とやらない。やるとしても自分の子どもが十代になってからかな。

やってみた感想としてはけっこう楽しかったし、娘も楽しんでいた。
いろんな人が本を持ってきてくれたことによってぼくが読みたいとおもえる本も十数冊手に入った。

しかし8,000円と大きな労力(本を持って自宅と会場を往復するのはかなりたいへんだった)を使って十数冊では、はっきりいって割に合わない。身も蓋もないことをいってしまえば、ふつうに買ったほうが安いし好きな本を選べる。

協力者を集めればひとりあたりの負担は減るが、組織にしてしまうと自分の好きなようにやれなくなってしまう。

正直な気持ちとしては
本の交換会はすごく愉しいイベントだから毎月でもやってほしい。ただしぼく以外の人が主催で
だ。
誰かやってくれねえかなあ。
市とか区とかがやってくれないかなあ。PTAとかやってくれないかなあ。ベルマーク集めるぐらいなら本を集めたほうが有意義だとおもうんだけどなあ。


そして目の前の問題は、再びぼくの家に帰ってきたこの五百冊ばかりの本をどう処分するか、だ。
とりあえず実用書やビジネス書の類は捨てて、絵本は子どもにあげて、あとは、うーん……(最初と同じ問題にぶちあたる)。


2019年3月4日月曜日

エレベーター長幼の序


エレベーターって先に乗りこんだ人のほうがエラいじゃないですか。

わかりますよね?
下に行くエレベーターだったら、10階から乗った人のほうが5階から乗った人よりエラい。
2階から乗ったやつなんて下の下。っていうか車椅子でもベビーカーでも傷病人でもないくせに1階分をエレベーターで移動するやつはなんなの。しかもそういうやつにかぎって扉が閉まりそうなタイミングで小走りで飛びこんできたりすんだよね。その元気があるなら階段使え。

後から来たやつは「乗らせていただいている」という意識を持って肩身狭く立っていなければならない。先に乗っていたお方に足を踏まれても文句を言ってはいけない。

ぼくは自分が最後に乗ったときはドアの脇に立って、新人の業務であるボタン押し係をつとめる。
1階に着いても(混んでて降りないと邪魔になるとき以外は)決して先には降りず、「開」ボタンを押しつづける。そして全員が降りたのを見計らってから「失礼します!」と一礼してエレベーターを降りる。
最後に乗った人間として当然のことだ。

逆に自分が先に乗ってて後から他の人が乗ってきたときは、そいつがどんなに偉そうにしていようと、決して「開」ボタンは押さない。
たとえ相手がダブルのスーツを着ていようが大統領だろうが天皇だろうが、エレベーター内においては先に乗った人間のほうがエラい。こないだローマ法王とエレベーターで乗り合わせたときも、「えっおれ教皇なんだけど?」って顔のローマ法王を尻目にさっさとエレベーターを出た。

「乗せてやってもいいけど」

ところが世の中には常識のかけらも持っていない人間がいて、後から乗ってきたくせにボタン押し係をやらないやつがいる。
特に年寄りに多い。年をとっているから敬われて当然と勘違いしているのだ。
そりゃあぼくだって人生の先輩を敬わなくてはという意識を持っているが、ここはエレベーターだ。先に生まれた人よりも先にエレベーターに乗った人を敬わなくてはいけない。

後から乗りこんできたくせに、先人に少しの敬意も払わず、目的の階に着いたらさっさと降りてしまうやつがいる。
しかもそういうやつにかぎって大統領でも天皇でもローマ法王でもないんだから、ほんと嫌になってしまう。


2019年3月2日土曜日

イージー育児


うちの子は五歳と〇歳だから子育てはまだまだこれからなんだけど、まあ比較的手のかからない人たちだな、と思う。
いやもちろん大変なんだけど。五歳児は意地っ張りだし休日の朝早くから「おとうちゃんトランプしよ」と起こしてくるし、そのくせ平日は起こしても起きないし、〇歳は〇歳で夜中に泣くしうんこ漏らすし決して楽ではないんだけど。
でもまあ他の子と比べたら楽なんだろうなと思う。
ふたりしか育てたことがないから(そのふたりだってまだまだこれからだけど)推察でしかないけど。

上の子はビビりで、ちょっとした段差でも「怖い」と言って飛び降りない。はじめてのものは食べたがらないし、出かけるときも親が近くにいないと不安がる。
親から見ても「もうちょっと挑戦的になってもいいのに」と思うが、そんな性格だから大きなケガなどしたことがない。ケガをさせたこともない。親としてはすごく助かる。
同年代の子を見ていると、どんな未知の領域にもずんずん足を踏み入れようとするコロンブスの生まれ変わりや、周囲から何を言われても不服従というガンジーの生まれ変わりや、すぐに他の子に噛みつくマイク・タイソンの生まれ変わりの子もいて(タイソンはまだ死んでないか)、こりゃあ親は気苦労が絶えないだろうなと同情する。
ぼく自身もそういうタイプの子だったから、命を落とさずに大人になれたのはただただラッキーだったと思う。

こういうのって親の教育方針とかの影響も多少はあるんだろうけど、それよりかは持って生まれた気質のほうが大きい。
娘の友だちに三つ子がいるんだけど、同じ日に生まれて同じ家で同じように育てられているはずなのに、性格はそれぞれちがう。
子どもが石橋を叩いて渡る慎重派になるかトラブルメイカーになるかのちがいは運でしかないんだろう。

あと健康というのもすごく大事な要素だ。
大人だったら少々の不健康でもそこそこ自分で調整をつけて生きてゆけたりするけど、子どもは体調管理能力がゼロだから、ポテンシャルがそのまま体調に直結する。
うちの子はしっかり食べるし、アレルギーや持病もないし、すごく体力がある。三歳ぐらいからお昼寝をすることをやめてしまったが、夜まで元気に遊んでいる。ぼくよりずっと元気だ。
保育園に入れるとき、いろんな人から「子どもはすぐ熱を出すから呼び出しがかかってたいへんだよ」と言われたので覚悟していたのだが、うちの娘は年に二日ぐらいしか保育園を休まない。体調が悪くても少し寝ていたらあっという間に治ってしまう。
職場の人にもあらかじめ「小さい子を保育園に預けてるんで何かあったらぼくがお迎えに行くかもしれません。ご迷惑をおかけすると思いますがよろしくお願いします」とことわっていたのに、そんな機会はほとんどなく、肩透かしを食らった気分だ。

下の子はまだ数ヶ月しか生きていないが、今のところ上の子に輪をかけて手のかからない人生を送っている。
すごくお腹のすいたとき以外は大声で泣くこともないし、夜中も新生児にしてはまあまあ長く眠ってくれるし、とにかく楽だ(新生児にしては、だが)。
しかも超絶ありがたいことに、必ずといっていいぐらいお出かけの前にうんこをしてくれる。これはすごく助かる。電車の中とかで出されたら困るからね。もうこれだけで一生分の親孝行をしているといっても言いすぎではない。絶妙なタイミングでうんこをしてくれたときは思わず赤子に「おまえは天才児か!」と言ってしまう。すごい才能だ。


ほうっておいても性格温厚・才色兼備に育つ子もいれば、死なずに大人になっただけでも奇跡という子もいる。誰も殺さなかっただけでも親を褒めなければ、という気質の子だっているだろう。
数年間子育てをしてみて思うのは、親の子育て方針が子どもの発達に与える影響なんてほんのわずかだってこと。
遺伝子とか時代とか政治とか隣人とかどんな教師にあたるかとか、ほとんど運によって左右される。
こうすれば子どもは成功する、みたいな必勝法は存在しない。これをしたらほぼまちがいなく子どもの人生は台無しになる、というクラッシュ方法はあるだろうけど。


結局何が言いたいかっていうと、「息子三人を東大に入れる方法」みたいなことを語りだす母親は何もわかっちゃいないからおまえが大学行って勉強しなおせってこと。

2019年3月1日金曜日

【読書感想文】不倫×ミステリ / 東野 圭吾『夜明けの街で』

『夜明けの街で』

東野 圭吾

内容(e-honより)
不倫する奴なんて馬鹿だと思っていた。ところが僕はその台詞を自分に対して発しなければならなくなる―。建設会社に勤める渡部は、派遣社員の仲西秋葉と不倫の恋に墜ちた。2人の仲は急速に深まり、渡部は彼女が抱える複雑な事情を知ることになる。15年前、父親の愛人が殺される事件が起こり、秋葉はその容疑者とされているのだ。彼女は真犯人なのか?渡部の心は揺れ動く。まもなく事件は時効を迎えようとしていた…。
『赤い糸』では介護、『手紙』では加害者家族の生き方、『さまよう刃』では少年法など社会問題とからめたミステリを手掛けてきた東野圭吾さん。
『夜明けの街で』はミステリ×不倫。
ミステリと他のテーマをかけあわせることによって、次々に新鮮な味わいを提供してくれる。そしてそのどれもが高い水準を保っている。
名料理人、という感じ。

ちなみにこのタイトル『夜明けの街で』は、サザンオールスターズの不倫をテーマにした『LOVE AFFAIR ~秘密のデート~』の歌詞の一部から。
舞台が横浜だったり、『LOVE AFFAIR』の歌詞に出てくるスポットが使われていたり、「秘密のデート」という言葉が何度も出てきたり……と、ずいぶん曲へのオマージュを感じさせられる小説。曲を知っていたほうがずっと楽しめるので、読む前に聴くべし。



「不倫相手の女性が15年前の殺人事件の犯人かもしれない」というのが本書のいちばんの謎。
でも正直いって、殺人事件の真相よりも不倫の行方のほうが読んでいて気になる。
はたして妻には気づかれていないのか、気づいていて素知らぬふりをしているだけなのか……。読みながらゾクゾクしていた。

ぼくは不倫をしたことはないが、どんなことがあろうとも自分はぜったいに不倫はしない! と言いきれるだけの自信もない。魅力的な女性に言い寄られたら毅然としてつっぱねることができるかどうか、我が事ながらたいへん心もとない。まあ幸か不幸か、独身時代も含めてそんな機会はないけど。

ぼくは自分の意志をぜんぜん信頼していない。だから、そもそも浮気のきっかけになるような状況に近寄らないようにしている。女性と一対一で会うなんてことはしない、どうしても会わなければならないなら昼間にする、飲み会が終わったら二次会三次会に行かずにさっさと帰る(飲み会が嫌いだからだけど)、好みの女性と会ったらまず子どもの話をする(自分に言い聞かすため)……。
まあそんなことしなくてもぼくみたいなしみったれと不倫してくれるような女性はいないとは思うが、気をつけておくのに越したことはない。

ぼくはタバコを一本も吸ったことがないし、パチンコを一度もやったことがない。麻薬も一度もやったことがない。
それは自分の意志にまったく信頼を置いていないからだ。「一度やったらハマってしまうかもしれない」とおもっているから、意識的に遠ざけるようにしている。不倫もそれと同じだ。ハマってしまいそうだから怖い。

不倫なんてしても99%良いことはない。誰もがわかっている。
バレれば家庭や金銭を失うし、へたしたら仕事や友情も失うことになる。バレなくたって罪の意識は残るだろう。

それでもしてしまう。もう本能的なものとしか考えようがない。麻薬と同じで、理性で太刀打ちできるようなものではないのだろう。こえー。



ミステリとしては、正直イマイチ。
東野圭吾作品の中でもかなり下位に位置する出来栄えだった。「十五年も××をしていた」(ネタバレになるため伏字)というのは無理があるし、真相が明らかになったところで「えーまさかあの人が!?」というような驚きもない。

ホラーとして読む分にはじつにスリリングでおもしろかった。
ぞくぞく。

ただ、結末ははっきりいって生ぬるい。さんざん身勝手な立ち居振る舞いをしてきた男がこれだけで許されるのかよ、と拍子抜けする。ぼくはもっとえげつない展開が見たかったぜ。
東野圭吾氏も男なので温情を見せてしまったのかなあ。

女性作家ならきっとこういう結末にはしなかっただろうな。

【関連記事】

【読書感想文】 東野 圭吾 『新参者』



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