2018年11月13日火曜日

【読書感想文】朝ドラのような小説 / 池井戸 潤『民王』


『民王』

池井戸 潤

内容(e-honより)
「お前ら、そんな仕事して恥ずかしいと思わないのか。目をさましやがれ!」漢字の読めない政治家、酔っぱらい大臣、揚げ足取りのマスコミ、バカ大学生が入り乱れ、巨大な陰謀をめぐる痛快劇の幕が切って落とされた。総理の父とドラ息子が見つけた真実のカケラとは!?一気読み間違いなしの政治エンタメ!

総理大臣とその息子の心が入れ替わってしまい、さらには大臣や野党党首もそれぞれ子どもと心が入れ替わってしまい……というドタバタ小説。

なんというか、お手本のようなエンタテインメント小説って感じだったな。悪い意味で。

起承転結がはっきりしていて、ほどほどに諷刺とユーモアが散りばめてあって、スピード感があって、後半にはピンチが訪れて、主人公が熱いセリフを吐いて、いろいろあったけど最後は大団円……とまあ、ほんとにエンタテインメント小説の教科書を読みながら書いたのかなってぐらい。

よくできているし誰が読んでもそこそこ楽しめるだろうなって感じの小説だけど、終わってみればあんまり印象に残らない。
官能小説のストーリーぐらい印象に残らない。



ぼくは「半端なリアリティ」が嫌いだ。
フィクションなんだからむちゃくちゃ書いたっていい。だけど世界感は統一させてほしい。どんなに無茶な設定でも、その中では整合性を持たせてほしい。

『民王』はまさに「半端なリアリティ」を持った小説だった。
もう「総理大臣と息子の心が入れ替わる」って時点でむちゃくちゃなんだから、そこに理由なんていらないんだよ。どれだけ理由をつけたって嘘くさくなるだけなんだから「気がついたら入れ替わっていた」だけでいい。

それなのに長々と、やれテロだのやれ製薬会社の陰謀だの、愚にもつかない理由を並べはじめる。
うるせーよ。どんな技術だよ。
なんで心を入れ替える技術を使って総理を息子と入れ替えて失脚させようとするんだよ。まわりくどすぎるだろ。企んだやつが総理になるほうがよっぽど手っ取り早いじゃねえか。

矛盾点を書きだしたら永遠に終わらないのでもうやめとくが、とにかく設定がぐずぐず。
もっとうまく読者をだましてくれよ。



政治を扱った小説ということで政治家に対する諷刺も効かせてるんだけど、その諷刺もやたらとお行儀がよい。
 自分の口から出てくる言葉のたどたどしさに、翔はあきれた。落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせる。「なんつーか、我が国はいま、アメリカ発の金融、えーと、金融キキンによる、あー、ミゾユーの危機にジカメンいたしており、景気は著しくその、テイマイしておるところでございます」
 場内がざわつき始めたが、翔にはその理由がわからなかった。
麻生太郎元総理がぜんぜん漢字を読めなかったことをなぞっているんだろうけど、こんなのは当時さんざんイジられていたことだから、ぜんぜん毒っけがない。

「ほら政治諷刺をしてみましたよ。こういうの書いたらみなさんおもしろがるでしょ」
という小手先テクニックって感じなんだよね。笑えねえよ。ザ・ニュースペーパーかよ。
やるなら政党から怒られるぐらいやってよ。

皮肉もメッセージもエピソードも、ぜんぶどこかで聞いたことのあるような平べったい内容で、なんでこんなワイドショーの薄口コメントみたいな小説を読まなきゃいけないんだとだんだん嫌になってきた。

池井戸潤氏の『空飛ぶタイヤ』は自分の経験を活かした熱いメッセージが胸に響く小説だったのに、『民王』はぜんぜんだった。

あ、言っておくけどつまんなかったわけじゃないよ。おもしろかったよ、そこそこ。
そこがまたイヤなんだよね。安定感がありすぎて。少しもドキドキしない。

おもしろくなくてもいいからこれを書くんだ! みたいな文章がひとつもなかった。
朝の連続ドラマ小説のような平和きわまりない小説だった。

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2018年11月12日月曜日

【読書感想文】アヘンの甘美な誘惑 / 高野 秀行『アヘン王国潜入記』


『アヘン王国潜入記』

高野 秀行

内容(e-honより)
ミャンマー北部、反政府ゲリラの支配区・ワ州。1995年、アヘンを持つ者が力を握る無法地帯ともいわれるその地に単身7カ月、播種から収穫までケシ栽培に従事した著者が見た麻薬生産。それは農業なのか犯罪なのか。小さな村の暖かい人間模様、経済、教育。実際のアヘン中毒とはどういうことか。「そこまでやるか」と常に読者を驚かせてきた著者の伝説のルポルタージュ、待望の文庫化。

稀代の冒険ルポライター高野秀行さんの出世作。

高野さんの本は何冊も読んでいるが、その上で『アヘン王国潜入記』を読むと、文章が若い。肩に力が入っているというか。
誰もやったことのないことをやったるでえ、という気負いのようなものが感じられる。
決死のルポルタージュって感じよね。個人的には近年の「肩ひじ張らずに誰もやったことのないことをやっちゃう」感じのほうが好き。



東南アジアに、ゴールデン・トライアングルという世界最大の麻薬密売地帯がある。
その中でも特にアヘンの栽培量の多いワ州に高野さんが潜入して、村人の生活を観察したルポルタージュ……というとずいぶんものものした感じだが、描かれているのはいたってのんびりした生活だ。

そもそもアヘンの栽培が現地では非合法ではないので、殺伐とした雰囲気はない。村人はアヘンの種をまき、間引きをし、草刈りをし、アヘンが実ってきたら収穫をする。ただの農業だ。
ワ州というところは、国家でいうと一応ビルマに属しているが、そこに住んでいるのはワ族という少数民族であり、言語もワ語という独特の言葉を使うので、ほとんど独立国家である。
村人は基本的にアヘンはやらない(一部やる人もいる)し、村人間で現金のやりとりをほとんどしないので、村の生活はいたってのどかなものだ。
(とはいえワ族は少し前まで首狩り族として付近一帯に知られていたらしい)



本の後半には、高野さんがアヘンを吸うシーンも出てくる。
そりゃあね。
「アヘン王国に行ってきました。アヘンを栽培してきました。でも吸ってません」ではルポにならないよね。
やっぱりいちばん知りたいのは「アヘンを吸うのってどんな気分?」ってとこだもんね。

たぶん高野さんがいちばん伝えたかったのはそこじゃないんだろうけど、読者が知りたいのはそこなんだよなあ(このギャップに対する歯がゆさがあとがきなどからびんびん感じられる)。
 私の番になった。ランプの灯にアヘンをあてながら、ゆっくりと長く吸い込む。私の吸気でゆらめく薄い炎、ジジジッというアヘンが身を焦がす音、たなびく天上の香り、そして肺ではなく腹の底に降りていくようなモワッと柔らかい煙。
 アイ・スンと交互に何回吸っただろう。時間にして一時間以上たっていた。アヘンはなくなり、アイ・スンは「そのまま静かに寝ていろ」と言って寝床を出た。言われるまでもなく、私はもう夢うつつであった。しかし、このアヘンの効き目のすごさといったら! 頭蓋骨痛も、胃の不快感も、下痢も、節々のだるさも瞬時に消えてなくなった。身体は毛細血管の隅々まで暖かい血流がめぐり、全身がふわふわと浮き上がるような感じだ。眠りに引き込まれるときのあの心地よい瞬間が持続しているのを想像してもらえば、いくらかわかるかもしれない。
まずい、これを読んでると吸いたくなる……。
めちゃくちゃ甘美な気分なんだろうなあ。だからこそ多くの人が中毒になるし、それがきっかけで戦争まで起こっちゃうんだろう。

アヘンは麻薬ヘロインにもなるが、医療用のモルヒネにもなる(ちなみにヘロインも元々は薬として売りだされたそうだ)。
壮絶なガンの痛みを抑えるのに使われるぐらいだから、ちょっとした疲れなんかはたちまちふっとんでしまうんだろう。

一生に一度ぐらいはやってみたいなあ、すごくしんどいときに使う分にはいいんじゃないかな、要は風邪薬で熱やだるさを抑えるのと同じだろう。
……なんて思いながら読んでいたんだけど、高野さんがだんだんはまっていく姿を読むにつれて「やっぱりアヘンこえぇ」とおそろしくなってきた。

べつの本で高野秀行さんが「ルポのためにもぐりこんだはずがアヘン中毒になりかけたことがある」と書いていたが、中毒になりかけたなんてもんじゃない、完全に中毒者だ。
なにしろ毎日のようにアヘンを吸って、吸引をやめたら動けなくなり、アヘンを育てている村人たちから「おまえもうアヘンはやめとけ」と止められるぐらいなのだ。
よく無事に帰ってこられたものだと思う。

アヘンダメ、ぜったい。
とはいうもののやっぱりちょっとは気になる。
末期ガンになったらモルヒネ打ってもらおうっと。



ワ人の男は、あまり死をおそれないそうだ。
 ワ人はふだんはけっして勇ましくもないし、気性も激しくない。どちらかといえば温和で、ひじょうに礼儀正しい。そして、何より従順だ。こういう人たちが戦争になると、死を恐れず敵に向かって突っ込んでいくのだ。
 しかし、この夜、「どうして怖くないの?」と重ねて聞いたときのアイ・スンの答には、ほんとうに驚いた。「おれが死んでもアイ・レー(長男)がいる。アイ・レーが死んでもニー・カー(次男)がいる。二ー・カーが死んでもサム・シャン(三男)がいる。サム・シャンが死んでもアイ・ルン(四男)がいる」
 こう平然と言ってのけたのだ。ふつうなら「おれが死んでも子どもたちがいる」くらいで止まるだろう。仮にも「長男が死んだら」などと口には出さないものだろう。それを息子三人までは死んでもかまわないと明言するのだ。ひどいことを言うものだと思った。末っ子のアイ・ルンは彼が毎朝あやしている赤ん坊でまだ生後三カ月である。それさえ生き残ればいいと言うのだ。

この死生観は、現代日本人からするとなかなか理解できない(戦時中の日本人には理解できるのかもしれない)。
いやいや自分が死んだらそれでおしまいじゃないか。いちばん大事なのは自分の命でしょ、と。
子どもを守るなら命を落としてもかまわない、であれば理解できる。ぼくも究極の選択をせまられたら命を捨ててでも子どもの命を守るほうを選ぶかもしれない。
でも「子どもを守るためなら死ねる」と「子どもがいるから戦争で死ぬのが怖くない」はぜんぜんちがう。なによりやっぱり死ぬのはこわい。


でも、もしかしたら生物としては「死ぬのがこわい」のほうが異常で、「自分が死んでも子どもがいる」のほうがずっと自然なことなのかもしれない。
ミツバチやアリはこういう行動をとる。同じ遺伝子を持ったきょうだいのためなら命を投げだすことをいとわない。
生物なんてしょせん遺伝子の乗り物。遺伝子的に見れば各個体の命なんてものはたいして価値がない。
ミツバチやアリにかぎらず、人類の歴史においても「子孫やきょうだいが生き残ればそれでいい」のほうがふつうだったのかも。そうじゃなきゃ戦争なんてできないし。
長いスパンで見れば、「死んだらすべておしまい」のほうが例外的な価値観なのかもしれない。

この本には、ワ州の村の風習である「その家の男が死んだら家をつぶしてしまう」という行動が描写されている。
「まだ女が住んでいるのにずいぶん乱暴な話だ」とびっくりした。

でも、これもよく考えたら自然なことかも。
女だけでは子孫を残すことができないのだからいつまでも古い家で思い出にひたっていてもしかたがない。
それなら家は壊して建材は他で使い、残された女はさっさと他の家に嫁いだほうが(遺伝子を残すという点では)いい。

原始的な生活を送っているワ州のほうが、文明国の人間よりも「遺伝子を次の世代に受けつぐ」という観点では合理的な行動をとっているのかもなあ。


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自分の人生の主役じゃなくなるということ




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2018年11月11日日曜日

去年の流行りの服


オシャレには疎い人間だが、それでもたまには「今年は〇〇が流行っているらしい」という情報を耳にする。

そうすると「今年は〇〇が流行っているのか。じゃあ〇〇を買うのはやめとこう」と思う。

ぼくがあまのじゃくだから、ってのもあるけど、それだけではない。
流行は、ちょっと古くなるといちばんダサくなるからだ。

流行りじゃない服を着るのはぜんぜん平気。
でも「あの人、去年流行った服を着てるわ」と思われるのはめちゃくちゃ恥ずかしい。


と考えると、流行の服は「いちばんダサい服一歩手前の服」だ。
みんなようそんなの買うわ。

肉は腐りかけがいちばんうまい、ってのと似てるね。

2018年11月9日金曜日

みんな小さな機械を見ている


電車に乗っている。ふと文庫本から顔を上げてあたりを見まわす。
スマホを見ている青年、スマホを見ている女性、スマホを見ているおじさん、スマホを見ている子ども。


毎日見慣れた光景のはずが、急に世界がぐらつく。あれ、なんだこれ。

ぼくは二十年前からタイムスリップしてきた人。

なんだこれは。
みんな小さな機械を見ているぞ。ははあ、あれは小型テレビなのかな。いや、何やら操作をしている。テレビ付きウォークマンか。それともゲームボーイの進化版か。
さすがは二十年後の未来。みんな小型端末で娯楽に興じているようだ。

だがどうも様子が変だ。
ちっとも楽しそうじゃない。
みんな険しい顔をしている。あの画面に映っているのはゲームの画面のように見えるが、それにしてはつまらなさそうだ。
表情がちっとも変わらないし、「よっしゃ!」とか「くそっ」とか言ったりしない。無言・無表情でひたすら指だけを動かしている。いやいややらされているようにすら見える。

あれは娯楽じゃないのか。仕事なのか。
ワープロやFAXや電卓があの機械の中に入っているのか。
いや仕事にしたってもうちょっと感情の動きがあるだろう。どの人もただただ"無"の顔で画面をにらんでいるぞ。

もう手遅れなのかもしれない。
すでに彼らは大いなる存在に操られているのではないだろうか。
ビッグ・ブラザーの意向によって画面を凝視させられている。目を離すと不穏分子として当局から目を付けられる。だから歩いている間もあの小さな画面から目を離さない。

ここは感情を表に出してはいけない世界なのか。
その掟を破ったらどうなるんだ。
まるで地獄だ。こわい。こわい。
えっ。
なんですかあなたたちは。感情を顔に出していた? ぼくが?
待ってやめてやめてその手を離して。
ちょっと誰か! 誰か助けて! 連れていかれそうなんです!
誰か助けて、その画面を見てないで顔を上げてこっちを見て!

2018年11月8日木曜日

未来のUFO


ぼくたちが見ている星の光は、何万年も前の光なんだそうだ。

だったら逆に、未来の光を見ることもあるんじゃないだろうか。
ぼくらは時間の流れを半直線のようなものと考えているけど、じつは輪のようなもので、ループしている。ずっと未来はずっと過去につながっている。
そして、なにかの拍子にずっと昔、すなわち未来の映像をちらっと目にすることもあるかもしれない。

ここは1968年。
今から50年前。アメリカの牧場主がふっと空を見あげたら、2018年のドローンが飛んでいるのが見える。
なんだありゃ。明らかに人工物だが、あんなものが空を飛べるわけがない。飛行機やヘリコプターよりずっと小さいし、自由自在に飛びまわっている。
地球のもんじゃねえ。まちがいねえ、ありゃ宇宙船だ。

目撃したのは牧場主だけじゃない。何人もの目撃情報が集まる。
保安官がやってくる、州警察がやってくる、ついには軍までやってくる。
牧場のほかに何もない町はたちまちUFOの町としてアメリカ中、世界中に知られるようになる。

そして50年後。
今でもときおりこの町には世界中のUFOフリークがやってくる。
はたしてUFOはどこからやってきたのか。なぜここにやってきたのか。どうやって姿を消したのか。
現場検証のため、UFO研究者はカメラを搭載したドローンを飛ばす。