2018年11月7日水曜日

まゆ毛っていらないよな


こないだテレビで、美容整形手術で乳首をとる男性がいるという話をやっていた。
不要なものだからとりたい、という人がそこそこいるらしい。

気持ちはわからなくもない。
乳首をとりたいと思ったことはないが、同じような気持ちを抱いたことはある。

小学校一年生ぐらいのとき、ふと「まゆ毛っていらないよな」と思った。
なんでこんなものがあるんだろうと思った。鏡で自分のまゆ毛を見てみる。
なんだこれ。中途半端なところに生えている。髪の毛はまだわかる。人間にとって大切な頭部を守るのだろう。しかしまゆ毛があるのは眼とひたいの間。ぜんぜん大事じゃない。
生えてる場所も半端なら、長さも半端。うっすらと生えているだけで生命力を感じない。
つくづく不要なものに思える。

引っぱって抜いてみた。ぜんぜん痛くない。髪の毛を抜くと痛いのに、まゆ毛はちっとも痛くない。やっぱりいらないものなんだ。ほんとに必要なものだったら抜くときに痛みを感じるはずだもの。
途中で母親から止められたおかげで全部抜くことはなかったが、当時の写真を見るとまゆ毛が薄くて人相が悪い。



中学三年生のとき、ふいに自分の下くちびるが気持ち悪くなった。
なんだこのぼってりしたやつ。こんなにぶあつい必要あるか? ものを食べるために使うには、この半分でも十分だろ。
当時は思春期まっさかり。この気持ち悪い下くちびるで人前に出ることが急に恥ずかしくなった。
幸い下くちびるは、口の中に隠すことができる。下くちびるをぐっと口の中に押しこみ、上くちびるでふたをする。
鏡を見てみる。こっちのほうがずっといい。きりっとして見える。下くちびるはだらしない印象を与えるようだ。

ちょうどその頃、卒業アルバムをつくるために写真屋さんが学校に来ていた。ひとりずつ座って写真を撮る。
ぼくは下くちびるをしっかりと口の中に隠す。
写真屋さんは云った。「口をぎゅっとしないで、ふつうにして」
ちがうんです、これがぼくのふつうなんです。下くちびるを全部見せているのはだらしなくしているときだけで、下くちびるを隠しているこの状態こそが本来のぼくの顔なんです。心の中で弁解する。

ぼくはほんの少しだけ下くちびるを外に出す。
写真屋のおじさんは云う。「そうじゃなくて、もっと自然にして」
かなりいらいらした口調だ。この後何十枚も撮らないといけないのだ。
ぼくは下くちびるを隠しつづけた。やがて写真屋のおじさんは諦めて「この写真が残るけどいいねんな?」と確認して、シャッターを切った。

卒業アルバムに写ったぼくの顔は、ぎゅっと下くちびるを噛んで、まるで悔しさを押し殺しているように見える。じっさいぼくは悔しかったのだ。不必要にぶあつい下くちびるが自分の口についていることが。



あれから数十年。
今ぼくはまゆ毛をじゃまに思うことはないし、自分の下くちびるを無駄にぶあついと思うこともない。ごくごくふつうのまゆ毛、ふつうの下くちびるだと思う。
血迷ってカッターナイフで下くちびるを切りとったりしなくて本当によかった。

美容整形手術で乳首をとってしまった男性は、数年後に後悔したりしないのだろうか。
それともやはり切除してよかったと思っているのだろうか。
もしくは、乳首をとってすっきりしたことで、またべつのものを不要に思うのかもしれない。
このへそ、何の役にも立ってないなとか。なんでこんなところにくるぶしみたいなでっぱりがあるんだろうとか。鼻なんて穴だけあればいいじゃないかとか。背中を使うことないなとか。

2018年11月6日火曜日

瀬戸内寂聴の予約キャンセル


予約って怖いよね。

予約できる人ってすごいよね。ぼくが美容院に行かない理由もそれ。予約しないといけないから。

だって予約するってことはキャンセルしたり遅刻したりできないってことじゃない。

ずっと気にしてなきゃいけないんだよ。
一週間も前からああ今度の土曜日美容院だ、他の予定入れたらだめだ、体調万全にしとかなきゃ、髪に良さそうなものを食べよう、明日は美容院だから髪をしっかりかわかしてから寝よう、少なくとも三時間前には起きとかなきゃ、あと一時間三十分だ、今家を出たら早く着きすぎるからあと十五分したら出よう、でもやっぱり早く着きすぎたあんまり早く入店しても迷惑かな。

ずっと美容院のために脳のリソースを使わなきゃいけない。だったら予約なしで床屋に行って一時間待たされるほうがいい。

飲食店やホテルには、予約をしたのに来ない客がけっこういると聞く。
予約を忘れたのか、それとも覚えていたのにキャンセルが面倒で放置したのか。
いずれにせよ、そういうことができる豪胆な神経がちょっとうらやましい。周囲は苦労するだろうが、本人はいたって幸せに生きていけるように思う。


キリストやブッダやマザーテレサや瀬戸内寂聴のような「心の広い人」は予約キャンセルの連絡を入れない。たぶん。

よいではありませんか。行けなくなったのはめぐりあわせがよくなかった、ただそれだけのこと。わたしの予約は別の誰かのもとへ行く。そしてまた誰かの予約がわたしのもとにやってくる。すべての予約はつながっているのです。
あなたが過ごしている時間はあなたひとりのものではないんです。世界中の人、あらゆる生物と共有しているのです。それを独占しようだなんて考えはやめましょう。

「ご予約のお時間ですがいらっしゃらないので確認のお電話をさせていただきました」と言われた瀬戸内寂聴さんはきっとこう言う。

「いやじっさいお店に迷惑かけてるのにそんなふうに開きなおって大丈夫なの」
とヒヤヒヤしているのは、隣で聞いているぼくだけだ。

2018年11月5日月曜日

おれがでかいからだ


おれはスーパーヒーロー。
この世にはびこる悪を倒す。

おれは強い。
悪人はおれの姿を見ただけで震えあがる。

おれはでかい。
とにかくでかい。めちゃくちゃでかい。

しかしおれは不人気だ。
スーパーヒーローなのに。





でかいのがいけないらしい。
おれの身長は5メートル。成人男性3人分ぐらいだ。

おれの体重は3トン。成人男性45人分ぐらいだ。
なんでそんなに重いんだと思ったやつは算数をわかってない。
体重はタテ×ヨコ×高さで決まるから身長の3乗に比例するのだ。
ただしこれは同じ体形の場合の話で、当然ながらおれは君たち一般人と同じ体形ではない。
考えてもみてほしい。身長が3倍だったら、単純に考えて体重は3×3×3で27倍。しかし足の裏の表面積は身長の2乗に比例するから3×3で9倍。9倍の足の裏で27倍の体重を支えられるわけがない。したがっておれの足の裏は君たちを3倍にしたよりもずっと広い。
でかくなればそれだけ骨や筋肉は強度を増さないといけないし、大きくなった骨や筋肉はそれ自体がかなりの重みを持つからより支えるためにいっそうの力を要する。
そんなわけでおれは、君たちの目にはめちゃくちゃ太く見える。でもそれはおれがデブだからじゃない。でかくなるためには太くなくてはならないのだ。

子どもがおれを見て言う。「うわっ、すっげーデブ」
おれはスーパーヒーローだからそういうのを許さない。子どもがまちがったことを言ったら注意して訂正するのが大人の義務だ。
子どもをつかまえて、おれはデブじゃない、体重は身長の3乗に比例するから……という話をする。子どもはたいてい怖がって泣きだす。だがおれはやめない。ここでやめたら本人のためにならない。
当然ながら手を上げたり、きつい言葉をかけたりはしない。あくまで冷静な口調で怒っていることを伝える。
それでも親が「やめてください!」と言いに来るし、ときには警察を呼ばれたりもする。
おれがでかいからだ。



おれは人気がない。
ひったくり犯を捕まえたことがある。おれはずいぶん手加減をしたつもりだったが、相手は複雑骨折で全治六ヶ月の怪我を折った。
野次馬から「何もそこまで」という声が上がった。
警察官からも「私どもに任せていただければ大丈夫ですので。ケガとかあってもたいへんですし」と遠回しに嫌味を言われた。
ふつうだったら表彰状でももらえるところだが、おれにはなかった。がんばったと思われていないのだ。一生懸命走って原付を追いかけたのに。
おれがでかいからだ。

スーパーで、おっさんが店員の若い女性にからんでいた。自分がポイントカードを忘れたのが悪いのに、なぜポイントをつけないんだと詰め寄っている。弱い者相手には強気になる卑怯なおっさんだ。
おれが入っていって「あんたが悪いんだろ」とおっさんを一喝した。
おっさんだけでなく店員もおびえていた。べつの店員が走ってきて「すみません、他のお客様もいらっしゃいますので……」と言った。おっさんではなく、おれに。
おれがでかいからだ。



おれはただでかいだけじゃない。
きみたちと同じくらい俊敏に動ける。きみたちはふつうに動いているようにしか見えないかもしれないけど、これはすごいことなんだ。
ゾウは動きがのろいだろう。逆にネズミはすばしっこい。
身体がでかいとそれだけ動かすのに力がいる。だから素早くは動けない。なのにおれはきみたちと同じくらい機敏に動ける。これはおれがめちゃくちゃがんばっているからだ。
おれが君たちと同じサイズになったとしても、きっとオリンピックでメダルを総なめにしているだろう。

だがおれはオリンピックには出られない。いや、規定があるわけじゃない。「身長3メートル以上は出場を禁ずる」というルールはない。
でも世間的にというか世の中の空気的に、おれはオリンピックには出られない。おれが出場したら「そんなにでかいのに出んのかよ」という空気になる。おれがレスリングの無差別級に出場したら、ぜったいにみんな小さいほうを応援する。おれが優勝しても「そんなにでかいんだから勝つに決まってるじゃんかよ」という目で見られる。正々堂々と力を尽くしても卑怯者みたいな目で見られる。
出場したことないけど、おれにはわかる。無差別級は無差別じゃない。

おれはそういう空気には敏感なのだ。
これもすごいことだ。
世の中には、自分と同サイズの人たちの気持ちを察することができない人がいっぱいいる。おれなんか自分よりずっと小さい人たちの気持ちを読まないといけないのだ。大きな文字より小さい文字を読むほうがむずかしいように、大きい空気を読むより小さい空気を読むほうがずっとむずかしいのだ。それをやっているおれのことをもっと賞賛してほしい。



おれは活躍のわりに人気がない。
それはおれがでかいからだ。

SNSで言われているみたいに、理屈っぽいからとか、自尊心が強すぎるからとか、身体はでかいのに心はせまいからだとかでは断じてない。


2018年11月2日金曜日

【読書感想文】おかあさんは爆発だ / 末井 昭『素敵なダイナマイトスキャンダル』


『素敵なダイナマイトスキャンダル』

末井 昭

内容(e-honより)
実母のダイナマイト心中を体験した末井少年が、町工場への集団就職ののち上京、キャバレーの看板描き、イラストレーターを経て、伝説のエロ本編集長として活躍するまでの、波乱にとんだ身辺記。登場するおかしな人物たちへのフェアかつ鋭く、しかし暖かな観察眼と、力の抜け切った語り口が描く山盛りの仰天エピソードで、多くの読者を魅了した幻の名著。

1982年に刊行された本だが、なぜか近年になってちくま文庫で復刊。2018年3月には映画化もされた。
エロ雑誌やパチンコ雑誌の編集者を経験し、今は高年者バンド"ペーソス"のテナーサックス担当でもある末井昭氏の半生記。

前半はすごくおもしろい。
特に冒頭でおかあさんが爆死するエピソードはおもしろい。おもしろがっちゃ悪いけど、しかし本人が悲壮感を出してないんだから気の毒がるのも違うような気もする。おもしろがっとこう。

いやしかし「おかあさんが若い男とダイナマイト心中した」って強烈だなあ。この本の中でダイナマイト心中に触れているのは全体の2パーセントぐらいしかないけど、強烈なインパクトがある。
ぼくの知人にも母親を自殺で亡くした人がいるけど、とても他人が触れられる話題ではない。親が子より先に死ぬのは自然の摂理だからしかたないとしても、自殺ってのはやはり「止められたのでは」とか「置いていかれた」とか思ってしまうからなかなか割り切れるものではないだろう(置いていかれるのもイヤだが道連れにされるのはもっとイヤだけどね)。

しかし、ダイナマイトという字面がそういう重苦しさをボカンと吹きとばしてしまう。ダイナマイトだけに。
末井さんが育ったのは鉱山の町だったので、わりと手軽にダイナマイトが手に入ったそうだ。日常的にダイナマイトがあれば、自殺のときにそれを使うのもわかる。かんたんだし、確実に死ねるし、苦しくなさそうだし。
しかし大半の現代人にとってはダイナマイトって漫画にしか出てこないものだから(シリアスな小説や映画にだってめったに出てこない)、「ダイナマイトで爆死」ってなんか冗談みたいな響きがあるんだよね。「1トンハンマーでぶんなぐって月までぶっとばす」みたいな非現実感。

道徳的にはおもしろがっちゃいかんのかもしれないけど、「芸術は爆発だったりすることもあるのだが、僕の場合、お母さんが爆発だった」なんて書かれたら笑うしかない。



末井さんの書くものは、生い立ちのせいか、何をしていてもどこか醒めている。
たいへん、つらい、わくわくする、といった感情が伝わってこない。どんな境遇に置かれていても、今いる場所を楽しむ方法を知っている。
どこか悟りを開いたような文体だ。

戦地で死線をくぐった水木しげるさんや、やはり幼いころにおかあさんと生き別れた爪切男さんの書く文章にも似ている。
なにかしら共通するところがあるのかもしれない。

 最初、なんでもいいから描きたいものを描いていいということでスタートした雑誌の仕事だったのだが、なんでもいいと言われると逆にすごく困っていた。あれほど自分の中に表現したいものがあると思っていたのに、それがうまく具体化できないのだ。そのことにイライラして、アパートや喫茶店で考え込んでしまっていた。
 でも、それだけ考え込んで描いたものを持って行っても、編集者は「こんなもんでいいんじゃない」という感じで見ている。僕は、なんだかむなしい気持になっていた。そして、表現したいものやオリジナリティなんて本当はなくて、自分を表現したいという欲求があるだけなのだ、ということがおぼろげながら分ってきた。
こんな短い文章だけど、ここに若者の十年分の苦悩がぎゅっと凝縮されている。

すごくわかる。ぼくも若いころは「なにか表現したい」という気持ちを抱えて生きていた。今でも完全になくなったわけではないけど。

でもその「なにか」はなんでもないのだ。ほんとに表現したいものなんてない。
「自分でもわからないけどぼくのいいところを誰か見つけてよ」とずっと叫んでいるだけ。
当然ながら世の中の人はそんなにひまじゃない。ぼくに興味なんてない。

そういうことがわかって、「表現したいのなら表現しなくてはならない」というあたりまえのことにようやく気付いた。それだけのことに気づくのにどれだけの時間かかってるんだ。

そしてこうして誰が見ているのかもわからないブログを書いて心の平穏を保っている。
「すごいものを表現したい」という気持ちを抱えているよりも「たいしたことないものだけど表現している」のほうがずっと健全だと思う。



エロ雑誌編集者が語る、エロ本のテクニックについて。
 エロ本のテクニックは、いかにうまく予告篇を作るかなのであって、ガバッは反則なのだ。このウラ本と呼ばれているガバッには、精神的余裕というものがまったくありません。むかしのエロ本の自信と寛容さなんて、あるわけがありません。あるのはお金と、警察にビクビクする目だけです。
 でも、ガバッが出てきたというのも、時代のせいなのだろう。女の人は穴ボコの中に”愛”なんてあるわけないと、最初っから知っているのです。だって、自分たちの持物なのですから。それが人の持物であっても、男の股間に”愛”が二つぶら下がっているワ、とは思いません。女の人向けのエロ本が絶対作れないのはこのためです。
そうそう、そうなんだよね。
ぼくも人並みにエロには興味を持っているけど、あれは性器そのものに昂奮しているわけじゃないんだよね。
「本来見えてはいけないものを自分だけが見ている」とか「見られて恥ずかしがっている相手のしぐさ」とかに昂奮しているわけで、だから「ほら見ていいよ」とばーんと出されてしまったら、そこにエロスはないわけ。一応見るけど。

十八歳のときに、留学していた友人がカナダで買ってきた無修正のエロ本をはじめて見た(なにしに留学しとんねん)。
すごくドキドキしながら見たんだけど、ああこんなもんか、という感じで期待していたほどの悦びはなかったのをおぼえている。
やっぱりアレは布ごしに想像するもので、まじまじと眺めるもんじゃないね。

能の世阿弥が「秘すれば花なり」という言葉を残しているけど、これって女性器について語った言葉だよね?

【関連記事】

ペーソスライブ@西成区・萩之茶屋

【読書感想】爪切男『死にたい夜にかぎって』



 その他の読書感想文はこちら


2018年11月1日木曜日

【読書感想文】からっぽであるがゆえの凄み / 橋下 徹『政権奪取論 強い野党の作り方』


『政権奪取論 強い野党の作り方』

橋下 徹

内容(e-honより)
有権者の望みを「マーケティング」して政策を磨き、地方から「変えられる」実力を示して信頼を勝ち取り、意見は多様でも最後はきちんと「決める」強固な組織をつくる。そうしておかなければ、与党が何をしても「風」すら吹かない。強い野党をどうすれば作ることができるか―。8年間の生きた政治経験をフルにつぎ込んで語ろう。野党の弱さが今の政治の根本問題。日本を刷新するガチンコ戦略と戦術!

は、橋下徹氏が朝日新聞出版から本を出している……!
かつてあんなこと(Wikipedia「週刊朝日による橋下徹特集記事問題」)があったのに……!

和解金を払ってもらったとはいえ、あんな程度の低い中傷記事を書かれた出版社で仕事をするなんて、意外と橋下氏も大人なんだなあ。一生根に持つタイプかと思ってた(ぼくなら根に持つ)。見直した。

すごくおもしろい本だった。
ぼく自身は前大阪市長である橋下徹氏の考え方とはあわない点が多いのだけれど(大阪都構想を問う住民投票の際も大阪市民として反対票を投じた)、それはさておいてこの本はおもしろかった。

納得できる点も多い。反対に「ここはまったく賛成できないな」という点も多い。良くも悪くも論旨が明快なのだ。
学者にはこういう文章は書けないだろうなあ。弁護士という実業の世界に身を置いていたからかもしれない。
そういや去年、橋下氏の講演を聴く機会があったのだが、その講演も歯に衣着せぬ物言いですごくおもしろかった。
しゃべりがおもしろいから政治家にしておくには惜しいよね。良くも悪くも。
自分でも政治家には向いていないことがわかってたから辞めたんだろう。

橋下さんに対しては、大人なんだからもうちょっとうまくやりなよ、と思うところも多い。
とはいえその子どもっぽい純粋さこそが、この人の魅力なんだろうな。



橋下徹氏は「他人に厳しく自分にも厳しい人」だとぼくは見ている。
(そして彼が抜けた後の大阪維新の会には「他人への厳しさ」だけが残り「自分への厳しさ」は捨ててしまったように見える。)

そんな橋下氏の「厳しさ」が、日本維新の会を含めた野党の立ち居振る舞いに向けられたのが『政権奪取論 強い野党の作り方』だ。

今、国政において野党はめちゃくちゃ弱い。誰が見ても弱い。
自民党はダメダメだが野党はもっとダメ。多くの人がそう思っている。

野党は反対ばかりというイメージを持たれている(じつはそれは誤りで、野党も大半の法案には賛成しているのだが、誰も反対しない法案はニュースにならないので報道されないだけなのだが)。

自民党に好印象を持っていないぼくですら、総選挙での野党の分裂っぷりなどを見ていると「こいつら本気で政権とりにいってないだろ」と思う。
いや、じっさいそういう議員も多いでしょ。ずっと野党議員でいたほうが楽だもん。人のやることに文句言っとけば議員として高い給料もらえるんだから。

野党は応援しているが、政権交代までは望んでいない。そういう人も多いだろう。ぼくも今の野党を見ているとそう思うし、何より当の野党議員自身がそう思ってんじゃないのかね。


ということで、橋下氏は野党のやりかたを鋭く批判している。今の政治が悪いのは野党のせいだ。野党が不甲斐ないから自民党がめちゃくちゃをやるんだ、と。

言いたいことはわかるが、でもいくらなんでもそれは無茶でしょ。

野党が強ければ与党である自民・公明も襟を正すはず、だから野党が弱いのが問題だ。
というのは「女性がみんな格闘術を習得すれば痴漢をしようとする人も思いとどまるはず。痴漢がなくならないのは女性が弱いのが問題だ」みたいな話じゃないか?

どう考えたって自ら襟を正さないやつが悪いでしょ。



橋下氏の主張を読んでいると、民主主義、多数決を信用しすぎじゃないかと思う。
 国を誤らせないように、一生懸命考え抜いてこれだと方向性を示すのが政治家の仕事。しかし、最後の判断は、国民に委ねる。もし間違った判断があっても、その責任は国民に平等に分担される。また、時の権力者が暴走する気配があれば、内戦で国民の血を膨大に流すことをしなくても、次の選挙で国民がその首を落として、権力者をすげ替えることだってできる。
 そのようにして国民の選択が国を作り、動かしていくのが、日本のような成熟した民主国家における政治のあり方だろう。
「やってみてだめなら変えればいいじゃん」ってのは、民間企業や地方自治体であればそうかもしれない。
でも国会は法律をつくる権限を持っているから、その「次の選挙で国民がその首を落として、権力者をすげ替えることだってできる」という制度そのものを壊されちゃう可能性もあるわけだし。
じっさい、公正な選挙制度をぶっこわした政権なんて世界中にいくらでもあるし、自民党だって自党に都合のいいように選挙区制度を改変したりしているわけだしね。

それに「その責任は国民に平等に分担される」ってのは明らかなウソだ。沖縄の基地や原発稼働の負担は誰が見たって等しく分担されていない。

「すべての都道府県で等しく米軍基地を受け入れるか、沖縄だけに集中させるか」と国民投票をやったら沖縄以外の賛成多数で「沖縄だけに負担集中派」が勝つかもしれない。
でもそれは正しい民主主義とは呼べない。

だから「間違った判断をしたら変えればいい」じゃなくて「間違った判断をさせない」が政治に求められるものだし、それをさせる仕組みが憲法なのだ。



前半は首をかしげるところも多かったが、後半の「強い野党の作り方」はなるほどと感心するところも多かった。
自ら政党を立ち上げて、成功と失敗を経験した人だけに説得力がある。
「たしかに橋下さんの言うとおりにしたら勝てそう」と思ってしまう。

「野党間で予備選挙をやって候補者を一本化せよ」なんて主張は、たしかにその通り。
これをやるだけで野党が勝つ選挙区は増えるだろうし、少なくとも「自民党の大勝」はなくなるだろう。

ま、それができないから野党が弱いんだけど。
 ここは特に野党が勘違いしやすいところで、日本の新しい道を示すだけで有権者の期待を集められると思っている。だから日本維新の会も、政党綱領や「維新八策」という政策集をまとめることに膨大なエネルギーを割き、そこで仕事を終えたような感じになってしまっている。
 それは完全に間違い。日本の新しい道を示すことはもちろん大事だが、勝負はそこから。政党としての意気込み、挑戦、実行力を示していかなければ、有権者の期待を集められず、政権などは永久に取れない。逆に有権者は、ある政党に意気込み、挑戦、実行力を感じると、今は大賛成の政策がなくても、少し気に入らない政策があったとしても、支持を継続してくれる。その政党に意気込み、挑戦、実行力があるかぎり、「次は私のことについても、やってくれるんじゃないか」「少々気に食わないが、それ以上に私のことを良くしてくれるんじゃないか」と期待感が高まるからだ。

さすがは自他ともに認めるポピュリスト。大衆の心理をよくわかっている。

そうだよなあ。地元選出の政治家が何やってるかなんてふつうの人は知らないもんなあ。
結局ぼくらは「なんかやってくれそう」「なんかいらんことしそう」「なんか気に食わない」ぐらいで票を入れている。

だから特に野党が勝てるかどうかは「何をするか」ではなく「どう見せるか」にかかっているんだろうね。



読んでいてそらおそろしくなったのが、この文章。
 インテリ層たちは政党とは「政策だ」「理念だ」「思想だ」と言うけれども、そうではなくて、極論を言えば各メンバーの意見をまとめる力を持つ「器」でありさえすればよい。野党としては、政権与党に緊張をもたらすためのもう一つの「器」であることが大事なのであって、器の中身つまり政策・理念・思想などは、各政党が一生懸命、国民の多様なニーズをすくい上げて詰めていくものだと思う。つまり政党で死命を決するほど重要なのは組織だ。はじめから政策・理念などを完全に整理する必要はない。
どうです、すごいでしょう。

ぼくが前々から橋下徹という人間に感じていた得体の知れなさの原因がわかった。
この人はからっぽなんだ。
橋下徹という人間自体がただの「器」なのだ。満たされることが目的であって、中身はお茶だろうがワインだろうがコーラだろうがなんでもいいのだ。

からっぽというと悪口のように思われるかもしれないが、これは橋下徹氏の長所だ。
彼が政治家として支持されたのはからっぽだったからだ。軸がないと言い換えてもいい。
これはすごい。誰にでもできることではない。ほんとにすごい。
いや、皮肉でなく本心から感心してるんだよ。

さすがは弁護士。
依頼人であれば悪人も弁護するのと同じで、要請さえあれば主義主張を捨てて支持される道を選ぶ。
ふつう「政党にとって政策・理念・思想は後回しでいい」なんて言えない。思わない。
この言葉にはからっぽであるがゆえの凄みを感じる。


橋下氏は自分自身の主張や理念というものがなく、市民の願望をすくいあげることが天才的にうまかった。
だから多くの府民や市民は彼を支持したし、彼もまたそれだけに応えた。
タレント弁護士として成功したのも、自分のポリシーを捨てて(というよりはじめからない)番組制作者や世間が求めるものを演じたからだろう。

そのからっぽさは「維新の会」という名前にもあらわれている。とにかく変革することが目的。重要なのは刷新することであって、その先にビジョンはない。
ふつう政党の名前には「自由」「民主」「平和」「社会」「共産」といった主義主張がこめられるが、「維新の会」にはいっさい主張がない(「みんなの党」「希望の党」もそうだね)。
無色透明なガラスのコップ。何を入れてもおかしくないが、それ自体には何の主張もない。


橋下徹氏はよくポピュリストだと言われる。彼自身、それを否定していないし、むしろポピュリストであることに誇りを持っている(この本にもそう書かれている)。

だから民衆の支持を集めることだけに全力を注ぐし、支持がなくなればどんな政策もあっさり捨てる。
あれだけ大阪都構想と言っていたのに、住民投票で否決されるとあっさり手放して政治からも身を引いてしまった。からっぽだからこその潔さだ。
小泉純一郎氏の「郵政民営化」や安倍晋三氏の「憲法改正」のような、悲願という感じがまったくない。



橋下氏の主張は正しい。勝つためには、自らをからっぽにして世間の声に身を任せるのがいい。
なりふりかまわず主義主張を捨て、ひたすら組織を強くすることをめざす。
そうすれば政権も見えてくるかもしれない。

だが、それっておもしろいの? と思う。
おもしろいんだろう。金儲けが趣味でお金を使うことに興味がない人がいるけど、それと同じだ。

ふつうは権力というのは手段だと考えるけど、それは凡人の発想なのだ。橋下氏にとっては権力は目的そのものなのだ。


でも「そこまでして政権をとりたいんだったら強い野党をめざすんじゃなくて自民党に入ればいいんじゃねえの?」と思ってしまうんだけど。

結局この「強い野党の作り方」って「自民党をもうひとつ作る方法」なんだよね。まあそれはそれで意味のあることだけど。

【関連記事】

【読書感想文】 橘 玲『朝日ぎらい』



 その他の読書感想文はこちら