2018年9月28日金曜日

【読書感想文】矢作 俊彦『あ・じゃ・ぱん!』


『あ・じゃ・ぱん!』

矢作 俊彦

内容(e-honより)
昭和天皇崩御の式典が行われている京都の街中で、偶然、テレビカメラに映し出された一人の伝説の老人。「この男からインタヴューを取ってもらいたい」と上司から指示された人物は、新潟の山奥で四十年もゲリラ活動を展開してきた独立農民党党首・田中角栄その人だった。しかし、私の眼は、老人の側に寄り添う美しい女にくぎ付けになっていた。その女こそ…。来日したCNN特派記者が体験する壮烈奇怪な「昭和」の残照。

戦後日本がドイツや朝鮮のようにソ連とアメリカによって東西に分割されていたら……という設定の小説。
西側は「大日本国」として超経済大国になり、東側は「日本人民民主主義共和国」という名の社会主義国家になっているという設定(ちなみに東側の軍隊の名前が「社会主義自衛隊」で、西側からは「日本赤軍」と呼ばれているというのが秀逸)。
じっさい、ポツダム宣言の受諾がもう少し遅れていたらソ連が本土上陸して東西に分けられていた可能性は十分にあった。

村上龍『五分後の世界』も同様の設定の小説だ。
ただし『五分後の世界』はまだ戦争が終わっておらず、日本人同士が殺しあっているシリアスな物語だが、『あ・じゃ・ぱん!』のほうでは争いはほぼ終結しており、東西を隔てる壁(名前は「千里の長城」)によって分割されているものの人々の行き来もそこそこある。
パロディや諷刺などがちりばめられ、物語の展開はおおむね平和的。
読んだ印象としては、東北の寒村が突然日本から独立宣言をするという井上ひさし『吉里吉里人』に近かった。『吉里吉里人』を読んだのはもう二十年以上も前なので細かくはおぼえてないけど。

ひたすら長い小説、という点でも『あ・じゃ・ぱん!』と『吉里吉里人』は似ている。長い割にストーリーがたいして進まないところも。



設定はすごく好きだったんだけど小説としてはひたすら苦痛だった。つまんないとかいう以前に頭に入ってこない……。
行動の目的もないし、次から次へと人物が出てきてはたいした印象を残さないまま消えてゆくし、まるでとりとめのない日記を読んでいるかのよう。

ぼくは本をよく読んでいるほうだと思うが、それでもこの小説はちっとも頭に入ってこなくて読むのがつらかった。よほどのことがないかぎりは最後まで読むことを自分に課しているから、早く終われ、と念じながら読んでいた。

ところどころはおもしろいんだけどさ。
大阪府警が商売に精を出していたり、奈良ディズニーランドがあったり田中角栄率いる新潟だけは東西どちらとも距離を置いていたり。

でも通して読むとやっぱり話についていけない。
すごく時代性の強い小説だからかもしれない。
この本の発表は1997年。天皇崩御の少し後の時代(1990年ぐらい)が舞台だ。

1980年代後半生まれのぼくは、田中角栄も天皇崩御もベルリンの壁もリアルタイムではほとんど知らない。本で読んだので何が起こったのかは知っている。けれどその当時の空気まではわからない。

パロディというのは、知識として持っているだけではおもしろさが伝わらない。
身体感覚として共有するぐらいでないとその味を感じられない。
『ドラゴンボール』を大人になってから一度読んだだけの人と、小学生のときにかめはめ波の修行をするぐらいどっぷり漬かっていた人とでは、ドラゴンボールパロディにふれたときの心の震えも異なるように。

たぶん発表当時はすごくおもしろかった小説だったんだろうとは思うが、発表から20年以上たった今あえて読むほどの小説ではなかったな。


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2018年9月27日木曜日

自分のちょっと下には厳しい


あくまで観測範囲の話でしかないけど……。

生活保護叩きなど貧困層に厳しい人は、貧困層のちょっと上~中流ぐらいの人に多くて、
大金持ちはむしろ最低賃金のアップやベーシックインカム導入など「貧困層に手厚い支援」を提唱している人が多い。

貧しい人が増えれば消費は鈍るし治安も悪化するし良いことなんてないのに、それでも貧困叩きをする人がいなくならないのは
「自分より下の階層がいてほしい」
という願望によるものだ。



ぼくが本屋で働いているとき、1日12時間労働、年間休日80日、年収200万円台というワーキングプアだった。
そんなとき、某有名芸人の家族が生活保護を不正受給しているというニュースを見て「なんてひどいやつだ! 許せん!」と思っていた。

でも、転職してもうちょっとだけマシな生活をできるようになった今、生活保護をもらっている人に対して寛容になった。
「まあそこそこの生活をできるようになるのはいいことじゃないかな」と思う。
不正受給は良くないけど、そっちを防ぐことよりも支援すべき人に支援の手を届けることのほうが優先事項だろう。多少の不正受給が紛れこむのはまあ仕方ないだろう、と。

月収16万円の人は、生活保護受給者が月15万円をもらっていたら許せないだろう。
でも月収50万円の人はいちいち目くじらを立てない。「まあ15万円ぐらいなら」と思うだろう。

月収1000万円の人なら「みんなに一律15万円配ってもいいんじゃない?」と思うかもしれない(稼いだことないから想像だけど)。
でも「月収800万円以下の人に200万円あげます」だったらやっぱり憤るだろう。
みんな、自分のちょっと下には厳しいのだ。



ぼくは勉強ができた。
中程度の公立高校で、校内トップクラスの成績だった。
これはすごく自信になった。
もし進学校に通っていたら学校内では下位だったかもしれない。そしたら勉強を嫌いになっていたかもしれない。

「鯛の尻尾より鰯の頭」とか「鶏口となるも牛後となるなかれ」なんてことわざがあるが、集団の中で上位にいることはすごく満足感を与えてくれる。


ぼくの旧友に経営者をやっていてそこそこ稼いでいる男がいるが、傍から見ていると「余裕がないなあ」と感じる。
休みなく働いていて、ひっきりなしに電話をかけていて、もっといいビジネスはないかと常にギラギラしている。
人よりずっと稼いでいるのに、まだまだ足りないという顔。
より稼いでいる経営者との付き合いが多いからじゃないかな。



幸せに暮らすコツは、近くを見ないことじゃないかな。

プロサッカー選手が〇〇億円の年俸をもらっているとか大企業の創業者が〇〇億円の資産を持っているとか聞いても、「ふーん、すごいね」と思うだけでべつに悔しくない。自分とあまりにかけ離れた世界の話だからだ。
でも会社の同僚が自分より多くの給料をもらっていたら悔しい。「なんであいつだけ」と思う。「なんでイニエスタだけ」とは思わないのに。

サウジアラビアの王族が贅の限りをつくしたとか中国の昔の皇帝がハーレムを築いていたとか聞いても「すごいなあ」と思うだけで悔しくはない。
でも隣の男が自分よりちょっとモテていたら悔しい。

すぐそばを見ない。遠くだけを見る。
灯台下暗いほうが幸せでいられそうだ。


2018年9月26日水曜日

【読書感想文】人の言葉を信じるな、行動を信じろ/セス・スティーヴンズ=ダヴィドウィッツ『誰もが嘘をついている』


『誰もが嘘をついている
~ビッグデータ分析が暴く人間のヤバい本性~』

セス・スティーヴンズ=ダヴィドウィッツ (著)
酒井 泰介 (訳)

内容(e-honより)
グーグルの元データサイエンティストが、膨大な検索データを分析して米国の隠れた人種差別を暴くのを皮切りに、世界の男女の性的な悩みや願望から、名門校入学の効果、景気と児童虐待の関係まで、豊富な事例で人間と社会の真の姿を明かしていく。ビッグデータとは何なのか、どこにあるのか、それで何ができるのかをわかりやすく解説する一方、データ分析にまつわる罠、乱用の危険や倫理的問題にも触れる。ビッグデータ分析による社会学を「本当の科学」にする一冊!

Googleのデータサイエンティストが、検索データやその他さまざまなビッグデータから人の行動を解き明かしていく。
社会学や心理学といえば、これまではフロイトのように「ほんまかいな。わからんと思ってテキトーに言ってるやろ」的な言説が幅を利かせていた分野だが、数多くのデータが手に入るようになったことで統計的な裏付けのある事実が次々に明らかになるようになった。
この本の中でも書かれているように、ビッグデータを扱えるようになったことで社会学は検証可能な「本当の科学」になるのだ。
意外な事実が数多く紹介されていて、すごくおもしろい。

ただサブタイトルがどうも安っぽいのだけがマイナス点。
『ヤバい経済学』もそうだけど、この手の翻訳書ってどうしてこういうダサいタイトルをつけちゃうのかなあ。



2016年の大統領選挙で、大方の評論家の予想を裏切ってドナルド・トランプがアメリカ大統領選挙に勝利した。
多くの人の予想がはずれたわけだが、Googleの検索結果にはトランプ勝利の兆候は表れていたという。
 2012年、私はこのグーグル検索を通じて得た人種差別地図を使って、オバマが黒人であったことの真の影響を検証した。データは明白に示していた。人種差別的検索の多い地域でのオバマの得票率は、彼の前の民主党大統領選候補者として立ったジョン・ケリーの得票率よりもはるかに低かった。当該地域におけるこの関係は、学歴、年齢、教会活動への参加、銃所有率など他のどんな要因でも説明できなかった。そして高い人種差別的検索率は、他のどの民主党大統領選候補の劣勢ぶりの説明にもならなかった。オバマだけに当てはまることだったのだ。
この傾向は2012年だけの話ではない。

「あなたは有色人種に対して差別意識を持っていますか?」という質問をすれば、ほとんどの人はノーという。
ところが、「人種差別意識を持っていない」と答えた人が、ひとりでパソコンモニターやスマートフォンを前にするときは「Nigger」といった人種差別的な言葉を打ちこむのだ。
トランプ氏が下馬評を覆して勝利したのは、表にはあらわれないが根深く残る人種差別意識も一員だったとGoogleの検索データは教えてくれる。



人はかんたんに嘘をつく。他人に対して見栄を張るのはもちろん、匿名アンケートや無記名投票でも嘘をつく。
 さらに人は時に自分自身に対しても噓をつくという奇妙な習性がある。「たとえば学生として、自分は落ちこぼれであるだなんて認めたくはないものです」
 これが多くの人が自分は平均以上であると考える理由なのかもしれない。その程度たるや甚だしい。ある会社では、技術者の40%が自分はトップ5%以内だと回答し、大学教授の90%が自分は平均以上の仕事をしていると考えている。高校3年生の4分の1は協調性でトップ1%に入ると考えている。自分さえ欺く人々が、どうして世論調査に正直になれるだろうか?
ぼくはマーケティングの仕事をしているが、「マーケティングリサーチなんて嘘っぱち」ということはよく知られている。
「〇〇という商品があったら買いますか?」とアンケートをとったら多くの人が「買う」と答えるが、いざ発売してみたらぜんぜん売れない。こういうことがよくある。
アンケートに答えた人だって嘘をついたつもりはない。「あーいいねー」と思って「買う」と答えるわけだ。
でもじっさいに自分の財布からお金を出す場面になると「やっぱりいいか」となる。

自動車会社の創業者であるヘンリー・フォードの言葉(とされる言葉)に
「もし顧客に彼らの望むものを聞いていたら、彼らは『もっと速い馬が欲しい』と答えていただろう」
というものがある。
消費者は、自分がほしいものをよくわかっていないのだ。

リサーチと実際の商売がぜんぜん異なる結果になることなんてごくあたりまえのことだ。

過去の社会学では、アンケートが大きなウェイトが占めていた。
「人々は〇〇と答えた。だから〇〇だ」
そんな血液型占いレベルの信憑性しかなかった調査に、ビッグデータが風穴を開けてくれる。
 ネットフリックスも似た教訓を早期に学んだ。人の言葉を信じるな、行動を信じろ、だ。
 かつて同社のサイトでは、ユーザーが今は時間がないがいずれ見たい映画のリストを登録できた。こうすれば、時間ができたときにリマインド通知してやれるからだ。
 だがデータは意外だった。ユーザーは山ほどこのリストを登録したのに、後日それをリマインドしてもクリック率がほとんど上がらなかったのだ。
 ユーザーに数日後に見たい映画を登録させると、第二次世界大戦時の白黒の記録映画や堅い内容の外国映画など高尚で向学心あふれる映画がリスト入りする。だが数日後に彼らが実際に見たがるのは、ふだん通り、卑近なコメディや恋愛映画などである。人は常に自分に噓をついているのだ。
 この乖離に気づいたネットフリックスは見たい映画登録をやめ、似たような好みのユーザーが実際に見た映画に基づいた推奨モデルを作り出した。ユーザーに、彼らが好きと称する映画ではなく、データから彼らが見たがりそうな映画を提案するようにしたのだ。その結果、サイトへのアクセス数も視聴映画数も伸びた。ネットフリックスのデータサイエンティストだったサビエ・アマトリエインは、「アルゴリズムは本人よりもよくその人をわかっているんだ」と語った。
そうそう、わかる。
ぼくのAmazonお気に入りリストにも、小難しい本が並んでいる。「これは今読む気がしないけどいつか読んどいたほうがいい」とウィッシュリストに放りこむ。
でもいざ本を買うときになると「もうちょっと手軽に読めるやつのほうがいいな」「これは時間があってゆっくり読めるときに」と、べつの本を買うことになる。
かくしてぼくのウィッシュリストにある『キリスト教史』『サピエンス全史』 『進化の運命 -孤独な宇宙の必然としての人間-』はずっと買われぬままリストの下のほうに居座りつづける。

「人の言葉を信じるな、行動を信じろ」ってのはいい言葉だね。



ぼくもマーケターの端くれとして、さまざまなデータを活用している。

広告運用をしているのだが、よくクライアントから「こんな広告文がええんちゃうか?」といった提案を受ける。
キャッチコピーは誰でもすぐに作ることができるので(作るだけならね)、素人でも口をはさみやすいのだ。
ぼくは云う。「そうですか、では試してみましょう」
Webのいいところは、かんたんに複数パターンをテストできるところだ。
「見た目の美しさ、信頼性、そして機能性をあわせもつ高級腕時計」と「超クールでイカした高級腕時計。99,800円」のどちらがいいか、頭をひねって考える必要はない。アンケートをとる必要もない。
両方均等に配信すれば、どちらがクリックされたか、どちらが購入につながったのかがすぐにわかるのだ。
素人が五秒で思いついたコピーがいちばん良い成果を出すこともめずらしくない。

少し前なら広告代理店のコピーライターという人種にコピーを作ってもらう必要があった。作ってもらったコピーをありがたく拝受して、それがどれだけ売上につながっているのかもわからぬまま漫然と垂れ流すしかなかった。
そんな不確かなものに高いお金を払っていたのだから、今の時代から見るとなんてばかばかしいお金の使い方をしていたんだろうと呆れるばかりだ。



題材はGoogleの検索データだけではない。
ポルノサイトの意外な検索データ、「大成する競走馬を見つけるにはどうしたらいいか」や「好きなプロ野球チームは生まれた年によって決まる」など、話題は多岐にわたっている。どれもおもしろい。

データ解析の強みだけでなく、「ビッグデータではまだまだ予測できないこと」も書いているのが誠実でいい。

個人的に強い将来性を感じたのは医療の分野。
 結果は驚くべきものだった。当初「腰痛」を調べ、後に「肌の黄ばみ」と検索することはすい臓がんの予兆となるが、単に「腰痛」だけを調べた人の場合はさにあらず。同様に「消化不良」と調べてから「腹痛」を検索した人はすい臓がんになるが、「消化不良」と調べたものの後に「腹痛」と調べていない人はすい臓がんと診断されてはいないようだった。研究者たちは、すい臓がんらしいパターンで検索する人の5%から15%は、ほぼ確実にがんであるようだと突き止めた。あまり高い率ではないと思うかもしれない。だが本当にすい臓がんにかかっていれば、その程度でも、生存率を倍にできると思えば福音には違いない。
たとえば子供の身長と体重をデータベース化して、そこに彼らの持病を加味するだけで小児科分野での一大飛躍だというのだ。こうすれば子供の成長過程を、他の子の成長過程と比較できるようになる。コンピュータ分析によって、似たような成長軌道を示す子供同士を見つけ出し、自動的に警戒信号を発することもできる。身長の伸びが早期に止まってしまうこと――甲状腺機能低下症や脳腫瘍が疑われる――も発見できる。いずれも早期に診断ができれば恩恵は大きい。「子供はおおむね健康なものなので、これらは非常に珍しい症例で、1万人に1人というレベルです。データベース化されていれば、診断を少なくとも1年は早められると思います。請け合いですよ」とコハネは言う。

これはすごい。

1万人に1人というようなめずらしい病気であれば、ベテランの医師でも過去に1人診察したかどうか。人間の目だとどうしたって見落としが起こる。
しかし1万人に1人でも、世界中の子どもの成長履歴をデータベース化すればまとまった量になる。予測精度は人間よりもずっと高くなるだろう。

こういう研究が進めば、医師の仕事はずっと少なくなるだろう。少なくとも診察は機械任せにできそうだ。
発見の制度は上がる、医師の負担は軽減される、やればやるほどデータは溜まって正確になる。いいことだらけだ。

AIが人々の仕事を奪うと言われているが、医師の仕事がなくなって看護師の仕事だけが残る、みたいなことになるかもしれないね。



ビッグデータからさまざまなことがわかるようになって、これから仕事や学習の方法はどんどん変わるだろう。
今までは「なんとなくよさそうだから」「ずっとこうやってきたから」「経験者がおすすめするから」「専門家がこういうから」という理由でやってきたことが、「それじつは意味ないよ」「もっといい方法があるよ」となってしまうのだ。それも、統計的にきちんと裏付けられた形で。

それってすごくいいことだよね。従来のやりかたでやってきた年寄りは困るだろうけど。

ただ気がかりなのは、こうしたデータを誰が持つのかってこと。
人類に広く共有されるのか、それとも数少ない大企業が独占して利益のために使うのか……。

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2018年9月25日火曜日

キングオブコント2018の感想と感情の揺さぶりについて


コントという表現手法が持つ強みについて。
単純に「短時間に大きな笑いをとる」という点においては、コントはあまり強くない。
状況説明に時間がかかるし、芝居の設定が乗っているから登場人物のとれる行動に制約がある。使える言葉もかぎられる。

「短時間に大きな笑いをとる」という点で考えれば、漫才のほうがずっと向いている。
キングオブコントがテレビ番組としていまいち成功していない理由もそこにある。老若男女いろんな人が観る、途中から観る人もいる、集中して観る人ばかりではない。そういうテレビの特質には、きちんと作りこまれたコントはあまり向いていない。「一分で笑える爆笑ネタ!」みたいなののほうがよほどテレビ向きだ。
(だからキングオブコントはテレビスタジオではなくどこかの劇場で客を入れてやって、それを中継する形のほうがいいと個人的に思う)

ではコントの強みがどこにあるかというと、多様な感情を引き起こすのに向いている点だ。

笑わせるのはもちろん、悲しさ、哀れさ、気まずさ、怖さ、いらだち、とまどい。さまざまな感情を我々はコントの登場人物を通して感じとることができる。
ただ「笑える」だけなら漫才のほうが向いている。
ぼくがコントを観るときは、そこに「感情を揺さぶってくれるもの」があることを期待して鑑賞する。今風の言葉で言うなら「エモさ」があるかどうか、ということになるだろう(おっさんが無理して使ってみたので使い方があってるかどうかはしらない)。



前置きが長くなったが『キングオブコント2018』の感想。
審査についてはいろいろ言いたいこともあるけど、ここではコントの中身だけ。

やさしいズ


会社の待遇に不服をおぼえる男が会社のビルを爆破しようと深夜のオフィスに忍び込むが、清掃のアルバイトが現れ……。

登場人物のコントラストが効いていたり、ストーリーに起伏があるところなど、いいコントだったと思う。アルバイト役が、ちゃんと「工業高校出て清掃バイトしてるやつ」の風貌をしていたのがすごく良かった。
不穏な空気の冒頭から、能天気だけどポジティブなアルバイトとの会話を通して爆破犯が徐々に心を開いていく様は、まさにやさしいコントだった。
ただ残念ながら、爆破犯役の芝居がうまくなかった。一生懸命演じているのが伝わってしまう。彼がもっと緊張感のある演技をできていたら、その後の展開への落差も大きくなって笑いも増えただろうに。
いきなり「あとは起爆スイッチを押せばビル中にしかけた爆弾が爆発して……」の説明くさい独白から入ったら、緊張感もなにもあったもんじゃないよね。
自然な会話から設定を観客に伝えることができていれば、もっと入りこめたんだけどな。


マヂカルラブリー


コンビニで自分の傘を探していたら、傘を盗もうとしていると疑われる……という日常のとるにたらない出来事がひたすらループする、というコント。

タイムループもののパロディ的なコントなのだが、はたしてパロディになっているのか?
タイムループものの作品は多いが、乾くるみ『リピート』も北村薫『ターン』もアニメ『時をかける少女』も映画『サマータイムマシンブルース』も、わりとどうでもいい日常、しょうもない理由でループしてるんだよね。
「こんなとこじゃなくない?」といわれても、「いや、"こんなとこ"をおもしろく見せるのが腕の見せ所なんじゃないの?」と思ってしまう。

ただ途中から「おじさんもループしている」ことが明らかになって話がどんどん転がっていくあたりはおもしろかった。
「信じたくなくて逆に強くあたってしまった」という妙に説得力のあるセリフや、「この世界はおじさんの夢の中」という不気味さがすごく好き。
タイムループに巻きこまれる怖さを上回る、「あぶないおじさん」の怖さ。ここをもっと前面に出してほしかったな。


ハナコ


犬を演じる、という以外に説明のしようのないコント。

このトリオのコントは以前にも何本か観たことがあったが、これはその中でもとびぬけてつまらなかった。キングオブコント史上もっともおもしろみのないコントのといってもいいぐらい。

ぼくも犬を飼っていたので「あー、あるある」とは思ったが、ただそれだけ。
犬の感情を描くといううっすらとしたユーモアがひたすら続く。NHKの「LIFE!」でやっててもおかしくないぐらい平和なコント(悪い意味で)。
三人目が登場したところで新たな展開があるのかと思いきや、何も起きない。最後に意外な事実が明らかになるのかと思いきや、やはり何にも起きない。
とうとう最後まで「うちの犬もこうだったわ。なつかしい」以外の感情を動かされることはなかった。
これだったら昔セコムがやってたおじさんが犬を演じるCMのほうがずっとおもしろかった。


さらば青春の光


予備校の生徒に対して、熱い言葉で勉強の大切さを説く講師風の男。ところが彼は授業をせず、説教だけをすると他の講師にバトンタッチして教室から出ていく。どうやら「鼓舞する人」という名目で雇われているらしく……。

「感情を揺さぶってくれるもの」という点で、今大会もっとも好きなコントだった。悲哀や憐憫、プライドが折れる様などを短時間でしっかりと表現していた。テレビ審査では明るくハッピーなストーリーが好まれるようだが、劇場でやったらこれが一番になっていたんじゃないかな。

とはいえこの底意地の悪い着眼点のコントが決勝に行けなかった理由は会場の空気にあわなかっただけではない。無駄な演出が多かった。
まず冒頭で講師風の男が生徒に説教をかましているシーン。あの現場に本物の講師がいないほうが良かった。二人いることに違和感があったから、あれでぼくは「こっちが本物の講師かな」と思ってしまった。そのせいで「では先生、お願いします」の衝撃が小さくなった。

また説明過剰だった点も後半勢いづかなかった理由だろう。本物の講師が「あの人は鼓舞する人や」という台詞はまったくの無駄だった。あの説明がなくても観客にはだいたいわかる。
講師が「鼓舞する人」を見下してることもはっきり口に出さずに伝えてほしかった。言葉に出さずに感じさせるのが芝居だし、それができる演技力を持っているコンビなのだから。
チョコレートプラネットの一本目やハナコの二本目は、説明をばっさりと省いて成功した。
さらば青春の光も、もっと観客の想像力に委ねる大胆さがあればパーフェクトなコントになっただろうと思うと残念でならない。


だーりんず


居酒屋で会社の後輩と出会った先輩が、こっそり後輩の分の勘定を済ませてやろうとする。ところが店員に意図がうまく伝わらず、思っていたようにスマートに感情をすることができない……。

ネタは良かった。ありそうなシチュエーション、誰もが持っている些細な見栄、慣れない人がかっこつけようとした結果かっこ悪くなってしまうというコミカルさ。
派手な動きはないが、繊細な心の動きが丁寧に描かれていて、もっと見たいと思わせてくれた。
ただ緊張からか、やりとりのぎこちなさが感じられた。ほんの少しなのだが、コントにおいてはそのわずかなぎこちなさが致命的となる。
これを東京03が演じたらめちゃくちゃおもしろいコントになったんだろうなあ。かっこつけたい角田先輩、めんどくさそうにする飯塚店員、空気を読まない豊本後輩とかでカバーしてほしい。


チョコレートプラネット


見知らぬ部屋で目を覚ました男。首には不気味な装置がつながれ、モニター画面では覆面男が「今からゲームをしてもらう……」という説明をはじめる。ところがつながれた男はパニックになってしまい、ゲームの説明をまったく聞こうとしない……。

前半部分は以前にも見たことがあった。しかしあれがおもしろいのは二分ぐらいまでだろうと思っていたら、謎のにおい、謎の装置、仕掛人登場、新たな仕掛人の存在と新たな展開を見せてちゃんと長尺に耐えられるネタに仕上がっていた。
いやあ、おもしろかった。『SAW』や『CUBE』のようなデス・ゲーム風の冒頭から、ひたすら叫びつづけるばかばかしい展開へ。「においは知らない!」は笑った。
恐怖の象徴のような覆面男がだんだんかわいそうになってくるのがいい。

じっさいにデス・ゲームをしようとしたらこういうことになるかもしれないと思わせてくれるリアリティがあった。フィクションではみんなおとなしくルールを聞いてルールにしたがってゲームを始めるけど、現実にはなかなかゲームが進まないんじゃないかな。

欠点を挙げるとすれば、覆面男の声が聞き取りづらかったこと。
あと覆面男の名字が「鈴木」というのはいただけない。名字がベタすぎておもしろくない。「橋本」とか「川谷」とか「石原」ぐらいの名字にしたほうがいいと思う。そこそこメジャーで、四文字の名字のほうがいいな。「群馬!」のところも「前橋!」とか「大宮!」ぐらいのほうがおもしろかったような。
とはいえ、ストーリーが動きながらも前半から最後までずっと笑いが起きつづける展開で、文句なしの一位。


GAG


同級生が居酒屋でアルバイトをしていることに驚く、進学校の生徒。大人のお姉さんの性的魅力に翻弄される少年たち……。

いつの間にかGAG少年楽団から改名してたんだね。「GAG」と「少年楽団」のうち、ダサい方を残しちゃったなあ。
そういや今大会の出場者、名前ダサすぎじゃない? だーりんずもマヂカルラブリーもわらふぢなるおもやさしいズもさらば青春の光もダサい。わざとダサさを狙ったのかもしれないけど、これだけ並ぶと一周半してやはりダサい。まあ名前のダサさではバイきんぐの右に出るものはいないけど。

ボケらしいボケもなく、ふたりの関係性に対するツッコミの視点のみで笑いを取りにいくという姿勢は評価したい。トリオならではだね。
ただしツッコミ役は芝居の中にいながらメタな視点での台詞を入れることになるため、芝居としてのリアリティは完全に壊れてしまう。
それはそれでありだけど、フレーズのひとつひとつが丁寧すぎて、一生懸命考えたなというのが伝わってしまう。舞台裏が見えてしまうのは芝居としてマイナスにしかならない。ぼくたちの努力の結晶です、笑ってくださいと言われても笑えないよね。

とはいえGAG史上最高に良かった。
男子高校生の青くささがびんびんと伝わってきて、村上龍の名作『69』のような味わいがあった。


わらふぢなるお


新しく入ったコンビニのバイトと店長がレジに立つ。ただしバイトにはわかりきったことをいちいち訊く「カラ質問」が多く、店長は次第にいらついてくる……。

人をいらつかせるキャラクター、よく練られた会話、おもしろかった。おもしろかったけど……。
芝居として見るといろいろとものたりない。動きがないこともあるし、「このシーンに至る前」の作りこみが甘いことも不満だ。
「レジの業務をひととおり教えた後」という設定だが、レジの業務を教えている間はカラ質問をしなかったのだろうか? 説明を終えた途端にカラ質問をするようになったのだろうか? だとしたらなぜ?

人生の一部を切り取ったコントではなく、コントのための人生を送っているキャラクターなんだよね。昨年のネタもそうだったし、二本目に演じたネタはもっとひどかった。このコンビのコントは「芸人のコント」なんだよなあ。ぼくは笑える「芝居」が観たい。


ロビンフット


結婚することになった中年男性とその父親。ところが男性は、妻となる女性の年齢を知らないという。わかっているのは干支だけ。たぶん三十六歳だと男は言うが、よくよく話を聞いてみると……。

「年齢がわからず戌年ということだけわかっている」という設定であればこうなるだろうな、という予想通りに話は展開していくが、そのシンプルさがむしろ心地いい。
とはいえこういうコンテストで観たいのは新しい切り口なので、ベテランがベテランっぽいネタをやってもそりゃあ優勝はできないよね。
どんどん年齢が上がってくるのはおもしろいが、そうなると序盤で語っていた「26の子どもがいる」「50ぐらいに見える」という設定が少し苦しくなってくる。その苦しさを強引に押しきるほどのパワーはなかったな。


ザ・ギース


物に触れるだけでそれを使っていた人物の思念を読みとることのできるサイコメトラーの少年。殺人事件の捜査のために遺留品に触れるが、見えてくるのは製造工程ばかり……。

シュールな発想の一点突破ネタで、さすがに五分はきつい。中だるみ感は否めなかった。
終盤の「身近にいる捜査協力者だと思ってた人が犯人」という展開もわりとよくあるやつで、そこまでの意外性はなかった。
さすがはメイドインジャパン、中国製はイマイチ、といった台詞も今の時代にあってなくて笑いにつながらず。

ところで、マヂカルラブリー、チョコレートプラネットといい、ずいぶんSF・サスペンス的なネタが多い。そこまでド定番なネタではないと思うのだが、SFに明るくない人はすっと設定に入れるのだろうか?


決勝戦


うーん、どれも感想を書きたいネタではなかったので省略。



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2018年9月23日日曜日

横で人が怒られてるときの居心地の悪さ


歯医者がすごく感じの悪い人だった。

患者であるぼくに対してはにこやかに接するんだけど、歯科助手に対する当たりがとにかくきつい。

「〇〇出しとけって言っただろうが」
「はぁ? なんで□□だと思うんだよ。チッ」
みたいな感じ。
歯科助手に対してずっとイライラしている。
歯科助手がふたりいてどっちにも当たりがきついから、歯科助手がとりたてて愚鈍というわけではなく、歯科医師側に問題があるのだと思う。


歯科助手へのあたりはきついのに患者であるぼくには「大丈夫ですか~。痛くないですか~」みたいな柔和なしゃべりかたをしてくる。うわこわいこわい。余計にこわい。

全方位的に不愛想なのもイヤだけど、まだマシだ。
自分だけ優しくされたら
「患者に無理して優しくした分のストレスのはけ口が歯科助手に向かってるのだろうか」
と、こっちまで罪悪感をおぼえる。
すまない歯科助手よ、ぼくが来てしまったせいで。だってかんたんに予約とれたんだもん。そりゃ患者寄りつかんわ。



横で人が怒られてるときの居心地の悪さについて。

『孤独のグルメ』という漫画に
「主人公が入った飲食店で、店主が年寄りの従業員を激しくののしっているのを見てげんなりする」
というエピソードがあった。
あの気持ち、よくわかる。

自分が怒られるのも嫌だが、自分と無関係の人が無関係のことで怒られているのはもっと嫌だ。
ぼくは子どもの頃から親や教師に怒られつづける人生を送ってきたので自分が怒られても蛙の面に小便だが(一応反省しているフリだけはする)、それでも他人が説教されているのはつらい。

ヤンキー風の親が自分の子に「うるせえから泣くなっつってんだろ、ボケ!」なんて言ってるのを聞いたときは、自分が怒られたとき以上に胸がいっぱいになる。



わざわざ部外者の前で叱りたおす人は、どういう気持ちでやっているのだろうか。
仮説を立ててみた。

1.相手のプライドをへし折るため

こっそり注意されるよりも人前で口汚く罵られたほうが当然ダメージは大きい。
だから相手を育成するためにプライドをへし折ってやろうと思い、わざと衆人環視のもとで罵倒しようと考えているのかもしれない。
修復できないぐらい信頼関係が傷つくから、育成には逆効果だろうけど。

2.周囲へのアピール

信じがたいことだが、
店だったら「うちはちゃんと従業員教育に力を入れているんですよ」
親だったら「わたしはちゃんと公共の場で子どもを厳しくしつける親ですよ」
というアピールのため、つまりはサービス精神の発露なのかもしれない。
当然ながら逆効果にしかならないわけだが(サービス業なら「感じの悪い店」、親なら「児童相談所案件予備軍」と思われるだけ)本人は「うちはちゃんとやってますよ!」というアピールのつもりなのかもしれない。

3.何も考えてない

これがいちばんありそうだね。
二歳児のように感情をうまくコントロールできないだけ。