2018年9月6日木曜日

【読書感想文】自分の中にあるダメな部分を突きつけられる/サレンダー橋本『明日クビになりそう』


明日クビになりそう

サレンダー橋本

内容(Amazonより)
「会社のコピー機で私物を刷る」「出張でクオカードをパクる」――。
稀代の意識低い系漫画家・サレンダー橋本が贈る、︎クズ社員あるあるGAG‼︎
「仕事をサボって個室ビデオへ」「忘年会のお店の予約を忘れる」などウォーターサーバー会社の生意気なサラリーマン、宮本の小狡く愚鈍な言動の数々を現役サラリーマン漫画家である作者がコミカルに描く!
現代社会を生き抜くリーマンたち、そしてこれから働こうとする人々へ向けた――
クズ会社員のおバカ処世術、ここに爆誕‼︎

どうしようもないクズが現実から逃げまわるだけの漫画……。ということで石原まこちん『The3名様』を思いだした。どちらもギャグなのに哀愁がある。

自分の中にある、見ないようにしているダメな部分を突きつけられるような気がする。
「確認」と「検討」
 何て便利な魔法の言葉…!
 ただ全てを先送りにしているだけなのに
 ビジネスの場が成立している雰囲気になるぜ
「オレはいつも目の前の仕事をやらない理由を血眼で探し
 少し未来の自分に全てを押しつけて生きているんだ」
小学生のとき、出さなければいけない書道の課題を提出しなかった。
先生に咎められたとき「出したはずですけど」と嘘をついた。先生は「ほんとか? じゃあもう一回調べてみるわ」と言った。
どうしよう、すぐばれる。怒られる。やってなかったことも、嘘をついたことも。息ができない。胸がキリキリと痛む。

あのときの気持ちを思いだした。
ぼくもそれなりに成長したので「めんどくさいことは先延ばしにするとよりめんどくさいことになる」ということを知っている。だからめんどくさいことは早めに処理するようにしている。

だけど「めんどうなことは先延ばしにしたい」という誘惑は、今もぼくの中に巣食っている。隙あらば首をもたげるのを、大人としての理性が必死に抑えこんでいる状態だ。

仕事に関してはそこそこちゃんとやるようにしているが、家事となるとそうではない。部屋の片づけとか不用品の整理とか換気扇の掃除とか、めんどうなことからは目をつぶりつづけている。
「今忙しいから」「疲れてるから」「子どもと遊べるのは今だけだから」そんな理由をつけて、家事から手を抜こうとがんばっている。

だからぼくは知っている。自分にとって、仕事の手を抜くことだってまったくやぶさかではないということを。
仕事のやりがいや、周囲の目や、叱咤する上司や、そういったものから解放されたならばぼくは平気で手を抜くだろう。

ああ、この漫画に描かれているのはぼくのことだ。
『明日クビになりそう』を読みながら自分自身のダメさをひとしきり笑い、そして心が痛くなる。


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2018年9月5日水曜日

【読書感想文】類まれなる想像力/テッド・チャン『あなたの人生の物語』


あなたの人生の物語

テッド・チャン

内容(e-honより)
地球を訪れたエイリアンとのコンタクトを担当した言語学者ルイーズは、まったく異なる言語を理解するにつれ、驚くべき運命にまきこまれていく…ネビュラ賞を受賞した感動の表題作はじめ、天使の降臨とともにもたらされる災厄と奇跡を描くヒューゴー賞受賞作「地獄とは神の不在なり」、天まで届く塔を建設する驚天動地の物語―ネビュラ賞を受賞したデビュー作「バビロンの塔」ほか、本邦初訳を含む八篇を収録する傑作集。

映画『メッセージ』の原作となった『あなたの人生の物語』を含め、八篇の作品を収めたSF短篇集。

とにかく想像力がすごい。
この歳になって小説に驚かされるとは。

「すごく高い塔を建てたら」「知能がものすごく高くなったら」なんて想像をしたことは誰しもあるだろうが、ここまでつきつめて考えた人はそういないだろう。
なぜなら現実や知識がじゃまをするから。テッド・チャン氏はその制約を軽々と飛びこえ、壁を一枚隔てたところにあるまったく新しい世界へと連れていってくれる。この飛躍がじつに気持ちいい。



ぼくはかつて大喜利を趣味にしていた。ネット上でたくさんの人たちが大喜利をする世界があったのだ。
そこではとにかく現実離れした想像力が求められた。
たとえば「大相撲力士が副業で殺し屋をはじめた。どんな殺し方をする?」みたいなお題が出される。
現実的にはありえないシチュエーションだ(現実に殺し屋をやってる力士がいる可能性は否定できないが)。

現実の地続きで考えるなら「張り手で殺す」「上に乗って押しつぶす」「日馬富士にビール瓶で殴ってもらう」みたいな回答になるが、これではまったくおもしろくない。
大喜利として成立させるためには、現実の延長ではないまったく別の世界を構築しなければいけない。たとえば「番付表の下のせまいところに追いこんで四股名と四股名で挟み殺す」のような(この回答がおもしろいかどうかはおいといて、少なくとも大喜利としては成立する)。

今ぼくらが持っているのとはべつの常識を築かないといけないのだ。

『あなたの人生の物語』で描かれるのは、まさにこの大喜利的な発想だ。
奇抜なアイデア、ずば抜けた想像力、そしてそれを支える重厚な知識。どれをとっても一級品の作品集だった。ほれぼれする。



たとえば『バビロンの塔』。
文字通り天まで届く塔を建てる人々を描いた作品だが、情景描写がなんともすばらしい。
 何週間かが過ぎるうちに、毎日空を渡る太陽と月の旅の頂点が、しだいしだいに低くなってきた。月は塔の南面を銀色の光で染め、こちらをながめるヤハウェの目のように輝いた。まもなく鉱夫たちは通過する月ときっかりおなじ高さに達した。最初の天体の高さにたどりついたのだ。鉱夫たちはあばたになった月の表面をながめ、どんな支えをもはねつけたその堂々たる動きに驚嘆した。
 やがて、彼らは太陽に近づいていった。いまはバビロンからだと太陽がほぼ真上に見える夏の季節なので、太陽はこの高さで塔の間近を通るわけだ。塔のこの部分には家族がまったく住んでおらず、またバルコニーもない。なにしろ大麦でさえ炒られてしまうほどの暑さだ。塔の煉瓦のすきまを埋めるモルタルは、瀝青だと融けて流れるので、粘土が使われている。これだと熱で文字どおりに焼き固められるからだ。日中の気温からみんなを守るため、柱の幅がひろがり、ほとんど斜路をおおい隠すほどの連続したトンネルになった。ところどころにあいた細いすきまが、ひゅうひゅう唸る風と、刃のようにぎらつく金色の日ざしを塔の中に通していた。
小説を書く才能とは、いかにうまくほらを吹くかだ。この文章はなんと見事なほらだろう。
「ものすごく高い塔を建てたら?」というお題に「高すぎて折れる」とか「地面が沈む」とか「上のほうは酸素が薄くなる」なんて回答ではおもしろくない。

「月や太陽の高さを超える」「あまりに高すぎて塔の下のほうから少しずつ夜になる」という大胆な発想。そして、まるでその世界に行ってきたかのような丁寧な描写。
月や太陽より高い塔など建てられないことを知っているのに、この文章を読むと月よりも高い塔の姿が浮かんでくるようだ。感服。



『理解』も、作者の類まれなる想像力が存分に発揮された小説だった。

天才が登場する物語は少なくないが、我々の想像力を上回る天才というのはめったにいない。
ただ単に物事をよく知っている人だったり、計算が速かったり、あるいは神のようになんでも言い当てる人だったりで、それって「博識」「頭の回転が速い」「予言者」なだけで天才とは違うよね、と言いたくなる。
作者の想像力が足りないから天才を描けないのだ。
小学一年生に「どんな人が天才だと思う?」と訊いたら「計算が速くてまちがわない人」というような答えが返ってくるだろうが、ぼくらの思いえがく天才もそれと大差ない。

『理解』はあるきっかけで天才的な頭脳を手に入れた男を描いた物語だが、ここではちゃんと天才が描かれている。

子どもと大人は頭の使い方が違う。成長するにつれてより抽象的、深遠な思考が可能になる。大人が抽象的な思想の話をしても、五歳児にはまるで理解できないだろう(できない大人も多いけど)。
それと同じように、ぼくらよりはるかに頭のいい人が難解な話をしていたら凡人にはまったく理解できないだろう。どれだけ時間をかけたって。
だからほんとの天才はぼくらには理解できない。「天才だ」と思わせるように描いてしまったら、それはもう天才じゃないのだ。

この物語の主人公はぼくらの生きる世界の数段上の次元で物事を考えている。もちろん読んでいるぼくにはまったく理解できない。だが「すごすぎて理解できない」ということは理解できる。それだけの説得力がこの文章にはある。
独自の言語を作る、音楽によって他人の精神に任意の影響を及ぼすことができる、短い言葉で相手の精神に攻撃を加えることができるなど、「自分の延長の天才」とはまったく違う天才の姿を見ることができる。



表題作『あなたの人生の物語』もすごい話だった。
地球にやってきた宇宙人とコミュニケーションをとろうとする話。これ自体はSFではおなじみの設定だが、言語学者のアプローチを通して描いているのがおもしろい。

宇宙人の言語が地球のものとはまったく異なる。
  • 発話用の言葉と文字がまったく別の文法から成っている。
  • 文字は複雑な線の組み合わせから成っている。長い文章がひとつの文字で表せてしまうぐらい。
  • 宇宙人は因果律によって物事を考えていない。過去と現在と未来を同時に把握している。
……と説明してもなにがなんだかわからないが、とにかく地球人の感覚ではまったく理解できない言語を持っているのだ。
言語が異なるということは、彼らはまったく異なる感覚を持っていることになる。ということは……。
この先はぜひ読んでいただきたいが、異星人ものだと思っていたら時間もののSFになっていくのがすごい。

いやあ、「よくこんな設定思いついたな」とただただ感心するばかり。
「原因があって結果がある」ことなんてあたりまえだと思うじゃない。それを疑わないじゃない。ふつうは。



『顔の美醜について』はわりとポップなSF作品。
「カリー」と呼ばれる美醜失認処置をめぐる話。カリーを受けた人は、人の顔の美醜の判断がつかなくなる。人の見分けはつくが、相手が美人なのがブサイクなのかがわからなくなるのだ。
カリーによって容姿にとらわれずに人と接することができると主張する人々、それに対して人を道徳的にさせるのは医療措置ではなく教育であるべきだと反論する人や、誰もがカリーを受けたら商売が成り立たなくなる広告業界や化粧品業界の妨害が加わってさまざまな議論が展開される……。

美容整形のような「自分の容姿が良くなる」ではなく「他人の容姿の良さがわからなくなる」処置ってところがミソだね。
他人には道徳的になってほしいけど、自分が道徳的になることには二の足を踏んでしまうからね。「人を見た目で判断するな」と言っている人でも、じゃあ世界一醜い外見の人を恋人にできるかっていわれたら躊躇してしまうだろう。
人を見た目で判断しなくなるのは善なのか、それとも美的感覚という優れた能力を放棄することなのか。
ぼくだったら……。うーん、仕事のときはカリーをして、プライベートでははずすかなー。



ここで紹介した作品だけでなく、総じて高いレベルのSF短篇集。

驚くべきは、これが選りすぐりの傑作選ではなくデビューしてから発表された短篇を順番に集めた作品集だということ。
すべての作品が高い水準を保っているというのがすごい。

他の本も読んでみたいと思ってすぐ調べたが、寡作にしてテッド・チャン氏の単著はこれだけなのだとか。
ううむ、もっとテッド・チャン氏の想像力に触れたいぜ。

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2018年9月3日月曜日

【DVD感想】『アヒルと鴨のコインロッカー』


『アヒルと鴨のコインロッカー』

(2006年)

内容(Amazon Prime Videoより)
大学入学のために単身仙台に引っ越してきた19歳の椎名(濱田岳)はアパートに引っ越してきたその日、奇妙な隣人・河崎(瑛太)に出会う。彼は初対面だというのにいきなり「一緒に本屋を襲わないか」と持ちかけてきた。彼の標的はたった一冊の広辞苑。そして彼は2年前に起こった、彼の元カノの琴美(関めぐみ)とブータン人留学生と美人ペットショップ店長・麗子(大塚寧々)にまつわる出来事を語りだす。過去の物語と現在の物語が交錯する中、すべてが明らかになった時、椎名が見たおかしくて切ない真実とは・・・。

注意:この記事は、小説及び映画『アヒルと鴨のコインロッカー』のネタバレを盛大に含みます。



伊坂幸太郎の同名小説の映画化。

原作を読んだ人ならわかると思うが、原作の大きな要素として叙述トリックが占めており、「はたしてこれをどうやって映像化するのか?」という点が気になった。

ネタバレをするが、小説『アヒルと鴨のコインロッカー』には河崎という男が出てくる。
この河崎という男が主人公に語る話の中に、たびたびブータン人が登場する。
ところが後になって、河崎はすでに死んでいることがわかる。河崎と名乗った男こそがブータン人だったのだ。

単純な入れ替えトリックだが「日本に来て数年の外国人が日本人に成りすますのは不可能」という思いこみがあるせいで読者は気づきにくい。
この入れ替えトリックが小説『アヒルと鴨のコインロッカー』の肝である。


じつはAとBが同一人物だった。
文章ならこの一行で済むトリックも、映像で表現するのは至難の業だ。なぜなら顔が一緒であれば見ている側は同一人物であることに一瞬で気づいてしまうのだから。
だからこそ「映像化不可能」と言われていたのであり、はたして監督はこの部分をいかに料理したのか――。



結論から書くと、最低の手法だった。

映画『アヒルと鴨のコインロッカー』には回想シーンがたびたび出てくる。
そこに登場する「今の河崎」と「回想シーンに出てくるブータン人」はまったく別の役者が演じている。本当は同一人物であるにもかかわらず、べつの役者が演じているのだ。

嘘じゃん。

いや、嘘をつくことがだめなわけではない。
登場人物の台詞としてであれば、どれだけ嘘が語られてもかまわない。
だが映像で嘘をついてはいけない。小説でいえば、台詞や独白は嘘でもいいが、地の文(状況描写)が嘘であってはならない。それはフィクションとして最低限の"お作法"だ。ここを破ったらなんでもありになってしまう。
こんなのはトリックでもなんでもない。ただのインチキだ。
ルール内で観客をだますから「だまされた!」と気持ちよく叫ぶことができるのであって、ルール無視でだまされたって楽しくもなんともない。ポーカーはルール内で駆け引きをするのがおもしろいのであって、イカサマトランプを使うやつは出入り禁止にするべきだ。

過去に原作を読んでいたぼくは回想シーンで別人が登場してきた時点で「ひでえ!」と叫んでまともに観るのを放棄したが、知らずに観てた人はかわいそうだ。
たとえば「自称河崎が人形劇仕立てで過去のエピソードを語る」みたいな説明方法にすれば、ルールを破ることなく(嘘の)回想シーンを描くことができただろうに。
あまりにもお粗末。知恵がないなら映像化困難な作品を映像化するなと言いたい。

余計な音楽がなくかなり原作の雰囲気を忠実に再現できていたのに、たったひとつの致命的なルール違反のせいで映画全体が台無しになっていたのがもったいない。

あと琴美ちゃんはかなりおバカさんだよね。
ことごとく殺してくれと言わんばかりの愚行を犯してたら、そりゃ殺されるぜ。あまりにおバカな殺され方をしたせいで悲劇性が薄れてしまったのも残念。
変にかっこよく描こうとしたせいでかえってバカみたいになっちゃった。


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【DVD感想】『カラスの親指』


2018年9月2日日曜日

手が鉤爪になってる人あるある

手が鉤爪になってる人あるある



暑い日は鉤爪がさわれないぐらい熱くなる


暑い日は鉤爪を冷やすと全身冷える


寒い日は鉤爪を友だちの首筋にあてて嫌がられる


大根がよく煮えたか確かめるために鉤爪を刺しちゃう


電車の吊り革を持たずに、上の棒に鉤爪をひっかける


鉤爪とったら内側がめっちゃくさい。でもついにおいを嗅いじゃう


ギター弾くときピックいらず


ちくわは一回鉤爪に刺してから食べる


学生時代のあだ名は「船長」


金属探知機に引っかかるが、機内持ち込み禁止物リストに鉤爪は載ってないので許される


初対面の人に「じゃんけんできないですね」って言われるけどいや反対の手あるから


よくズボンのポケットに穴が開く


鉤爪のカーブにぴったりはまるグラスがあるとちょっと嬉しい


みんなでごはん食べるときは鉤爪側に人が来ないように端っこに座る


花粉症シーズンは鉤爪にティッシュを何枚か刺しといてすぐに取りだせるようにしとく



2018年9月1日土曜日

「ひとのことはいいから」


五歳の娘に対してよく口にする台詞は
「ひとのことはいいから」
だ。

いっちょまえに周囲を観察できるようになり正義感だか公平感だかも身についてきたことで、不満があると「〇〇ちゃんもやってた」だの「□□くんには言わなかったのに」だのと不平をこぼすようになった。

よその子を本気で叱るわけにはいかないだろとかあっちの子はまだ三歳だからしょうがないじゃないかとかあの子の親はちょっとアレな人っぽいからとかいろいろ説明するのも難しく、そんなこんなでこっちの口をついて出るのが「ひとのことはいいから」だ。



まあ気持ちはわからんでもない。
「あっちは許されてるのになんで自分だけが」という感覚は人間の感情のかなり深いところにある。ひとことでいうと「ずるい」という感覚だ。
人間だけじゃなくて他の動物にもある。犬だって兄弟二匹中一匹を優遇していたら、もう一匹は怒る。

いい年齢になった人でも「在日外国人が特権を享受している」だの「生活保護受給者がパチンコをやるな」だの五歳児のメンタリティのまま他人を攻撃することに精を出している。

おまえの不遇は他人が不当な利益を享受していることに起因してるんじゃねえよと言いたくなるし、たぶんそんなことは当人だってわかってるんだろうけど、それでも「あいつだけずるい」という感覚を抑えられないのが人間だ。



ちょっと変わった生き方をしている友人がいる。勤め人ではなく、自営業者でもなく、傍から見るとまるでずっと遊んでいるような生き方をしている。非合法なことではなく。

あるときインターネット上で彼のことが話題になっていた。そこにぶらさがっているコメントが非難であふれていた。
「家族がかわいそう」「自分の親や夫がこんな人だったらイヤだ」といった言葉が並んでいた。
彼の生き方をうらやましいと思っていたぼくからすると、ちょっとした驚きだった。

遊んで暮らせるなんて最高じゃないかと思うのだが、どうも世の多くの人はそうではないらしい。何の迷惑もかけられていなくても「あいつだけずるい」と思ってしまうようだ。
被害者がいれば「被害者の気持ちを考えろ」と堂々と非難できるのだが(勝手に怒りを代弁するのも勝手な話だが)、それができないので「家族がかわいそう」とむりやり被害者をつくりあげて怒りを代弁することにしたらしい。



ぼくたち人間は、どうやら幸せな人が嫌いらしい。
才能と美貌と知性と家柄に恵まれて働かずに一生笑って暮らす人が許せないらしい。

おとぎ話で王子様と幸せな結婚をしたお姫様も、その後は「あいつだけずるい」と思われて、何をしてもインターネット上で叩かれながら生きていくことになるんだろうなあ。

「ちっちゃいガラスの靴が履けただけの成り上がり女が、晩餐で出された料理を大量に残した!」
「マスコミが報じない真実! 税金が注ぎこまれる不当な毒りんご特権」
なんて言われて。