2018年8月7日火曜日

すきあらばバタフライ


区民プールあるある言いまーす!
「ちょっとレーンが空いてくるとバタフライやりがち」


区民プールにはいつ行ってもそこそこ人がいる。ひとつのレーンでだいたい3人ぐらいが泳いでいる。
たまに、2人ぐらいになる瞬間がある。するとすかさずバタフライをやるやつがいる。

プールに行かない人や「いやわたくしは自宅の庭のプールで泳いでいますがそんな人は見たことありませんわ」って人にはぴんと来ないだろうけど公共のプールではよく見る光景だ。


なんなんでしょう、アレ。
そんなにバタフライやりたいの?
一応「前を向いたまま早く泳げる」というのがバタフライのメリットらしいが、なんとも微妙なメリットだ。
疲れるし、かっこ悪いし、水しぶきだけはすごいし、バタフライなんか何が楽しいんだと思うんだけど、でもすきあらばバタフライをしかけてくるやつがいる。しかもけっこう多い。

あれは完全に貧乏性だろう。

バタフライは幅をとる。バタフライは2車線使う。
10トントラックでさえ車幅は1車線の中にぎりぎりおさまる。2車線使う車両は戦車ぐらいだ。つまりバタフライは戦車だ。

対向レーンに人がいるときにはバタフライができない。
だから向こうから人が来ないと「あっ、今ならバタフライできる! やらなきゃ損!」という気持ちでたいしてやりたくもないバタフライをやっちゃうのだろう。

こういう人は正月バーゲンで必要もない福袋を買っちゃう人だと思う。「今なら半額!? 買わなきゃ損!」とほしくもない福袋を買うタイプだ。
業務スーパーで安いからといってロールパン50個ぐらいまとめ買いしちゃうタイプだ。


まあレーンにひとりしかいないときならバタフライでも水球でも好きにしたらいいけど、困るのがプールの対岸に人(ぼく)がいるのに、バタフライをしかけてくるやつらだ。

向こうからバタフライでばっしゃんばっしゃんとこちらに向かってくる。もちろん対向車線も使って。
「おれはバタフライやるけど文句あるか?」という威圧感がある。ヤンキーがわざと車線をはみだして走るのといっしょだ。

ぼくは負けじとクロールをしかける。脅しには負けないぞという強い意志をこめて。ぼくはテロには屈しないぞ。ミサイルには経済制裁だ、ぐらいの気持ちで水をかく。

するとバタフライヤンキーはすれ違う寸前までバタフライをして、こちらが脅しに屈しないのを悟ると、ぎりぎりでクロールに切り替える。

そうまでしてバタフライがしたいのか。彼らをバタフライに駆り立てるものは何なのか。ぼくの知らない快感がバタフライにはあるのか。


ということで一首。

 すきあらばバタフライをする君よ 誇示か威圧か快楽なのか


2018年8月6日月曜日

【短歌集】揺れるお葬式



高架下葬儀会場 急行が通過するたび死人が笑う


各駅停車(かくてい)が上を超えてく葬儀場 坊主の読経はビブラートなり


満員の通勤快速通るたび 喪服がはだけてゆく未亡人


「あの故人(ひと)はシャンパンタワーが好きでした」寡婦の独白、不吉な予感


特急の振動、心臓マッサージ 死んだ老人息吹き返す


「振動で三途の川が氾濫し川の向こうへ渡れなかった」


あの人が生前愛したかつお節 焼きたて遺骨の上で踊る



2018年8月3日金曜日

大阪市吉村市長は学力低下の産物


「学テ」結果、校長や教員のボーナス、学校予算に反映へ…最下位状態化に危機感 大阪市の吉村市長方針

http://news.livedoor.com/article/detail/15103783/


じっさい大阪市の教育水準低下は深刻だ。
なにしろ、重要なことを決めるにあたって少しも歴史やデータを調べようともしない吉村洋文のようなバカを生みだし、さらにはそのバカを大阪市長に選んでしまったのだから。
これは教育の失敗の結果といわざるをえない。

大阪市で何が起ころうとしているのか。
 大阪市の吉村洋文市長は2日、今年度の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)の総合成績が昨年度に続き、政令都市の中で最下位になったことを受け、「抜本的な改革が必要だ」として、学力テストに具体的な数値目標を設定、達成状況に応じて校長、教員のボーナス(勤勉手当)や学校に配分する予算額に反映させる制度の導入を目指す考えを明らかにした。 

どうやら吉村市長は「子どもたちの学力に応じて教員のボーナスを決めれば子どもの学力が伸びる」と考えているらしい。
ここには何重もの過ちがある。

まず、こんなことをしても教員はやる気にならない。むしろ逆効果だ。
ダン・アリエリー『予想どおりに不合理』にこんな一節がある。
人々がお金のためより信条のために熱心に働くことを示す例はたくさんある。たとえば、数年前、全米退職者協会は複数の弁護士に声をかけ、一時間あたり三〇ドル程度の低価格で、困窮している退職者の相談に乗ってくれないかと依頼した。弁護士たちは断った。しかし、その後、全米退職者協会のプログラム責任者はすばらしいアイデアを思いついた。困窮している退職者の相談に無報酬で乗ってくれないかと依頼したのだ。すると、圧倒的多数の弁護士が引きうけると答えた。
今、子どもたちに勉強好きになってもらおうとがんばっている教員たちはたくさんいるだろう。彼らはボーナスの査定のためにやっているのだろうか。そういう教員もいるだろうが、むしろ少数派ではないだろうか。
彼らの行為に対して報酬をちらつかせることは逆効果だ。もちろんがんばっていることは評価したらいいが「結果を出したらボーナスはずんでやるよ」ということで彼らがよりいっそうがんばるようになるかというと、まったく逆だ。

ほとんどの親は子どもの運動会で一生懸命走る。がんばっても何ももらえないのに。
ではレース前に「一等になったら百円あげます」と言ったらどうなるだろう。
百円のために一生懸命走っているようで恥ずかしい、みっともない、情けない。たいていの親はそう考えて手を抜くだろう。
吉村市長は金のためだけに市長職をやっているせいで理解できないのかもしれないが、ほとんどの教師は金のためだけに教えているわけではないのだ。

能力のある教師のやる気を奪い、金をちらつかせなければ動かない教師に報酬を与え、意欲ある未来の教師を遠ざける。吉村市長は大阪市の教育をぶっつぶそうとしているらしい。



全国学力テストは1960年代にもおこなわれていた。全国中学校一斉学力調査という名前で。
なぜなくなったのか。学校間、都道府県間の競争意識が高くなりすぎた結果、不正が横行するようになったからだ。
学力テスト対策のための授業をするようになる、問題や答えを生徒に教える、勉強の苦手な子どもをテスト当日欠席させる。
このような経緯と現場の教員の反対で昭和の学力テストは廃止された。

2007年になって全国学力・学習状況調査という名前で復活したが、その名の通り学力を調査するためだけのものとしてである。
学力テストの結果をもとに報奨を与えたり罰を与えたりすることがマイナスにしかならないことがわかったので、あくまで現状把握のためだけに使うことになったのだ。
ちょっと調べればこういう経緯はすぐわかるわけだが、市長は歴史から学ぶ気が少しもないらしい。

また、子どもの学力に影響を与える最大の要因は遺伝であることが数々の調査から明らかになっている。
他にも家庭環境や友人関係なんかも影響を与え、教師が与える影響というのはごくごくわずかだ。
 さらには、学力には遺伝の影響も大きいことがわかっています。私が行動遺伝学の専門家である九州大学の山形准教授らとともに行った研究では、中学3年生時点の子どもの学力の35%は遺伝によって説明できることが、明らかになっています。
 これ以外にも、生まれ月、生まれ順、生まれたときの体重など、どう考えても子ども自身にはどうしようもないようなことが、子どもの学力や最終学歴に因果効果を持っていることを示すエビデンスもあります。身もふたもありませんが、これが経済学の研究の中で明らかになっている真実です。「どういう学校に行っているか」と同じくらい、「どういう親のもとに生まれ、育てられたか」ということが学力に与える影響は大きいのです。先ほどの北條准教授が日本のデータを用いて教育生産関数を推計したところ、家庭の資源が学力に大きな影響を与える一方で、学校の資源はほとんど統計的に有意な影響を与えなかったことも明らかになっています。
(中室牧子『「学力」の経済学』)

教師の鼻先にニンジンをぶらさげ、それによって仮に教師のやる気に火がついたとして(まずない話だけど)、短期間に全体の学力が向上することはありえない。

ボーナスで釣ってもマイナスにしかならないことを示す歴史もデータもいくらでもあるのに、そこから市長が何も学ぼうとしないのだから大阪市の教育はもうだめかもしれない。



ぼくは音痴だ。まるっきり音程がとれない。歌は超へただ。
でもそれは小中学校の音楽の先生のせいじゃない。原因を求めるにはもっと昔にさかのぼらなければならない。ぼくの親のせいかもしれないし、胎児のときに胎教で聴いた歌のせいかもしれないし、もしかしたら遺伝子のせいかもしれない。

音楽教師に「合唱コンクールのうまさによってボーナスを決めます」といったらどうなるだろうか。
もし音楽教師がボーナスを欲しがるならば、合唱コンクールの日にぼくを休ませるか、「口パクしなさい」と命じるだろう。それがもっとも手っ取り早く合唱のレベルを上げる方法だ。ボーナスの多寡に釣られる賢しい教師であればそうする。合理的な判断だ。
ちょっとマシな教師であれば、合唱コンクールの課題曲だけをまともに歌えるようにうんざりするぐらいぼくに居残り練習をさせるだろう。ぼくが歌うことを大嫌いになるまで。

学力もそれと同じだ。努力でなんとかなる部分はあるが、大部分は遺伝子と生まれ育った環境で決まってしまう。
全国学力・学習状況調査は小学六年生と中学三年生を対象におこなわれる。小六や中三で勉強が苦手なのは、まずまちがいなく小六や中三のときの教師のせいではない。できなかったことの積み重ねなのだ。

たしかに教師がめちゃくちゃ努力して生徒本人もやる気になれば、一年である程度リカバリーすることは可能だろう。だが数十人のクラス全員にそれをするにはリソースが圧倒的に足りない。



吉村市長は短絡的に「学力が低いのは教師がさぼっているせいだ」と考えているらしい。大阪市は生活保護受給率が全国の政令指定都市中ワーストワンだが根っこにある。こういう原因には目をつぶって「監督者の頬を札束でビンタすればすべて良くなる」と考えているらしい。
上の記事にはこうある。
成績の低迷は長年常態化しており、吉村市長は「強い危機感を持っている」と強調。児童生徒の学力向上に向けて、市教委や学校の意識改革の必要性を指摘し「結果に対して責任を負う制度へ転換しなければならない」とした。
もしほんとに結果に対して責任を負う制度へ転換したいのであれば、責任をとるのは現場の教師ではなく制度設計をしている機関の長、すなわち大阪市長だ

「学力テストで全国ワーストワンになったら大阪市トップであるぼくちんの報酬全額返納します! その分を教育に使うお金に充ててください!」というのがスジじゃないのか。

それだったらまだ「ああ、バカなりになんとかしようと考えたのね。はっきり言って無駄だけど心意気だけは評価するわ」という”愛すべきバカ”キャラ扱いだったのに、「大阪市の子どもの成績が悪いのは教員のやる気がないからだ!」と他人に責任を押しつけるようではただの”迷惑なバカ”でしかない。

世の中が悪いのはすべて公務員がさぼっているからだ、という維新の会マインドがこの方針にはとてもよく表れている。誰かのせいにすることほど楽なことはない。なんたって自分は頭を使わなくていいんだから。



ちなみにぼくは大阪市民である。今までのんきに「うちの子は公立校でいっか。お受験とか面倒だし金もかかるしな」と考えていたけれど、バカが頭を使わずに考えたバカな政策が本気で通るようなら、本気で公立校を避けることを考えなくてはならない。

かくして教育熱心な親は大阪市の公立校を避け、大阪市の学力テストの結果はますます下がるんだろうな。


【関連記事】

【読書感想文】 ダン・アリエリー 『予想どおりに不合理』

【読書感想文】中室牧子 『「学力」の経済学』

【読書感想文】橘 玲『言ってはいけない 残酷すぎる真実』


2018年8月2日木曜日

【読書感想文】きもくて不愉快でおもしろい小説 / 矢部 嵩『魔女の子供はやってこない』


『魔女の子供はやってこない』

矢部 嵩

内容(e-honより)
小学生の夏子はある日「六〇六号室まで届けてください。お礼します。魔女」と書かれたへんてこなステッキを拾う。半信半疑で友達5人と部屋を訪ねるが、調子外れな魔女の暴走と勘違いで、あっさり2人が銃殺&毒殺されてしまい、夏子達はパニック状態に。反省したらしい魔女は、お詫びに「魔法で生き返してあげる」と提案するが―。日常が歪み、世界が反転する。夏子と魔女が繰り広げる、吐くほどキュートな暗黒系童話。

ライトノベルっぽい表紙でふだんならぜったいに買わない本なんだけど、角川ホラー文庫というレーベルとクレイジーなあらすじに惹かれて読んでみた。

安易にこういう言葉を使いたくないんだけど、この人は奇才だ。どうやったらこんな小説が書けるんだ。よくぞこの人に文学賞を与えてデビューさせたな。まったくもってどうかしている。
文章めちゃくちゃだし内容はグロテスクだしストーリーは不愉快だし、なのにおもしろい。もう一度書く。まったくもってどうかしている。

主人公の女の子と魔女の友情を描いた短篇集。というとほんわかした話っぽいけど、人はばたばた死ぬし口汚い罵倒が並ぶし虫はぐちゃぐちゃつぶれる。表紙で買った人は後悔してるだろう。でもそのうち一割ぐらいは当たりを引いたと思ってくれるだろう。
この小説はどういうジャンルにあてはまるだろうかと考えてみたけどくくれない。ホラーとファンタジーとミステリと児童文学と青春文学をぐちゃぐちゃっと混ぜて、それぞれの気持ち悪いところだけを取りだしたような小説だ。いろんな種類の不快感が味わえる。嫌な気持ちになりたい人にとってはとってもお得だ。

序盤はグロテスクが強め、二篇目で急に児童ファンタジーみたいな展開になってやや退屈さを感じたのだが、四篇目の『魔法少女粉と煙』あたりからひきこまれた。
読んでいるだけでめちゃくちゃ痒くなる執拗な痒みの描写、安心させといてラストで急ハンドルを切る気味の悪いオチ。見事なホラーだった。

特に秀逸だったのは『魔法少女帰れない家』。
主人公が仲良くなったすてきな奥さん(奥という苗字の奥さん)。剣道が強い高校生の娘とかっこいい大学生の息子とペットと暮らす、絵を描くのが好きな奥さん。彼女が友だちの結婚式に行きたいというので魔法で一週間奥さんの代わりをすることになるが……という内容。

ほのぼのした導入から家庭の地獄のような裏側が露わになり、そして苦労を乗りこえた先にある後味最悪なラスト。
うへえ。嫌な小説だあ。この嫌さがたまらない。さりげない伏線の張り方も見事。
感情を激しく揺さぶってくれるいい短篇だった。万人におすすめしないけどね。



すっごくクセのある文章なんだけど、読んでいるうちにああこれは女子小学生の文章なんだと気づく。
 十回建てのげろマンションは壁に当たる夕陽が眩しく、書き忘れたみたいに輪郭線が飛んでいました。見上げると壁は傾いて見えて、角度のきつい遠近法でした。
こういう変な文章が続くのではじめは読みづらいが慣れてくるとこれすらも楽しくなってくる。
女子小学生の気持ちってこんなんかもしれない。女子小学生の語りを聴いているような気分になる。ぼくは女子小学生だったことはないので(そしてたぶんこれから先も女子小学生になることはないだろう)想像でしかないけど。

作品中の時間が経過して主人公が成長するにつれて文章がだんだんこぎれいになってくるのがちょっとさびしい。我が子の成長を感じてうれしいと同時に一抹の疎外感も感じるときの気持ちに似ている。
 小さい頃願ったものになることは難しいと思う。思い描くようには何事もいかないし、した想像より出来なかったそれがいつでも自分を待ち構えていた。願いと私ともそう仲良しということはなく、叶わなかった願いもあれば、願わず叶った自分もあった。
 意志の話をそれでもしてきたのは、それが畢竟人間相手の通貨になるからで、夢見る夢子と夢の話をしていて愉快というだけだった。壁と話す日使い出のある言葉とも思わなかったし、正しい方向を示したこともなかった。願いも別に口にすることはないわけで、お喋りの間にした後悔は幾つもあった筈だった。
こういうヘンテコな文章が、慣れてくるにつれていい文章のように思えてくるからふしぎだ。日本語の体をなしていないのになんとなく意味がつかめて味わい深く思えてくる。

「変わった小説が読みたい」という人にはおすすめしたい一冊。そうじゃない人には勧めません。


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【読書感想】恒川 光太郎 『夜市』



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2018年8月1日水曜日

とっても無責任でとってもピュア


インターネットを見ていると、他人の悩みに対して一秒も頭を使わずにアドバイスをしている人を見かける。

夫婦問題で悩んでる人に「離婚したほうがいいですよ」とか。

仕事の愚痴言ってる人に「そんな会社今すぐ辞めるべきです!」とか。

もう、ほんとバカ。それを回避したいから悩んでんだろ。


それ、「死ねばすべての悩みから解放されますよ」って言ってんのと同じだからな。
かつての仲間を爆殺しといて「解放してやったぜ…… くくくくく 恐怖からな」って言ってるゲンスルーと同じだからな。

仮に離婚や退職を勧めるにしても、「お金が許すのであればまず一ヶ月だけでも別居してみては」とか「一度転職エージェントにでも行って今以上の条件で転職できそうな仕事がないか探してみては」とか、段階的な勧めかたがあるだろうに。
「離婚したほうがいいですよ」って言われて「じゃあ離婚してみます!」ってなるわけないだろ。

……それともあれか、こういうコメントしちゃうような人は、自分が同じ立場になったときに知らん人から「離婚したほうがいいですよ」って言われて「じゃあ離婚します!」ってなるのか。
まさか、とは思うが、ひょっとしたらそんなノリで離婚しちゃうのかもしれない。
「じゃあ死ねば?」って書いたら死んじゃうのかもしれない。ピュア~!