2018年7月17日火曜日

もうダンス教室やめたい


娘のおともだち(四歳)がダンス教室に通っている。
「ダンス教室楽しい?」と訊くと、「もうダンス教室やめたい……」と云う。

「なんで? この前はダンス好きって言ってたのに」と尋ねると
「踊るのは楽しいけど、新しいダンスをいっぱい覚えないといけないし、せっかく覚えたダンスはやらせてもらえないし、まちがえたら怒られて何回もやりなおさないといけないし、もうイヤ……」
と返され、そのあまりにまっとうな理由に思わず言葉を失った。

四歳児の抱えるつらさがはっきりと実感できた。
それはつらいよね……。
ダンスが好きなのに、好きなダンスを踊れないんだもんね。




子ども向けサッカー教室をやっている知人から聞いた話では、最近のサッカー教室では技術的なことを教えずに「とにかくサッカーをやりましょう」という方針のところが増えているそうだ。
まずはサッカーのおもしろさを教えるのが先、おもしろいと思ったらうまくなるにはどうしたらいいかと自分で考える、そのときに誤った方向に行かないようにうまく手助けしてやるのが指導者の役目だ、という話を聞いた。

それがいちばんいい、と思う。
ぼくは小学校二年生から五年生までサッカーチームに入っていた。自分から「サッカーやりたい!」と行って入部したのだが、リフティングを〇回やれるように何回も練習しなさいだの、三角コーンの隙間を縫ってドリブル練習しなさいだの、シュートをして決まらなかったらグラウンド一周だのと言われているうちにすっかり「サッカーやりたい」という気持ちが消えてしまい、練習に行くのを苦痛に感じることも多くなった。
ぼくはサッカーがやりたかったのに。リフティングも三角コーンドリブルもグラウンド一周もサッカーじゃなかった。

むずかしいことはいいからサッカーのゲームをしましょう、という方針だったらぼくも続けていたかもしれない。



四歳児のダンスなんて、上手に踊れなくたっていいじゃないか、と思う。
ちっちゃい子が音楽にあわせてうごうご動いてるだけでも十分観ていて楽しい(親は)。

子どもがダンスをまちがえてもかわいい。
緊張して動けなくなっていたら応援したくなる。
一生懸命やっていたら感心する。
そしてなにより、楽しそうにやっていたらうれしい。

子どもダンス教室なんて、そんな感じでいいじゃない。

子どもをダンス嫌いにさせないこと、それが子どもダンス教室の最大にして唯一の使命だ。


2018年7月16日月曜日

地頭がいい人


いろんな企業の採用担当の人と話す機会があるのだが、
「地頭(じあたま)がいい人」
というフレーズをよく耳にする。

必ずしも学歴重視ではないが頭の回転がはやい人、みたいな意味で使われる。
「べつに高卒とかでもいいんですが、地頭がいい人に来てほしいです」のように。

ぼくはその言葉を聞くたびに、心の中で首をかしげる。
たしかに学歴は低くても頭の回転のはやい人はいる。
でもそういう人を表現するのは「頭がいい」でいい。わざわざ「」という接頭語をつける必要はない。

「地頭がいい」とは、「今は頭は良くないがすぐに良くなる」という意味なのだ。
だが、そんな人はいない。



「地頭がいい」という言葉を使う人は、
「今は頭が良くないけどなにかの拍子に頭の良さが開花する人」が存在すると思っているのだろう。
漫画の主人公がある日突然自分の眠っていた才能に気づくように、素質を持った者が聖なる弓矢に撃たれたとたんにスタンド使いになるように、「ある日突然頭がよくなる」ことがあると思っているのだろう。

あたりまえだが、そんなことはありえない。
素質だけで頭の良さが決まるのは三歳までだ(もっと早いかもしれない)。
頭の良さは、素質×トレーニングの量で決まる。そして大人になるほど後者の重要性が大きくなる。
二十歳をすぎて頭の良くない人が、急に頭が良くなることはない。トレーニング量が圧倒的に足りないから。
一念発起して必死に勉強したとしても、ずっと勉強してきた人にはまず追いつけない。

たくさんトレーニングをしてきた人ほどトレーニングのやりかたがうまいので、仮に同じ時間トレーニングをしたとしてもその差は開くばかりだ。



「地頭がいい」は、スポーツでいうところの「運動神経がいい」に相当するのかもしれない。

「運動神経がいい」とは、「トレーニングをしたときの上達するスピードが早い」や「十分なトレーニングをしたときに高いレベルに達することができる」である。「トレーニングをしなくてもできる」ことではない。
どんなに運動神経がいい人も、生まれてはじめてバッターボックスに立ったときは空振りする。

「トレーニングしたらプロ野球選手になれる人」と「どれだけトレーニングをしても野球選手になれない人」の違いはある。その差こそ「持って生まれた運動神経」の差だ。
だが「野球をやったことないけど素質だけでプロ野球選手になれる人」は存在しない。

「もし小さい頃から野球やってたらプロになれたであろう人」はいるだろうが、彼が今後野球選手になることはない。

同じく「地頭がいい人(=素質はあったけどトレーニングをしてこなかった人)」も、永遠に「地頭いい人」のままだろう。


2018年7月15日日曜日

椅子取りゲームで泣いた話


四歳の娘が云う。

「あのな、今日保育園でゲームして勝てなくて泣いちゃってん。椅子取りゲームをしてんけどな、ずっと勝っててんけど最後にRくんがズルしてん。ほんまは先に椅子を触ったらあかんけど、先に椅子を持っててん。それで負けたから泣いちゃってん。でも先生はRくんがズルしたこと知ってて、(娘)にがんばったねって言ってくれてん」

これ自体は大した出来事じゃないんだけど、

起こったことを他者にわかるように順を追って説明したり、

伝わりにくい点を補足したり、

自分の感情がどう動いたかを表現したり、

うまく伝えることができるようになったんだなあとしみじみと感心した。


ツイートまとめ 2018年05月


大人の証

鼻毛

L⇔R

ひとりごと

なぞなぞ

世間

脱衣

褒められて

いろいろあって

誤解

LEGO

見える化

思慮

四親等

減少の理由

オーディオ

巧妙な手口

悪いコンテンツ

クールジャパン


2018年7月13日金曜日

ぼくたち見せしめ大好き!


『人口減少社会の未来学』という本の中で、平川克美氏がこんなことを書いていた。

 もし、晩婚化から早婚化へのベクトルの転換が難しいとするならば、少子化対策として可能な政策はひとつしかない。それは、結婚していなくとも子どもが産める環境を作り出すこと以外にはないだろう。
 少子化をめぐる状況を、改善のすすまない日本や韓国と、ある程度歯止めがかかったヨーロッパとの比較で見ていると、顕著な相違に気付く。その相違とは、婚外子率である。フランスもスウェーデンも婚外子率が5割を超えている。ヨーロッパの中で、日本と同じ家族形態を持っていたといわれるドイツでさえも35%という数値を示している。
 これに対して、日本の婚外子率は、1桁以上少なく、わずかに2.3%でしかない。韓国はさらに低く1.9%である。つまり、法律婚をしていないで子どもをもうけることは、儒教的なモラルに縛られているアジアにおいてはほとんどタブーのような扱いになっているということである。
 日本における少子化対策は、婚姻の奨励や、子育て支援が中心である。フランスやスウェーデンにおける少子化対策は、日本や韓国とは向かっている方向が逆で、法律婚で生まれた子どもでなくとも、同等の法的保護や社会的信用が与えられるようにすることであった。婚姻の奨励や、子育て支援といった個人の生活の分野には、政治権力が介入するべきではないと考えているからだ。むしろ、人権の拡大や、生活権の確保といった方向に、この問題を解決する鍵があるということである。

ここには少子化を(少しだけ)食い止めるヒントが書かれている。
婚外子の保護を手厚くすることだ。

でも。
断言してもいいが、絶対に日本は「結婚してない親から生まれた子どもを支援する」方向には舵を切らない。
フランスやスウェーデンだって結婚せずに子を生むことを推奨しているわけではない。ただ「結婚せずに生まれた子も差別せずに、むしろ積極的にサポートしていきましょう」と言っているだけだ。
日本はそれすらやらない。やれない。「むしろ積極的に差別していきましょう」という方針を貫く。



他の国はどうだか知らないので比較はできないが、日本人は"見せしめ"が好きだ。人類に共通する習性かもしれないが。

犯罪者が罰を受けることに対して、ほとんどの人は「被害者への償い」「犯罪者の更生」だとは考えていない。「他の人への見せしめ」と思っている。
だから遺族が望まなくても被害者の実名や写真を公表するし、報道に「冤罪だったら」「加害者が刑期を終えて一般市民に戻ったら」なんて視点は少しもない。
あるのは「悪いことをしたやつはこうなるんだぞ。わかったな」という見せしめ意識だけだ。磔(はりつけ)刑の時代とやっていることは変わらない。

見せしめだから、冤罪であっても関係ない。被害者が報道を望んでいなくても関係ない。補償も更生も気にしない。
それが冤罪であっても、犯罪を大々的に報道することは「悪いことしたらこうなるんだぞ」という見せしめには有効だ。





「結婚してから子どもを産んだほうがいい」という考え自体は、世界中ほとんどの文化で主流を占める考えだ。
でも"見せしめ"が好きな人たちは「結婚してから子どもを産んだほうがいい。だから結婚せずに子どもを産んだら不幸になるべきだ」と考える。そうすれば結婚せずに子どもを産む人間は減るだろう、と。

この手の考えはあちこちに蔓延している。
「高校を中退したやつはまともな仕事につくべきじゃない」
「不倫をしたやつはテレビに出るべきじゃない」
「あくどい儲け方をしたやつはろくな死に方をしない」
「夫婦別姓なんか選択する家庭の子どもはつらい思いをする」

赤の他人が高校中退しようが、不倫をしようが、法律スレスレのやりかたで金儲けをしようが、夫婦別姓を名乗ろうが、自分には関係ない。でも"見せしめ"を欲しがっている人にとってはそうではない。自分の考えと違う生き方をしている人には不幸になってほしいと思っている。



結婚してないやつは子どもを産むな、未成年者は子どもを産むな、まともな仕事をしてないやつは子どもを産むな、子どもをかわいがれないやつは子どもを産むな、責任感のないやつは子どもを産むな、他人に迷惑をかけるなら子どもを産むな、でも少子化を止めるために結婚して子どもを産め。
わが国で求めらているのはそういうことだ。

世の中が求めているのは「規範的な生き方をする人」と「見せしめ」のどちらかだけだ。規範から外れているけど幸せな人、は欲していない。


ぼくは「子どもは親のものではない」と思っている人間なので、個人的には、とりあえず産んでみて育てるのが難しそうだったらとっとと手放せばいいと思う。
子育てに必要なのは「何があっても子どもをまっすぐ育てあげる覚悟」ではなく「親が手放した後もちゃんと育てる仕組み」だと思っている。