2018年6月13日水曜日

船旅の思い出


学生時代、船で中国に行った。
なにしろ金はなかったがひまだけはあった。
今はどうだか知らないけれど、ぼくが大学生のとき、夏休みは二ヶ月半もあった。春休みも二ヶ月近くあったから、それだけで一年の三分の一以上を休んでることになる。冬休みとか土日祝日とか入れたらたぶん半分以上は休日だったはずだ。狂った制度だったとしかいいようがない。それだけではあきたらず平日のうち一日は授業を入れずに自主休校にしていた。制度が狂っていると学生も狂うようだ。
そんな学生が週休一日で毎日残業の社会人生活に耐えられるはずもなく、数ヶ月で仕事をやめてめでたく無職になった。狂った学生生活のおかげである。社会人生活のほうも狂っている気もするが。


閑話休題。船旅の話に戻る。
ぼくと友人は蘇州号という船で中国へ渡った。神戸から天津まで片道五十時間かかる。移動だけで五十時間、往復で百時間。なんとも贅沢な時間の使い方だ。
ただし贅沢なのは時間だけで、金銭のほうは実にお手頃だった。たしか往復で三万円ぐらいだったはず。往復百時間で三万円。一時間あたり三百円。安すぎる。中国語でいうと太便宜。太い便が出たみたいな字面だ。
飛行機だと二時間ちょっとで到着して数万円だから時間あたり一万円を超える。はたしてこの計算にどんな意味があるのか知らないが、とにかく船旅は安い。

蘇州号には一等客室と二等客室があって、ぼくらはもちろん安いほうの二等客室を選んだ。あたりまえだ。一等客室を選ぶ理由があるのか。安くもないし速くもないのに。わざわざ一等客室を選ぶ理由としては「飛行機が飛ぶことを信じていない」「荷物がでかすぎる」ぐらいだろうか。

船を選んだのにはもうひとつ理由がある。
旅行の少し前に肺気胸という病気を患ったのだ。肺に穴が開くというおそろしい病気だ。
内視鏡手術を経て治ったのだが「肺気胸は再発しやすい病気です。高い山とか飛行機とか気圧の変化の大きなところにいくとまた穴が開きやすいので気を付けてください」と言われたのだ。
飛行機上で肺に穴が開いたら困る。人生において一度ぐらいは「この中にお医者さんはいらっしゃいませんか!?」の場面に遭遇してみたいものだが、そのとき横たわっているのが自分なのは嫌だ。


船のチケットを取ろうとしたら、ビザがいると言われた。二週間以上の滞在だとビザが必要なのだ。
京都華僑総会という怪しい組織の事務所へ行ってビザを取得した。大使館や領事館のような公的機関じゃなくても取得できるのか。さすがは華僑、力を持っているなと感心した。


船旅はなかなか楽しかった。
出発のタイミングで見送りの人が手を振っていた(残念ながらぼくらの見送りはいなかったが)。船旅はこれができるのがいい。飛行機だと離陸の瞬間はシートベルトをしているし、外なんかほとんど見えない。下が見えるようになったときには人間なんかもう豆粒より小さくなっている。船だと乗客は甲板に出て港を見ることができる。
また飛行機は離着陸の瞬間はものすごく揺れるのでぼくは毎回事故を起こさないかと怖くてたまらないのだが、船の場合はさほど怖くない。万一沈んでもまだここだったら泳いで岸に戻れるな、と思える。
出発の瞬間、映画みたいに紙テープを投げて別れを惜しんでいる人がいて、ほんとにやるんだと感心した。

蘇州号の乗客はぼくらのような学生と、バックパッカーと、中国人の家族ばかりだった。みんなお金がなさそうだった。あたりまえだがビジネスマンなんかひとりもいなかった。五十時間の船旅を許してくれる豪気な会社はないらしい。
二等船室は、二十人ぐらいが入れる大部屋だった。といっても客数は少なく、定員の半分もいなかったのでゆったりと使えた。布団と枕が置いてあるだけで後はなんにもなく、ここで雑魚寝するのだ。

船が出発して間もなく、避難訓練をするから全員集合せよというアナウンスがあった。
じっさいに救命胴衣を身につけ、沈みかけたらここから脱出して浮いて救助を待てと言われた。
飛行機は墜落したらまず助からないが、船なら沈んでもなんとかなりそうな気がする。救命胴衣を身につけてぷかぷか浮かんでいたら救助が来てくれるかもしれない。みんな真剣に説明を聞いていた。

船内の食事はめちゃくちゃまずかった。中国風のお粥や饅頭が出されたと記憶しているが、味がまったくしなかった。こんなにまずい食べ物があるのか、と感心した。
飯がまずかったからか、ひどく酔った。吐きはしなかったが(なぜなら食事がまずくてほとんど手をつけていなかったから)、終始胃がむかむかしていた。
気分転換に船内を散歩していると、ビールの自販機があった。缶ビールが一本百円ぐらいで売られていた。船内は免税なのでばかみたいに安いのだ。残念ながら絶賛船酔い中だったので飲む気にはならなかった。

そう大きい船でもないので見るところはさほどない。甲板に出ると風が気持ちよかったが、潮水をかぶるので長居はできない。
やることもないので船室で過ごした。
部屋の片隅にそう大きくないテレビが吊るされていて、そこで映画『リング』をやっていた。こういう不特定多数が見るような場所で流すものとして、ホラー映画はどう考えてもふさわしくないだろう。謎のチョイスだ。
中国人家族と一緒に『リング』を眺めた。

同室に、見るからにバックパッカーの若い男がいた。ぼくと同年代だ。
彼は「どこに行くの?」と話しかけてきて、こちらの答えを聞くか聞かないかのうちに自分のことを語りだした。中国から陸路でインドに渡るのだという。
「インド行ったことある? ぼくは何度もインドに行ったけど、インドはいいよ。人生観変わるよ」と語られた。
その、人生観変わったとは思えないほど薄っぺらい言葉にぼくらは内心失笑していたが、彼はうれしそうにインドの魅力を語ってくれた。乞食が群がってくるとか、ガンジス川で死体が流れてくるとか、「どこかで聞いたことのあるインド」を得意げに披露してくれた。

彼の絵に描いたようなインドかぶれっぷりは、ぼくらに道中の話題を提供してくれた。
ぼくらは中国に渡った後、そして帰国した後もしばらく「人生観変わったごっこ」をして楽しんだ。
「君は京都に行ったことがあるかな。あそこには人力車が走ってるんだ。人間の生きるパワーがまるで違うね。あれに触れたら人生観変わるよ」
「君はケンタッキーフライドチキンに行ったことがあるかな。あそこには鶏の死体がたくさんある。けれどいちいち騒いだりしない。死が生活と隣り合わせにあるんだな。あそこに行ったら人生観変わるよ」
と、インドかぶれ男の口調を真似てはげらげらと笑った。


五十時間の船旅は、ぼくの人生の中でもっとも贅沢だった五十時間かもしれない。
退屈でしかたなかったし、船酔いで気持ち悪かったし、飯はめちゃくちゃまずかったけど、それこそが贅沢な経験かもしれない。
楽しくて快適でおいしいものを食べる旅行なんて、金さえ出せばかんたんにできるもんね。


2018年6月12日火曜日

ストロベリーハンター


子どもを連れて狩りに出かけた。
まだ人類が定住生活をしていなかった時代から、子どもに狩りを教えるのは父親の役目だ。ただしぼくが教えるのはいちご狩りだが。


娘はいちごが大好きだ。

以前、義母が大粒の高級いちごを手土産に持ってきてくれたことがあった。娘は、子どもが唯一持っている武器である「いじらしさ」を存分に発揮し、その場にいた大人たち全員からいちごをせしめ、一パック十個のうち六個をひとりでせしめることに成功した。

大きくて甘いいちごだったのでほんとはぼくだってもっと食べたかったが、ほかの大人たちが高級いちごのように甘い笑顔で「もっと食べたいの? じゃあどうぞ」といちごを差しだしているのに、父親であるぼくだけが「食べたいなら自分で稼げるようになってから働いた金で買って食え」と言うわけにもいかない。泣く泣くいちごを献上した。

他人のいちごまで遠慮なく食うぐらいだからいちご食べ放題のいちご狩りに連れていったらさぞ喜ぶだろうと思い、いちご狩りができる場所を調べてみた。
わかったことは、世の中の人はいちご狩りが好きということだった。土日は予約がいっぱいで、二週先までいっぱいだった。いくつかの農園にあたってみたがどこも似たような状況だった。仮想通貨ブームが落ち着いた今、いちご狩りブームが来ているらしい。

いくつかあたった結果、予約可能な農園を見つけた。
あたりまえだがいちご農園は駅前直結ショッピングモールの中のような便利な場所にはない。車で行くべき場所なのだろう。だが都会人の悲しさ、我が家には車がない。電車で一時間、さらにバスで三十分という立地の農園を予約した。


いちご狩りは二十数年ぶりだ。幼稚園児のときに家族で出かけた記憶がある。ただしいちごを摘んだ記憶はない。ぼくがいちご狩りに行ったとき、ちょうどそこで市のイベントをやっていて、市長のおっちゃんが来ていた。そしてきれいなお姉さんがバスガイドのような恰好をして立っていた。「ミス〇〇」というたすきをかけている。まだミスコンテストが堂々とおこなわれている時代だったのだ。
そして市長がミス〇〇と握手をした。今になって思うと、農協だかいちご生産者協会だかの人が悪だくみをして「美人と握手をさせて市長の機嫌をとっておこう」みたいな企てがあったのかもしれない。幼稚園児のぼくはそこまで考えていなかったが、美人と握手をしている市長の顔が真っ赤になっていたことだけ記憶している。
以来ぼくにとって「いちご狩り」とは「美人と握手をした市長の顔が真っ赤になるイベント」だったのだが、ついにその記憶が上書きされる日がやってきた。


予約当日はあいにくの大雨だった。
いちごはビニールハウスで栽培するので狩りに天候は影響ないのだが、大雨の中電車とバスを乗り継いでいくのはおっくうなものだ。「交通費を考えれば百貨店に行って高級いちごを買ったほうが安くつくな」と不穏な考えも首をもたげてきたが、娘と「日曜日はいちご狩りにいくよ」と約束してしまっている。いちご狩りの愉しさを説いてしまった上に、この一週間は「歯みがきしないんだったらいちご狩りに行くのやめるよ」などとさんざん要求を呑ませるためのダシに使わせてもらった。今さらひっくり返すことはできない。しかたなく雨具を用意して出かけた。


いちご狩りはファミリーで楽しむものかと思っていたが、ヤンキーのカップルや大学サークルのイベントっぽい団体などもいて、若者にも人気のようだった。やはりブームが来ているらしい。
農園のおじさんから「5と6のエリア以外のイチゴは摘まないでください。他のエリアは入口に鎖がしているので入らないでください」と説明を受けたにもかかわらず、ヤンキーカップルの男は禁止エリアのいちごを摘んでいた。また彼は農園の入り口でたばこをポイ捨てしていた。
「ヤンキー」と「いちご狩り」はまるで似合わないように思うが、彼はちゃんとヤンキーらしく社会のルールを逸脱しながらいちご狩りを楽しんでいるのだ。その一貫する姿勢は清々しさすら感じられた。なんてまじめなヤンキーだ。「ヤンキー」と「いちご狩り」が両立することをぼくははじめて知った。


狩りはかんたんだった。赤く色づいたいちごを見つけ、茎をはさみでチョキンと切るだけ。熊狩り、潮干狩り、オヤジ狩り、魔女狩り、刀狩り、モンスターハント。世の中に狩りと名の付くものは数あれど、いちご狩りほど容易な狩りはないだろう。いや、紅葉狩りには負けるか。なにしろあれは見るだけだからな。
いちご狩りはかんたんだ。狙った獲物は逃がさない。誰でも百発百中の優秀なハンターになれる。四歳児ですら何の造作もなく赤いいちごを仕留めていた。

まずいちごを十個ほど狩って席についた。
いちごだけでなく、アイスクリームやケーキやプリンもあってそれがすべて食べ放題。ファミレスにあるようなドリンクバーも置いてあって、こちらも飲み放題。すばらしい。
「いちごの乗ってないショートケーキ」があって、そこに好きなだけいちごを乗せてオリジナルいちごのショートケーキを作れる。わくわくする。

なによりうれしいのが、業務用の練乳がどーんと置いてあることだ。
ぼくは甘いものと乳製品が好きだ。当然、練乳も大好きだ。
小学生のときは練乳を食べるためだけにかき氷をつくって食べていた。途中からかき氷をつくるのがめんどくさくなって練乳だけ飲んでいた。森永の練乳チューブに直接口をつけて吸いだすのだ。

おさな心にも「いけないことをしている」という背徳感があり、家族が誰もいないときを狙ってひそかに犯行に及んでいた。
松本大洋『ピンポン』で主人公のペコが練乳のチューブを吸っているのを見たとき、自分だけではなかったのだと知って少し気が楽になった。


皿に練乳を山盛りにして(さすがにいいおっさんになった今は公共の練乳チューブに直接口をつけて飲んだりしない)、いちごをつけて口に運ぶ。
うまい。だが結果からいうと、これは失敗だった。
練乳いちごが甘すぎて、それ以降いちごを食べても味気ないのだ。プリンに乗せてもものたりない。練乳いちごは甘さのチャンピオンだから、それに比べたら他のどんな食べかたも負けてしまう。
しかたなくまた練乳をつけたいちごを口に運ぶが、やはり甘いものというのはすぐに飽きる。十個も食べたら「もういちごはいいや」という気になってきた。

電車とバスで一時間半もかけて来たのに、ひとり二千円ぐらい払ったのに、いちご十個で飽きてしまう。ますます「百貨店で良かった」の思いが強くなるが、あっという間にいちごを食べ終えて新たな狩りに出かけた娘の後姿を見て、思いを改める。

いちご狩りにおいて、いちごを食べるためにお金を払うのではない。体験を買っているのだ。
娘のみずみずしい体験のためなら金銭も労力もたいしたものではない。こう考えられるようになったのは、ぼくが父親になったということなのだろう。
皿に残った練乳を指につけてなめながら、自分が大人になったことを実感していた。


2018年6月11日月曜日

【読書感想】陳 浩基『13・67』


『13・67』

陳 浩基(著) 天野 健太郎(訳)

内容(Amazonより)
華文(中国語)ミステリーの到達点を示す記念碑的傑作が、ついに日本上陸!
現在(2013年)から1967年へ、1人の名刑事の警察人生を遡りながら、香港社会の変化(アイデンティティ、生活・風景、警察=権力)をたどる逆年代記(リバース・クロノロジー)形式の本格ミステリー。どの作品も結末に意外性があり、犯人との論戦やアクションもスピーディで迫力満点。
本格ミステリーとしても傑作だが、雨傘革命(14年)を経た今、67年の左派勢力(中国側)による反英暴動から中国返還など、香港社会の節目ごとに物語を配する構成により、市民と権力のあいだで揺れ動く香港警察のアイデェンティティを問う社会派ミステリーとしても読み応え十分。
2015年の台北国際ブックフェア賞など複数の文学賞を受賞。世界12カ国から翻訳オファーを受け、各国で刊行中。映画化件はウォン・カーウァイが取得した。著者は第2回島田荘司推理小説賞を受賞。本書は島田荘司賞受賞第1作でもある。

香港の作家が書いたミステリ小説。重厚かつ繊細な物語でおもしろかった。

ミステリには「本格」「社会派」というジャンルがある。ざっくりいうと謎解き自体を楽しむのが本格派、事件が起こった社会的背景を描きだすのが社会派だが(すごく雑な説明です)、短篇集である『13・67』はひとつひとつの作品は謎解きメイン、しかし六篇すべてを読むことで香港警察という組織がどのように社会と向き合ってきたかという歴史が見えてくる。短篇としては本格派、短篇集としてみると社会派ミステリになっているという変わった趣向だ。

変わった趣向といえば、第一話で「主人公が死を前にして言葉も発することもできずにベッドに横たわっている」という設定から入るのもおもしろい。主人公がスタートした状態で幕を開ける落語『らくだ』のような導入だ。
ここからどう続けていくのだろうと思っていたら、時系列を逆にして(リバースクロノロジーというらしい)、徐々に主人公クワンが若い時代の話が語られてゆく。
物語の舞台は、第一話は2013年、第二話は2003年、第三話は1997年、第四話は1989年、第五話は1977年、そして最終第六話は1967年である。この間、租借地であった香港ではイギリスや香港警察に対して暴動が起こり、少しずつ民主化が進み、イギリスから中華人民共和国へと変換され、そして再び政府や警察に対する不満が募る時代へと変わってきている。
こうした時代の変化が、『13・67』ではさりげなく、しかし丁寧に描かれている。


ちょうどこないだ読んだ『週間ニューズウィーク日本版<2018年3月13日号>』の『香港の民主化を率いる若き闘士』という記事に、こんな記述があった。
 1997年にイギリスが中国に香港を返還したとき、中国は本土と異なる政治・経済制度を今後7年間維持し、高度な自治を認めると約束した。いわゆる「1国2制度」である。
 このとき普通選挙の実施も約束されたが、20年たった今も香港の有権者は形ばかりの民主主義の下に置かれ、中国共産党のお墨付きを得た候補者の中から投票先を選ぶしかない。
「1国2制度というより、1国1.5制度だ」と、黄は言う。
「その0.5もどんどん縮小し、完全に中国の支配下に置かれようとしている」
 14年秋、何万もの人々が民主的な選挙の実施を求めて香港中心部の主要な道路に居座った。参加者の多くが警察の催涙スプレーを避けるために雨傘を持ったことから、この運動は雨傘革命と呼ばれるようになった。四日間続いた占拠は、同年12月11日、香港警察の暴力的な弾圧で幕を閉じた。

返還当初は「香港は香港がこれまでやってきたやりかたを維持していいよ」と約束していた中国だったが、少しずつその約束は反故にされ、イギリス統治下の香港に根付いていた民主主義は奪われていった。それを指示したのは中国共産党だったが、手先となり実際に民衆を抑圧したのは香港警察だった。

民衆の味方ではなくイギリス(作中の言葉を借りるなら「白い豚」)の手先であった香港警察が徐々に市民から信頼されるようになり、そして今度は中国共産党の手先となってまた信頼を失ってゆく姿がミステリを通してありありと描かれている。
描かれている事件はフィクションだが(事実を下敷きにしているものもあるらしいが)、まるでルポルタージュを読んでいるような気分になる。
イギリス、中国共産党、犯罪者、警察組織、そして市民。それぞれの間で葛藤する香港警察官の苦悩が伝わってくるようだ。

なるほど、これはたしかに読みごたえ十分のミステリだ。
このような骨太のミステリが日本でもアメリカでもなく、香港で生まれたということに時代の移り変わりを感じる。



ミステリとしてはやや粗も目立つ(第一話『黒と白のあいだの真実』などは都合よく展開しすぎだし、第六話『借りた時間に』ではそれまでの短篇と語り口が変わってしまうのでラストのどんでん返しを察してしまう)。しかしエネルギーがみなぎっているため細かい粗は吹きとばしてしまう。それぐらいパワフルな筆力だ。
訳もいい。訳者はミステリの訳には慣れていないらしいが、香港に関する知識の乏しい読者でも抵抗なく読めるようよく工夫されている。

主人公クワンの大きな正義のために小さな悪には目をつぶるというハードボイルドさが痛快だ(平気でおとり捜査や不法侵入もしてしまう)。
これが日本警察を題材にしていたら「こんなめちゃくちゃな捜査する刑事いねえよ。完全に違法捜査じゃねえか」と思うけど、香港というなじみの薄い舞台のおかげで細かい点も気にならない。
そんなまさか、と思いつつも、いや香港ならひょっとしたらありうるかもしれないという気になる。なにしろジャッキー・チェンが『ポリス・ストーリー/香港国際警察』をやってた街だからね。


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【エッセイ】ぼくのHong Kong



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2018年6月10日日曜日

日本人は殺さなさすぎ


この国で生活してみていちばん驚いたのは、電車が時間通りに来ないことだ。
日本の電車は正確だって聞いていたから余計に驚いた。どこが正確なんだよ、しょっちゅう遅れるじゃないかって思った。
しばらくしてから知ったんだが、ジンシンジコっていうんだってな。要するに、人が電車に轢かれてるわけだ。

おいおい、日本ってのはずいぶん物騒な国だな。おれの国だってマフィアが裏切り者を殺した後に線路に置いて処分したりはしてたが、こんなに頻繁にはなかったぜ。
ところがどうやらそうじゃないらしい。ほとんどが自殺だっていうからもう一度びっくりだ。

おれの生まれ育った国じゃあ自殺は大罪だ。宗教とかそういうんじゃない。あたりまえのこととして誰もが持っている考えだ。殴られたらやりかえすとか、きょうだいでファックしちゃいけないとか、そういうレベルでの常識だ。誰も教えちゃいけないが誰でも知っている。

それでもたまに自殺をするやつはいる。家族は隠すが、あの家で自殺者が出たなんて知れわたったら、そりゃもうひどいもんだぜ。
家に石を投げられたり、火をつけられたり、とても同じ家には住めない。自殺みたいな悪いことをしたやつの家族だからな、ひどい目に遭うのもしょうがないけど、それにしたってかわいそうなもんだぜ。

おれの国じゃあ殺人より自殺のほうが悪だ。
だって殺人はしょうがない場合もあるだろ。このままじゃ自分が死んじまうとか、家族が危ない目に遭うとか。日本でも正当防衛ってのがあるんだろ。
殺人は「まあそんな状況に置かれたらしょうがねえよな。殺したくなる気持ちもわかるぜ」ってこともあるけどよ、自殺はねえだろ。「生きてたほうがいいに決まってる」としか思えねえよ。

だから日本人が働きすぎて自殺するなんて話を聞いたとき、こういっちゃなんだが、日本人ってのは頭いいようでばかなんだなって思ったぜ。
おれの国には働きすぎて自殺するようなやつはひとりもいない。死ぬほど働かされるぐらいなら、雇い主をぶっ殺す。そしたら問題は解決だ。そっちのほうが罪も軽いし、自分も死ななくて済むしな。
じっさい、そういう殺しもときどきあるぜ。金儲けに目がくらんだ資本家が、労働者にぶっ殺されることが。外国の会社の社長がほとんどだ。もちろん罪には問われるが、世間は労働者の味方よ。殺すほど働かせた資本家のほうが悪いに決まってる。
そうそう、日本人は「死ぬほど」っていうだろ。あれも違うな。おれたちの国じゃあ「殺すほど」っていうんだ。

だから日本人がいう「ブラック企業」なんてのも、おれの国にはほとんどない。
だって働かせすぎたら殺されるんだからな。いやでも労働環境は改善するってわけさ。どの社長も夕方になったら「おい、早く帰れよ」って言ってまわる。優しいんじゃない、殺されないためだ。

でかい会社の社長は殺されないためにボディーガードを雇うこともあるが、ボディーガードだって労働者だからな。へたすりゃそいつに殺されることもある。結局、恨みを買わないようにするのがいちばんってことだ。

おれに言わせりゃ、日本人は殺さなさすぎだ。
やみくもに殺せとは言わねえよ、でも自殺するぐらいなら殺せばいい。へたに恨みを買ったら殺されるかもしれないと思うようになれば、きっとパワハラもセクハラもいじめも劇的に減るぜ。


書店員の努力は無駄



書店員の努力、について。

あえて乱暴な言い方をするなら、その努力はほとんど無駄だ。

ぼくが書店員を辞めて六年になる。
働いているときから感じていたこともあるし、辞めてから気づいたこともある。働いている当時に経営者から言われて意味が分からなかったが今になってわかることもある。

ぼくが書店員としてやっていた努力は、ほとんど売上に貢献していなかった。



たとえば、よく「本を紹介するポップを書きましょう」と云われた。文庫の帯なんかについている紹介コメントだ。
ぼくもポップを一生懸命書いた。
たくさん書いて、どんなポップを書けばどんな売上になるか、調べてみた。

たくさん書いて、その結果を追って、わかったのは「意味がない」ということだった。

多くの経験を積んで、ある程度は「売れるポップの書き方」を理解した。
ポップを書けばその本の売れ行きはよくなった(もちろんある程度売れそうな本を選ぶ必要はあるが)。
そして気づいた。全体の売上は増えない、と。

たしかに本を売るために効果的なポップの書き方は存在する。
だが「その本を売る」ために効果的だが、その本が売れれば隣の本の売上は減る。結果として、店全体の売上には何も貢献しない。

そもそもポップに頼って本を買う人はたいした本好きではない。そういう人が本屋に来るときは「なんか一冊買おう」と決めてきている。目を惹くポップがあればその本を買うし、そうでなければべつの本を買う。

「気になる本がなければ一冊も買わないし、おもしろそうな本があれば十冊でも買う」ような本好きはポップなんかに頼って本を買わない。

ヴィレッジヴァンガードがあらゆる商品におもしろおかしいポップをつけて成功したが、あれは特定の本を宣伝するためではなく店全体のブランディングに役立っていたからうまくいったわけで、やるならあそこまでやらなくては意味がない(当然ながらヴィレヴァンの後に同じことをしても無駄だけど)。



ポップは一例で、書店員がしている努力というのは「売上を増やす努力」ではなく「好きな本を売る努力」がほとんどだ。

ポップを書くのも、おすすめ本フェアをするのも、村上春樹の新刊をタワー状に積みあげるのも、本屋大賞を選ぶのも、(0,1) を (1,0) にする努力だ。あっちの売上を削ってこっちの売上を増やしているだけ。総量は変わっていない。

出版社はそれでもいい。「他社の本の売上を削ってその分自社の売上が上がればいい」は正解だ。
だが書店がすべき努力は、ふだん本を買わない人に買ってもらう(0を1にする)か、使ってもらう額を増やす(1を2や3にする)かだ。

たとえば書店に足を運ばない人に買ってもらえるようべつの業種の店にも本を置かせてもらうとか、本を買った人にべつの本も勧めるとか。
それが有効かどうかはわかんないけど、少なくともAmazonはそれをやった。

しかしそういう施策は書店においてはまったくといっていいほどおこなわれない。
ぼくが働いているときは他の書店に出向したり業界関係者と話したりしていたが、こういう話はほとんどされなかった。
みんな (0,1) を (1,0) にするために奮闘していた。



書店の売上が伸びるためにいちばんいいのは「世の中の人が本をたくさん読むようになること」だ。でもそんなことは現実的に不可能だ。

だったら、「客の読む時間は一定である」という前提に立った上で、「より単価の高い本を買ってもらう」とか「より早く読める本を買ってもらう」とかの方向性を考えなければならない。
売上や利益のことを考えるなら、めちゃくちゃおもしろい五百円の小説よりも、千円の低俗なエロ本が売れたほうがいい。
でもほとんどの書店員は前者を売ろうとする。

早く読める漫画、内容の薄いビジネス書、手軽に読めて定期的に買ってくれる雑誌。利益に貢献するのはそういう商品だ。
[費用/時間]という点で見たとき、売上パフォーマンスがもっとも悪いのが文芸書だ。
たった五百円で何時間も楽しめる。いい本だと何度も読み返したくなる。読者にとってはすばらしい読書体験だが、書店にとっては「安い金で読書時間を奪う」悪い商品だ。

けれど書店員はおもしろい小説ばかり売ろうとしている。ぼくもそうだった。本が好きだから。

文芸書をなくせとは思わない。利益率の低い商品で客を釣るのはよくある手法だ。だが売上を稼ぐのは文芸書ではない。

やはり本好きに書店員は向いていない。



日本の出版業界には再販制度というものがあり、一部の商品を除き、売れ残った本はそのままの金額で返品できる。
この制度が経営感覚を狂わせるのかもしれない。

仕入れた金額で返品できるとはいえ、本を入荷して開梱して棚に並べ、長期間売場をつぶして、しばらくしてまた箱に詰めて取次に送りかえすのは無駄なコストだ。

輸送費も人件費もかかるし、その本を置かなければ他の本が売れたかもしれないという機会損失も生んでいる。キャッシュフローも悪化させる。
であれば返品は極力減らさなくてはならないのだが、大半の書店員はそんなことを考えていない。「売れ残ったら返品できるんだから売り切れにならないように多めに仕入れよう」と思っている。

そもそも、毎日毎日書店には取次から新刊が勝手に配送されてくる。頼んでもいない本が続々と入ってくる。「どうせ返品できるんだからいいでしょ」という具合に。

ぼくが働いていたときは、この件でよく本部や取次と喧嘩をしていた。
「このジャンルではこの出版社の本は一切いりません」と再三伝えていた。しかし要望は聞き入れられず、相も変わらず頼んでもいない本がどんどん送りつけられてくる。そういう業界なのだ。
ぼくは一度も売場に並べることもなく即座に返品にまわしていた。なんと無駄なコストだろう。
他の業界だったら考えられない話だ。勝手に商品を送りつけておいて「金払ってくださいよ」だなんて、そんなことするのは詐欺師とNHKだけだ。


出版社はばかみたいに新刊書を作って送りつけてきた。
たとえば料理の本。毎年春になると、ひとり暮らしを始める人が増えるので料理の入門書が刊行される。

それ、新刊で出す必要ある?
十年前と今とで、初心者向け料理の方法がどれだけ変わった?
客は新刊かどうかで買っていない。実用書に関して、客が求めているのは新刊ではなく「多くの人が買っている実績のある定番書」だ。

PCやファッションみたいに日進月歩の分野はともかく、料理や洋裁だったら十年同じでもいい。どうせ買う人は毎年違うのだ。それなのに輪転機の停止ボタンが壊れたのかと思うぐらい新刊が出つづける。
出版社は競合他社に負けたくないから他社のヒット商品をパクった本を次々に出してくるが、誰もそんなものを求めていない。

取次はごまんとある内容の"新刊"を送ってきて、書店員はそれを店頭に並べて、ほぼ同じ内容の"既刊"を返品する。
何かをやった気にはなるが、売上に対しては何も貢献していない。
書店員の作業はこういう「プラスにもマイナスにもならないこと」であふれている。

書店の仕事はハードワークだが、原因の大半は入荷にある。
余計な本のせいで品出しや返品に追われている。
それでポップを書くとか本をタワー状に積むとか売上につながらないことをがんばっている。
雨漏りで家の中が水浸しになっているのに、屋根を直そうとせずに一生懸命床を拭きつづけるようなものだ。



ぼくが書店を辞めて六年。
詳しくは知らないが、まちがいなく当時よりも内情は悪くなっているだろう。

本が好きだから書店はずっとあってほしい。

だから、だからこそ、一度みんな潰れたらいいのに、と思う。
そして取次がなくなれば、書店も「無意味な新刊をどんどん出す」ことから脱却できるだろう(オンライン書店では既刊がよく売れる)。

そしてその後に再び書店が立ちあがってほしい。もっと時代にあったやり方で。もっと書店員の努力が正しく実るような形態で。