2018年6月5日火曜日

【DVD感想】『ピンポン』(映画)


『ピンポン』

(2002)
内容(Amazon primeより)
才能にあふれ、卓球が好きで好きでたまらないペコ。子供の頃から無愛想で笑わないスマイルにとってペコはヒーローだ。だが、ペコはエリート留学生チャイナに完敗。インターハイでも、幼なじみのアクマに敗れてしまう。一方スマイルは、コーチに才能を見い出され、実力をつけていく。現実の壁にぶつかったペコと強さに目覚めたスマイル。それぞれの道を歩き始めた彼らに、またインターハイの季節がやってきた…。
2002年の映画を鑑賞。
同じくらいの時期に原作漫画を読んだが、ずっと読み返していなかったので「あーこんなエピソードもあったようななかったような」と、新鮮な気持ちで楽しめた。

映画のほうが漫画よりわかりやすいね。CGも見事だし話もシンプル。ストーリー自体はそんなにひねりのない熱血スポ根なんだけど、卓球という題材、違和感のないCG、個性的なキャラクターのおかげで既視感を与えない。

ちょっと残念なのは、ペコもスマイルもイケメンだったこと。
原作ではもっとキモかったはず。そしてそのキモいやつらがラケットを握ると輝いて見える……というのが魅力だった。卓球という「いまいちかっこよくないスポーツ」をかっちょよく描いていたのにな。それをイケメンが演じたら「はいはい、イケメンだからかっこいいんでしょ」になっちゃうじゃないか。


青春ど真ん中ストーリーなんだけど、歳をとってから観るとアクマとか卓球部の先輩とかバタフライ・ジョーとか、「主役になれなかった人たち」に感情移入してしまう。
なんちゅうか、ぼくの青春は終わったんだなあとちょっぴり寂しい気もするぜ。


2018年6月4日月曜日

打ちどころが良かった


高校時代の友人たちと服部緑地公園でバーベキューをした。
おっさんになると集まるのも家族単位だ。
五歳、五歳、四歳、三歳、三歳、一歳、六ヶ月の子どもたちが集まった。

服部緑地公園には巨大遊具がたくさんある。
子どもたちをさんざん遊ばせて、そろそろ帰ろうかという段になって誰かが言った。
「あれ、ひとり足りない」
子どもが六人しかいない。一歳八ヶ月の男の子がいない。

ぞっとした。
公園はとても広い。甲子園球三十三個分もあるそうだ(関西の人間は東京ドームではなく甲子園球場を広さの単位として使う)。
公園には段差もある。池もある。柵はしてあるが一歳児だからちょっとした隙間から出ていかないともかぎらない。
大人たちが必死で走りまわって探した。

幸い、一歳児は三分ほどで見つかった。
百メートルほど離れたすべり台まで歩いていったらしい。もしものことがあったらと思うと肝を冷やした。

三歳以上になると勝手にあちこち走りまわるので、絶えず大人がつくようにしていた。
一歳児は遠くに行かないだろうと思って誰も気に留めていなかった。その一瞬の隙をついて行方をくらましたのだ。その場にいた全員が油断していた。



子育てをしてわかったのは「子どもが怪我したり死んだりしないのは運がいいだけ」ということだ。
やつらは一瞬の隙をついて怪我をする。

娘が二歳のとき、すべり台から転落した。
ついさっきまですべり台の上に座っていたのに、たった二秒目を離した間に後ろにひっくりかえって階段を転げ落ちたのだ。
けっこう高いすべり台で高さは二メートルぐらい。真っ青になった。

近くにいたおっさんがやってきて「今見てたけどすごい落ちたで。えらいこっちゃ」と何の役にも立たない上に不安だけあおる言葉をかけてきた。うるせえ。たいへんなのはわかっとるわ。
娘はびっくりして大泣きしているが、痛がっている様子はない。また意識もはっきりしている。
どうしよう、救急車を呼んだほうがいいだろうか、しかし見たところなんともなさそうだし。
とりあえず妻に電話をして状況を説明した。「救急を呼ぶかどうか迷ったら7119に電話しろって言われたよ」と的確なアドバイスをもらった。
ケガや病気で迷ったときに相談に乗ってくれる救急安心センターというところそうだ。
電話をしたところ「泣いているなら様子を見ていても大丈夫です。ずっと泣きやまなかったり吐いたりしたらすぐに救急車を呼んでください」と言われた。
不安は残ったが、少なくとも見知らぬおっさんの「えらいこっちゃ」よりは安心させてくれた。
幸い打ちどころがよかったらしく、娘はかすり傷ひとつ負っていなかった。後に残る怪我をしていたら一生後悔していただろう。心の底から安堵した。


高いすべり台にひとりで上っているときに目を離したぼくの不注意が原因だが、言い訳をさせてもらうとそれまで何十回も上っていたが一度も落ちたことがなかった。たまたま二秒だけ目を離したすきにバランスをくずして転げ落ちたのだ。

娘ひとりと遊んでいるときでもこんなことが起こる。まして複数の子どもを見ていたら、一秒たりとも目を離すなというのは無理な相談だ。

子どもを無事に育てあげるって、「たまたま打ちどころがよかっただけ」の積み重ねだね。


2018年6月3日日曜日

北杜夫というヘンなおじさん


ぼくにとって北杜夫は『夜と霧の隅で』『楡家の人びと』で知られる芥川賞作家ではなく、「どくとるマンボウ」シリーズで知られるエッセイの名手でもなく、「ばかばかしくておもしろい小説を書く人」だ。

はじめて出会ったのは、図書館で手にした『さびしい王様』だった。


童話のようなタイトルとユーモラスな表紙を見て、ごくふつうの児童文学だと思った。
ところが読んでみて「なんじゃこれは」と思った。
物語が始まらないのだ。作者による「書けない言い訳」が延々と続く。言い訳が終わったと思ったらまた別の言い訳が始まる。本の一割か二割ぐらいは言い訳で埋まっていた。
そんな本読んだことがなかったのであっけにとられた。そして、めちゃくちゃおもしろかった。

物語本編もおもしろかった。続編の『さびしい乞食』『さびしい姫君』も借りて読んだ。ばかばかしいお話なのにふしぎとペーソスが漂っていた。子どもの王様と子どもの姫君がいっしょに寝て「子どもができない」と嘆くところは名シーンだ。今でも情景が目に浮かぶ。
すべて読み終えて図書館に返却した後、やっぱり手元に置いておきたくなった。本屋に行って買いそろえた。

他の本も読んだ。

「小説入門者に最適な一冊」として日本文学史に燦然と輝く『船乗りクプクプの冒険』をはじめ、

大怪盗の活躍と孤独を描いた『怪盗ジバコ』

ゴキブリを主人公にした『高みの見物』

ニッポンの悲しいヒーロー『大日本帝国スーパーマン』

どの話もばかばかしくて、それなのに品があった。主人公たちはそれぞれ活躍しながら孤独を抱えていて、そんなところも「大人の文学にふれた」ような気になれて好きだった。

中でも好きだったのは『ぼくのおじさん』と『父っちゃんは大変人』だ。北杜夫の小説にはヘンなおじさんが出てくる話が多い。たいてい、そのヘンなおじさんは北杜夫自身だ。『船乗りクプクプの冒険』にもキタ・モリオ氏が出てくるし、『高みの見物』にも作家や船医などそれらしき人物が登場する。

最近気づいたんだけど、氏の作品に出てくる「ヘンなおじさん」はぼくの理想の姿である。
ぐうたらで、ほらばかりふいて、子どもといっしょになって遊んでいるおじさん。「できる大人」とは対極のような存在。そういう人にぼくはなりたい。そしてじっさいなりつつある。

「かっこよくないおじさんってかっこいい」という歪んだ認識をぼくが持ってしまったのは、子どもの頃に北杜夫作品と出会ってしまったからなんだろうな。


2018年6月2日土曜日

動きのない文章


学生時代の先輩から「おまえのブログ読んでるんだけど、ぜんぜん動きがないな」と言われた。記者をしている人だ。
「動きですか」
「そう、部屋から一歩も出ずに書いてるんだな、って思う。記者の文章とは真逆。おまえが書いてるのはエッセイだからそれでいいんだけど」

ふうむ。
たしかにそうかもしれない。改めて自分のブログを読み返してみると、なるほど、出てくる動詞は「思う」「考えた」「読んで」とかばっかりで、「行った」「会った」「駆けめぐった」「羽ばたいた」みたいな動きのある動詞が少ない。ぜんぜん羽ばたいてない。


それもそのはず、じっさいほとんど出歩かないのだ。
平日は家ー保育園ー職場のトライアングル内からほぼ出ない。バミューダトライアングルもびっくりの不可出トライアングルだ。
仕事はデスクワーク。客先に行くこともあるが一直線に行ってまっすぐ帰る。こないだ新幹線で名古屋に行ったが、業務が終わるとコメダ珈琲で食事をしてすぐに帰宅した。同僚から「せっかく名古屋まで行ったのに」と言われたが、ぼくとしては十分楽しんだつもりだ。本場のコメダ珈琲に行けたし(自宅近くの店舗とまったく同じ味だったが)往復の新幹線の中でたっぷり本を読めたから。

休日は娘とパズルをするか、娘とトランプをするか、娘と本を読むか、娘と図書館に行くか、家族でファミレスに行くか、娘と銭湯に行くか、娘とプールに行くか、娘やその友だちと公園で遊ぶか、娘の友だちの家におじゃまするか、それぐらいしかやってない。車も持っていないので遠出もしない。自転車すらない。幸いなことにファミレスも大型本屋も銭湯も電器屋も百貨店も図書館も病院も動物園も徒歩圏内にあるから必要ない。こないだ電車で三駅のところにある博物館に行ったのがぼくの中では小旅行だった。

大学生の頃、原付を乗りまわしてあちこちに出かけていた友人から「おまえも原付買えよ。世界が広がるぞ」といわれた。
ぼくは「本を読まない人間はあんなものに乗らないと世界を広げられないのか。効率悪いな」と思った。「おまえが原付に乗って隣町に行っている間に、本を読めば他の国にもべつの時代にも行けるのにな」と。
今でもそう思っている。旅行に出かけたら見聞は広がるし発見もある。本を読むだけでは手に入らない知識も得られる。そうなんだけど、逆に本を読むことでしか手に入らないものもある。いやそっちのほうが多い。寺山修司『書を捨てよ、町へ出よう』は本を読んでいる人に向けてのメッセージであって、本を読まないことを正当化するものではない。読んでないから知らんけど。えらそうなこといって有名作品も読んでないんです。

もっとあちこち出かけていろんな人と出会ったほうが「ネタ」は増えるだろうな、とは思う。きっとおもしろいことを書けるんだろう。読む価値のあることも書けるんだろうな。
でもぼくは職業的な書き手じゃないから書くために生きることも生きるために書くこともしない。

とりえあず記者じゃなくてよかった、とは思う。ぼくが記者だったら取材に行くのがめんどくさくて捏造記事を書いてしまうだろうな。


2018年6月1日金曜日

【読書感想】トマス・ハリス『羊たちの沈黙』


『羊たちの沈黙』

トマス・ハリス(著) 菊池 光(訳)

内容(e-honより)
FBIアカデミイの訓練生スターリングは、9人の患者を殺害して収監されている精神科医レクター博士から〈バッファロゥ・ビル事件〉に関する示唆を与えられた。バッファロゥ・ビルとは、これまでに5人の若い女性を殺して皮膚を剥ぎ取った犯人のあだ名である。「こんどは頭皮を剥ぐだろう」レクター博士はそう予言した…。不気味な連続殺人事件を追う出色のハード・サスペンス。

有名サスペンス映画の原作。映画のほうは十年ほど前に観たが、ショッキングなシーンは印象に残ったが(スターリングとレクター博士のはじめての面会シーンとか、翌日の自殺の一件とか、脱走シーンとか)、細部についてはよく理解できなかった。
なぜレクター博士はスターリングに協力するのかとか、レクター博士の的確すぎる推理の理由とか。

で、原作を読んでみたのだけれど、レクター博士の行動原理についてはやっぱりよくわからない。
でもこれはこれでいいのだろう。わからないから彼の異常性は際立つし、また彼の頭脳の明晰さも光る。

映画だとレクター博士は超人的なひらめきで犯人を突き止めているような印象を受けたけど、小説ではレクター博士が犯人にたどりついた経緯がしっかり書かれている。「理解できないぐらいの突飛な発想をする天才」ではなく「地に足のついた天才」であり、説得力が増している。
だが、総合的に見ると映画のほうがわかりやすい。
登場人物たちの心情は伝わってこないし、文章はかなり癖がある。ストーリーとほとんど関係のない会話やエピソードも多い。何も知らない状態でこの小説を手に取っていたら途中で投げだしていたかもしれない。



レクター博士は、残忍、紳士的、醜悪、慈悲深い、優秀、非人道的、冷徹、凶暴、知性的、快楽的。ありとあらゆる性質を兼ねそろえたキャラクターだ。一言でいうと「超やべえやつ」。
改めて読んでみるとレクター博士の登場シーンはそう多くない。だが主人公スターリングよりも圧倒的な存在感を残している。

大柄な女性の皮を剥ぐ連続殺人犯、死体の喉に詰まっていた蛾の繭、過去の記憶の中にある屠殺牧場、被害者女性が閉じこめられている地下室など不気味な小道具がそろっているが、どれもレクター博士の存在の前ではかすんでしまう。
「女性の皮を剥いで自分が着る服を作りたい」という願望を持った異常殺人犯ですら、レクター博士に比べればまだ理解できそうな気がする。
なにしろレクター博士はその猟奇的殺人犯の内面をぴたりと言い当ててしまうのだ。

レクター博士の存在こそがこの本の魅力であり、また欠点でもある。読んでいても「バッファロゥ・ビルを追う」という本筋よりもレクター博士の動向のほうが気になってしかたがない。
読みながら「そういや映画でこんなシーンあったな」と思いだしながら読んでいたのだが、そのほとんどがレクター博士のシーンだった。レクター博士が脱走するシーンは強烈な印象に残っているのに、バッファロゥ・ビルの逮捕シーンなどはまったく覚えていなかった。

さまざまなフィクションにマッド・サイエンティストのキャラクターは出てくるが、そのマッドっぷりにおいて、そして存在感においてレクター博士の右に出るものはそういないだろうね。


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