2018年5月7日月曜日

梅干しを食べるなんてこのくされ外道


ウナギが絶滅しそうという話を耳にするから、いまだにスーパーで安くウナギを売っているのを見ると「もう売るなよ」と思う。
買っている人には「買うなよ」と思う。

でもそれはぼくが高い倫理観を持っているからではなく、単に「ウナギがそこまで好きじゃないから」かもしれない。

たとえば稲が絶滅寸前だから米を食べるのを数十年間は控えましょう!という話になったときに、はたしてご飯を我慢できるかというと自信がない。
「ぼくひとりぐらい食べたって影響はないだろう」と考えてしまうような気がする。



結局、ほとんどの人は好き嫌いでしかものを語れないんじゃないかと思う。
タバコを嫌いな人が「タバコなんて他人に迷惑をかけるだけ。禁止にしろ」と言いながら、酒を飲んで道端で大声を出したりしている。
ぼくはクジラを食べるのが好きだから食べたいし、梅干しは嫌いだからちょっとでも梅保護の機運が高まれば「絶滅の危険性がある梅干しを食べるなんてこのくされ外道!」と声を大にして言いたい。


だから、いくら「ウナギが絶滅の危機に瀕しているから食べるのはやめよう」なんて理性に訴えても効果は薄いと思う。

「ウナギなんて不潔なおっさんの食べ物。ウナギを食べるなんてダサい」みたいな風説を流布させて、人々をウナギ嫌いにさせるしかないんじゃなかろうか。


2018年5月5日土曜日

国の終活、村の終活


日本の産業は今後縮小する一方だろうが、日本が世界に勝てる分野がひとつだけある。
それは「衰退」だ。

いまだに「高齢化社会」なんて言葉を使ってる人がいるが、そんな時代は20年以上前に終わった。日本は1995年に高齢者の割合が14%を超え、高齢化社会から高齢社会になった。さらに2005年には21%を突破して超高齢社会になった。現在は30%も超えて、世界ダントツの高齢大国だ。

有史以来どの社会も経験したことのない局面を迎えている。しかしこれは危機であると同時にチャンスでもある。
遅かれ早かれ他国も同じ状況に陥るわけで、そのときには衰退先進国である日本の経験が大いに参考になる。

戦争や疫病で全滅した国はあっても、老衰によって滅びた国はこれまでにない。国家がどうやって自然死するか、ここに全世界が注目する。たぶん。



近年「終活」という言葉が使われている。自分の死に方を設計し、残された者たちに迷惑をかけないよう望ましい死を選択する行為だ。
日本という国もそろそろ終活を考えねばならない時代にきている。

人間でもそうだが、無理な延命をしてもろくなことがない。
たとえば後先考えずに大量の移民を受け入れれば一時的に高齢者の割合は減るだろうが、移民もいずれは歳をとるわけで、根本的な解決にはならないどころかさらに大きな問題を引き起こす。副作用の強い薬を飲むようなものだ。

あわててじたばたするのは見苦しい。ひっそり静かに死んでいけば残された国々も「惜しい国を亡くした」と悼んでくれる。諸外国の記憶の中で永遠に「美しい国」でいられるのだ。死人は美化されるからね。



国が死ぬ前に、国内の多くの自治体が老衰で死んでいく。死にゆく自治体を観察することで、国家としての理想の死に方がおのずと見えてくることだろう。

今後、死んでゆく村がどんどん出てくる。若者を呼ぼうなんて考えてはいけない。どうせ来ないから。それより「死ぬ村」をアピールしたほうがいい。
延命なんてせずに、逆に明確に期限を切るのだ。「この村はあと一年で死にます」と。そうすることで死を迎えた村は最期の輝きを放つことができる。

人間だって「あの人、余命三か月だって」と言われれば「じゃあ今のうちに会いにいっておこう」となる。愛する人々と別れの挨拶も交わし、心残りの少ない終末を迎えられる。
いつ死ぬかわからないままチューブにつながれて何年も経てば、会いに来てくれる人はいなくなるわ、金はかかるわ、家族の負担は増えて「こんなこと願ってはいけないけど早く死んでくれれば……」と思われるわ、ろくなことがない。助かる見込みがないならさっさと死んでしまうにかぎる。

高齢者ばかりの村は「村おこし」ならぬ「村看取り」を考えないといけない。



どうやって死ぬか。

ぼくは、「ダムの底に沈む」がいちばんの理想だと思う。終末の時がわかりやすいし、思い出は美しいまま建造物と一緒に水底に閉じこめられるし、他の町の役には立つし。

ただもう時代的に新たなダムは必要とされないので、残念ながら「ダムの底に沈む」プランは実現不可能だ。

彗星が落ちてきて村ごと消滅という『君の名は』方式も、心が入れ替わった三年後の世界のイケメンによって村人が救われるのであれば美しいプランだが、これも現実的ではない。

海外の大型建造物なんかはダイナマイトで爆破解体される。あれはすごくわかりやすくていい。
悲しいけれど、「ああ我々が愛した〇〇はもうなくなったんだ」とはっきりと目に見えるから、いつまでも引きずらずに気持ちを切り替えられる。村も爆死がいい。

人でも建物でも村でも、死ぬときはとにかく「はっきりと死んだとわかる形」にしたほうがいい。
人間の場合だと脈がなくなるとか呼吸が止まるとかいくつかのサインがあって、「死の要件」を満たすことで死が確定する。医師の「〇時〇分、ご臨終です」という宣告があるおかげで死を受け入れる準備ができる。

死の要件がないと、「きれいな顔してるだろ。ウソみたいだろ。死んでるんだぜ。それで……」なんて言いながらいつまでも死を認められなくて、ずっとベッドに寝かせてるうちにどんどん腐ってきて、もうドロドロになってるのに「もう死んでるとは思うけど一応もうちょっと置いとくか。何かに使えるかもしれないし……」なんて鼻をつまみながら片付けができない人みたいなことを言って、そんで白骨化して引っ越しとかのタイミングでようやく「さすがにもう片付けてもいいよね」と処分することになる。そんなカッちゃん見たくない。

今のままだと、同じことが全国の村々で起こる。死を受け入れられない村がカッちゃんのように腐敗してゆくことになる。
早めに「町の死」を定義づけなければ。
「三十歳以下の住民が十人を下回ったら死」とか「子どもがいなくなったら死」とか「税収が○○円を下回ったら死」とかの客観的な指標が必要だ(たぶんもう死んでる村もあるだろう)。
基準を満たしたら死亡。住んでいる人が何を言おうが問答無用でおしまい。一年たったら臨終宣告をして、ダイナマイトで役場を吹っ飛ばして行政サービスは一切打ち切り。その村は「」になる。墓村、墓町、墓市。これぞゴーストタウン。


現憲法には「居住移転の自由」と「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」が定められているから、村に住民がたったひとりになったとしても、最後の人が出ていかないかぎりは行政サービスを提供しつづけなければならない。
これは現実的でない。
そろそろ町が死ねるように憲法改正をしたほうがいいかもしれない。



村を死なすのは寂しい気もするけど、死を受け入れないことには次に進めない。
死にかけの村よりも死んだ村のほうが愛される。


世の中には廃墟マニアもいるから、「墓」になった町に住みたい人だっているだろう。
一切の行政サービスを拒否して孤高に生きたい、いや孤高に死にたいという人だっているだろう。

そういう変わり者が集まれば、一度死んだ村に再び人が集まって息を吹き返すかもしれない。一度ゴーストタウンになった村が甦る。これぞ超魔界村。


2018年5月4日金曜日

まけまけいっぱいの幸福


以前、横浜在住の人と食事をしたときに
「このお皿、さらえちゃっていいですか?」
と言ったら通じなかった。

さらえる」は「お皿に少し残っているものを最後に平らげてしまう」という意味だ。


「……ということがあってん。『さらえる』って関西弁やったんやなー」
と関西出身の友人に言うと、
「えっ、おれもわからん」と言われた。

あれ? 関西弁じゃない?

他の関西の人たちに「『この料理をさらえる』って意味わかる?」訊いてみると、
「わからない」
「聞いたらなんとなく理解できるけど自分は使わない」
という答えが返ってきた。

こういうことがときどきある。
ぼくは兵庫育ち、大学時代は京都に住み、今は大阪に住んでいる生粋の関西人だが、父は北陸出身、母は幼少期に四国や中国地方を転々としていた人なので、いろんな地方の言葉が混ざっている。
我が家ではあたりまえのように使われている言葉が、よそではまったく通じないということがある。

外であまり通じない言葉に「まけまけいっぱい」がある。
コップに飲み物がふちのぎりぎりまで入っている状態を指す言葉だ。関西の人にはほとんど通じないが、四国の人には通じたので四国のどこかの言葉なんだろう。

まけまけいっぱいのカフェラテ

もけもけ」という言葉を母が口にする。
セーターなどがけばだっている状態を指す言葉だ。この言葉が通じたことはない。
いろんな人に「『もけもけ』って知ってる?」と訊いたが、いまだに「知っている」という人に出会ったことがない。だから方言ではなく母がつくった言葉なのかもしれない。


「さらえる」「まけまけいっぱい」「もけもけ」がどこの言葉かインターネットで調べたらわかっちゃうんだろうけど、あえて検索せずにわからないままにしておく。

他人に通じない言葉を自分の中に持っているって思うと、ちょっとめずだかしい気持ちになれるから。


2018年5月2日水曜日

【読書感想】米澤 穂信『ボトルネック』


『ボトルネック』

米澤 穂信

内容(e-honより)
亡くなった恋人を追悼するため東尋坊を訪れていたぼくは、何かに誘われるように断崖から墜落した…はずだった。ところが気がつくと見慣れた金沢の街にいる。不可解な思いで自宅へ戻ったぼくを迎えたのは、見知らぬ「姉」。もしやここでは、ぼくは「生まれなかった」人間なのか。世界のすべてと折り合えず、自分に対して臆病。そんな「若さ」の影を描き切る、青春ミステリの金字塔。

米澤穂信作品を読むのは『インシテミル』に続いて二作目なんだけど、『インシテミル』のときにも感じた不満を今回も抱いた。
「無茶な設定を受け入れるの、早すぎじゃね?」

「姉が生まれずぼくが生まれた世界」のぼくがどういうわけか「ぼくが生まれず姉が生まれた世界」というパラレルワールドに行ってしまう。
姉と出会って五分ぐらい話して「どうやら君はべつの世界から来たみたいね」と受け入れられて……。

っておーい! どっちも順応性高すぎー!
まったく知らない人が家にやってきて「ここはぼくの家」って言いだしたのになんですんなり受け入れちゃうんだよ! どう考えたって不審者だろ。好意的に解釈したってキチガイだろ。いずれにせよ通報しろよ女子中学生。五分しゃべっただけで「君はわたしの弟みたいね」って状況理解すんじゃねーよ。家にあげんなよ。振り込め詐欺でももうちょっとうまくやるぞ。

……と導入が不自然すぎてずっと物語に入りこめなかった。「これは信じたふりをして様子を見てるだけなんじゃないか」と疑いながら読んでいたのだが、登場人物の中学生たちは「パラレルワールド説」を本気で信じたらしい。証拠もないのに。中二病がすぎる。

『インシテミル』もそうだった。
わけのわからん屋敷に招待されて「はい、じゃあ君たちで殺し合いをしてください」と言われて、みんなすぐに状況を受け入れて殺し合いが始まっちゃう。登場人物の順応性の高いこと外来種のごとし。池の水全部抜くぞ。



不自然すぎる導入、あまりに都合の良い聡明すぎる登場人物のせいでげんなり。「自分が存在しなかったら世界はどう変わっていたか」という思考実験を試す舞台装置自体は悪くなかったんだけどな。

設定、キャラクター、セリフ。すべてがライトすぎるのが性に合わなかった。
ぼくはアニメを見ないので、たまにアニメを見ると「なんでこんな無茶な設定がまかりとおるの」と引っかかってついていけなくなるんだけど、同じ感覚だった。

いや、「無茶な設定」自体はいいんだよ。小説にリアリティが必須だとは思わない。わけのわからん異世界に放り込まれて、あっさり受け入れるSFなんていくらでもあるし。
でも、それだったらもっと奇想天外な設定にしないといけない。
「古代ローマ人が溺れて、気がついたら21世紀の日本でした」だったら、世の中が何から何まで違うわけだから「ただならぬことが起こったに違いない」もすんなり受け入れられるだろう。「理由はわからないけどどうやらべつの世界に行ってしまったらしい」と考えるしかないのだから。それならそれでありだ。
「ほんのわずかだけおかしな世界」を書くなら、北村薫『スキップ』『ターン』のように細かい証拠と繊細な描写の積み重ねが必要だ。

『ボトルネック』には大胆さも丁寧さも感じられなかった。要するに、嘘をつくのがへたなのだ。もっとうまく騙してくれ。

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2018年5月1日火曜日

アニメの文法と文化の衰退


妻から、あるアニメがおもしろいと勧められた。
内容を聞いてみると、ぼくの好きなタイムリープもののSFで、たしかにおもしろそうだ。
録画したものがあるとのことなので観てみる。一話を観たところで「無理だ……」とため息をついて続きをあきらめてしまった。

アニメの文法がわからないのだ。

ぼくはほとんどアニメを観ない。ディズニー(特にピクサー)作品は好きだが、国産アニメは観ない。ジブリアニメですら最近の作品は観ていない。まして深夜にテレビでやっているようなやつはひとつも観たことがない。『まどマギ』がおもしろいとか、『艦これ』が流行ってるとか、ほのかに噂は流れついてくるのだが(たぶんだいぶ後になって)、「大勢の人がおもしろいと言ってるから観たらおもしろいんだろうな」とは思うものの、「ぜんぶ観ようと思ったら何時間もかかる」と思うと食指が動かない。「だったらその間本を読んだほうがいいや」と思ってしまう。

そんな人間だから、アニメの文法がわからない。
たとえば、天然ボケっぽいキャラクターがこれまでの流れと関係のない発言をする。周囲の人物はぽかんとして、一瞬の間の後に「……あっ、いや、それでさっきの続きなんだけど」みたいな感じで話が引き戻される。

ぼくはここで「今の発言は何のためになされたんだろう?」と考える。バラエティ番組なんかだったらほとんど意味のない発言がなされることはよくある。けれどこれはアニメーションだ。百パーセント作りものである。ということはさっきの発言にも作り手の何らかの意図があるということだ。
笑いどころなのかもしれないが、発言の内容はたいしておもしろくない。たぶん作り手もそんなにおもしろいとは思ってないだろう。たぶんこれはアクセント。シリアスなシーンが続いたから軽めのボケをはさんでメリハリをつけたんだろう。
……こういうことをいちいち考えないと次に進めない。

たぶんアニメの文法を知っている人にとっては、何とも思わず自然に受け入れられるシーンなんだろう。説明的な台詞が続いたら天然ボケキャラクターが突拍子もないことを言うのはある種の「お約束」なのかもしれない。


慣れていない人間がアニメを観ると「文法」についていけなくて戸惑ってばかりだ。

「あ……」みたいな意味のないつぶやきが多いな、と思う。たぶんこれは沈黙なんだろうな。小説だったら「無言で肩を落とした」みたいな描写にあたるシーンなんだろう。ドラマだったら役者が表情で表現するところなんだろう。でもアニメでは「沈黙」の表現がむずかしいから(動きも台詞もないシーンはアニメーションだとただの「静止画」になってしまう)、短い台詞を発することで当惑や思索にふけっているところを表現するんだろう。

そんなことを考えながら三十分のアニメ(歌とかCMもあるから実質二十分ぐらい)を観ていたらどっと疲れた。
そのわりにストーリーはまったく進んでいない。三十分も本を読めばかなりの展開があるのにな。

きっと、我慢して何十本もアニメを観つづければ「文法」を自然と理解できるようになっていろんなことがすんなり解釈できるようになるんだろう。
でもそれをする体力がない。若かったらできたんだろうけど。そこまでするんだったら慣れ親しんだ読書を楽しむほうがいい。
ということで「もうアニメはいいや」と投げだしてしまった。歳をとったのだ。


ぼくは落語を好きだけど、それは小学生のときから聴いていたからであって、今はじめてふれたら理解不能なことばかりでたぶん聴いてられないだろう。
「地の文と会話文の境があいまいなこともある」とか「四人以上の登場人物が会話をするシーンでは特に誰の発言かは意識しなくてもいい」とか「肩を揺するのは歩くシーン」とか「上方落語では突然お囃子が鳴る」とかの「文法」を知らないと聴きづらい噺も多い。
「よくわからない言葉は聞き流してもだいたい大丈夫」「お金の価値もちゃんとわからなくても大丈夫」なんて判断も、数をこなさないと身につかない。

だがこういうことは、中にいる人にはわからない。アニメ制作をしている人は「アニメなんて観たらいいだけだから誰でも楽しめるよ」と思うだろう。おっさんがアニメの「文法」がわからないだなんて思いもよらないにちがいない。だからほったらかしにされてしまう。


歳をとってから新しい芸能・文化に触れるのはとても体力がいるものだ。
読書習慣がないまま大人になってしまった人が読書を趣味にすることは、まずないのだろう。

そう考えると、よく耳にする「若者の〇〇離れ」は単なる売上の減少だけの問題ではない。
二十代までにその道に目覚めなかった人は、たとえお金や時間を手にしたとしても中高年になってから近寄ってくることはほぼないだろう。若者が入ってこない文化は、数十年後の衰退が確定している。
あらゆる文化は何よりも若者をターゲットにしなければならない。たとえそれが利益を生まなかったとしても。

ジャニーズのコンサートには親子席というものがあるらしい。ジャニーズは小学生に優先的に席を回してライブの楽しみを教えることで、向こう数十年のファンを育成しているのだ。実にうまいやりかただ。

「お金もかかるし知識がないとわかりづらいので若い人や初心者が入りづらい」ためにどんどん衰退していっている古典芸能や着物文化は、ぜひともジャニーズのやりかたを見習ってほしい。もう遅いだろうけど。