2018年3月31日土曜日

赤川次郎という作家の評価について


2018年の今、赤川次郎という作家の評価について書いてみる。

若者向けミステリーの旗手であり、長者番付作家部門の常連であり、『三毛猫ホームズ』シリーズや『セーラー服と機関銃』などメディアタイアップ作品は多数で、全盛期には年間十冊以上のペースで新刊を出していた……。

と、1980年代には圧倒的な人気を博した赤川次郎氏。


1990年代の古本屋にもっとも多くの本が置いてあった作家は、ダントツで赤川次郎だろう。
つまり「よく読まれるが手元に置いておくほどでもない本」を量産していたのが赤川次郎という作家だった。

中学生時代、ぼくの書架にも五十冊以上の赤川次郎作品があった。が、今は一冊もない。いつの間にか処分してしまった。処分したときのことを覚えてすらいない。
五十冊以上読んだのに作品の内容はまったく覚えていない。タイトルも覚えていない。今思いだしてみたら『上役のいない月曜日』というタイトルだけ浮かんだ。内容は少しも覚えていない。



1990年当時、いわゆる「ライトノベル」という言葉は今ほどの市民権は得ていなかったが「ライトミステリー」という言葉はあった。そして「ライトミステリー」は「赤川次郎作品」とニアリーイコールだった。
多くの人が読んでいるのに「読んでます」とは公言しにくいジャンル、それが「ライトミステリー」であり「赤川次郎」だった。

ある程度の量の本を読む人にとっては
「ああ赤川次郎ね……。売れてるみたいね。よく知らないけど。ああいうのでも読書好きになるきっかけになるのであれば、まあいいんじゃない?」
みたいな位置づけだった。
十年前のケータイ小説みたいな扱い。


現在、赤川次郎作品のことはほとんど論じられない。あれだけ売れていたにもかかわらず、書店からはすっかり姿を消した。文学界からもミステリ界からも、徹底的に無視されているかのように。
商業的に赤川次郎の及ぼした影響はすごく大きいのに、文学的価値はゼロであるかのような扱われ方。あと西村京太郎も。

これは、1990年代後半の音楽界における小室哲哉の扱われ方によく似ている。すさまじく売れるのに評価されない。いや、売れるからこそ評価されない。
「薄っぺらい」「大衆受け」というラベルを貼られ、売れれば売れるほど業界内の評価は下落していく。


正直、ぼく自身も生意気な学生時分は「赤川次郎を読んでいるなんて人には言えない」と思っていたけど、五十冊以上も読んでいたということはやっぱりおもしろさを感じていたんだろう。
それだけ読んだにもかかわらず何も記憶に残っていないというライトさは、それはそれですごい(皮肉ではなく)。1983年の流行語に『軽薄短小』という言葉があるが、赤川次郎の作品はまさに軽薄短小。

時代に即していた、という点ではもう少し再評価されてもいい作家なんじゃないかな、と少しだけ思う。文学ではなくカルチャーとしてでもいいから。


2018年3月30日金曜日

すばらしきかなトイレの鍵のデザイン




この件についてもう少し掘り下げて考えてみようと思う。

あのデザインの何がすごいって、

● ユーザーに余計な手間を増やさない

鍵をかけるだけで青→赤になるから、外に向けてサインを送るために労力を要しない

● 一瞬で把握できるサイン

文字の読めない子どもや外国人でも理解できる。また青と赤は色盲の人にも見分けられるらしい。

● 余計なコミュニケーションを省略できる

トイレで用を足しているときは他人に干渉されたくないものだ。
あのサインがあるおかげで、心安らかに排便活動に勤しむことができる。
想像してほしい、用便時に頻繁にノックをされる不快感を。

また、あのサインがあるおかげで、ノックも異なる意味を持つ。
ふつうノックは「中にいらっしゃいますか」という意味を持つが、赤いサインが出ているにもかぎらずノックをすることで
「中に誰かいることは知っていますがそれでもあえてノックをしたのは私はのっぴきならない状態にあるからです。できるなら早く出てください。さもないとたいへんなことになります」
というメッセージを伝えることができる。
これを口頭で言うのは相当恥ずかしいが、青/赤サインがあることでノックだけで表現することができる。

● 利用時の時間短縮になる

自然に扉が閉まるタイプのトイレだと、ぱっと見ただけでは中に人がいるかどうかがわからない。しかし青/赤サインがあることで、一瞬でどの個室が空いているかを把握できる。

これによって短縮できる時間はほんの数秒だ。
たかが数秒とあなどることなかれ。トイレを求めて一刻一秒を争った経験は誰にでもあるだろう。この数秒が明暗を分けることもあるのだ。
アスリートが0.1秒を縮めるためにどれほどの努力をしているか。その0.1秒に匹敵するほどの重要性が、トイレを探す数秒にはあるのだ。


「鍵をかけたら青→赤になる仕組み」は技術的には少しもむずかしいことではない。この発想に至るまでに特別な知識も必要としない。

けれども、ほとんどの人はこの「ちょっとした思いつき」を発見することができない。

このデザインをはじめて思いつき、実用化した人がどこの誰なのかまったく知らない。このデザインが何という名前なのかもわからない。

発明者がこれを特許化していれば莫大な金を稼ぐことができただろう。けれど彼はそれをしなかった。特許化して儲けることよりも、あえて特許をとらないことでひとりでも多くの人に使ってほしいと望んだから(知らんけど)。

彼の思いは見事実を結び、今日も急な便意に襲われた人たちの尊厳を救っている。

ぜひとも彼にノーベル平和賞を。


2018年3月29日木曜日

腕がもげても

「三田村。交代だ」

 「監督! 大丈夫です、まだ投げられます!」

「いいや、おまえの腕はもう限界だ。監督命令だ。マウンドを譲れ」

 「お願いします、投げさせてください!」

「おまえが誰よりも努力してきたことは、おれがいちばんよく知っている。だが、おまえの野球人生はここで終わりじゃない。おまえにはプロでも活躍できる素質がある。だから、この試合は諦めろ」

 「そんな! お願いです、たとえ、この腕がもげてもかまいません! この試合、いや、せめて次のバッターだけは投げさせてください!」

「おまえは腕がもげる恐ろしさを知らないからそんなことが言えるんだ」

 「えっ……」

「おまえはまだ若いから知らないだろうが、おれはこれまで、腕がもげた投手を十人以上見てきた。全員、腕がもげるまで投げたことを後悔していた。だから言う。これ以上投げるのはやめとけ」

 「えっ、腕ってもげるんですか……?」

「あたりまえだろ。おまえもさっき言ったじゃないか」

 「いやおれが言ったのはたとえ話っていうか、それぐらいの覚悟がありますっていう誇張表現であって……」

「人間の腕というのは非常にもげやすいようにできている。年寄りだったら咳をしただけでももげることもあるぐらいだ。特に野球のピッチャーなんてとんでもない力が腕にかかるんだから、もげないほうがふしぎだろ。文科省の調査では、2016年の野球部活動中の怪我の内訳で、腕もげは骨折、脱臼に次ぐ三番目の多さだ」

 「知らなかった……」

「わかったら、もう投げるな」

 「……いや、それでもおれはマウンドを降りません!
  比喩ではなく本当に腕がもげるとしても、それでもおれは次のバッターとは決着をつけなければならないんです! それができないんなら、こんな腕、ついてたって何の意味もありません!」

「……野球規則第九百六十八条にはこうある。『投球時に投手の腕がもげたときは、ボールデッドとなり、各走者は、アウトにされるおそれなく、一個の塁が与えられる。』と。
 つまり、おまえが腕がもげるぐらいがんばって投げたとしても、結果はただのボーク扱いだ」

 「規定あるんだ……」

2018年3月28日水曜日

本当の怪物は我々人間のほうかもしれませんね


「やっかいな事件だったが、ひとまずオオアリクイたちは退治した。これで一件落着だな」

 「はい。ただ……」

「ただ……?」

 「もしかすると、本当の怪物は我々人間のほうかもしれませんね」

「……」

 「……」

「……というと?」

 「え?」

「いや、『本当の怪物は我々人間のほうかもしれません』ってどういう意味?」

 「え? わかりません? 今の流れで」

「うん、わかんない。えーっと、つまり、事件は解決してないってこと?」

 「いえ、そういうことではないです。アリクイも怖いですけど、人間も怖いですよね、って話です」

「怖いの?」

 「全員ではないですけど。でも怖い人間もいるじゃないですか」

「あー、ヤンキーとか?」

 「いやそういうんじゃなくて、もっとなんかこう……。たとえば快楽のために人を殺すような人間とか」

「うーん。そういう人は怖いけど、でもそれってただの『怖い人間』でしょ。『怪物』ではないじゃん」

 「うーん、人間そのものっていうより、人間の中に潜む悪い心、ですかね。それを『怪物』と表現したというか」

「でも悪い心って誰にでもあるもんじゃない? おれにもあるし、おまえにもあるでしょ」

 「まあありますね」

「誰もが持ってる普遍的なものなら、それを『怪物』と表現するのっておかしくない? 怪物って特異なものを指す言葉でしょ。たとえば超でかいヘネオロス星人が地球にやってきたら『怪物』だけど、そいつだってヘネオロス星にいるときは『怪物』とは呼ばれないでしょ」

 「ヘネオロス星ってどこですか」

「今適当につくった星だけど。でもとにかく、誰もが持ってる心ならそれを『怪物』と呼ぶのはおかしいと思うよ」

 「たしかにそうかもしれませんね……。じゃあこういうのはどうでしょう。たとえば核兵器。あれは恐ろしいものですし、誰もが作れるものじゃないですよね。だからああいう恐ろしい兵器を開発してしまう知能を『怪物』と呼んだ、これでどうでしょう」

「ふうん。でもさあ、おまえさっき『本当の怪物は我々人間のほう』って言ったじゃん。核兵器を開発できるぐらい頭いい人たちと、ぜんぜん勉強してこなかった自分をひっくるめて『我々』って言っちゃうの、ちょっと恥ずかしくない?」

 「……」

「いやべつにいいんだけどさ。世界の舞台で大活躍している日本人を見て『日本人ってすげー!』と思って何かを成し遂げた気になるのはその人の自由だけどさ。でもやっぱり核兵器を開発した人たちにしたら、開発に何の貢献もしていないおまえに『核兵器を開発した我々』とか言われたら、イラッとくるんじゃないかな。いやいいんだよ。何も持たない人間が、何かを成し遂げた人と自分を重ね合わせて自尊心を保ったって。だめじゃないんだよ。だけどちょっとダサいっていうか……」

 「もうやめてください……! すみません。『本当の怪物は我々人間のほうかもしれませんね』って言ったのは、ちょっとかっこつけたかっただけなんです……。深い考えがあったわけじゃないんです……」

「わかってくれたか……。それを言ったら物語が締められると思ったら大間違いだぞ」


2018年3月27日火曜日

人生の早期リタイア制度


会社の早期退職制度のように、人生においても早期リタイア制度を導入したらどうだろう。

早めに退職した人が多めに退職金をもらえるように、
早めに安楽死をした人の遺族(または当人が受取人に指定した人や機関)にお金を支給するのだ。

早めに死んでくれれば年金、医療費その他公的サービスが削減できるので、その一部を財源にすればいい。

  • 長生きしたくない人は、早めに死ねる上に希望の相手にお金を贈れる
  • 遺族にとっては介護の負担が減る上に遺産まで増える
  • 国家財政にも優しい

といいことづくめなんだけどな。


自分が年老いたときに、子どもから

「お父さんって八十五歳だったっけ……。
 あっそういえばお隣のおじいちゃんは早期リタイアすることにしたんだって。まだ七十代なのに。立派だよねえ」

と嫌味を言われることになるかもしれないけど。