2018年3月4日日曜日

あなたが私によこしたもの


高校生のとき、好きだった女の子に無印良品のバッグをあげたことがある。ぜんぜんかわいくないやつ。アタッシュケースみたいなシンプルなデザイン。ビジネスシーンで使えるぐらい不愛想なやつ。


しかも、そこそこ仲は良かったが付きあってたわけでもないのに。

高校生にしてはそこそこいい値段がしたと思う。まあまあ高くて使えないという、いちばん迷惑なプレゼントだ。キモかっただろうな。


プレゼントを選ぶセンスがない。
自分自身に物欲がないせいかもしれない。服は暑すぎず寒すぎなければなんでもいい。バッグはたくさん入るやつがいい。
その程度の執着しかないから人に何をあげたら喜ばれるのかわからない。

妻に誕生日プレゼントを贈っているけど、欲しいものを型番で指定してもらって、ネット通販で買うことが多い。買い物に行くのも嫌いなのだ。「買っといて、後でお金請求してよ」というときもある。妻がムードとかにこだわらない人でよかった。

プレゼントを選ぶセンスがないのに、プレゼントを贈ることは好きなのだ。困ったことだ。



毎年、親戚が集まると、子どもたちへのプレゼントの贈りあい、というイベントが発生する。うちの一族はみんな子どもにものをあげたがるのだ。

甥や姪、いとこの子どもたちにプレゼントを贈るのは楽しい。
でも、いつも困ってしまう。
赤ちゃんはかんたんだ。えほんを買えばいい。やつらに好みなんてないからだ(あるんだろうけどどうせ考えてもわからないから気にしない)。すでに持っている本を贈らないことだけ気をつけて、あまり有名でないえほんをあげる。

もう少し大きくなっても、男の子はなんとなくわかる。「九歳のとき何が好きだったかな」と自分の経験に照らし合わせて考えれば、大きくはずさないだろう。

女の子がむずかしい。いとこの娘が中学一年生なんだけど、何をあげたらいいのかさっぱりわからない。
小学校高学年から中学生ぐらいの女の子なんて、ぼくの人生ともっとも縁遠いところにいる存在だ。やつらは何を好きなんだろう。何をして遊んでいるんだろう。どんな話をしているんだろう。ネリリしキルルしハララしているのか。なにひとつわからない。

男子はばかだからいくつになってもボールを与えとけば喜んで蹴りまわしているけど、中学生の女の子はそうはいかない。
『トイ・ストーリー2』で、ジェシーというカウボーイ人形が思春期になった持ち主の女の子から遊んでもらえなくなるという描写がある。

いとこの娘にあげるプレゼントを選ぶとき、いつもこのシーンが頭に浮かぶ。
ああ、エミリー。おもちゃで遊ばなくなったエミリー。ジェシーの寂しさがぼくには手に取るようにわかる。


大人の女なら「とりあえずお菓子あげとけばいいや」となるんだけど、思春期の女子ってやたらとダイエットするでしょ。大人女性の口だけのやつとちがって、かなり本気のやつ。そんな人に甘いお菓子あげたら恨まれそうだし。

何あげたらいいかわかんねえ。かといって女子中学生に現金つかませるのもなんかやばいし。


2018年3月3日土曜日

本を嫌いにさせるフェア


書店で働いてるとき、読書感想文のシーズンになるとふだん本を読まなさそうな子ほど漱石とか太宰とか難解な本を買いに来ていた。
レジで太宰を手渡しながら、あーあ、この子たち余計に本嫌いになるんだろうなーと思ってた。

あれは夏の文庫百冊フェアとかやってる出版社にも責任があると思う。
ああいうところに、いわゆる文豪の作品を入れないほうがいい。
ほんとに好きな子は夏の百冊に入ってなくても買うし。
  • 本を読まない子でも作者やタイトルは聞いたことがある
  • 人気漫画家に描かせたポップな表紙
  • 著作権切れの作品だから他より安い
と条件がそろってたら、そりゃ本の選び方を知らない子は漱石や太宰を買っちゃうよ。そして本嫌いの子が増えてゆく。


夏の百冊フェアをやるのなら、とっつきやすい短篇集、ティーンが主人公の話、ユーモアあふれるエッセイなどだけでそろえたらいい。それも、教科書には載ってない現代作家の。
そしたら「学校で習わないけどおもしろい本が本屋にはいっぱいあるんだ」と気づいてもらえるのに。

ぼくが、ふだん本を読まない子のために文庫の中から選ぶとしたら……


村上 龍『69 sixty nine』

椎名 誠『わしらは怪しい探険隊』

原田 宗典『十七歳だった!』

東野 圭吾 『あの頃ぼくらはアホでした』

畑 正憲『ムツゴロウの青春記』

東海林 さだお『ショージ君の青春記』

みうら じゅん『正しい保健体育 ポケット版』

高野 秀行『異国トーキョー漂流記』

群 ようこ『鞄に本だけつめこんで』

北 杜夫『さびしい王様』

佐藤 多佳子『黄色い目の魚』

重松 清『ナイフ』

星 新一 『未来いそっぷ』

宮部 みゆき『我らが隣人の犯罪』

伊坂 幸太郎『陽気なギャングが地球を回す』

貴志 祐介 『青の炎』

小川 洋子『猫を抱いて象と泳ぐ』

誉田 哲也 『武士道シックスティーン』

筒井 康隆 『旅のラゴス』

清水 潔 『殺人犯はそこにいる』

大崎 善生『聖の青春』

橘 玲『亜玖夢博士の経済入門』

岩瀬 彰『「月給100円サラリーマン」の時代』

木村 元彦 『オシムの言葉』

スティーヴン キング『ゴールデンボーイ―恐怖の四季 春夏編』


こんなとこかな。
どれもおもしろくて、世界をちょっとだけ広げてくれる。ぐいっと。

おっさんが選んだ本だから古いリストだけど。



2018年3月2日金曜日

お誕生日会という風習


小学校低学年のとき、"お誕生日会"という風習があった。

ある日、同級生から招待状を渡される。「お誕生日会をやるから来てね」

赤紙と一緒で、招待状をもらったら欠席は許されない。手ぶらでの参加も許されない。

誕生日プレゼントを持って誕生日の子の家に行く。
その子のお母さんがケーキやお菓子やジュースを用意して待っている。参加者たちは主役であるその家の子にプレゼントを渡し、あとは飲み食いしてゲームで遊ぶ。帰り際には、来てくれたお礼ということでお土産を渡される。

今思うと、ずいぶん図々しい風習だ。
あたしの誕生日を祝うために集まりなさい、だなんて厚かましいにもほどがある。

常識的に考えれば、そんな暴挙が許されるのは王女様と西田ひかるだけだ。




たぶんあれは当人よりも母親が張りきってやっていたんだろうな。

「うちのかわいい〇〇ちゃんの誕生日なんだから盛大に祝わなくちゃ!」というある意味まっすぐな親心が、強制招集お誕生日会という暴挙につながっていたのだと思う。

「どれだけ豪華なケーキやおみやげを用意しているか」「どれだけいいプレゼントを持たせるか」という母親同士の見栄の張りあいもあったのだろう。

仲のいい数人を集めてわいわいやる、という程度ではなく、どのお誕生日会も十人以上集めて盛大にやっていた。クラスの男子全員が参加、ということもあった。

ある日、あまり親しくもない子のお誕生日会に呼ばれた。
お誕生日会に招待された、と母に言うと「じゃあ誕生日プレゼントを持っていかなきゃね。その子の好きそうなものを買ってあげなさい」と、五百円を渡された。

とりあえずおもちゃ屋に行ってはみたものの、親しくもない子に何をあげたらいいのかわからない。今なら無難にお菓子とかにするけれど、男子小学生にとっては「プレゼント=おもちゃ」である。
その子がガンダムのイラストの入った下敷きを持っていたことを思いだし、だったらガンダムだろうということでガンダムの安いプラモデルを買った。

誕生日会当日、プレゼントを渡すとなんとも微妙な顔をされ、子どもながらに「あっ、これははずしたな」ということがわかった。
じつはそんなにガンダムを好きではなかったのかもしれない。
ぼくはガンダムを観たことがなかったので、もしかしたらガンダムっぽい別のロボをプレゼントしてしまったのかもしれない。



またべつのある日、父親といっしょに犬の散歩をしていると、クラスメイトたちに出くわした。どうやら同じクラスの女の子の誕生日会をするところだったようだ。

クラスの女子ほぼ全員と、男子も何人かいた。一年生のときだったが、いわゆる「イケてる男子たち」も招待されていたらしい。

ぼくは招待されていないので気まずかった。軽くあいさつをして立ち去ろうとすると、あらゆることに楽天的な父親は
「なんだ、同じクラスの友だちか。だったらいっしょに遊んでこい」
とぼくの背中を押した。
「いややめとく」と言っても「恥ずかしがるなって。友だちなんだろ」と言い、あろうことか「ごめん、こいつもいっしょに入れてやってくれるかな」とクラスメイトたちに声をかけた。なんと無神経なんだろう。今でも恨んでいる。

イヤと言われることもなく(そりゃ言えないだろう)、急遽ぼくも誕生日会に参加することになった。

呼ばれてもいないお誕生日会への参加。地獄だった。

招かれざる客であるぼくは、もちろんひとりだけプレゼントを持ってきていない。誰も何も言わないが、その目が雄弁に語っている。コイツナンデイルノ。

ちがうんだ、ぼくだって来たくなかったんだ。


今思い返しても冷や汗が出る。

呼ばれなかったお誕生日会に参加することつらさたるや。
ぼくが魔女だったら、お誕生日を迎えた女の子に永遠の眠りにつく呪いをかけていただろうな。


2018年3月1日木曜日

【読書感想】アンソニー・プラトカニス他『プロパガンダ 広告・政治宣伝のからくりを見抜く』


プロパガンダ

広告・政治宣伝のからくりを見抜く

アンソニー・プラトカニス  エリオット・アロンソン

内容(e-honより)
現代に生きる私たちは、大衆操作の企てや集団規模の説得の標的となっている。それらの圧倒的なパワーは、私たちの日々の買い物や選挙での投票や価値観に影響を与えようとしている。本書は、プロパガンダの歴史と社会心理にもとづきながら、私たちがそれらからいかに身を守るかを教えてくれる。

単行本で333ページという分量、3,456円というそこそこする価格、そしてこの愛想のないタイトルと表紙。
政治・軍事的なプロパガンダを研究した学術的な本かと思いきや、意外とソフトな内容で、マーケティング的な内容が大半。後半は宗教団体やナチスの話も少し出てくるけど。
「さあ読むぞ!」と気合いを入れて読みはじめたので(難解な本に取りかかるのには気合いがいる)肩透かしを食らった。
時代劇の撮影に使う発泡スチロール製の岩を持ち上げたときの気分。

もっとも、こっちが勝手に想像していた内容とちがうというだけで中身はおもしろい。
心理学、マーケティングの知見がふんだんに載っている。
ぼくはWEBマーケティングの仕事をしているので、いくつかは参考になった。経費で買っとけば良かったぜ。


いちばん印象に残ったのは、サブリミナル効果の話。
”映画の合間に一秒未満の短いカットでコーラとポップコーンの映像をさしこんだら、その後コーラとポップコーンの売上が爆発的に伸びた”
という話を聞いたことない?
ぼくもずっと昔にこの話を聞いて「へえ。サブリミナル効果ってすごいなー」と思っていた。

ところがこのエピソード、まったくのでたらめなんだって。これを広めた人も「あれは嘘だった」と認めているし、その後に同様の調査をした人もいたけど信用に足る結果は出なかったらしい。
完全にだまされてた……。すごくもっともらしい話だ。サブリミナル効果以上に人に影響を与えた嘘かもしれんね。




フェイクニュースがなくならないどころか増える一方なのは、それが効果があるからなのだろう。さっき書いたサブリミナル効果の話も、いまだ真実として語られているし。

少し前に「〇〇に募金するとそのお金が北朝鮮に行く」というデマをツイートした人がいて、それがあっという間に拡散されていた。デマツイート自体は一日で六万回リツイートされたらしい(閲覧されたのはその数百倍だろう)。
このデマの発信者は後日訂正していたが、訂正するツイートはほとんどリツイートされていない。デマのほうしか見ずにいまだに信じている人もいることだろう。

泉に毒を流すのはかんたんでも、泉から毒を取り除くのはほとんど不可能だ。通信手段の発達により、泉に毒を入れる行為がたやすくできるようになっている。


明らかなデマだけでなく、不正への関与を匂わされただけでもイメージが悪くなるのだそうだ。

 この十年間、ダニエル・ウェグナーの研究グループは、新聞の見出しに対する人びとの反応を調べる一連の実験を行っている。彼らの研究では、被験者たちは新聞の見出しを読んで、候補者に対する好みの程度を評定するように言われた。参加者に呈示された見出しは、直接関与を主張するようなもの(「ボブ・タルボート、マフィアと関与」)、関与をにおわせるもの(「カレン・ダウニングは不正寄付に関係したのか」)、不体裁な行為を否定するもの(「アンドリュー・ウィンタースは横領事件と無関係」)、あるいは中立的なもの(「ジョージ・アームストロング氏、△△市に到着」)のいずれかであった。
 さて結果であるが、まず、直接、関与を主張するような見出しと結びつけられた候補者は、当然のことながら他よりも否定的に評価されていた。しかし驚くべきことに、望ましくない行動との結びつきを示唆するよう見出しや、望ましくない行動との関係を否定しただけの見出しの場合でも、直接関与を主張する見出しよりも多少は肯定的な方向ではあるにせよ、候補者に対する評価はかなり否定的なものだった。もちろんこのことは、候補者が不体裁な活動と結びついていることを単に示唆するだけでも、候補者の公的なイメージが大きなダメージを受けることを示している。さらに、この研究では、見出しの出処はほとんど影響を及ぼさないことも明らかにされた。すなわち、見出しの出処があまり信頼できない新聞(『ナショナル・インクワイア』や『ミッドナイト・グローブ』)でも、『ニューヨーク・タイムス』や『ワシントン・ポスト』の場合を同じように、候補者は否定的に評価されたのである。否定的内容の政治宣伝や中傷キャンペーンの類は、やっただけの効果が得られることが多いのである。

事実かどうかに関係なく「〇〇が不正か!?」と書かれるだけでイメージダウンになる。さらにそれを発信したのが全国紙であってもまとめサイトであっても。

なんとも恐ろしいことだ。嘘でもなんででも、言ったもん勝ちってことだもんね。

核兵器をできたことに対して「人類はとんでもなく危険なものを持ってしまった」と思った人も多いだろうが、誰でも手軽に世界中に情報発信できるインターネットというツールも、原爆に劣らず危険な道具かもしれない。



『プロパガンダ』を読むと、人間って意外とばかなんだなあと思う。

 どうしてイエスといえるのだろうか。フィリップスの研究グループは、テレビニュースや特別番組で自殺が報道されることが、十代の男女の自殺件数にどのような影響を及ぼすのかを検討した。報道の前後の自殺件数を比較することによって、その変動を調べたのである。すると、放送後一週間以内に生じた自殺者の増加は、偶然の要因だけで説明しうるよりもはるかに大きいものだった。また、主要なテレビ局の放送地域が広いほど、自殺者は大きく増加する傾向があった。この増加は、他の可能な原因を考慮に入れて分析しても、なお明白に認められた。こうしたことから考えると、メディア報道の後に生じる十代の自殺者の増加に対しては、報道が実際に模倣自殺の引き金になったという説明が最も妥当ということになるだろう。

 説得の際に使われるヒューリスティックは他にもある。たとえば、カプルズとオウグルビは論拠がたくさん含まれる長いコピーが用いられている場合に、広告が最も効果を発揮すると述べている。メッセージがきちんと読まれるのであれば、そのようなメッセージが、弱い論拠しか含まない短いメッセージより効果があるのは当然であろう。しかし、メッセージがいい加減に読まれたり、まったく読まれない場合はどうなるだろう。社会心理学の研究によれば、人びとがその問題について注意深く考えていない場合には、含まれる論拠の質に関係なく、長いメッセージを用いた方が説得力がある。どうも私たちは、「メッセージの長さはメッセージの論拠の正しさに等しい」という原則に立って判断しているらしい。メッセージが長ければそれだけ重要なのだろう、というわけである。

 最近、テレビコマーシャルの製作者は、視聴者の注意を逸らせることでメッセージの処理を妨害する巧妙な方法を使い始めた。時間を圧縮するのである。メディアにかかる費用を抑えるために、広告者は、たとえば通常の速さよりも二割スピードアップして広告を放映する。そうすると、三六秒のテレビコマーシャルを「圧縮」して三〇秒のタイムスロットに押し込めることができる。心理学的に見ると、時間を圧縮された広告に対しては反論することが困難である。車の運転にたとえれば、広告者は時速一〇〇キロで説得を試みているのに、あなたが制限速度を守って時速六〇キロで自分自身の立場を弁護するようなものである。まず、あなたに勝ち目はないといってよいだろう。

自殺のニュースを見たら自殺が増える、内容よりもメッセージの長さのほうが重要、早口でしゃべる広告のほうが影響されやすい……。
うーん、人間ってばかだなあ(二度目)。

わかっていてもだまされるのが人間という生き物らしい。

 こうした疑念は、成人の間でも一般的である。ある世論調査によると、圧倒的多数の成人が、テレビコマーシャルには真実でない主張が含まれると考えている。また、教育程度が高いほど懐疑的になること、懐疑的な人は自分のそうした考え方が説得への抵抗力となると考えていることも明らかにされている。
 こうした立場に立てば、送り手が提供する情報に偏りがあるという事実を知っていさえすればメッセージに影響されずにすむ、という結論に至るかもしれない。しかし、先に指摘したように、これはすべての場合にあてはまるわけではない。説得から免れていると思うこと、実際に免れていることとは違うからである。たとえば、子どもたちに広告のしくみや目的を教えると、その子どもたちは広告に対して懐疑的になることが知られている。しかし、疑念が形成されたからといって、広告に出てくる商品を買いたくなる気持ちが弱まることはまずない。同じように、成人の多くは、ある特定の商品がよく広告に出てくるという理由だけでその商品を買う傾向がある。そこで、説得の意図が前もって警告されていることが、説得にどのような影響を及ぼすのか、この点について考えておくのがよいだろう。

まともな大人であれば「テレビコマーシャルには嘘・誇張が含まれてる」ってことはよく知ってるけど、じゃあ影響されないかって言ったらそんなことはなく、ちゃんとCMで見た商品は買ってしまうのだ。

ぼくは広告運用の仕事をしているけど、ふつうの人は「自分がいかに広告に引っかかっているか」を自覚していない。

広告からホームページにやってきて問い合わせをしてきた人に「広告なんか意味ないでしょ。あんなのクリックする人いないでしょ」と言われたことがあった。
こっちは苦笑するしかなかったけど、それが標準的な認識なんだろう。
「自分はコマーシャルに影響されない」と思ってる人ほど影響されちゃうんだよね。

株式会社電通『2017年 日本の広告費』によると、2017年に投じられた日本の広告費は6兆3,907億円。影響を与えないものにそんなにお金が使われるわけがないのにね。


「人間がいかにだまされやすいか」を知っておくのは大事だね。
重要なのは「自分はだまされない」と思うことではなく、「自分はだまされやすい」と知ることなんでしょう。



もっとも身震いしたのは、
「情報が過剰になると、膨大な情報を整理することができなくなり、目にした情報を感情や短略的な思考で処理してしまう」
という説明。

 民主主義社会にとって、これは悲惨な結果をもたらすかもしれない。宣伝者たちが単純な説得術を使えば使うほど、さらに競い合うように単純な方法が使われるようになる。そして、単純な方法が使われれば使われるほど、人びとは社会問題について無知で鈍感になる。大衆が無知になればなるほど、宣伝者はよりいっそう単純な説得方法を使う必要に迫られる。その結果は、無知の悪循環である。ひねくれた大衆は、よりいっそう分別も節操もない宣伝の攻撃にさらされる。そうなると、宣伝を消化して理解する能力も気持ちも、ますます衰えていく。「大衆は無知である」というアドルフ・ヒトラーの信念は、このようにして現実のものになるのである。

『プロパガンダ』の原著が発行されたのは1992年刊行。

現在は当時と比べ物にならないぐらい大量の情報があふれている。はたして、大衆は無知になっているんだろうか。じっくり考えることをやめているのだろうか。

残念ながら「そのとおり」と言わざるを得ないな……。


【関連記事】

辻田 真佐憲 『たのしいプロパガンダ』




 その他の読書感想文はこちら



2018年2月28日水曜日

【読書感想】桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈三〉 愛憎模様』

『上方落語 桂米朝コレクション〈三〉
愛憎模様』

桂 米朝

内容(e-honより)
人間国宝・桂米朝演じる上方落語の世界。第三巻は、「愛憎模様」。渦巻く愛蔵、とまらぬ色気。人間というものの濃さ、面白さが炸裂する。けれどもそこは落語、時代に練られて生き残ってきたかろみを兼ね備えたものを、本人による口上を添えて、堪能していただく。

桂米朝氏の落語書き起こし&解説シリーズ、第三巻。
「愛憎模様」を中心にまとめたもの、ということでおもしろさやばかばかしさが前面に出た噺よりも、じっくり聞かせる落語が多い。

落語で描かれる恋愛って、「芸者や遊女に恋をする」か「商家の若旦那が、やはり商家のお嬢さんに恋をする」みたいな話がほとんどで、庶民同士の恋愛というのはほとんど描かれない。庶民の結婚は「嫁さん紹介してくれるか、ほなもろとか」みたいな感じであっさりしている。
誰でもかれでも恋をする現代とちがって、恋愛は贅沢品だったんだろうなあ。



たちぎれ線香


道楽が過ぎたために百日の間、蔵に閉じ込められていた若旦那。久しぶりに出てみると、お互いに愛しあっていた女性が亡くなっていた……、という切ないお話なんだけど、どうもぴんとこない。
ふられたのならともかく相手と連絡がとれなくなったからといって死ぬかね、しかも恋の病で痩せ細って死ぬなんて……と、現代に生きるおっさんにはちょっとこのへんの感覚がわからない。純愛すぎて、心の汚れたおっさんには理解しがたいぜ。

誤解で人が死んでるのに、それを美談みたいに語られてもなあ……という感じ。日本版『ロミオとジュリエット』だね。共感しにくいところもよく似ている。

米朝さん自身はこの噺を「上方落語中でも屈指の大ネタ」「ドラマ構成の見事さ」「登場人物の多彩さ」「サゲがまた上々」とべた褒めしている。たしかに演じるのは難しそう。
番頭の威厳とか、はじめはちゃらんぽらんだった若旦那の成長とか、内儀さんの悲しみを押しころした語りとか、微妙な心境を表現しないといけないもんね。

米朝さんの演じる『たちぎれ線香』を聴いたことがあるが、ヒロインである小糸は話題にのぼるだけで一度も登場しない。それなのに、くっきりとした輪郭を持った魅力的な女性としてイメージが立ちのぼってきた。これぞ名人芸。



崇徳院


若旦那が恋わずらいになり寝こんでしまった。相手はどこの誰だかわからず、手がかりは彼女が書いた崇徳院(崇徳天皇)の和歌「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」だけ。和歌を頼りに東奔西走する熊五郎のドタバタを描いた噺。

和歌を頼りに人探しをするとはずいぶん古風な設定だが、「三百円やる」という台詞が出てくるから、明治後半ぐらいの噺だろう。明治ぐらいまではまだ「恥ずかしくて和歌を書いて贈る」という行為がギリギリ不自然ではない時代だったんだろうね。

歌を贈った良家の美男美女のラブストーリーを描くのではなく、その男女を引き合わせるために苦労する男の悲哀やおかしさを描くのがいかにも落語的。
男女が再開するちょっと手前で話が終わっているところも潔い。



三枚起請


「起請(きしょう)」というものを知らないとこの噺は理解できない。
愛情の変わらないことを互いに誓い合って書いた文書のことだが、元々は神仏への誓いを書いた文書で、破ったら神罰が当たるというから絶対に破ってはいけない約束のことだったらしい。
今の社会って「破られない約束はない」という前提でつくられているから、この「特に罰則は定めていないけどぜったいに破ってはいけない約束」というやつを実感として理解するのが難しい。

遊女が三人の男に起請を渡して結婚の約束をする。要は結婚詐欺だね。じっさいに濫造している娼妓はけっこういたらしい。で、騙されていたことに気づいた男たちが仕返しに行くが居直った女に言い負かされる、という噺。

三人揃うて来られたらしょうがないわなあ。……ハァ……書いた。書きましたがな源さん……。わてかて起請何枚も書くのは良えことやないと思てるけどなあ、このごろお客さんのほうがわたいらより一枚上にならはって、起請ぐらい書かなんだら通うてくれはれへんねん。……書いたがどないや言いなはんのん。娼妓(おやま)というのはだますのん商売にしてまんねやで、だまされるあんた方が悪いのやおまへんかいな。

この居直りようは、遊女の凄みが感じられておもしろい。


サゲの「カラス殺して、ゆっくり朝寝がしてみたい」は、高杉晋作の都々逸「三千世界の鴉を殺し ぬしと朝寝がしてみたい」を下敷きにしている台詞だが……、まあこれだけではよくわからんね。

「起請を破ると神の使いである鴉が三匹死ぬ」とされていたから、「三千世界の鴉を殺し ぬしと朝寝がしてみたい」は「たとえ他の男との約束を破ることになったとしても今はあなたと一緒にいたい」という意味。

ということで、いろんな知識がないと理解がむずかしい落語だね。
今でもキャバクラ嬢は客に気を持っているふりをするためにあれやこれやと工夫するらしいし、水商売の「だます女」「だまされる男」という構図は今も昔も変わらないから、基本的な流れは今でも理解しやすいんだけどね。



 持参金


借りていた二十円を今日中に返してくれと言われた男。なんのあてもないからどうしようと困っていたところに、不細工で妊娠中の女をもらってくれたら持参金として二十円をつけるという話を持ちかけられ、あわてて飛びつく……という噺(これだけで勘のいい人ならオチがわかるだろう)。

ストーリー自体もよくできているが、江戸時代の町人の結婚観がわかっておもしろい。
人から勧められたから「じゃあ嫁さんもらっとくか」ぐらいの気持ちで結婚してる。これは落語だから多少の誇張はあるにせよ、今よりずっとかんたんに決めていたんだろうな。親から「あんたこの高校行ったら?」と言われて「じゃあそこ受験してみよかな」というぐらいで、そんなにあれこれ考えてなかったんじゃないかな。

以前、堀井憲一郎 『落語の国からのぞいてみれば』という本の感想でこんなことを書いた。
繁殖適齢期になったら本人が好むと好まざるとにかかわらず周りの人たちがかかあを見つけてくる。相手が死んだらすぐに別の相手を見つける。今日食う分を稼ぐ。生きられなくなったら死ぬ。
動物としては江戸時代のやりかたのほうがずっと正しいよね。
「生きるうえでの目標」や「理想の自分像」や「運命の伴侶」についてあれこれ考えることこそが人間らしい営みだといってしまえばそれまでなんだけど、そうはいってもぼくたちは動物なんだから、動物的な生き方を捨ててしまっては滅びてしまう。
そうやって滅びつつあるのが今の日本の状況、かもね。

『持参金』の結婚観を見ていると、少子化の最大の原因は自由恋愛なんだろうなあ、と思う。

ところで、女性差別をする人に対して「女性をモノ扱いするな!」という言葉が投げられたりするが、この噺を聴くと江戸時代の女はモノ扱いすらされていなかったんじゃないかと思うぐらい、つくづく扱いがひどい。
女性を妊娠させた男が「結婚したくない。持参金をつけて誰かに押しつけよう」と考え、もらうほうの男も「持参金がつくならどんな女でもいいからもらおう」と言う。当の女性の意思はまったく尊重されておらず、女性の人権なんてあったもんじゃない。

ずいぶんひどい話だが、

乙「お腹に子供があったら傷ですかえ」
佐「……傷やで、そら……、嫁入り前の娘のおなかが臨月というのは、立派な傷やで」
乙「わてはそうは思わんな」
佐「そうか」
乙「そうでっしゃないか。長年連れ添うた夫婦でも、子供がなかったら、赤の他人を養子にもろうて、身代すっかりゆずる人かてあるんや。それに比べたらこっちは、片親だけでも真実物(ほんまもん)でっしゃないか。第一、向こうからこっちへ来るのに、腹へ入れてきたら風邪もひかさんで」

このあっけらかんとした感じのおかげで陰湿な感じはしない。血よりもイエを大事にしていたからこその台詞なんだろうけど、ある意味すごく進歩的な考え方かもしれんなあ。


肝つぶし


夢で見た女に恋をして、恋わずらいになった男。医者に診てもらったところ、治すには年月がそろった日(辰年、辰月(陰暦三月)、辰の日のように)生まれた女の生き肝を煎じて飲まなければならない、と言われる。その男の父親にたいへんにお世話になった男、自分の妹が年月がそろった日生まれだったことを思いだし、殺そうかと思うがやはり殺せない……という噺。

恩人の息子のために何の罪もない妹を殺そうとする、というなんともひどい話。結局殺さないけど後味がよくないので、あまり好きな噺じゃないな。

この噺、タイトルで盛大にネタバレしている。
昔はタイトルを言わずに落語をやっていたから落語のタイトルは噺家同士で伝わればいいぐらいの適当な付けられ方をした……ってのはよく聞く話だけど、さすがにタイトルでサゲがわかっちゃうのはよくない。今は寄席でもたいていタイトルを先に出すし。
せめて『生き肝』ぐらいに変えたらいいのにな。



植木屋娘


あわて者の植木屋が、お寺の自分の娘をお寺の居候である伝吉と結婚させようと画策する、という噺。
主人公である植木屋幸右衛門がなんとも魅力的。娘の幸せを願っているのだが、あわて者で思い込みが強すぎるあまり突拍子もない行動ばかりとってしまうという人物で、岡田あーみん『お父さんは心配症』を思いだした。行動の目的は正反対(『お父さんは心配症』のお父さんは娘と彼氏の交際に大反対)だけど、人物のキャラクターはよく似ている。

「きょとのあわてもん」とか「ポテレン(妊娠)」とか今では通じにくい言葉も出てくるけど、ストーリーもキャラクターもギャグもきれいにまとまっていて、今でもわかりやすい噺。
落語っていくつかの別の話をむりやりくっつけてひとつの噺にしたようなものが多いけど、『植木屋娘』はテーマが一貫していてすごく聞きやすい。



菊江仏壇


これは嫌な噺だ……。
「病気で寝込んでいる妻を見舞いに行くこともなく、芸者を連れこむ若旦那。大旦那がお見舞いに行っている隙に若旦那はどんちゃん騒ぎ。その間に妻は死んでしまうが、若旦那に対して恨み言のひとつも言わない……」
という救いようのないストーリー。

若旦那だけでなく、まじめなふりをして店の金を使いこむ番頭、酔っぱらって周囲にからむ奉公人、本妻のいない間に若旦那の家に行く芸者など、クズ野郎ばかりが登場するなかなかアウトレイジな噺だ。

番頭の正体が暴かれる意外性があったり、どんちゃん騒ぎをしていたところに旦那が帰ってくる緩急の変化があったり、物語性には富んでいるんだけどね。
ただいかんせん最悪な後味の噺なので、今ではめったに演じる人はいないんだとか。さもありなん。


かわり目


この噺、何度か聴いたことがあるけどあまり好きじゃなかった。
酔っ払いの台詞の多い落語って苦手なんだよね。『らくだ』とか。酔っ払いの台詞が聞きづらいから。かといってはっきりしゃべったら酔っ払いらしさがなくなるし。
でも本で読むと、意外と収まりのいい噺だったんだなと新たな発見。

ストーリーとしては、酔っぱらった男に車夫と女房とうどん屋が翻弄される、というそれだけの噺。

派手さはないが、酔っ払いにからまれて困惑する人力車引き、酔っ払いをうまくいなす女房、酔っ払いから逃げだすうどん屋など、キャラクターに濃淡があって、人物の描きわけがおもしろい。


故郷へ錦


いやあ、ぶっとんだ噺だ。
ある男の具合が悪い。伯父さんが尋ねてみると恋わずらいだとのこと。相手はなんと、実の母親。伯父さんは男の母親(つまり妹)に、息子に抱かれてやれと言い、母親は覚悟を決めて息子と事に及ぶ……。というなんともアブノーマルな内容。

当然ながら高座でかけられることはほとんどないらしいし(こんなのやったら客はどん引きだろう)、笑いどころもほとんどない。
消滅しかけの落語(いや、もう消滅してるかも)なので、こうやって文章で残しておくのは価値があるね。


茶漬間男


マクラで、盆屋の説明が出てくる。「盆屋」というのは昔のラブホテルで、お店の人と顔を合わせずに個室で男女が過ごせる場所だったそうだ。このへんの仕組みは昔から変わらないんだなあ。

不倫中の男女が盆屋に行こうとするが金がないことに気づき、不倫妻の家で大胆に事に及ぼうとする。その間、寝取られている夫は何も知らずに茶漬けを食べている……。という落語。

おもしろみとしては「女房が浮気をしているのに呑気に茶漬けをかきこんでいる亭主」の一点のみ。ほぼ小噺みたいな落語だね。海外にもありそうな話。


いもりの黒焼


別嬪と評判の高い米屋の娘に恋をした男。”惚れ薬”であるいもりの黒焼を使って惚れさせようとするが、誤って米俵にかけてしまい、米俵に追いかけられる……。という噺。
こういうの、昔のギャグ漫画によくあった。『ドラえもん』にもあったね。キューピットの矢。

いもりの黒焼が出てきてからよりも、前半の「一見栄、二男、三金、四芸、五精、六おぼこ、七ゼリフ、八力、九胆、十評判」という言葉(女にモテる男の条件だそうだ)をめぐるふたりの会話のほうがおもしろい。掛け合い漫才のよう。


口合小町


落語における道化役は99%が男なんだけど、これはめずらしく女がその役を担っている。

口合(ダジャレ)を得意とする女が、夫を喜ばそうと口合を披露するが、夫はあっけにとられるばかり……という噺。
ダジャレをひたすら積みかさねるだけなので、正直おもしろくない。しかも古い言葉ばかりなのでよくわからない。米朝さんの解説を読んで、活字で見て、やっと八割ぐらいわかる感じ。高座で聴いたらちんぷんかんぷんだろうな。


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