2018年1月2日火曜日

こどもらしい自由な絵


四歳の娘とお絵かきをして遊ぶ。

「バズ・ライトイヤー(映画『トイ・ストーリー』に出てくるおもちゃ)が描きたい!」
というので、絵本に載っていたバズを見せて描かせてみる。


うーん、よくわからん……。
上のほうに顔らしきものがある、ということだけがかろうじてわかる。

なんで中央がこんなにすかすかなのか尋ねると、「白のクレヨンがないから白いところは描かなかった」とのことだ。
なるほど、大胆な省略だ。

そういわれると、目を凝らして想像力で補うと体や脚が見えてくる、ような気もする……。

しかしぼくが親だからそこまで補ってくれるのであって、注釈と見る人の大規模な補完によってしか成り立たない絵というのはずいぶん不親切だ。
何の事前情報もなしにこの絵を見て「バズ・ライトイヤーだね」と気づいてくれる人は、ほとんどいないだろう。


そこで「お父ちゃんならこうやって描くな。まず鉛筆で描いて、それからクレヨンで色を塗る」と言って、ぼくも描いてみた(お手本と言えるほどぼくも絵がうまくないけど……)。
それが下の画像の右の絵。
さらにそれと同じように娘が描いたのが左の絵。


どうでしょう。
ぐっとうまくなったと思いませんか。親ばかですかね。
何の説明もなしに左の絵を見たとき、十人中一人ぐらいは「バズ・ライトイヤーを描いたんだね」と理解してくれるのではないだろうか。
少なくとも「人型の何かを描いたんだな」ということは伝わると思う。


「こどもらしいのびのびした線」は失われてしまった。でもそれでいいと思っている。どうせいつか捨てなきゃいけないものだ。早めに捨てたらいい。

絵を「己の内面を表現する手段」ととらえる人がいる。趣味の絵ならそれでいいと思うけど、内面の表出としての絵を他人に理解してもらえるのはごくごくひとにぎりの人だけだ。
絵は、言葉や文字と同じく情報伝達手段として用いられることのほうが圧倒的に多い。

なのに、教育現場ではやたらと「こどもらしい絵」がもてはやされる。
一歳児が「ごはん、たべたい」としゃべったら「すごい!」と言われる。「こどもらしく『あー』とか『まーまー』とか言いなさい」と言われることはない。
小学生が上手な字を書いたら「字が上手ね」と褒められる。「こどもらしいのびのびした雑な字を書きなさい」と言われることはない。
なのに、絵に関しては「こどもらしい自由な絵」が求められる。ふしぎだ。


2018年1月1日月曜日

冷やし中華であるならば


中華麺を茹でて冷やしたものが「冷やし中華」であるならば、

ハンバーガーとホットドッグは「はさみアメリカ」

タコスは「巻きメキシコ」

ジンギスカンは「焼きモンゴル」

ボルシチは「煮ロシア」

ピザは「焼きイタリア」でスパゲティは「茹でイタリア」

きりたんぽは「練り秋田」、うどんは「こね讃岐」

カレーは「煮込みインド」で、翌日のカレーは「寝かせインド」

冷やし中華は「冷やしちゃいな」

2017年12月31日日曜日

かっこいいおごりかた


人にご飯をおごるのってむずかしいよね。
たまに後輩におごることがあるんだけど、スマートにおごることができない。おしつけがましくなく、相手に気を遣わせないようにおごることができたらいいんだけど、どうやったらいいのかわからない。
「おごるよ」とストレートに言うのはなんだか照れくささがあって、「あっここはぼくがモゴモゴモゴ……」みたいな感じでなんとなく言葉を濁してしまう。

「知らない間にお会計を済ませている」みたいなのが理想だと思うけど、タイミングがよくわからない。
もうみんな食べ終わったかな? と思っても、追加注文をするかもしれないし。
さりとて「もう会計締めちゃっていい?」と訊くのはスマートじゃないし。
一度、ラストオーダー後にトイレに行くふりをして支払いを済ませたことがある。「よし、今日はスマートにできたぞ」と思った。
でもその後、店を出るときに後輩から「あれ? お会計は」と訊かれ、「もう済ませたよ」というのが気恥ずかしくて「まあそれはいいじゃないモゴモゴモゴ……」みたいな感じでそそくさと店を出たせいで、食い逃げみたいになってしまった。ダセえ。

体育会系から遠い人生を送ってきたし、女性との交際経験もあまりないから、おごりおごられってのに慣れてないのよね。





これはスマートだ、と思ったおごりかたを見たことがある。

大学生のとき、三学年上の先輩と食事に行った。
店を出るときに財布を出すと「いや、いいから」と言われた。
「じゃあ千円だけ……」というと、先輩が言った。

「あほか。おまえみたいなしょうもないやつに払わせられるか」

おお、かっこいい。
冗談にくるんでいるので恩着せがましさがまったくない。

さらにその後べつの先輩が「おれもしょうもないからおごってー」と言い、「いいや、おまえは立派なやつや。だから金を出せ」と返したところまで含めて、かっこよかった。


ぜひまねをしたいと思い、一度自分がおごるときに後輩に「おまえみたいなしょうもないやつに金を出させられるか!」と言ったところ、後輩が「あっ、はい、すみません……」と半分本気にとってしまい「あっ、うそうそ冗談」とあわてて取りつくろい、変なかんじになってしまった。
言う人のキャラクターもあるんだろうなあ。兄貴肌の先輩だったからかっこよかったんだけど、ぼくが言うとただの悪口になってしまう。
ということでその技は、それ以来使っていない。

2017年12月28日木曜日

2017年に読んだ本 マイ・ベスト12


2017年に読んだ本は、このブログに感想を書いているものだけで約百冊だった。
その中のマイ・ベスト12を発表。ベスト10にしようと思ったけど、どうしても絞り切れずに12作になってしまった。

なるべくいろんなジャンルから選ぶようにしました。
順位はつけずに、読んだ順に紹介します。

こだま 『夫のちんぽが入らない』

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私小説。
同人誌版を以前に読んでいたので「2017年に読んだ本」に含めるかどうか迷ったけど。
でも書籍版では大幅に加筆されて内容もさらに良くなっていた。プロの編集者ってすごいんだなあ。

タイトル含め今年大きな話題になった本だけど、やっぱりいいタイトルだ。タイトルでぎょっとするけど、内容を読むと「これでも穏便なほうだ」と思う。



前川 ヤスタカ 『勉強できる子 卑屈化社会』

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ノンフィクション。
なぜ「勉強できること」を後ろめたく感じてしまうのか、について論じた本。
元・勉強できる子としては「学生時代に読んでおきたかった!」と思った。
ぼく自身は生きにくかった、というほどではなかったけど「勉強できるだけじゃないんだぜ」ということを見せようとしてむりにバカなことをしていたフシはあったなあ。



木村 元彦 『オシムの言葉』

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ノンフィクション。
サッカーはほとんど観ないけどこの本はおもしろかった。
ユーゴスラビアという民族紛争を抱えた地域。采配や勝敗によっては殺されかねないという状況で、文字通り"命を賭けて"サッカー・ユーゴスラビア代表の監督をやっていたイビチャ・オシム氏。
この本を読んだ人は、「絶対に負けられない闘いが……」という言葉を恥ずかしくて口に出せなくなるだろうね。



牧野知弘 『空き家問題』

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ノンフィクション。
この先、日本は空き家だらけになり、家は負債でしかなくなる……。という状況について不動産の素人にもわかりやすく解説している。
超高齢化社会にさしせまった恐怖。へたなホラーよりよっぽど怖いぜ。



岩瀬 彰 『「月給100円サラリーマン」の時代』

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ノンフィクション。
あまり語られない戦前~戦中のサラリーマンの生活をいきいきと描写している。
日本史の授業の副読本に使ってもいいんじゃないかと思うぐらいうまくまとまっている。おもしろいし。
サラリーマンが戦争に駆り出されるくだりは、70年後のサラリーマンとしてぞっとした。



伊沢 正名『くう・ねる・のぐそ』

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エッセイ。
屋内でウンコをしないという筆者による、野糞まみれ だらけの一冊。どのエピソードもぶっとんでいるようで、意外とまじめ。
もしかしたらこの人、百年後にはファーブルのような扱いを受けて子ども向けの伝記になっているかもしれないな。



貴志 祐介 『黒い家』

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サスペンスホラー。
後半の殺人鬼に追い詰められるシーンもスリル満載でおもしろいが、なんといっても前半の正体のわからない恐怖がじわじわと迫ってくる描写が見事。
寝る前に読んでいたけれど、「これ中断したら怖くて眠れなくなるやつだ」と思って夜更かしして最後まで読んでしまった。



池井戸潤 『空飛ぶタイヤ』

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小説。
実際にあった横浜母子3人死傷事故を題材に、ホープ自動車(モデルは三菱自動車)と関連会社の腐敗を描いた小説。
三菱銀行の社員だった池井戸潤が書いただけあって重厚。ストーリーはよくある展開なんだけど、圧倒的なパワーで引きこまれてしまった。



ミチオ・カク『2100年の科学ライフ』

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ノンフィクション。
最先端の研究者たちの話をもとに、2100年までに訪れる科学の変化を大胆に予想している。
もしかしたら、ぼくらが「寿命のあった最後の世代」なのかもしれない。



石川拓治 NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」制作班
『奇跡のリンゴ 「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録』 


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ノンフィクション。
農薬を使わずにリンゴをつくる、それだけ(といったら失礼だけど)でこんなに感動するなんて。
木村秋則というたった一人の農家の偉業が、世界中の農業の姿を変える日がくるかもしれないな。わりと本気でそう思う。


高野 誠鮮『ローマ法王に米を食べさせた男』

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エッセイ。
過疎化・超高齢化が進む地域を「UFOの里」「ローマ法王が食べた米の生産地」として有名にした公務員の話。
これを読むと、自分がふだんいかに想像力にふたをして生きているかがわかる。
活力が湧いてくる本だ。



小熊 英二 『生きて帰ってきた男 ――ある日本兵の戦争と戦後』


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ノンフィクション。
まったく無名な男のさしてドラマチックでない生涯を淡々とつづっただけ……なのにめちゃくちゃおもしろい。
戦争ってドラマじゃなくて現実と地続きのものなんだと改めて思わされた。



来年もおもしろい本に出会えますように……。


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2017年12月27日水曜日

まったく新しい形容詞は生まれるだろうか / 飯間 浩明『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』【読書感想】


『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』

飯間 浩明

内容(e-honより)
日々、ことばと暮らす著者が、ことばと向き合い、さらに使いこなす。気になる日本語として「あやまる」と「わびる」の違い、紋切型の表現について、敬語を省略して使う、穏やかに注意する方法のほか、漢字と仮名の使い分け、読点(、)の付け方、辞書の活用法等、多岐にわたって提案。さりげないけれど、知っているとお互い気持ちよく過ごせる表現方法が満載!『三省堂国語辞典』編集委員の著者が探究する、今よりちょっと上の日本語生活。

タイトルと、新書という刊行形態から「辞書編纂者が日本語について考察した本なんだろうな」と思っていたのだが、序盤~中盤はとりとめのないエッセイのような内容だった。
もちろん日本語についての話なんだけど、辞書編纂とは関係のない話も多い。

たとえば……。
いつまでも敬語を使っていたら親しくなれない。かといっていきなりタメ口を使うのは失礼……というときに使える「省略話法や独り言形式を用いて敬語でもタメ口でもないグレーゾーンをつくる」というテクニックについて。

 敬語は他人に向かって使うもので、独り言には表れません。そこで、たとえば、
「ああ、おなかが空いてきた」
 と、誰にともなくつぶやきます。それから、「○○さんは?」とつけ加えれば、敬語も使わず、また、なれなれしくもない言い方になります。
 答えるほうも、「私もおなかが空いております」なんて言わずに、
「そう言えば……。ああ、もうお昼なんだ」
 と、これまた独白体で応じます。以下、動詞の省略を組み合わせながら、
「もしよかったら、一緒におすしか何か(食べにまいりましょう)」
「わあ、うれしい(これも独白体)。じゃあ、ぜひ(お願いします)」

なるほど。
ぼくはいつまでたっても敬語を崩せないから、これはいい手だと感心した。
でもこういうのを意識してやってるからいつまでたってもぎこちない話し方になるんだろうな。コミュニケーションが得意な人はきっと無意識にやってることなんだろうね。

辞書編纂者っていうと「いついかなるときも厳格な言葉の使い方を求める人」ってイメージがあったけど、この本を読むとむしろ逆で、著者は言葉の変化に対してすごく柔軟な人だという印象を受ける。上に挙げた「敬語とタメ口のグレーゾーン」の提唱もそうだし。
いろいろ知っている人が最終的にあいまいな表現に行きつくってのはおもしろいな。初心者にかぎって他人の過ちに厳しいってのは他の業界でもありそうな話だ。

辞書って版を重ねるごとにどんどん改訂しているから、「はじめは間違った用法でもそれが主流派になって伝わるようになるのであればもはや間違いとは言えない」という現実即応的なスタンスを持っていないといけないんだろうね。
「あらたし」が誤用されて「新しい」になったように、誤った言葉もいつかは正しくなるかもしれない。
逆に、かつては正しかった言葉が誤りになってしまうことも。

 2008年の北京オリンピックを前に、当時の福田康夫首相が日本選手団を激励して、
「せいぜい頑張ってください」
 と言いました。この発言が、新聞などでからかい気味に報道されました。
「せいぜい」というのは、「今度のテストはせいぜい70点だろう」というように、あまり高い水準を望めない場合にも使います。記者は、首相が日本選手の活躍に期待していないと受け取ったようです。
 でも、もともと「せいぜい」には「精を出して努力する」という意味があります。「せいぜい頑張ってください」は「十分に頑張ってください」ということです。

ぼくも「せいぜいがんばってください」と言われたら、「どうせ無理だろうけどがんばれよ」という意味だと受け取ってしまうなあ。なるほど、そんな意味もあるのか。
聞いたことのない言葉なら調べるかもしれないけど、「せいぜい」はなまじっか知っている単語だから、ろくに調べることもせずに「こんなこと言うなんて!」と怒る人も多かったんだろうな。ぼくも気を付けよう。

ただまあ、そもそも首相がオリンピックを応援しなきゃいけない理由なんてないから、ほんとに「期待しないけど」の意味で使ったとしても非難される筋合いはないんだけど。
世の中には「日本人はオリンピックを応援しなきゃいけない」と思ってる、"最後の体育祭と文化祭のときだけやたら張りきる迷惑なヤンキー" みたいな人がいるからなあ。




後半は辞書編纂者ならではの話題が多かった。新しい言葉を辞書に載せる基準とか、言葉を説明するのに苦労しているところとか。個人的にはそのへんの話だけでもよかったな。

 昔流行した形容詞が古く感じられることもあります。たとえば、「ナウい」は1979年から流行したことばで、今では「死語」として冗談のネタにされます。
 でも、新しく生み出される形容詞は、数として多くありません。ここ何十年かで一般化したと思われるものを挙げてみても、「ウザい」「エロい」「グロい」「キモい」「チャラい」「ハンパない」……など、一生懸命探して2ケタ程度といったところでしょうか。
 つまり、形容詞というのは、そうそう新しいものが生まれもせず、入れ替わりのサイクルは居たって緩やかなのです。

最近だと、「ゲスい」「エモい」あたりがわりとメジャーになった形容詞かな。
形容詞って、誕生しても定着するのに時間がかかるんだろうな。身体性をともなうから。

たとえば名詞だと客観的な説明ができる。
ドローンを説明するのに身体性や文化の共感はいらない。写真を見せて、こういう形状で空を飛ぶ機械製品がドローンだよ、といえばそれなりに日本語がわかる人であれば老若男女関係なく理解できる。アメリカ人の思い描く「ドローン」も、日本人の「ドローン」もたぶんほぼ同じ。

でも形容詞はそうかんたんには伝わらない。身体的な感覚として実感しないと使えない。
たとえばすごく影響のある人が新しく「ペヌい」という形容詞を使いはじめたとしても、人々がすぐにそれを使いこなせるようになるということはない。
他者が「この巨大化したマリモ、めちゃくちゃペヌいな」と言い、「ああこの巨大化したマリモを見たときに味わう感覚がペヌいか」となってはじめて己の中に「ペヌい」が定着する。
しかし形容詞は感覚的な表現であり、自分の感覚と他者の感覚はまったく同じではないから、「これってペヌい、よね……?」「うんペヌいペヌい」「やっぱりペヌいよね」というすりあわせが必要になる。いったん他者の感覚を想像しないと形容詞を共有することはできない。
これを繰り返して、形容詞は使いこなせるようになっていく。

英語の「beautiful」は「美しい」という意味だということは中学生でも知っている。
でも英語ネイティブスピーカーの言う「beautiful」と日本語話者の「美しい」は同じものなんだろうか。ぼくはちがうと思う。共通している部分が多いけど、でもたぶん少しずれている。ぼくの「美しい」と、八十歳のおじいちゃんが思う「美しい」も、たぶんちょっと違う。

そんなことを考えると、新しく形容詞を作ってそれを共有していくってとんでもなくたいへんな作業だな。
上に挙がっている新しい形容詞にしても、「ゲスい」「エモい」「エロい」「グロい」は「下衆」「エモーション」「エロ」「グロテスク」「チャラチャラ」「半端」といった言葉を用言化したもので、「キモい」「ウザい」はそれぞれ「気持ち悪い」「うざったい」という既にある形容詞の省略形だ。
既にある言葉がベースにあるから受け入れられたけど、まったく新しい形容詞が広範に使われるようになることってあるのかな。
もしかすると、ここ数十年ぐらいのスパンで見ても他の言葉に由来していない「まったく新しい形容詞」ってほとんどないんじゃないの?
「しょぼい」、「せこい」あたりも新しいようで古い言葉に端を発しているらしいし。
「ダサい」ぐらいかな?
(タモリが「ダ埼玉」と言いだしたのが語源、とする説もあるが、実際は順番が逆で「ダサい」+「埼玉」で「ダ埼玉」になったらしく、「ダサい」のほうが古いようだ)
新しい形容詞ってないかと探してみたら、「けまらしい」という形容詞をつくった人もいた(→ リンク)らしいが、ちょっと流行ったものの結局定着しなかったようだ。

うーん、形容詞ってなかなかペヌいな……。



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