2017年12月31日日曜日

かっこいいおごりかた


人にご飯をおごるのってむずかしいよね。
たまに後輩におごることがあるんだけど、スマートにおごることができない。おしつけがましくなく、相手に気を遣わせないようにおごることができたらいいんだけど、どうやったらいいのかわからない。
「おごるよ」とストレートに言うのはなんだか照れくささがあって、「あっここはぼくがモゴモゴモゴ……」みたいな感じでなんとなく言葉を濁してしまう。

「知らない間にお会計を済ませている」みたいなのが理想だと思うけど、タイミングがよくわからない。
もうみんな食べ終わったかな? と思っても、追加注文をするかもしれないし。
さりとて「もう会計締めちゃっていい?」と訊くのはスマートじゃないし。
一度、ラストオーダー後にトイレに行くふりをして支払いを済ませたことがある。「よし、今日はスマートにできたぞ」と思った。
でもその後、店を出るときに後輩から「あれ? お会計は」と訊かれ、「もう済ませたよ」というのが気恥ずかしくて「まあそれはいいじゃないモゴモゴモゴ……」みたいな感じでそそくさと店を出たせいで、食い逃げみたいになってしまった。ダセえ。

体育会系から遠い人生を送ってきたし、女性との交際経験もあまりないから、おごりおごられってのに慣れてないのよね。





これはスマートだ、と思ったおごりかたを見たことがある。

大学生のとき、三学年上の先輩と食事に行った。
店を出るときに財布を出すと「いや、いいから」と言われた。
「じゃあ千円だけ……」というと、先輩が言った。

「あほか。おまえみたいなしょうもないやつに払わせられるか」

おお、かっこいい。
冗談にくるんでいるので恩着せがましさがまったくない。

さらにその後べつの先輩が「おれもしょうもないからおごってー」と言い、「いいや、おまえは立派なやつや。だから金を出せ」と返したところまで含めて、かっこよかった。


ぜひまねをしたいと思い、一度自分がおごるときに後輩に「おまえみたいなしょうもないやつに金を出させられるか!」と言ったところ、後輩が「あっ、はい、すみません……」と半分本気にとってしまい「あっ、うそうそ冗談」とあわてて取りつくろい、変なかんじになってしまった。
言う人のキャラクターもあるんだろうなあ。兄貴肌の先輩だったからかっこよかったんだけど、ぼくが言うとただの悪口になってしまう。
ということでその技は、それ以来使っていない。

2017年12月28日木曜日

2017年に読んだ本 マイ・ベスト12


2017年に読んだ本は、このブログに感想を書いているものだけで約百冊だった。
その中のマイ・ベスト12を発表。ベスト10にしようと思ったけど、どうしても絞り切れずに12作になってしまった。

なるべくいろんなジャンルから選ぶようにしました。
順位はつけずに、読んだ順に紹介します。

こだま 『夫のちんぽが入らない』

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私小説。
同人誌版を以前に読んでいたので「2017年に読んだ本」に含めるかどうか迷ったけど。
でも書籍版では大幅に加筆されて内容もさらに良くなっていた。プロの編集者ってすごいんだなあ。

タイトル含め今年大きな話題になった本だけど、やっぱりいいタイトルだ。タイトルでぎょっとするけど、内容を読むと「これでも穏便なほうだ」と思う。



前川 ヤスタカ 『勉強できる子 卑屈化社会』

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ノンフィクション。
なぜ「勉強できること」を後ろめたく感じてしまうのか、について論じた本。
元・勉強できる子としては「学生時代に読んでおきたかった!」と思った。
ぼく自身は生きにくかった、というほどではなかったけど「勉強できるだけじゃないんだぜ」ということを見せようとしてむりにバカなことをしていたフシはあったなあ。



木村 元彦 『オシムの言葉』

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ノンフィクション。
サッカーはほとんど観ないけどこの本はおもしろかった。
ユーゴスラビアという民族紛争を抱えた地域。采配や勝敗によっては殺されかねないという状況で、文字通り"命を賭けて"サッカー・ユーゴスラビア代表の監督をやっていたイビチャ・オシム氏。
この本を読んだ人は、「絶対に負けられない闘いが……」という言葉を恥ずかしくて口に出せなくなるだろうね。



牧野知弘 『空き家問題』

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ノンフィクション。
この先、日本は空き家だらけになり、家は負債でしかなくなる……。という状況について不動産の素人にもわかりやすく解説している。
超高齢化社会にさしせまった恐怖。へたなホラーよりよっぽど怖いぜ。



岩瀬 彰 『「月給100円サラリーマン」の時代』

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ノンフィクション。
あまり語られない戦前~戦中のサラリーマンの生活をいきいきと描写している。
日本史の授業の副読本に使ってもいいんじゃないかと思うぐらいうまくまとまっている。おもしろいし。
サラリーマンが戦争に駆り出されるくだりは、70年後のサラリーマンとしてぞっとした。



伊沢 正名『くう・ねる・のぐそ』

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エッセイ。
屋内でウンコをしないという筆者による、野糞まみれ だらけの一冊。どのエピソードもぶっとんでいるようで、意外とまじめ。
もしかしたらこの人、百年後にはファーブルのような扱いを受けて子ども向けの伝記になっているかもしれないな。



貴志 祐介 『黒い家』

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サスペンスホラー。
後半の殺人鬼に追い詰められるシーンもスリル満載でおもしろいが、なんといっても前半の正体のわからない恐怖がじわじわと迫ってくる描写が見事。
寝る前に読んでいたけれど、「これ中断したら怖くて眠れなくなるやつだ」と思って夜更かしして最後まで読んでしまった。



池井戸潤 『空飛ぶタイヤ』

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小説。
実際にあった横浜母子3人死傷事故を題材に、ホープ自動車(モデルは三菱自動車)と関連会社の腐敗を描いた小説。
三菱銀行の社員だった池井戸潤が書いただけあって重厚。ストーリーはよくある展開なんだけど、圧倒的なパワーで引きこまれてしまった。



ミチオ・カク『2100年の科学ライフ』

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ノンフィクション。
最先端の研究者たちの話をもとに、2100年までに訪れる科学の変化を大胆に予想している。
もしかしたら、ぼくらが「寿命のあった最後の世代」なのかもしれない。



石川拓治 NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」制作班
『奇跡のリンゴ 「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録』 


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ノンフィクション。
農薬を使わずにリンゴをつくる、それだけ(といったら失礼だけど)でこんなに感動するなんて。
木村秋則というたった一人の農家の偉業が、世界中の農業の姿を変える日がくるかもしれないな。わりと本気でそう思う。


高野 誠鮮『ローマ法王に米を食べさせた男』

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エッセイ。
過疎化・超高齢化が進む地域を「UFOの里」「ローマ法王が食べた米の生産地」として有名にした公務員の話。
これを読むと、自分がふだんいかに想像力にふたをして生きているかがわかる。
活力が湧いてくる本だ。



小熊 英二 『生きて帰ってきた男 ――ある日本兵の戦争と戦後』


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ノンフィクション。
まったく無名な男のさしてドラマチックでない生涯を淡々とつづっただけ……なのにめちゃくちゃおもしろい。
戦争ってドラマじゃなくて現実と地続きのものなんだと改めて思わされた。



来年もおもしろい本に出会えますように……。


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2017年12月27日水曜日

まったく新しい形容詞は生まれるだろうか / 飯間 浩明『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』【読書感想】


『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』

飯間 浩明

内容(e-honより)
日々、ことばと暮らす著者が、ことばと向き合い、さらに使いこなす。気になる日本語として「あやまる」と「わびる」の違い、紋切型の表現について、敬語を省略して使う、穏やかに注意する方法のほか、漢字と仮名の使い分け、読点(、)の付け方、辞書の活用法等、多岐にわたって提案。さりげないけれど、知っているとお互い気持ちよく過ごせる表現方法が満載!『三省堂国語辞典』編集委員の著者が探究する、今よりちょっと上の日本語生活。

タイトルと、新書という刊行形態から「辞書編纂者が日本語について考察した本なんだろうな」と思っていたのだが、序盤~中盤はとりとめのないエッセイのような内容だった。
もちろん日本語についての話なんだけど、辞書編纂とは関係のない話も多い。

たとえば……。
いつまでも敬語を使っていたら親しくなれない。かといっていきなりタメ口を使うのは失礼……というときに使える「省略話法や独り言形式を用いて敬語でもタメ口でもないグレーゾーンをつくる」というテクニックについて。

 敬語は他人に向かって使うもので、独り言には表れません。そこで、たとえば、
「ああ、おなかが空いてきた」
 と、誰にともなくつぶやきます。それから、「○○さんは?」とつけ加えれば、敬語も使わず、また、なれなれしくもない言い方になります。
 答えるほうも、「私もおなかが空いております」なんて言わずに、
「そう言えば……。ああ、もうお昼なんだ」
 と、これまた独白体で応じます。以下、動詞の省略を組み合わせながら、
「もしよかったら、一緒におすしか何か(食べにまいりましょう)」
「わあ、うれしい(これも独白体)。じゃあ、ぜひ(お願いします)」

なるほど。
ぼくはいつまでたっても敬語を崩せないから、これはいい手だと感心した。
でもこういうのを意識してやってるからいつまでたってもぎこちない話し方になるんだろうな。コミュニケーションが得意な人はきっと無意識にやってることなんだろうね。

辞書編纂者っていうと「いついかなるときも厳格な言葉の使い方を求める人」ってイメージがあったけど、この本を読むとむしろ逆で、著者は言葉の変化に対してすごく柔軟な人だという印象を受ける。上に挙げた「敬語とタメ口のグレーゾーン」の提唱もそうだし。
いろいろ知っている人が最終的にあいまいな表現に行きつくってのはおもしろいな。初心者にかぎって他人の過ちに厳しいってのは他の業界でもありそうな話だ。

辞書って版を重ねるごとにどんどん改訂しているから、「はじめは間違った用法でもそれが主流派になって伝わるようになるのであればもはや間違いとは言えない」という現実即応的なスタンスを持っていないといけないんだろうね。
「あらたし」が誤用されて「新しい」になったように、誤った言葉もいつかは正しくなるかもしれない。
逆に、かつては正しかった言葉が誤りになってしまうことも。

 2008年の北京オリンピックを前に、当時の福田康夫首相が日本選手団を激励して、
「せいぜい頑張ってください」
 と言いました。この発言が、新聞などでからかい気味に報道されました。
「せいぜい」というのは、「今度のテストはせいぜい70点だろう」というように、あまり高い水準を望めない場合にも使います。記者は、首相が日本選手の活躍に期待していないと受け取ったようです。
 でも、もともと「せいぜい」には「精を出して努力する」という意味があります。「せいぜい頑張ってください」は「十分に頑張ってください」ということです。

ぼくも「せいぜいがんばってください」と言われたら、「どうせ無理だろうけどがんばれよ」という意味だと受け取ってしまうなあ。なるほど、そんな意味もあるのか。
聞いたことのない言葉なら調べるかもしれないけど、「せいぜい」はなまじっか知っている単語だから、ろくに調べることもせずに「こんなこと言うなんて!」と怒る人も多かったんだろうな。ぼくも気を付けよう。

ただまあ、そもそも首相がオリンピックを応援しなきゃいけない理由なんてないから、ほんとに「期待しないけど」の意味で使ったとしても非難される筋合いはないんだけど。
世の中には「日本人はオリンピックを応援しなきゃいけない」と思ってる、"最後の体育祭と文化祭のときだけやたら張りきる迷惑なヤンキー" みたいな人がいるからなあ。




後半は辞書編纂者ならではの話題が多かった。新しい言葉を辞書に載せる基準とか、言葉を説明するのに苦労しているところとか。個人的にはそのへんの話だけでもよかったな。

 昔流行した形容詞が古く感じられることもあります。たとえば、「ナウい」は1979年から流行したことばで、今では「死語」として冗談のネタにされます。
 でも、新しく生み出される形容詞は、数として多くありません。ここ何十年かで一般化したと思われるものを挙げてみても、「ウザい」「エロい」「グロい」「キモい」「チャラい」「ハンパない」……など、一生懸命探して2ケタ程度といったところでしょうか。
 つまり、形容詞というのは、そうそう新しいものが生まれもせず、入れ替わりのサイクルは居たって緩やかなのです。

最近だと、「ゲスい」「エモい」あたりがわりとメジャーになった形容詞かな。
形容詞って、誕生しても定着するのに時間がかかるんだろうな。身体性をともなうから。

たとえば名詞だと客観的な説明ができる。
ドローンを説明するのに身体性や文化の共感はいらない。写真を見せて、こういう形状で空を飛ぶ機械製品がドローンだよ、といえばそれなりに日本語がわかる人であれば老若男女関係なく理解できる。アメリカ人の思い描く「ドローン」も、日本人の「ドローン」もたぶんほぼ同じ。

でも形容詞はそうかんたんには伝わらない。身体的な感覚として実感しないと使えない。
たとえばすごく影響のある人が新しく「ペヌい」という形容詞を使いはじめたとしても、人々がすぐにそれを使いこなせるようになるということはない。
他者が「この巨大化したマリモ、めちゃくちゃペヌいな」と言い、「ああこの巨大化したマリモを見たときに味わう感覚がペヌいか」となってはじめて己の中に「ペヌい」が定着する。
しかし形容詞は感覚的な表現であり、自分の感覚と他者の感覚はまったく同じではないから、「これってペヌい、よね……?」「うんペヌいペヌい」「やっぱりペヌいよね」というすりあわせが必要になる。いったん他者の感覚を想像しないと形容詞を共有することはできない。
これを繰り返して、形容詞は使いこなせるようになっていく。

英語の「beautiful」は「美しい」という意味だということは中学生でも知っている。
でも英語ネイティブスピーカーの言う「beautiful」と日本語話者の「美しい」は同じものなんだろうか。ぼくはちがうと思う。共通している部分が多いけど、でもたぶん少しずれている。ぼくの「美しい」と、八十歳のおじいちゃんが思う「美しい」も、たぶんちょっと違う。

そんなことを考えると、新しく形容詞を作ってそれを共有していくってとんでもなくたいへんな作業だな。
上に挙がっている新しい形容詞にしても、「ゲスい」「エモい」「エロい」「グロい」は「下衆」「エモーション」「エロ」「グロテスク」「チャラチャラ」「半端」といった言葉を用言化したもので、「キモい」「ウザい」はそれぞれ「気持ち悪い」「うざったい」という既にある形容詞の省略形だ。
既にある言葉がベースにあるから受け入れられたけど、まったく新しい形容詞が広範に使われるようになることってあるのかな。
もしかすると、ここ数十年ぐらいのスパンで見ても他の言葉に由来していない「まったく新しい形容詞」ってほとんどないんじゃないの?
「しょぼい」、「せこい」あたりも新しいようで古い言葉に端を発しているらしいし。
「ダサい」ぐらいかな?
(タモリが「ダ埼玉」と言いだしたのが語源、とする説もあるが、実際は順番が逆で「ダサい」+「埼玉」で「ダ埼玉」になったらしく、「ダサい」のほうが古いようだ)
新しい形容詞ってないかと探してみたら、「けまらしい」という形容詞をつくった人もいた(→ リンク)らしいが、ちょっと流行ったものの結局定着しなかったようだ。

うーん、形容詞ってなかなかペヌいな……。



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2017年12月26日火曜日

紙の本だから書けるむちゃくちゃ/島本慶・中崎タツヤ『大丈夫かい山田さん!』


『大丈夫かい山田さん!』

中崎タツヤ(漫画) 島本慶(文章)

内容(e-honより)
酒に歌えば女を想う。漫画界の鬼才と特殊分野ルポライターが織りなす哀愁と含み笑いのオヤジ劇場。疲れたあなたのココロにしみわたる大傑作!

中崎タツヤの漫画に惹かれて買った本。島本慶という人のことはまったく知らなかった。
五十歳をすぎてから歌手になったという人で、"舐達磨親方" 名義で風俗記事を書いたりもしていたとか。つまりわけわかんない人ですね。"舐達磨親方" は西原理恵子の漫画にときどき名前が出てくるので聞いたことだけはあった。


エッセイはキレが良くない。とりとめのない話をひたすらだらだらと書いている。ザ・酔っ払いの話って感じ。
役に立つ知識は得られないし、人生に大きな示唆を与えてくれるような話もない。でもまあそういうものだと思えばこっちも「本は読みたいけど頭は一デシベルも使いたくないな」ってときに開けばいいから気楽に読める。

正直ほとんどのエッセイはつまんないんだけど、ときどきすっごく乱暴な持論を展開しているのがおもしろい。

 それと、高田馬場の栄通りを突っ切った先の、神田川沿いにある自転車置場あたりでも遠く後ろの方から「コラァ! ここは禁煙だぞぉコラコラコラァ!」と、新宿区に雇われたオッサンが怒鳴りまくります。本当に柄の悪い奴です。私は振り返って、冷静な態度で紳士的に、「あっ私、携帯の灰皿をこのように片手に持ってますから」と話しながら灰皿を上に持ち上げて見せます。オッサンはキョトンとして、眉をしかめながら黙りこくりました。その表情には、ほんの少しだけ「そういうこっちゃねぇんだよぉ!」って感じが見てとれましたが、そんなの無視です。私は心の中で「ジャカッシャイ! テメェこのカス、ワシがどこでタバコを吸おぅとワシのかってじゃあ! 文句あんなら警察でも何でも読んだらんかいワレェ!」と心の中で叫びつつ、あくまで紳士的に遠ざかったのでした。いやぁ本当に柄の悪い奴多いですよ、禁煙関係者は。

ふはは。イカれてるなあ。
完全に禁止区域でタバコ吸ってるおまえが悪いじゃねえか。
酔って書いたんだろうなあ。”心の中で「……」と心の中で叫びつつ” とか文章もおかしいしな。校閲してないのかな。


かつて人々が文章を発表する手段として書籍や新聞しかなかった時代。何人ものチェックが入るから、むちゃくちゃなことは書けなかった。
インターネットの普及によって誰でもかんたんに自作の文章を発表できるようになりどんな乱暴なことでも自由に書けるように……とはならなかった。残念ながら。
いや、昔のインターネットってそういう場所だったんだけどね。いわゆるチラシの裏的な場所。どうせ誰も読んでないから何を書いてもいい場所、という雰囲気があった。
でも今のインターネットでは、誰かの癇に障ることを書いたらいともかんたんに炎上する。批判のレベルを超えて身の危険を感じるぐらいの攻撃を食らうこともある。結局、インターネットでも紙媒体と同じように、いやもしかするとそれ以上に、正しさ(というか無難さ)が求められるようになってしまった。

この「喫煙禁止区域でタバコを吸ってたら注意してきた人がいたので毒づいている話」なんか、著名人がブログで発表したりしたらあっという間に炎上するだろうね。有名人じゃなくたってタチの悪い人に見つかったら大炎上だ。
でも紙の本ならたぶん大丈夫。拡散させにくいから。
ブログやSNSの素人の投稿よりも出版社が出している本のほうが乱暴なことを書いても許される時代が来るとは思わなかったなあ。


ぼくらが読みたいのは正しいことだけじゃないんだよね。
論理的にむちゃくちゃでも、べつの誰かを傷つける言葉でも、場合によっては自分を攻撃する言葉であっても、楽しませくれるならかまわない。
どこか別のサイトから切り貼りしてきただけの文章を並べたWEBサイトじゃなくて、乱暴でもまちがっててもいいから自分の言葉で語っている文章なんだよ。ぼくがインターネットで読みたいのは!
聞いてるかアクセス数目当てにコピペでコンテンツつくってるやつら!



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2017年12月25日月曜日

生きる昭和史/ 小熊 英二 『生きて帰ってきた男』【読書感想】


『生きて帰ってきた男
――ある日本兵の戦争と戦後』

小熊 英二 

内容(e-honより)
とある一人のシベリア抑留者がたどった軌跡から、戦前・戦中・戦後の日本の生活面様がよみがえる。戦争とは、平和とは、高度成長とは、いったい何だったのか。戦争体験は人々をどのように変えたのか。著者が自らの父・謙二(一九二五‐)の人生を通して、「生きられた二〇世紀の歴史」を描き出す。

いい本だった。
1925年(大正14年)生まれの小熊謙二さん(筆者の父親)の生涯をつづったノンフィクション。大正15年=昭和元年だから、大正14年生まれだと、昭和20年=満20歳ということになる。まさに昭和とともに生きた人。生きる昭和史だ。

小熊謙二さんは、戦前に少年時代を送り、会社勤めをした後に徴兵されて満州に行き、捕虜としてシベリア抑留され、帰国後は肺炎や子どもの死を経験しながらもさまざまな職を転々とした人。
そんな一市民の人生を描くことで、戦前~戦中(シベリア収容所)~戦後の雰囲気がありありと伝わってくる。

戦争体験について書かれた本は多いが、こういう本はめずらしい。
あとがきで筆者も書いているが、ひとつには戦中だけでなく戦前から戦後数十年にわたって戦争体験者の一生を追いかけていること。もうひとつは、主役が軍幹部やエリート、著名人ではなく、さらに「これは伝えたい!」という熱い感情を持っていないこと。
今でこそ誰でもブログやSNSで気軽に情報発信できるようになったが、少し前までは著名人や強い熱情(とある程度のお金)を持った人しか情報発信する機会がなかった。息子がライターでなければ小熊謙二さんの生涯がこうして本になることはなかっただろう。そういう点で稀少かつ価値のある本だ。



事実を淡々と、かつ詳細に書いているのがいい。ときおり「あのときはこう思った」という謙二さんの言葉がさしこまれるが、「特に気にしなかった」とか「たいへんだとは思ったが仕事が忙しくてそれどころじゃなかった」とか、終始冷静だ。語られる人も語る人も感情的でないことで、かえって情景が伝わってくる。リアルな日本人の実感、という感じだ。
たとえば東日本大震災だって、遠く離れた所に住んでいる人の大半からしたら「たいへんなことが起こったとは思ったがすぐにふだんの生活に戻った」というのが偽らざる心情だろう。真珠湾攻撃も玉音放送も、歴史の本を読むと天地がひっくり返るような出来事として書いているけど、ほとんどの人はそんな心境だったんじゃなかろうか。

たとえば、軍に召集される直前の心境についての回想。

「自分が戦争を支持したという自覚もないし、反対したという自覚もない。なんとなく流されていた。大戦果が上がっているというわりには、だんだん形勢が悪くなっているので、何かおかしいとは思った。しかしそれ以上に深く考えるという習慣もなかったし、そのための材料もなかった。俺たち一般人は、みんなそんなものだったと思う」

何かおかしい、と思いながらも声を上げず、深く考えることもやめて、破局に向かっていく。
こういう後世には伝わりにくい"空気"を文章にして後世に残す、というのはとても有意義なことだと思う。たぶん次の戦争のときも同じようなことになるだろうから。
ぼくは今の時代のあれやこれやに対しても「何かおかしい」と思っている。でも特に行動を起こしていない。まさに、同じ心境なんだろうな。



南京大虐殺について。

「米軍の残虐行為は報道で知ったが、日本軍の残虐性にくらべれば、米軍のやっていることはオモチャみたいなものだと思った。中学生のころには、クラスのなかで同級生が、中国戦線から帰った兵隊からもらったという写真を内緒で見せあっていた。捕虜の中国人の首を、軍刀でちょん切る瞬間だった。中学生でもそういうものに接する機会が、当時の日本にはよくあったと思う」
「シベリアの収容所にいたとき、『日本新聞』に南京事件のことが載った。同じ班に『満州日日新聞』の記者がいて、「この事件は日本では伏せられていたが、外国ではオープンで知れ渡っていた」と言っていた。収容所では、中国戦線の古参兵である高橋軍曹が、猥談のついでに残虐行為の話をしていた。戦火をさけて中国人の婦女子だけが隠れている場所を発見し、集団暴行をしたというような内容だった。ほかにも古参兵たちの伝聞で、日本軍がどんなことをやっていたのかはだいたいわかった」
「だから「南京虐殺はなかった」とかいう論調が出てきたときは、「まだこんなことをいっている人がいるのか」と思った。本でしか知識を得ていないから、ああいうことを書くのだろう。残虐行為をやった人は、戦場では獣になっていたが、戦後に帰ってきたら何も言わずに、胸に秘めて暮らしていたと思う」

この人だけじゃなく、多くの戦争経験者がこういう話をしている。規模の違いこそあれ、あったことはまちがいないのだろう。
こういう話を聞いても「なかった。でっちあげだ」と言う人って、どうかしてるとしか思えない。経験者の多くがあったと言っているのに、その時代に生まれていなかった人がどうして否定できるんだろう。
これでも「南京事件はなかった」と言う人って証拠を欲しているわけじゃないから、仮にタイムマシンができて実際に見たとしても信じないんだろうね。




この本を読むまで知らなかったのだが、基本的に日本政府は戦争被害者に補償はおこなっていないらしい。

シベリア抑留された人に対しては、戦後四十年以上たった1988年、"補償金"ではなく"慰労金"として10万円と銀杯が支給されただけだとか(ちなみに他国では捕虜として労働に従事した場合はその労働に対する賃金がもらえるそうだ)。
数年働いての報酬としては雀の涙だが、徴兵されていた朝鮮人に対してはそれすら支給されていなかった。
その不支給がおかしいといって元日本軍の朝鮮人が日本政府を訴えた裁判で、小熊謙二さんは共同原告として証言台に立つことになる。
そのときの演説が胸を打つ。

 数年前私はシベリア抑留に対する慰労状と慰労金を受け取りました。しかし日本国は彼が外国人であるとの理由で対象としておりません。これは納得できないことであります。
 何故、彼がシベリアで抑留生活を送らねばならなかったかを、考えて下さい。かつての大日本帝国は朝鮮を併合して朝鮮民族の人々を日本国民としました。その結果私と同じく彼も日本国民の義務として徴兵され、関東軍兵士となり捕虜となったのであります。慰労がシベリア抑留という事実に対し為された以上、彼はそれを受ける権利があります。
 日本国民であるからと徴兵しシベリア抑留をさせた日本国。その同じ日本国が無責任にも、今になってあなたは外国人だからダメというのは論理的に成り立ちません。
 これは明らかな差別であり、国際的に通用しない人権無視であります。

 この陳述書を裁判官たちの前で読み上げたことについて、謙二はこう述べている。
「勝つとも思えなかったが、口頭弁論で二〇分間使えるというので、言いたいことを言ってやった。むだな戦争に駆り出されて、むだな労役に就かされて、たくさんの仲間が死んだ。父も、おじいさんもおばあさんも、戦争で老後のための財産が全部なくなり、さんざん苦労させられた。あんなことを裁判官にむかって言っても、むだかもしれないけれど、とにかく言いたいことを言ってやった」

戦争に駆り出されたことにも、シベリアの過酷な環境で強制労働をさせられたことにも、財産を失って戦後に苦しい思いをしたことにも、「そういう時代だったから」とぜんぜん恨みがましいことを言っていなかった人が、どんなに理不尽な目に遭ってもじっと耐えてきた人が、それでも我慢できなくなってにじみだすようにして語るこの言葉。
小熊謙二さんの、静かで、深い怒りが伝わってくる。

特に政治家には読んでもらいたい本だ。戦前・戦中・戦後を生きた人の肌感覚を多少なりとも理解するために。


この人が典型的日本人だとは思わないけど、こういう考えの人は決して少数派ではないと思う。なのに多数派の考え、人生は、いつの時代も世に出ることがほとんどない。
これはすごく貴重な一冊だ。息子がライターだったから、さらに戦後思想史に十分な知識があったからこそ生まれた、偶然のような一冊。
著名人も出てこない、個性的な人も出てこない、ドラマチックな出来事も起こらない。なのにめちゃくちゃおもしろい。

NHK大河ドラマで、こういう市井の人の生涯を一年かけて描いたらすごくおもしろいだろうなあ。朝ドラみたいに安っぽいメッセージは込めずに、ただ事実をありのままに再現する。
観てみたいなあ。


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岩瀬 彰 『「月給100円サラリーマン」の時代』




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