2017年11月16日木曜日

1970年頃の人々の不安/手塚 治虫『空気の底』【読書感想】


『空気の底』

手塚 治虫

【目次】
ジョーを訪ねた男
野郎と断崖
グランドメサの決闘
うろこが崎
夜の声
そこに穴があった
カメレオン
猫の血
わが谷は未知なりき
暗い窓の女
カタストロフ・イン・ザ・ダーク
電話
ロバンナよ
ふたりは空気の底に
手塚治虫中期の短篇集。
これらの作品が発表されたのは1968~1970年。この3年間に起こった事件を調べてみると、3億円事件、学生運動による東大入試中止、人類初の月面着陸、大阪万博、よど号ハイジャック……。なんとまあ盛りだくさん。超濃密な3年間だね。
今ぼくが「昭和」という言葉から漠然とイメージするのはこのあたりの時代だな。高度経済成長で勢いがあり、公害や安保闘争といった社会のひずみが表面化した時代でもある。

で、そんな時代の空気を色濃く反映した、グロテスクで虚無的な内容の短篇が集まっている。
ベトナム戦争帰還兵と黒人差別を絡めた『ジョーを訪ねた男』、田舎の村に伝わる伝説と公害病をつなげた『うろこが崎』、東京に核爆弾が落とされる『猫の血』、人類最後の生き残りの恋愛を描いた『ふたりは空気の底に』など、なんとも救いのないショートショートが並んでいる。オチは鋭くないが、じわっとした不快感・不安感が広がる。

1970年頃の人々の不安を表しているんだろうな。
冷戦まっただなかで、いつ核戦争がはじまるかわからない世界情勢。公害や環境問題が問題視され、科学の進歩の先にあるのが希望ではなく絶望ではないかと気づきはじめた時代。それが手塚治虫の漫画ににじみ出ている。

こうした不安は今でも解消されていないけど、たぶん50年前よりはずっと軽減されている。
今でもあちこちで戦争は起こっているけど、世界中を巻きこむ大国同士の核戦争はたぶんしばらく起こらないだろう(とぼくらは思っている)。
エネルギー不足や環境問題は依然としてあるけれどひところよりは状況が改善しているし、きっとどこかの賢い人が解決してくれるだろう(と思っている)。

今のぼくたちが抱えている不安は「貧困への不安」じゃないだろうか。
50年前、それなりの会社に勤めていて、子どもにも恵まれた人は「将来自分が貧困生活を送るかもしれない」という不安はどれぐらい感じていたんだろう。想像するしかないけど、ほとんど感じていなかったんじゃないだろうか。暮らしは右肩上がりで良くなっていくし、年金はあるし、困ったら子どもが助けてくれる。そんな思いが強かったはずだ。
今それと同じように将来に対して楽観視している人はほとんどいない。会社勤めでも、そこそこの貯金があっても、年金に加入していても、子どもがいても、その不安は拭えない。
若者が減って老人が増えて人口が減っていくという人類が経験したことのない時代に直面して、ぼくらは貧困生活に転落しないかと不安でいっぱいだ。



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2017年11月15日水曜日

ヴァカンス・イン・桂林


今までいちばん贅沢な時間を過ごしたのはいつだろうと考えてみると、十数年前に中国・桂林で過ごした日々に思いあたる。

学生の貧乏旅行で友人ふたりと中国をまわり、中国南部の桂林という田舎町に数日滞在して、鉄道でベトナムに渡る予定だった。
ところがハプニングがありチケットが取れず、最終的に旅行会社と喧嘩をして「だったらいらんわ!」と日本語で啖呵を切って、ビザが切れるギリギリまで桂林に滞在することになった。今だったらスマホでささっと検索をして新しい目的地を見つけるんだろうけど、そこまでインターネットが身近でもなかった時分のこと、また中国各地を転々とする生活に疲れていたこともあり、そのまま桂林に二週間滞在することにした。

当時の北京の物価が日本の十分の一ぐらいだったが、桂林はもっと安く、三元(五十円くらい)出せば腹いっぱい飯を食えた記憶がある。外国人向けのわりと上等なホテルに泊まっていたが、それでも一泊千円くらいではなかったか。だから学生でも悠々とホテル住まいができたのだ。日本でひとり暮らしで自炊生活をするよりも中国でホテル住まい&外食のほうが安くつくぐらいだった。

ほとんどの人は桂林と聞いてもぴんと来ないだろう。それもそのはず、特に何もないからだ。
一応鍾乳洞とゾウの鼻みたいな形をした岩が有名だったが、そんなものは一日あれば見てまわれるので、あっというまにやることがなくなった。
ぼくは気管支炎になって病院に行き、そこでなぜか医者(若い兄ちゃん)に誘われて一緒に食事をして観光地をまわったり、飯を食いに行った店でなぜか料金を請求されなかったのでそのまま何食わぬ顔で店の外に出て食い逃げに成功したりしたが、めずらしい体験と呼べるのはそれぐらいであとはのんべんだらりと過ごしていた。

朝起きると、ホテルの食堂に飯を食いにいく。餃子や中華饅頭といった点心を食う。
午前中の涼しいうちに近所の商店街を散歩して、暑くなってきたらホテルに戻ってテレビ観戦(中国では人気なのか、やたらとビリヤードやモータースポーツの番組をやっていた)。昼頃近くの丼屋に行く。丼の上に好きな具をトッピングしてもらえるシステムの店で汗をかきながら昼めし。汗をかいたのでホテルに戻り、シャワーを浴びて昼寝。
夕方涼しくなってきたら街に出て、目についた店でビールを飲みながら夕食。一元(十五円ぐらい)のアイスクリームを食べながら夜の街を散歩してホテルに戻り、床に就く。

というなんとも自由気ままで自堕落な生活を送っていた。こんな暮らしを十日ばかり。今思い返しても天国のような日々だ。
史上最高に贅沢な時間だった。何が贅沢って「何もしない」ということが贅沢だった。もう二度とあんなゆとりのある暮らしはできないかもしれない。

トッピングを選べる丼屋。最高にうまかった。

とはいえ、わずか二週間ばかりの期間と数万円のお金があればできる贅沢だから、その気になればいつでもできるんだけどな。ちょっとした勇気の問題なんだが。
ヨーロッパの人たちは夏にまとまったヴァカンスをとると聞くから、毎年そんな生活をしているのだろう。なんともうらやましい。日本人にはなかなか心理的ハードルが高い。
ドラえもんのマッドウォッチ(時間の進み方を部分的に早くしたり遅くしたりできる道具)が実用化されるのをただ待つばかりだ。


2017年11月14日火曜日

行司にスカウトされた男/三十六代 木村庄之助『大相撲 行司さんのちょっといい話』【読書感想】


『大相撲 行司さんのちょっといい話』

三十六代 木村庄之助

内容(e-honより)
大相撲生活49年!その正確な裁きと美しい所作から名行司と称され行司の最高位「木村庄之助」を襲名。その後、惜しまれつつ引退した著者がコッソリ明かす、土俵のウラ話エッと驚き、フムフムと納得!大相撲ファンはもちろん、「裏方仕事」に興味津々の方も必読!

まず悪い点を言っておくと、つまんねえタイトルだってことだね。
なんかコンビニに並んでる安っぽいマンガのタイトルみたい。

まあタイトルはべつにして、内容はおもしろかった。

こないだ 『進学か、就職か、それとも行司か って記事を書いたんだけどね。
行司ってどんな人がなるんだろうと疑問に思ったよって話。力士はわかるじゃん。身体が大きくて力持ちがなるんだろうなって。でも行司を志す理由はよくわかんないなって。
この本に答えは書いてありました。今は相撲好きの少年や体格が伴わず力士になることを断念した少年が志願するらしい。でも三十六代木村庄之助さんの場合は、なんと"スカウト"だったんだって。
相撲部屋の親方のほうから鹿児島にいる少年を「君、行司になる気はないか」って誘ってきたのだとか。スカウトされて力士になったって話は聞いたことあるけど、行司もスカウトするのか。
そうやってスカウトした少年が後々行司の最高位となる木村庄之助になったわけだから、スカウトした親方の目に狂いはなかったわけだ。どこに光るものを感じたんだろうね。公平かつ迅速なジャッジをしそうとか、見る人が見ればわかるものなのかね。




一年を 二十日で暮らす いい男
って狂歌がある。
昔の相撲は年に二場所、一場所十番しかなかったから年に二十回相撲をとるだけでいいなんてうらやましい身分だ、って意味。もちろん稽古だの巡業だのあるけれど。

でも、もっといい男なのが行司だね。なんたって最高位木村庄之助ともなれば行司を務めるのは一日に一番、結びの一番だけなんだから。ハッケヨイって言っておけばいいんだから楽な商売だ。
なんて思いません? ぼくは思ってましたよ。

 行司の仕事は大きく分けて、5つあります。
 1つ目は、土俵に上がって、相撲の勝負を裁くこと。そして2つ目、本場所中は毎日、審判部と協議して、力士の取組を作ることもします。翌日の取組は、前日までの力士の星取表をあれこれ見比べながら、より盛り上がる取組を考えて、組み合わせていきます。3つ目は番付を書く(相撲字の習得)こと。また4つ目、本場所のとき「東方、稀勢の里、茨城県牛久市出身、田子ノ浦部屋」という場内アナウンスをおこなうのも、行司です。最後の5つ目には、地方巡業の時の会計や、引退相撲、力士の冠婚葬祭などのイベントごとの事務作業に携わるという業務もあります。

いろんな仕事してたんですね、ごめんなさい。
番付を書いたりアナウンスするのも行司なのね。意外。
体力、瞬発力、判断力、発声、書道、経理能力、事務処理能力などいろんなスキルが求められるわけで、これはたいへんな仕事だあ。

中でも番付を書くのはたいへんそう。
なんと手書きで、しかも下書きなしの一発勝負で書いているらしい。おまけに相撲字という独特のフォントを習得しないといけないため、番付を書くまでには何年もの修業が必要なのだとか。

 会議に立ち会った私は、自分自身で一覧表を作り、後日、相撲協会から出た正式なデータと見比べて、間違いがないかをチェックします。
 3〜4日間かけて、データをチェックした後、今度は協会に届いている改名届や引退した力士の情報をチェックして、人数を合致させる。それで、ようやく翌場所の番付を書く上でのデータが完成するのです。
 その後、助手2人と私で、データの読み合わせをおこなって、誤りがないか再度確認。「番付がすべての世界」であるがこそ、こうした作業はきっちりおこなわなければならないのです。
 番付を書くのは、10日間です。
 1日7時間から10時間程度、途中で1時間に1度は筆を休めながらの長丁場です。

ひゃあたいへんだ。しかも下書きなしで筆で書いていくわけだから、一ヶ所でもまちがえたら最初からやりなおしなのかな……。おお、おそろしい。[ ctrl ] + [ z ]で元に戻すってわかにはいかないもんね。
集中力のないぼくみたいな人間にはぜったいにできない仕事だ。こないだふざけて「行司になる道もあったのに進路指導の先生は教えてくれなかった!」って書いたけど、そうか、先生はぼくにはその資質がないと思ったからあえて行司を勧めなかったんだね。さすがだ先生、仰げば尊しわが師の恩。



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2017年11月13日月曜日

冤罪は必ず起こる/曽根 圭介『図地反転』【読者感想】


『図地反転』

曽根 圭介

内容(e-honより)
総力を挙げた地取り捜査で集められた膨大な情報。そのなかから、浮かび上がった一人の男。目撃証言、前歴、異様な言動。すべての要素が、あいつをクロだと示している。捜査員たちは「最後の決め手」を欲していた―。図地反転図形―図と地(背景)の間を知覚はさまよう。「ふたつの図」を同時に見ることはできない。ひとたび反転してしまったら、もう「元の図」を見ることはできない。
『鼻』『藁にもすがる獣たち』『熱帯夜』に次いで、曽根圭介作品を読むのは4作目。
今まで読んだ中でいちばんシリアスな話だった。
他の作品はグロテスクな描写の中にもどこか乾いたユーモアがあったのだが、『図地反転』は冤罪という重いテーマを扱っていることもあってか終始落ち着いた筆致だった。
個人的には曽根圭介のブラックユーモアが好きなのでちょっと寂しいね。

静岡県で起こった女児殺人事件を軸に、かつて妹を殺された刑事、実の娘からいわれのない罪を着せられている老人、無実の罪で服役していたと主張する元受刑者とそれぞれ立場の異なる三人の行動が語られる。
複雑にからんだプロットは曽根圭介らしいのだが、いくつかある謎は最終的に半分くらいしか解決しない。
放りだすような終わり方なのでスッキリ解決するミステリを読みたい人にはおすすめできないけど、個人的にはこういうしこりの残るエンディングは嫌いじゃない。冤罪事件という一筋縄ではいかないテーマを扱っている以上、安易なハッピーエンドにするよりも余韻を残して読者にパスして終わるほうが誠実だと思う。

とはいえ満足のいくミステリだったかというと、いやそれは……。
たぶんタイトルが良くなかったんだろうな。
タイトルの『図地反転』は、見方によってまったく異なるものが見える図形のことなんだけど(有名なのは表紙にも書かれているルヴィンの壺)、『図地反転』にそこまでの意外性のある展開はない。
あっと驚くどんでん返しを期待して読んでしまうタイトルだけに「えっ、ぜんぜん意外じゃないじゃない……」と肩透かしを食らってしまった。

たぶん同じように感じた読者が多かったのだろう、文庫版では『本ボシ』に改題されている。そのタイトルもいまいちしっくりこないけど『図地反転』よりはまだましかなあ……。



ぼくが "冤罪" について思うのは、いいかげんに冤罪は起こりうるという前提のシステムをつくろうよ、ってこと。
これまでにも多くの冤罪事件が起こっているし、まちがいなく今後も起こる。殺人事件の冤罪なんかだと大きく報道されるけど、軽微な犯罪だったらもっとたくさん起こっているんだろう。
とはいえあんまり冤罪を気にしすぎるあまり未解決事件が増えるのもそれはそれで良くない。このへんの綱引きは難しいところだ。

もちろん冤罪が起こらないに越したことがないけど、「冤罪をなくせ」ってのは意味がない話で、なくせるものならとっくにやっている。
ミスをなくすシステムは作れないのだから、ミスを減らすシステム、ミスが起こったときにリカバリーできるシステムを作らなきゃいけない。

だったら「一定数、冤罪は起こりうる」という前提で、冤罪被害をできるだけ小さくすればいい。
具体的には刑が確定するまで報道は差し控えるとか、実名報道はやめるとか。冤罪で受けるダメージって、拘束されるという時間的被害も大きいけど、著しく名誉が傷つけられてその後の人生に悪影響が出るってことも大きい。新聞でもテレビでも、無実の罪で捕まったときは実名で大きく報道されるのに、無罪だとわかった瞬間に匿名になるからね。逆だろ。

今の世の中って警察に対しても犯罪者に対しても、「一度ミスを犯した人に対して異常に厳しい社会」だよねえ。いや昔はもっとそうだったのかもしれないけど。
もうちょっと寛容であってほしいと、しょっちゅう人生の過ちを犯している人間としては切に願うばかり。

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清水潔 『殺人犯はそこにいる』




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2017年11月12日日曜日

おっさんにも人権を


痛ましい事件があったときにニュースで流れる「被害者の善良っぷり」がイヤだ。

小学校の同級生とかに「小さい子の面倒をよく見る優しい子だった」とか「美容師になりたいという夢を持っていた」とか語らせるアレ。

それで事件の残酷性や理不尽さを伝えたいんだろうけど、じゃあなにかい夢を持たない優しくない人だったら死んでもいいのかよ、と思ってしまう。
意地悪でその日暮らしの生活を送っている人は殺されても仕方ないのかよ、と。

「優しい少女の命がある日突然奪われるなんて絶対に許せない」というのは裏を返せば「優しくない少女が死ぬのはまあ許せる範囲か」ということだろう。そんなことあるかい。

被害者の人間性にかかわらず犯した罪の重さによって裁かれるのが法治国家というものだ。
気に入らないから石を投げてやれ、という前近代的な姿勢がまかりとおっていることには違和感をおぼえる。


あと「子どもや女性を狙った卑劣な犯行」って表現にも納得できない。
大人の男を狙った犯行は潔いのかよ。おっさんも庇護してくれよ。
善良なおっさんにも、あんまり善良じゃないおっさんにも人権をくれよ。