2017年8月31日木曜日

ビールでタコを煮た無人島


無人島の七人

学生時代、無人島でキャンプをした。

瀬戸内海の1周3kmほどの小さな島。男7人、2泊3日のキャンプ。
海沿いの小さな駅で降り、こじんまりとしたスーパーマーケットで買い占めちゃうんじゃないかってぐらい肉や酒を買いこみ、漁港の市場でタコや貝を買って、タクシーフェリーに乗せてもらって無人島に渡った。

男が7人もいたらアウトドアの達人が1人ぐらいはいそうなものだけど、ぼくらの中に「できるやつ」はひとりとしておらず、苦労しながらテントを斜めに立て、食材はそのへんに投げだして、がさつなだけのカレーをつくって食べた。涙が出るほどうまかった。


ビールは山ほど買っていったのに水をあまり買っていかなかったせいで2日目にして深刻な水不足におちいった。
水を節約するために海水で米を研ぎ、ビールでタコを煮た。酒より水のほうが貴重というソ連みたいな状況だった。「タコのビール煮ってなんかおしゃれじゃない?」とうそぶきながら食べた。じっさいはまずくて、でもうまかった。


せっかくの無人島なんだから大きな声を出さなきゃ損とばかりに無意味に島中に響きわたるほどの声を張りあげた。最終日は7人とも声ががらがらだった。


3月の海に入ったら冷たすぎて痛かった。みんなで鼻パックをつけたまま一日すごした。島にあったマリア像が怖かった。豚肉を日なたに半日放置していたけど気にせず食べた。小さい島なのに遭難しそうになった。明け方は寒くて眠れなかった。早朝の浜辺で食う焼き芋はしみじみとうまかった。


10年以上たって振り返ると、2泊3日の無人島生活が1年もいたように感じるし、あっという間の夢だったようにも思える。
細かいことは忘れてしまったが、ただあの日々を味わうことはもう二度とないという実感だけが確かなものとして今は存在する。



無人島の七人


2017年8月30日水曜日

剣道に憧れてすぐに打ちのめされる小説/誉田 哲也 『武士道シックスティーン』


誉田 哲也 『武士道シックスティーン』

内容(e-honより)武蔵を心の師とする剣道エリートの香織は、中学最後の大会で、無名選手の早苗に負けてしまう。敗北の悔しさを片時も忘れられない香織と、勝利にこだわらず「お気楽不動心」の早苗。相反する二人が、同じ高校に進学し、剣道部で再会を果たすが…。青春を剣道にかける女子二人の傑作エンターテインメント。

剣道を題材にした青春小説。
ぼくは剣道をやったことも観戦したこともない。中学校の体育での武道は柔道だったし、高校には剣道部があったけど閉じられた道場で活動していたので部外の人間からはまったく見えなかった。ただ「道場はくさい」というイメージがあっただけだ。
柔道は国際スポーツじゃないし、テレビでもほとんどやっていない。日曜日のお昼とかにEテレあたりで国体の剣道とかを放送しているような気がするけど、「なんだ剣道か」と3秒以内にチャンネルを変える。


というわけで剣道に関する知識はきわめて乏しいのだけれど、「剣道八段をとるのはとんでもなく難しい」と聞いたことがある。
そもそも46歳以上じゃないと試験を受けられなくて、合格率は約1%で、人格者であることまで問われるのだそうだ。
さらに「範士」という称号は、八段をとった後にさらに修行を重ねて、後進の育成に携わってきた経験があり、周囲から推薦されないとなれないのだとか。
ただ強いだけではだめなのだ。

また『武士道シックスティーン』を読むまでは知らなかったのだけど、いくら相手に竹刀を打ちこんでもその後に”残身”(反撃に対する身構え)ができていなければ「一本」にはならないのだそうだ。

同じ「道」を名乗りながらも柔道と剣道ではまったく違うんだね。
なんせ柔道はスポーツとして発展する道を選んだので、時間切れを狙ったり帯をわざとゆるめたり小ずるく点数稼ぎに走ったりと、けっこうあさましい戦いも多い。
それはそれで駆け引きのおもしろさがあるのだが、観ていてかっこいいものではない。最近ではオリンピックのメダル数を稼ぐために使われていることもあって(→『国民メダル倍増計画』)どうも政治的なスポーツになっている。ますます「道」からは遠ざかっているように思えてならない。

柔道のスポーツ化に逆らうように、剣道は断固として「道」であることを追及している。
まさに「武士道」だ。




剣道にはまったく興味がなかったけど、『武士道シックスティーン』を読むと、「剣道やってたらよかったなあ」と思えてくる。
剣士ってかっこええなあとうらやましくなる。
というわけでYouTubeで剣道の試合を観てみたんだけど、すぐに「こりゃ無理だ」と思いいたった。

野球やサッカーの一流選手のプレーを観ると「おお、すげえなあ。自分には逆立ちしてもできないな」と思う。
でも剣道は、それすらわからない。剣士たちが接近して、ばしばしばしっと竹刀が動いて、たちまち旗が上がる。ぼくには何が起こったのか、さっぱりわからない。
「どっちが一本とったの?」
目で追うことすらできないのだ。
『武士道シックスティーン』は小説だから、相手の動き、自分の思考の流れ、肚の読みあいがじっくりと書いてあるけど、観ているととてもそんなことを考えられるようには思えない。竹刀が激しく動いた、ということしか把握できない。
この剣の動きさばいているのが信じられない。サッカーでいうなら、同時に10本のパスをさばくようなもんじゃないか?




というわけで剣の道で生きていくという夢は一瞬にして諦め(もともといいかげんな気持ちだけど)、剣道は小説で楽しむことにした。

『武士道シックスティーン』は、わかりやすい青春小説だ。
「勝つこと」だけにひたすらこだわり、一心に剣の道を突き進む香織と、日本舞踊の延長で剣道を始め勝ち負けではなく己の成長ができればいいやぐらいの気持ちの早苗。
香織が早苗に敗れたことを機に二人の交流がはじまり、まったく考え方の違う相手に影響されて、香織は勝ち負けでない剣道を、早苗は勝ちにこだわる剣道について考えるようになる……。
「対照的なライバルの存在」「主人公の苦悩と成長」「家族とのかかわり」といったわかりやすい要素がちりばめられた王道青春ストーリーだ。少年漫画に連載されてもいいぐらい。『ブシドー!』みたいなタイトルで。ありそう。


剣道の魅力は十分に伝えてくれる小説なんだけど、正直にいって、あまり引きこまれなかった。
青春時代をとうに過ぎた素直じゃないおっさんには読むのが遅すぎたのかもしれない。中学生ぐらいで読んでたら「剣道やるぞ!」ってなってたかもしれない。
決しておもしろくないわけじゃないんだけどね。引っかかりがなさすぎるというか。エグみがないというか。さわやかすぎて、読んでて気恥ずかしさを感じるぐらいだった。ラストで二人が再会を交わすところなんてまぶしすぎてつらかった。おっさんにはサイダーじゃなくてにごり酒みたいな小説がお似合いなのだ。


あっ、一個あったわ、引っかかり。ずっと気持ち悪かったところ。

昼休みも黙々と握り飯を食い、ダンベルを片手に宮本武蔵の『五輪の書』を読む、武士のような女・香織。
この女の一人称が「あたし」なのだ。
これ、ほんとに理解できない。どう考えても「あたし」のキャラクターじゃないだろ!



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2017年8月29日火曜日

選挙制度とメルカトル図法/読売新聞 政治部 『基礎からわかる選挙制度改革』【読書感想】


読売新聞 政治部 『基礎からわかる選挙制度改革』

内容(「e-hon」より)
読売新聞・現役政治部記者による書き下ろし。日本の選挙制度の歩み・諸外国の選挙制度のしくみを、ふんだんなデータと共に解説。政治改革関連法成立20年をむかえ、当初の理想とのずれが生じてきている今、選挙制度改革は待ったなしの状況である。小選挙区比例代表並立制の功罪と「1票の格差」判決のゆくえなど、日本人なら知っておきたい重要テーマを基礎からわかりやすく学べる。

以前に、小選挙区制って悪いことだらけじゃない? って記事を書いた。

その考えは今でも変わっていない。
だが現実に今の日本では国政選挙において小選挙区比例代表並立制が採用されている。諸外国でも、小選挙区制を導入している国は多い。

やはり小選挙区にもメリットはあるのだろう。そうでなければ使われるわけがない。
ということで、もう少し調べてみようと思い『基礎からわかる選挙制度改革』を読んでみた。

 日本では1947年から1993年の衆院選まで、一つの選挙区から2~6人が当選する中選挙区制を採用していた。各党が一つの選挙区に複数の候補者を擁立することも可能で、有権者は各党の政策に加え、候補者個人の実績や能力などを基準に投票できた。
 ただ、同じ党の候補者同士は選挙戦で政策の違いを打ち出せず、有権者に対するサービス合戦に陥りがちだった。自民党内では、派閥の所属議員数をいかに増やすかが党総裁のイスを獲得する近道とされ、派閥領袖は選挙資金を提供したり、地元の要望を中央官庁に口利きしたりするなどして、配下の議員の選挙を支援した。これが政官業のつながりを深め、やがては癒着となり、「政治とカネ」の問題が噴き出す。リクルート事件はその象徴だった。

「中選挙区制 デメリット」で検索すると真っ先に上がるのが、この政治とカネの問題。
選挙改革が決行された最大の理由でもあったらしい。
うーん。
そりゃ癒着や贈賄はいかんけど、でも選挙区制の問題とは切り離して考えるべきでは?
「電車では痴漢が発生しやすい → だったら電車をなくせ!」って理論のように聞こえるなあ。

同じ政党だからってすべての政策において考えが一致するなんてありえないわけだし、むしろ政党内で対立があるほうが健全な気がするなあ。



『基礎からわかる選挙制度改革』では諸外国の選挙制度が紹介されているが、どの国もそれぞれ問題を抱えていることがわかる。大選挙区制、小選挙区制、比例代表制、絶対多数制度などいろいろあるけど、どれも一長一短。
  • 民意が反映されやすい
  • 1票の格差が生じにくい
  • 政権が安定しやすい
  • 制度がわかりやすい
これらすべてを叶える選挙制度はありえない。
昔、地理の授業で「メルカトル図法」「モルワイデ図法」「正距方位図法」などいろんな地図の書き方を教わった。これらはどれも一長一短で、方位を正確に表したら面積が狂ったり、面積を合わせたら距離がおかしくなったりする。そもそも三次元のものを二次元で表すことに無理があるわけで、必ずどこかで妥協するしかない。
選挙制度もそんなもので、1億人の意思を数百人に代表させること自体が土台無理な試みなのだろう。

とはいえ妥協するところには優先順位があるわけで、たとえば「制度がわかりやすい」ことなんて真っ先に捨て去っていいことだと思う。
コンピュータで正確に算定できるわけだし、今だって「ドント方式とは何か」を正確に理解して投票している人は少数派だろう。一般の有権者が選挙制度を理解している必要はない。

優先順位がいちばん高いのはやはり「1票の格差が生じにくい」だろう。1人1票という原則が崩れてしまえば、民意の反映もへったくれもなくなる。
というわけで選挙のたびに「1票の格差をめぐる違憲裁判」がおこなわれてるけど、さっさと直せよとずっと思う。選挙区の人口比を2倍以下にするのなんて、そんなに難しい話じゃない。

結局、いつまでたっても改善されないいちばんの理由は「選挙区を国会議員が決める」ことなんでしょう。自分の党が有利になるように枠組みを決めるに決まっているから(そういうのを「ゲリマンダー」というらしい)。

選挙区や選挙制度は、裁判所のような完全に独立した機関をつくってそこに決めさせたらいいのに。


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2017年8月28日月曜日

"大企業"の腐敗と終焉/池井戸潤 『空飛ぶタイヤ』【読書感想】


池井戸潤 『空飛ぶタイヤ』

内容(e-honより)
走行中のトレーラーのタイヤが外れて歩行者の母子を直撃した。ホープ自動車が出した「運送会社の整備不良」の結論に納得できない運送会社社長の赤松徳郎。真相を追及する赤松の前を塞ぐ大企業の論理。家族も周囲から孤立し、会社の経営も危機的状況下、絶望しかけた赤松に記者・榎本が驚愕の事実をもたらす。

一応フィクション ではあるが、現実にあった 横浜母子3人死傷事故 を下敷きにした小説。
ホープ自動車、ホープ銀行、ホープ重工、ホープ商事という企業名が出てくるが、「財閥系のグループ企業」「楕円を3つ組み合わせたマークの社章」といったわかりやすすぎるヒントが存分にちりばめられており、誰が見ても三菱グループの話であることが明らか(ちなみに池井戸潤さんは三菱銀行出身)。

ホープ自動車、ホープ銀行は徹底的に腐敗した組織として描かれている。
「一応別名にしているとはいえこんなわかりやすい形で実在の企業を悪く書いていいのかよ。訴えられるんじゃないのか……?」と思ったのだけれど、横浜母子3人死傷事故の概要を見てみると、「実際の出来事をそのまんま書いてるだけやないかか!」と感じる。
事実は小説よりも奇なりというか、現実のほうがもっと醜悪。小説では一応のハッピーエンドを迎えるが、現実には三菱自動車から責任をなすりつけられた運送会社は倒産したそうだ。



正直にいって、ぼくは「サラリーマン小説」を他の小説に比べてワンランク下に見ている。
時事ネタとかうんちくとか盛りこんで新しそうに見えるけど、結局はステレオタイプな人物造形とご都合主義的な『島耕作』的な話よね、と思っている。あんまり読んだことないから偏見ですけど。
『半沢直樹』が流行ったときも「まあわかりやすく胸がすく話だからテレビドラマには向いてるよね、と冷ややかにみていた。ドラマ観てないけど。

『空飛ぶタイヤ』も、ストーリー展開としては予定調和的だ。序盤で展開が読めるし、ある程度の数の小説を読んでいる人なら「このへんでもうひと苦難あるだろうな」「中盤でこういうことを言いだしたということはまちがいなくひっくり返されるな」といった予想をできるし、それらがことごとく的中する。ラストも「こういう感じで決着するんだろうな」と思った通りの結末を迎える。
また人物描写にしても、悪いやつは骨の髄まで悪だし、小者は首尾一貫して小者だ。個人が抱える多面性とか矛盾とかはほぼ皆無。

とはいえ、じっさいの読みごたえはというとずっしりと重たかった。実に骨太な物語だ。
息苦しくなるほどの焦燥感やめまぐるしくもスピーディーな展開で、恥ずかしながらあっというまに物語に引きこまれた。いやべつに恥じる必要ないんだけど。
悔しいけど認めざるをえない。おもしろかった、と。

むしろあえて平板なストーリー・人物描写にしたのかもしれない。登場人物も多いしそれぞれの苦悩・葛藤が同時進行で描かれるので、これで登場人物に複雑なバックボーンを与えていたらややこしくてついていけなくなる。
小説というよりシナリオ的な群像劇で、なるほど、池井戸作品が次々に映像化されるはずだ。



大企業で 働いたことがないが、こういう本を読んでいると「大企業で働くのってめんどくさいだろうなあ」と思う。「あのぶどうはすっぱいにちがいない」レベルの負け惜しみだけど。

誰もが知る大企業で働いている学生時代の友人が何人かいるが、話を聞いてると「うらやましい」と思うこともあるけど「ぼくだったら辞めちゃうな」と思うことのほうが多い。
社内の調整に多大な労力を使わないといけないとか、関係各部署の顔を立てるためだけに何も決定しない会議ばかりやっているとか、何かをはじめようと思ったらちょっとしたことでも稟議書を上げて上司やそのまた上司のハンコをもらわないといけないとか、「そんなことやってたら生産的なことやる時間ないんじゃないの?」と思うことしきり。

まあそれでも大会社は大会社として存続しているわけですから意味があることなんでしょうが、中にいたら閉塞感で息が詰まるだろうなあ。そこしか知らない人にとってはそうでもないのかな。

組織が大きくなることのメリットとして「設備投資がしやすい」「情報・ノウハウが蓄積される」「会計などの事務仕事が効率化される」などがあるが、情報化・自動化が進むにつれて「情報の蓄積」「事務仕事の効率化」に関してはスケールメリットがなくなってくると思う。

反面、"大企業病" という言葉もあるように、組織が大きくなるにつれて「組織を維持するための業務」は増えていく。人事査定とか報告会とかの何も生みださない仕事だ。

製造業などの設備投資が必要な仕事はべつにして、これから大企業はどんどん身動きがとれなくなり、組織の縮小が進んでいくのではないかとぼくは思っている。



「その後」の話を最後に。

『空飛ぶタイヤ』では、ラストにホープ自動車が立ち直ろうとする様子がほんの少しだけ描かれ、「はたして体質は改善されるのか?」という疑問を投げかける形で物語が終わる。

さて、現実の三菱自動車はというと。
2000年、2004二度のリコール隠し発覚の後、ユーザーの信頼を失い業績が低迷。グループ会社からの支援を受けて廃業の危機を脱するも、2016年にも燃費試験でみたび不正をはたらいたことが発覚。ライバルであったルノー・日産アライアンスの軍門に下ることとなり、三菱自動車という名前こそ残っているものの、事実上ブランドはほぼ消滅したといっていいだろう。

とうとう最後まで三菱自動車の体質は改善されることがなかったらしい。


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2017年8月27日日曜日

人類を進歩させてくれるメディア


テレビが世に出たとき、世の人々はどんなふうに新しいメディアは歓迎したのだろうか。
もしかすると「テレビが我々を聡明にしてくれる」と期待したのではないだろうか。
遠くの映像を一瞬にして家庭へ届けてくれる機械。それは人々の知識欲を充たしてくれるツールだったはずだ。

だがテレビ登場から数十年たった今、テレビが聡明な人間をつくることを期待する人はほとんどいない。
ためになる番組はあるし、新たな知見も得られる。その中には、読書では決して得られないような知識もある。
とはいえ低俗、不道徳、不誠実な番組はその何倍も存在する。そしていちばん厄介なのは、ぼくたちはそういう番組ばかり好んで見てしまうということだ。
さらに悪いことに、テレビ番組の作り手たちは、ぼくら俗悪な人間の大好きな俗悪な番組ばかり作りよる。
低俗な人間のために低俗な番組ばかり流しているのだから、テレビが高尚な人間を養成してくれるはずがない。
「テレビばかり見ているとバカになる」は、親から言われるまでもなく、誰しもが経験的に知っていることだ。


今から15年ほど前、インターネットにはじめて触れたとき、ぼくは「これはとんでもなく知見を広めてくれるツールだ」と感じた。
それまでは辞書をひいたり図書館に行ったりしても容易に見つけられなかった文献が、いともたやすく手に入るのだ。
すごい。もはや脳は知識の蓄積のために使わなくてもよい。必要な情報は都度インターネットにアクセスして取りだし、人間は洞察と空想のために持てる力を発揮する。人類は飛躍的に成長し、ずっと賢くなるはずだ。


それから15年、みなさんご存じの通り人類は成長していない。その思考力はどちらかというと後退しているかもしれない。

インターネット上には有意義な情報も多い。しかしその1万倍、ごみのような情報が氾濫している。テレビの比ではない。
そして困ったことに、ぼくたちはそのごみに引き寄せられてしまう。インターネットを使って賢くなりたいと思っているのに、腐臭に群がらずにはいられないハエと同じように、読んだところで1ミリアインシュタイン(賢さの単位)も賢くならないとわかっているSNSやニュースサイトやまとめサイトに今日も足を踏み入れてしまう。

そんなはずはないと足掻いて足掻いて15年かかったが、やはり認めざるを得ない。
「インターネットで賢くなる」というのは幻想だ。不可能だ。
1万人に1人ぐらいは賢くなれるかもしれないが、そういう人はインターネットがなくたってぐんぐん学べる。


インターネットがテレビに代わる『娯楽の王様』になる(またはもうなっている)ことはまちがいない。
しかし、ぼくらが俗物であるかぎり、人類を進歩させるという役割についてはまったく期待できない。