2017年7月7日金曜日

おっさん修行

保育園でときどき顔をあわす男の子(5歳くらい)に、
「おはようございます、おっさん!」
と云われた。

思わず「おっさんちゃうわ!」と言い返そうとしてしまったが、まてよぼくももう30代半ばだ。白髪も増えたし、水虫で通院中だし、どこからどう見てもおっさんだ。
ましてや5歳児から見たら、自分の7倍近くも生きている男など純度100%のおっさんでしかないだろう。
そんなおっさんが「おっさんちゃうわ!」と云うことは嘘偽りでしかなく、子どもの教育によろしくない。


なんと返したらいいんだろう。
ぱっと浮かんだのが「そやで、おっさんやで」という言葉だった。
悪くはないのだが、男の子はなんらかの反発があるものと期待して「おっさん!」という軽めの悪意を含んだ言葉を投げつけているのだから、それをあっさりいなしてしまうのは期待を無視するようで心苦しい。
それに、「おっさんですけど何か?」と居直っている感じがして、喧嘩腰であるかのように受け取られるのも本意ではない。

かといって「おっさんって言わんといてや!」というのも、本気で抵抗しているようで大人げない。

そうだ、軽口には軽口で返して「おはよう、おじいちゃん!」と言い返すのはどうだろう。
これなら、こちらが重く受け止めていないことも伝わるし、相手のユーモアをしっかりと受け止めて大人の余裕も見せた上で、冗談で返すことのできるおもしろいおっさんだと思ってもらえるんじゃないだろうか……。


ということを思案していたのが時間にして数秒。

「おっさん!」という言葉を投げつけられて数秒間硬直しているぼくを見て、深くショックを受けたと思われてしまったのだろう、男の子の隣にいたお母さんから「すみません、すみません」と平身低頭で謝られてしまった。
「あっ、いや……」と口ごもるぼくを後にして、男の子はお母さんに「そんなこと言わんの!」と怒られながら連れていかれてしまった。

後に残ったのは、「おっさんであることを受け入れられずに何も言い返せなかったおっさん」ただひとり。

まだまだおっさんとしての修行が足りん。

うまく返せなかったことを悔やむおっさん


2017年7月6日木曜日

オイスターソース炒めには気を付けろ/土井 善晴 『一汁一菜でよいという提案』【読書感想エッセイ】

土井 善晴 『一汁一菜でよいという提案』

内容紹介(e-honより)
食事はすべてのはじまり。大切なことは、一日一日、自分自身の心の置き場、心地よい場所に帰ってくる暮らしのリズムをつくること。その柱となるのが、一汁一菜という食事のスタイル。合理的な米の扱いと炊き方、具だくさんの味噌汁。

 テレビでもおなじみの料理研究家である土井義春さんのエッセイ、というか提言。

 ほとんどタイトルがすべてを言いあわわしている。
 一般に食事は一汁三菜がいいと言われているけど、土井さんは「ふだんからそんなにごちそうを食べる必要はない。具だくさんの一汁を作ればごはんのおかずになるし栄養もとれるし作る人の負担も少ない」と書いている。
 一汁三菜がだめと言ってるわけではなく「しんどい思いをして作ったり、レトルトや出来合いの総菜で無理に一汁三菜にするぐらいだったら一汁一菜でいいと思うよ」ぐらいのかる~い提案だ。

 この本には土井先生のつくった「一汁」の写真が載っているのだが、それがほんとにきれいじゃない。率直にいうと汚い。
 ぐちゃぐちゃの汁物で、トマト、ピーマン、きゅうり、ハム、小魚、でろでろの卵、その他よくわからない具材が混然一体となっている。料理研究家としてこの写真を載せるのは勇気が要っただろうなあ。

 しかしプロとして他人に指導する立場にある土井先生がこういう写真を載せることにこそ意味があるわけで、「プロですら家ではこんな適当なものを食べているんだから我々はまったく気張る必要がないんだ」と勇気を与えてくれる。

勇気をくれる、美しくない料理の写真



 ぼくが一人暮らしをしていたときは、一応自炊はしていたけど一汁一菜どころか、一汁だけまたは一菜だけだった。
 一人分のごはんをつくるのは難しい。いろんな食材を買っても腐らせてしまうし、たくさんつくっても食べきれない。少量のおかずを何種類もつくる、なんてよほどの料理好きじゃないとやってられない。
 それでも腹はふくらませなくちゃいけない。栄養をとらないといけない。
 肉や野菜を切って、全部まとめて調理するだけ。調理といったって「塩こしょうで炒める」「醤油で炒める」「味噌で煮る」「醤油で煮る」「カレーにする」の5種類ぐらいしか選択肢はなかった。
 炒め物のときはどんぶりによそったご飯に乗っける。食器が1つで済むので、洗い物が少なくて楽だった。

 料理とも呼べないようなものだったが、まあこれでも独身男にしてはやってるほうだろうと自分に言い訳をしていた。
 結婚してからも料理をしていたが成長はしなかった。一汁一菜になったぐらいで、味付けは例によって5種類のローテーションでやりくりしていた。
 すると子どもができたタイミングで妻から「あなたの料理はおいしくないわけじゃないけど味付けが適当だからわたしがやる」というせいいっぱい気を遣った戦力外通告をいただき、今ではほとんど料理をする機会がなくなった。

 それじゃあ洗い物ぐらいはとやっていたんだけど、ぼくは皿の裏に残った洗剤を気にしない性質なので「食器用洗剤なんか少々口に入れても大丈夫なものしか使ってないだろうし料理についたらむしろクリーミーさがプラスされるのでは?」なんてうそぶいていたら、やはり妻から「洗い物もしなくていいわ。どうせわたしがやることになるから」と部署移動を命じられ、今では資料整理室という名の追い出し部屋に放り込まれて日がな一日新聞の切り抜きをさせられる日々を送っている。


 話がそれたが、極力手間ひまのかからない料理を心がけているものとして、この土井先生の「一汁一菜でよい」という提案には大いに励みになった。

 さらに土井先生は「家で食べるごはんはそんなにおいしくなくてもいい」とも言う。

 ご飯や味噌汁、切り干しやひじきのような、身体に良いと言われる日常の食べ物にはインパクトがないので、テレビの食番組などに登場することもないでしょう。もし、切り干しやひじきを食べて「おいしいっ!」と驚いていたら、わざとらしいと疑います。そんなびっくりするような切り干しはないからです。若い人が「普通においしい」という言葉使いをするのを聞いたことがありますが、それは正しいと思います。普通のおいしさとは暮らしの安心につながる静かな味です。切り干しのおいしさは、「普通においしい」のです。
 お料理した人にとって、「おいしいね」と行ってもらうことは喜びでしょう。でもその「おいしい」にもいろいろあるということです。家庭にあるべきおいしいものは、穏やかで、地味なもの。よく母親の作る料理を「家族は何も言ってくれない」と言いますが、それはすでに普通においしいと言っていることなのです。なんの違和感もない、安心している姿だと思います。

 そうそう。ぼくは味に無頓着なほうなので、よほど辛いとか真っ黒焦げとかでなければなんでもいいよ、と思う。
 高いお金を出して食べるレストランでの食事にはおいしさを求めるけど、家庭の味ってほどほどでいいよね。
 同じものをくりかえし食べるからこそ骨の髄まで染み込むわけで、「おふくろの味」となるんだろうね。



 家で「おいしい!」と言うことについては、ぼくには失敗談がある。

「料理をつくっている人からするとおいしいと言ってもらいたい」という話を聞いたので、妻がつくった料理で「おいしいな」と感じたときは率直に伝えるよう心がけた。
で、あるとき「これおいしいね!」と言い、その数日後にまた「これおいしいやん」と言い、また別の日に「このおかずおいしいね」と言うと、妻からこう言われた。

「あんたがおいしいって言うときってオイスターソースで味付けしたときだけやね。それ料理を褒めてるんじゃなくてオイスターソースを褒めてるだけやん」


 そうだったのだ。ぼくは何も考えずに「おいしい!」と発していたのだが、褒めていたのはすべてオイスターソース炒めだったのだ。

……という失敗を喫したことがあるので、「何も言わないことこそがおいしいということだ」という土井先生の言葉を妻に献上して、今後は余計なことは言わないように努めようと思う。



 その他の読書感想文はこちら


2017年7月5日水曜日

なんとなく気になるけどなんとなく読んでみる気が起こらない作家/【読書感想】町田 康 『正直じゃいけん』

町田 康 『正直じゃいけん』

内容(「e-hon」より)
日本経済新聞に連載された「随筆ひとり漫才」、「週刊朝日」に連載された「アナーキー・イン・ザ・3K」を初めとする真理への希求と言葉への愛が炸裂する珠玉のエッセイ集、待望の文庫化。

とある書店で バースデー文庫 という企画をやっていた。1月1日生まれから12月31日生まれまで366人の物書きの本を並べ、「あなたとおなじ誕生日の作家の本を読んでみませんか?」という企画だ。
へえ、ぼくは誰と同じなんだろうと見てみたら、町田康といっしょだった。

町田康か。
ずっと気になっていた作家なんだよなあ。でも読んだことはない。
『告白』とか『パンク侍、斬られて候』とか書店で手に取ったことはあるけど、「うーん、クセが強そうな作家なのにぶあついなあ。もし性にあわなかったときにこれを完読するのはしんどいな……」と思って敬遠していたのだ。
本好きの人にとっては1人や2人はいるだろう、「なんとなく気になるけどなんとなく読んでみる気が起こらない作家」。書架から手にはとってパラパラとやることはあるけど、レジまで持っていくことはない作家。「ほかに読む本がどうしても見つからないときにでも読むことにしよう」と思って、そんな機会は決して訪れることがない作家。ぼくにとって町田康はそういう作家だった。

バースデー文庫で見たときも「んー、町田康かあ……。悪くないね……」なんて言いながらも結局は買わなかった。
でもずっと気になっていたので、後日に「まずはエッセイぐらいから……」と手に取ってみた。

 ぜんたい自分はなにをやっても人に後れをとることが多いが、自動車の運転をしている場合それは顕著で、絶えず割り込みその他にあっているのであるが、そういう車を数多、目撃するうちに、そうして無茶をする車、得手勝手な行動によって交通に問題を起こしている車がある特定の車種に集中していることに自分は気がついた。
(中略)
 というのは、十人十色、などというように、人は各々その性格が異なるはずなのに、なぜこの車に乗った途端、申し合わせたように、かくも凶悪・凶暴な運転をするようになるのであろうか? と自分は考えたのである。
 で、さんざんに首を捻った挙げ句、自分はエアコンじゃないか、という結論に到達した。すなわち、エアコンのフィルターに毒が塗ってあって、スイッチを入れると毒が発散、これを吸い込んだドライバーは、いかな温厚な人といえども、精神に異常をきたし、どらあ、どけえ、殺すぞ、という状態に陥る、といういわば仮説である。
『ビーエムの怪』より)

なるほど、町田康ってこういう文章を書くのか。
パンクロッカーだけあってパンクな文章をつづるね(パンクってどんなのかと聞かれても正確には答えられないけど)。
ブログやSNSを通して誰もが情報を発信できるようになって、こういう勢いにまかせて書いたような文章を書く人はめずらしくなくなった。たぶんそういう人たちのうち、かなりの人が町田康の文章に影響を受けたんだろうな。

町田康自身は野坂昭如や中島らもの影響を大きく受けたと書いていて、ああなるほど改行の少ない疾走感のある文章とか口語交じりの荒っぽい言葉づかいとか、随所に影響を感じることができる。
じつはきっちり計算して書いているんだろうなあ、という気がする。上に引用した文章でも、車種を伏せているのにタイトルでばらしちゃってるとことか。


はまる人にははまるんだろうなあ、という文章で、しかし「はまる人にははまる」≒「自分にははまらなかった」わけで、ぼくは「もうしばらく町田康は手に取らなくていいかな」という感想だった。
文章自体がおもしろすぎると、まとめて読んだときに疲れちゃうんだよねえ。
土屋賢二もそうだしぼくの中では村上春樹もその部類に入るんだけど、文章がおもしろいと内容が頭に入ってきにくい(というか内容はあんまりない気がする)。読んでいる間はおもしろいけど、読後にぜんぜん記憶に残っていない。
ブログ、SNS、週刊誌連載の1記事ぐらいだったらそれでいいんだけど、1冊の本としてまとめて読むとなかなかつらいものがある。初対面の人に出身地はどこですかとかご兄弟はいますかとかのあたりさわりのない話を1分するのは平気でも1時間は話していられないように。

『正直じゃいけん』も週刊誌連載をまとめた本らしいけど、媒体によって向き不向きがあるから、なんでもかんでも本にすればいいってもんじゃないなと思う。ファンにはうれしいだろうけどさ。



町田康氏は細かいことをああだこうだとうだうだ考えていて、共感できるところもなかなかに多い。

 もっとも分かりやすいのは「思ってる/考えてる」という文言でこれを言う人はけっこうやばいので注意が必要である。
 あなたにこうこうこういった内容の仕事を依頼したい「と思っています/と考えています」なんて文書が送られてくる。いくらあなたがあなたのなかで思っていると言ったところで世間は、「ああ、そう」と言って終わりで、一生思っていろ、と言いたくなるがしょうがない検討をしたところ、そういう人に限って具体的日程等の諸条件があわぬ場合が多く、その旨を伝えてお断りを申しあげると今度は、お引受けいただかないと、「困ります」と言って電話をかけてくる。
 困るのはあなたであって私はちっとも困らないので、困る、と言われても困る、あ? やはり俺も困るのか? などと思いつつも諸条件があわぬものは仕方ないので、やはり諸条件不可能である旨を伝えると、再度、連絡があり、ということは諸条件の見直しをおこのうてくれたのか、と思うとそうではなくして、いかに自分がこの仕事を依頼したいと「思って」いるか、について縷々述べるばかりで条件の見直しはいっさい行なわれていない。
『あなたとわたし/なかよくあそびましょ』より)

ぼくもこういう言葉遣いはすごく気になるほうなので、よくわかる。
ぼくが嫌いなのは「お願いしてもよろしいでしょうか」という言い回し。いや願うのはあなたの個人的かつ内面的な行為だからこちらが妨げる類のものではありませんよ、と思う。
思想の自由が保証されているんですからどうぞ好きなだけお願いしてください。その上でちゃんとお断りしますから!



 その他の読書感想文はこちら


2017年7月4日火曜日

小選挙区制がダメな99の理由(99もない)/【読書感想エッセイ】バク チョルヒー 『代議士のつくられ方 小選挙区の選挙戦略』

バク チョルヒー
『代議士のつくられ方 小選挙区の選挙戦略』

内容(「e-hon」より)
1988年のリクルート事件以来、日本の政界は「政治改革」という旋風に巻き込まれた。しかし政治改革は、いつのまにか選挙制度改革と同一視され、中選挙区制は小選挙区・比例代表並立制に変わった。当初は、政策を争う二大政党への移行が理想とされた小選挙区制だったが、いったい、この制度は政治市場で、実際にはどのように機能しているのか。代議士たちはどのように公認され、どのような選挙活動を行なっているのか。小選挙区における新人代議士誕生までの過程を、都市部の選挙区で克明に追ってみた。

最近、ふと「国政選挙において小選挙区制って悪いことだらけじゃない?」と思った。
で、いろいろ調べてみればみるほどデメリットが大きすぎる。

小選挙区制(しょうせんきょくせい)とは、1選挙区に付き1名を選出する選挙制度である。(Wikipedia より)

小選挙区のデメリットを考えてみたのだけれど、政治にまったく詳しくないぼくでも以下の問題点を挙げられる。


1票の格差が大きい

国政選挙のたびに問題になってるやつだね。
中選挙区制のほうが格差を調整しやすそうだし(定員5→4にするほうが2つの小選挙区をくっつけて1つにするより抵抗少ないでしょ)、大選挙区制なら格差はなくなる。

死票が多くなる

たとえば小選挙区に4人の立候補者(A,B,C,D)がいるとする。
Aが40%、Bが30%、Cが20%、Dが10%の得票だったとすると、B,C,Dは落選。あわせて60%の票は死票となる。

得票数と議席数の乖離が大きい(=民意が反映されにくくなる)

仮に全選挙区で40%の票をとるA党と全選挙区で30%の票をとるB党があったとすると、B党は小選挙区での獲得議席はゼロになる。国民の30%に支持されていても(小選挙区での)議席ゼロ。
また、得票数が多い政党が議席数では負けるということも起こりやすい(得票数では勝ったクリントン氏がトランプ氏に敗れたアメリカ大統領選のように)。

一党独裁につながりやすい

ひとつ前の理由ともつながるけど……。
すべての小選挙区で50%の票を獲得できる政党があれば、その政党が小選挙区選挙においては100%の議席を占めることになる。
有権者の50%からしか支持されていないにもかかわらず国会内に敵がまったくいない状況になるわけで、政権の暴走につながりやすい。

投票率が下がる

小選挙区制だと、事前の調査で「有権者の20%にしか支持されていない候補者」はまず当選の見込みがなくなる。結果、応援している人でも投票に行ってもしかたがないということになる。
数人が当選する中選挙区制であれば、10%でも勝ち目があるから、投票に行く動機になる。

大政党の後押しのない候補者はまず勝てない

20%の票をとれば余裕で勝てる中選挙区制度と異なり、小選挙区制では少なくとも40%はとらないとまず勝てない。
結局、三バン(地盤、看板、カバン)がない候補者は勝てない。結果、著名人や二世議員ばかりになる。

大政党の政策が似たり寄ったりになる

半数近くの票を集めないといけない小選挙区では、広い層に支持されないと勝てない。結果、どこもほぼ同じ政策を掲げることになる。

選挙がネガティブキャンペーンの張りあいにつながる

小選挙区で2人が競っている場合には、相手候補者の1票を削ることはそのまま自分が1票獲得するのと同じだから(それどころか相手に入れるはずだった票を自分に入れてくれれば実質2票獲得するのと同じことになる)、相手の失策をいかにつつくかという選挙活動につながりやすい。


まあデメリットというのはメリットと表裏一体なので、「民意が正しく反映されない」ということも、少数意見を抹殺したい人間からするとメリットでしかないんだけどさ。
一党独裁だってスピーディーに物事を決められていいから、その党が良識ある行動をとっているかぎりにおいては長所と言えるし。
ネガティブキャンペーンも必ずしも悪いことばかりではなく、正当な批判はどんどんされたらいい。

とはいえ、現政権の暴走なんかを見ていると、メリットをはるかに上回るデメリットがあるように思えてならない。

それを防ぐために比例代表制と並列になっているわけだけど、比例は比例でデメリットがあるし(無所属の人に不利とか、誰からも票を入れてもらえないゴミみたいな候補者でも名簿にさえ載っていれば当選する可能性があるとか、芸能人を使って票を集めようとする政党が現れるとか)、「もっといい選挙制度があるんじゃないの?」というのがぼくの抱えている疑問。



前置きが長くなったけど、小選挙区比例代表並立制に疑問を持ったので『代議士のつくられ方』を読んでみた。

この本は2000年刊行。
小選挙区比例代表並立制が導入されてからはじめての衆議院選挙となった1996年の第41回衆議院議員総選挙を舞台に、当時新人だった平沢勝栄氏(自民党)の選挙活動を細かく描いている。
この選挙戦の様子が物語としても十分おもしろい。戦記を読んでいるかのよう。
各家庭がどの政党を支持しているかを調べるためにゴミまで調べるとか、創価学会(公明党)と幸福の科学(幸福実現党)ばかりが有名だけどそれ以外にも非常に多くの宗教団体が選挙に協力していることとか、「選挙ってここまでやるのか……」と感心する(というか呆れる)ようなことも。

この本の中でも、小選挙区制の問題点がいくつも指摘されている。

 中選挙区制では、同じ選挙区から議員が複数選ばれるので、新人が同じ政党の現職に挑戦することも珍しくはなかった。新人は公認を得るため自民党の派閥の領袖に頼ったり、公認をもらえなくても無所属として立候補して、当選後、自民党に入党する道を選べた。
 しかし新選挙区制度は、いわゆる「自己公認」の余地をなくした。一人しか公認できないから同じ党から出られないし、選挙法の改正で無所属からの立候補も不利になった。その上、無所属として当選しても、自民党入りは困難である。それは、もとからの自民党公認候補を追い出すことになるからだ。

 小選挙区制の導入によるさまざまな変化は、立候補者の決断にも、大きな影響を与えた。政治参入者から見ると、小選挙区制はハードルが高い厳しい制度である。当選の確率が低くなって、立候補の決断がなかなか難しいものになった。その上、選挙区の規模が小さくなったことによって、地元とのコネがない候補者には不利というローカルバイアスを生んだのである。
 以上の変化を背景として、候補者はだいたい三つの出身母体から出てくる。一番多いのは地方議員である。百七人の自民党新人候補者のうち、四十五人が地方議員経験者である。当選した全新人のうち、三六.五%の四十二人が地方議員出身者であった。自民党にしぼると、その割合は四六.九%にのぼる。
 次は二世議員である。百六十一人の二世議員が立候補して、百二十二人が当選した。自民党だけでも、四二.三%の百一人が二世議員だと言われる。それに続くのが、自民党議員の二二%を占める官僚出身者である。

要は、国会議員になるためのハードルが高くなったってことね。
現職議員にしたら喜ばしいことだろうけど、志や能力ではなくコネクションで当選するかどうかが決まってしまうってのは決していいことじゃないよね。


ううむ、知れば知るほど「小選挙区は大政党や現職には有利だけど国家にとってはデメリットばかり」な制度に思えてきたな……。

中でもいちばんの問題はこれ。

 安保も外交政策も、各政党にとって、重要な問題のはずであった。しかし、平沢を含む何人もの候補は「そんなものは票にならないよ」と一蹴した。
 その代わり候補者は、有識者の誰もが受け入れやすい政策を語り、受け入れやすい表現を使った。誰でも同意できる問題に対しては、それがあたかも自分が発案したかのように述べ、意見が分かれるような問題については、ごく皮相な見解だけを表明した。候補者百二十五人を対象にしたある調査で、八十八人の候補者が、政策はキャンペーンの中心ではない、と告白した。その理由として、彼らの半数は、「候補者がみんな安全で論争の余地のないことばかりを言っているから、誰の主張も似通っている。どの候補者も有権者から反発されることを言いたくないからだ」と言った。
 その結果、候補者は、有権者の間に政策論争によって波風を立たせず、いかに信頼感を醸成するか、ということに選挙戦略を移していった。政策についての立場の説明より、その政策を実行する能力があるのかどうか、あるいは、それを訴えるスタイルやイメージの方がより重視されたのである。

過半数近い票を集めないと当選しない小選挙区制で有効な戦略は「反対する人がほとんどいないことだけを主張」になる。
それはつまり「もっと子育てのしやすい国に!」とか「経済を安定させて失業率を下げます!」とか「安心して暮らせる町づくり」とかの、耳ざわりはいいけど「できるならとっくにみんなやっとるわ」という空虚なスローガンを並べるだけになってしまうということ。
「増税すべきか」「改憲は必要か」「米軍基地をどうするか」「原発はなくすべきか」みたいな真に必要な議論は、それが有権者を賛成と反対に二分する性質のものであるがゆえに大政党には避けられる。

その結果、大政党の唱える政策は似たり寄ったりになる。
少し前に自民→民主→自民と二度の政権交代があったけど、それぞれを支持していた人たちに「自民党と民主党の政策って何が違うんですか?」と聞いても、ほとんどは答えられなかったんじゃないかな。

さらに小選挙区制だと大政党に属しているほうが圧倒的に有利だから、いろんな候補者が大政党に集まってくる。その結果、自民党内が極右から中道左派までいろんな思想の持ち主の寄せ集めになって、ますます有権者には政党ごとの政策の違いがわからなくなる。

政策に違いがないから、選挙はイメージだけで戦うことになる。
それを肌で理解してうまく利用したのが小泉純一郎であり、民主党(現・民進党)はイメージだけで政権をとってイメージが悪化して没落した。
選挙では具体的な政策に言及することを避け、無難なことだけ言って自分のイメージを守りつつ、対立候補のイメージをいかに下げるかが重要になる。なんともつまらない選挙だ。

さらに大きな問題は、「改憲します!」とか「共謀罪つくります!」とか「増税します!」とかの本来なら選挙で国民に信を問うべき重要な問題が、選挙が終わってから議題に上がるってこと。
有権者からすると不意打ちで出されるわけだから「そんなこと選挙のときに聞いてませんけど。そうと知っていたら票を入れなかったのに」となり、ますます政治不信が強くなる。

小選挙区制を導入したときはこんなことになるなんてほとんどの人が予想していなかっただろうなあ。

選挙にカネがかかるのを解消するための小選挙区制導入だったわけだけど、結局カネがかかることには変わりはないし、汚職は別の法律で抑止すればいいわけだし、つくづく小選挙区制って害悪だらけに思える。
(派閥政治ってかつては害悪とされていたけど、今の状況を見ると民主主義的でいいやり方だったんだなあと思う)


これだけ情報化が進んでるんだから、もっと大きい選挙区単位で政治をやったほうがいいんじゃないのかなあ。
そもそも国政選挙なのに地元を代表するってのがおかしな話だし。

ま、小選挙区制はいつの時代も与党に有利にはたらくわけだから、改革される可能性は低いだろうけどね。


 その他の読書感想文はこちら

2017年7月2日日曜日

男の子の成長を見ること


3歳の娘が通う保育園の参観日。

参観日は楽しい。
自分の子どもを見るよりも、他の子の成長が見ていて楽しい。

朝は娘を保育園まで送り届けているので、同じ時間帯に登園してくる子たちとは頻繁に顔を合わせている。
また、休みの日によく公園で会う子もいる。
でも一部の子はまったく会わない。
運動会とか発表会でしか見ないので、久々に見ると「おお。あの子がこんなに大きくなったのか」と感慨深いものがある。
我が子は毎日見ているので、特に成長を実感することもないのだけれど、よその子を見て「子供の成長って早いなあ」としみじみ思いを馳せることになる。


だから参観日では自分の子より他の子ばかりに目がいってしまう。
で、3~4歳クラスの子を見ていて思ったんだけど、ほんと男の子って手がかかるなあ。

いろんな子がいて、先生の話を聞かない子、急にふらっと教室を出ていこうとする子、参観に来ているお母さんにしがみついて離れない子、呼ばれてもわざと無視する子、さっきまで元気に遊んでいたのに突然スイッチが切れたように周囲の呼びかけに答えなくなる子。それがことごとく男の子なのだ。
女の子にも多少の差はあるけれど、極端に枠からはみだした子というのはいなかった。
たぶんそのクラスの話だけではないと思う。

でも先生の話を聞いていると、そんな男の子たちも、ふだんはそれなりに先生の言うことを聞いて生活しているらしい。
参観日の日はいつもより手のかかる子になっていたようだ。

ここからはぼくの推察なんだけど。
どの子も参観日だから緊張していた。
でもそこからの対応に性差があって、女の子は保護者が見にきているからふだんよりいい子にふるまう、男の子は親の前でいい子にするのがなんとなく恥ずかしくていつもより問題を起こす、ってな感じなんじゃないだろうか。
晴れの舞台ではええかっこするのが女の子、いらんことするのが男の子。


うちの子は女の子で、もちろん駄々をこねたりわがままを言ったりたいへんなときもあるけど、同じクラスの男の子を見ていると「あそこはもっとたいへんだろうなあ」と思う。

一姫二太郎とはよくいったもので、特に一人目の子どもに関しては男の子のほうが女の子よりもはるかに育てるのがたいへんだと思う。



ところで他の子どもを久々に見ると成長を感じられるように、他の子のお父さんお母さんを見るのも、成長を感じられて楽しい。
たとえばある男の子のお母さん。
男の子は活発な子で、制止も聞かずに走り回ったり、他の子に意味もなく「あほー」と言ったりする、まあいわゆる悪ガキだ。
その子のお母さんはまた繊細そうな人で、子どもがいたずらをするたびに逐一「そんなこと言わないの!」とたしなめ、周囲には「すみませんすみません」と謝ってばかりいた。
ぼくは「しょせん幼児のいたずらなんだからそんなに卑屈にならなくていいのに」と思っていた。
話を聞くと、そのお母さんは男兄弟がいないので「男の子の生態」を間近で見たことがなかったらしい。
「うちの子、いつもこうなんですよ。ずっと注意してるんですけどね。ほんとなんでうちの子だけこんなに私や先生の言うこと聞かないんでしょうねえ……」
と深刻そうな顔をしているお母さんに、ぼくは気休めではなく本心から
「まあ男の子ってそんなもんでしょ。ぼくも人の話なんかまったく聞いてませんでしたし。今もそうですけど」
と答えた。


そんなお母さんが、久々に会ったらずいぶんタフになっていた。
男の子が悪さをしても、低い声で「あかん!」と一喝したり、無視して目をそらしたりしていて、ちょっとぐらいのいたずらでは動じないお母さんになっていた。
たいへん喜ばしいことだ。

元男の子のぼくは、自分がそれほど道を踏み外さずに大人になれたのは単に運が良かったからに尽きると思っている。一歩まちがえば死ぬかもしれないこと、ばれたら警察にお世話になるであろうことをいくつもやっていた。たぶんほとんどの男の子がそうであるように。
男の子が死ぬかどうか、警察のお世話になるかどうかは運の問題でしかない。
だから、男の子の母親なんて図太くないとやっていけない。

こういう所にはのぼらずにはいられないのが男の子の習性


近所に、7歳の長男を筆頭に、男の子3人を育てているお母さんがいる。
もう「ザ・肝っ玉かあさん」という感じの人だ。
息子がこけても泣いても血を流しても「はっはっは。ケガしてもうたなあ。よう洗っときやー」と大らかに笑っている。
一方、息子が他の女の子を泣かせたときには鬼の形相で叱りとばしている。
理想的な「男の子の母親」だと思う。
このお母さんの元でなら、きっと3人の息子たちもすくすく育つことだろう。運が良ければ