2017年5月2日火曜日

ヒジはどうしてあるの?

同僚のMさんが、息子(4歳)から「ヒジはどうしてあるの?」と訊かれて答えに窮したそうだ。

ヒジはなぜ存在するのか。

今まで考えたことがなかった。

なるほど、これはなかなかの難問だ。



「で、なんて答えたんですか」

Mさん「ヒジがないと曲げられなくて困るでしょ、って」

「それは結果であって理由じゃないですね。回答として不正確だと思いますよ」

 「それ、そばで聞いてた旦那にも同じこと云われた。うちの旦那も犬犬さんと同じぐらい理屈っぽいから」

「ほめ言葉として受け取っておきます」

 「犬犬さんだったらなんて答えるんですか」

遺伝子情報にヒジを作ることが組み込まれているから……」

 「4歳児にそんなこと云ってもわかるわけないじゃない」

「じゃあ物語を作って聞かせたらどうですか。よくあるじゃないですか、塩の出る臼が海底に沈んで海の水はしょっぱくなりましたとさ、みたいなこどもだましの昔話」

 「嫌な言い方だねえ。たとえばどんなの?」

「えーっとそうですね。
 むかしむかし、人間の手にはヒジがありませんでした。
 その頃の人は食べ物をつかんでも口に運ぶことができず、不便な生活を強いられていたのです」

 「あ、なんかそれっぽい」

「あるときその様子を見ていた神様が不憫に思い、人間にヒジを授けたのです」

 「うんうん」

「人間たちは大喜びしました。
 これで自分の口に手が届くぞ!
 それまで人間たちは、ペアを組んでお互いの口まで食べ物を運んであげていました。
 ヒジができてからというもの、人々の暮らしは格段に便利になりましたが、同時に助け合いの精神が希薄になり、人心はどんどん荒廃してゆき、やがては曲がるようになった腕で弓矢や銃を持って互いの命を……」

 「ちょっとちょっと!  ほのぼのした昔話だったのに途中から急に殺伐としてる!」

便利さと引き替えに精神的な豊かさが失われるという教訓のこもったいい話だと思うんですけどねー」

 「却下」


いったいどう答えるのが正解なんだろう?

うちの妻にも訊いてみたところ、

「ヒジが何かの目的を持って作られたわけじゃなくて、曲がる部分がヒジと名付けられただけ。だからその質問自体がナンセンス

というお答えが返ってきました。
うーん、科学の子。

ヒジの使い方

2017年5月1日月曜日

イノベーティブな俺

「誰かが新しい言葉をひねり出し、古いアイディアを新しい包装紙で飾ろうとするときには注意しよう。それは往々にして、真の革新などどこにもないときに、さもオリジナリティーがあるかに見せかけようとしている兆候だからだ」
(ジョージ・G・スピーロ著、青木薫訳『ケプラー予想』より)


うん、たしかに

「イノベーション(革新)」

「コンセンサス(合意)」

「プライオリティ(優先順位)」

とかを好んで使う人って、イノベーティヴな思考ができなくて、周囲のコンセンサスなんか無視しちゃうような、物事のプライオリティがわかってない人ばっかりだよね。


2017年4月28日金曜日

公園で缶チューハイを飲むおじさんだけが怖いのはなぜなのか

大阪市内に 引っ越してきて5年。
昼間から公園でお酒を飲んでいる人も見慣れてきた。

子どものころは郊外の住宅街で育ったこともあって、昼間からお酒を飲んでいる人はほとんど見なかった。

せいぜいお花見のシーズンぐらい。

田舎は車社会だからってのもあるけど。


今ぼくが住んでいるエリアでは、公園のベンチでお酒をちびちびやっているおじさんはめずらしくない。

朝から缶ビール片手にふらふら歩いている人もよく目にする。

公園でお酒を飲む人
大阪ではよくある光景(嘘)


見慣れてくると、べつになんとも思わない。

小さい子どもがいることもあって、はじめのうちはちょっと怖いと思っていたけど、そういうおじさんはいたって無害な存在だ。

静かにベンチに座って、何をするでもなくちびりちびりと飲んでいる。

することといえば、たまに鳩に食べ物をやるぐらい。

ほんとは鳩に餌をやるのはよくないことなんだけど、それぐらいの楽しみには目をつぶってあげたい。



ビール(発泡酒等含む)を飲んでいるおじさんは比較的身なりがきれいだ。

日本酒や焼酎を飲んでいるおじさんはよく日焼けをしている。

お酒を飲みながらお菓子やパンを食べているおじさんはわりといるが、おにぎりやお弁当を食べながら飲んでいるおじさんはなぜか少ない。



よくわからないんだけど チューハイを飲んでいるおじさんが怖い。

見ちゃいけない気がする。

目を合わせたら良くないことが起こりそうな気がする。

なぜだろう、ビールや日本酒のおじさんには怖さを感じないのに。

チューハイを飲むおじさんだけ、怖い。



なんでだろう。

通勤電車に揺られながらゆっくり考えてみた(こういうことを考えていると満員電車もつらくない)。


1. チューハイは、お酒を好きな人はまず飲まない。

「お酒好きで、毎晩のように吞んでます!」という人は、たいていビールや日本酒やハイボールや焼酎なんかを飲む。

「甘いお酒が好き」という人は、梅酒やワインやカクテルを飲む。

お酒好きでチューハイが好き、という人に出会ったことがない。


2. チューハイは、お酒が苦手だけど酔いたいときにちょうどいい。

ぼくの感覚では、チューハイを飲む人=お酒が苦手な人 だ。

お酒は好きじゃない。ビールは苦いしワインは後に残るしカクテルは高い。

でもお酒の席は好きだから酔いたい。あるいは、雰囲気的にソフトドリンクは頼みづらい。

そんなときにちょうどいいのがチューハイ。甘いし、安いし、あんまり残らないし。

ぼくも大学生のときは飲んでたけど、お酒に慣れてきたらいつのまにか飲まなくなったなあ。


3. チューハイを飲んでいるおじさんは、ほんとは飲みたくない

ということは、公園でチューハイを飲んでいるおじさんは、ほんとはお酒を飲みたくないんだと思う。

お酒が好きならビールや日本酒を飲めばいいし、甘いものが好きならジュースのほうがずっと安い。

それなのにチューハイを飲んでいる。


酒なんか好きじゃない。できることなら飲みたくない。

だけど、飲まずにはいられない。酔わずにはいられない。

何がおじさんを缶チューハイへと駆り立てたのか。彼の心中を察することはできないが、あれはまちがいなく「我慢の酒」だと思う。



我慢している人はこわい。

いつか爆発しそうな気がする。

お酒が好きな人ならお酒で発散できるかもしれない。

でも酒を好きでない人が酒を飲んでもストレスが溜まるだけだ。

公園で缶チューハイを飲んでいるおじさんに言ってあげたい。

「無理しなくていいんですよ」と。

「カルピスとかヤクルトとか飲んだほうが幸せになれますよ」と。


そしたらおじさんはどんな顔をするだろう。

案外「うるせえ、おれはこの世の飲み物のなかでチューハイがいちばん好きなんだよ」と言われるかもしれない。


2017年4月27日木曜日

吉田 修一 『怒り』 / 知人が殺人犯だったら……

吉田 修一 『怒り』

内容(e-honより)
若い夫婦が自宅で惨殺され、現場には「怒」という血文字が残されていた。犯人は山神一也、二十七歳と判明するが、その行方は杳として知れず捜査は難航していた。そして事件から一年後の夏―。房総の港町で働く槇洋平・愛子親子、大手企業に勤めるゲイの藤田優馬、沖縄の離島で母と暮らす小宮山泉の前に、身元不詳の三人の男が現れた。


吉田修一の小説を読むのは『元職員』に次いで2作目。
『元職員』の感想として、こんなことを書いた。
どんどん逃げ場がなくなっていって、常におびえながら暮らさないといけない。ときどきふっともうどうにでもなれという気になるし、でもやっぱり逃げなくちゃとも思う。
ガス漏れしている部屋にいるように、気がつけば恐怖と不安と焦燥が充満している。

『怒り』もまた、そういう小説だった。ずっと喉元に短剣をつきつけられているような気分。
「指名手配をされる悪夢」をよく見るぼくは、「自分だったらどう逃げるか」って考えながら読んでいた。追われるようなことは(今のところ)していないんだけどね。 



『怒り』には、4人の「正体不明の人物」が出てくる。漁港に現れた無口な青年、ゲイのサラリーマンの部屋に転がり込んできた男、沖縄の離島にやってきたバックパッカー、そして殺人事件の犯人を追う刑事の恋人の女性。
女性は明らかに犯人じゃないから除外して、3人の男はそれぞれが殺人事件の犯人の特徴を持っていて、3人ともときおり怪しい言動を見せる。

ぼくもいろんなミステリ小説を読んできたので、いろいろと勘ぐりながら読んだ。

「こいつが犯人っぽく書かれてるけどまだ中盤だからミスリードだろうな」

「3人の中に犯人がいない、という可能性もあるな」

「実は『×××(ネタバレのために伏字)』のトリックみたいに時系列がばらばらで、3人とも犯人なのかもしれないな」

「いやいや、時系列トリックと叙述トリックが組み合わさっていて、怪しい青年と出会ったこの男性こそがもしかしたら犯人の未来の姿だったりして……」

とかね。
「これはミステリじゃないんだ」とわかっていても、ついつい推理してしまうね。

ぼくの持論として、いいミステリ小説の条件として、「いい謎解きがある」ってのは必要条件であって十分条件ではない、と思っている。
いいミステリであるための必要十分条件は「いい謎がある」だ。
極端に言うと、謎解きがなされなくても、いい謎を提示していればそれはいいミステリだ。じっさい、芥川龍之介『藪の中』のように真相が明らかにならないミステリはけっこうある。東野圭吾もそれに近いことをチャレンジしてたね。

『怒り』は、まさに「真相が明らかにならない」タイプの小説だ。ミステリ小説じゃないけど「いいミステリ」といっていいと思う。
「これ、最後まで犯人が明らかにならないという展開もあるな」と思いながら読んでいたんだけど、さすがにそれはなかった(個人的にはそれでもよかったと思う)。



ぼくらの 生きる世界はいたって不明瞭だ。

電車で隣に座っている人が殺人犯かもしれない。

友人や会社の同僚が、本当に名乗っているとおりの人物なのかわからない。

家族ですら、彼らが自分と出会う前は何をやっていて、どんな内面を隠し持っているのかは知るすべもない(自分の親が過去に人を殺していなかったと言えるだろうか?)


周囲の人物が凶悪犯ではないだろうという "前提" で生活している。
「置いている財布からお金を抜くぐらいのことはするかもしれない」けど、「こいつと2人っきりになったら殺される」とまでは思っていない。
それは「信じる」というほど積極的な信頼ではなくて、「疑うことを放棄する」ってぐらいのもの。

もしも。その "前提" が揺らいだとき、正しくふるまえるだろうか。
仲のいい友人や家族に対して「殺人犯かもしれない」という疑念が沸いたとき、
  • 直接問いただす
  • 返答に納得がいかない場合は警察に通報する
  • あるいはとことん信じぬく
ってのが「正しいふるまい」だと思うんだけど、ぼくにはそれができる自信がない。
問いただしたら関係が壊れてしまいそうで、親しい間柄であればあるほど、訊けないような気がする。
かといって信じぬくこともできない。

きっと「疑念を抱えたままなんとなく付き合う」っていう、うやむやな対応をとっちゃうような気がする。不誠実だけど。


逆に、自分が人を殺してまだばれていない場合。

妻から「あなたがやったの?」って単刀直入に訊かれたら、ちょっとイヤだなあ。
「ぼくを疑うのか!?」って怒っちゃうかも。犯人のくせに。

やっぱり、古畑任三郎みたいにカマをかけたり罠をしかけたりして、じわじわと外堀を埋められていく感じがいいな。
で、最後は「自首……していただけますね?」って言われてがっくりうなだれる、みたいな感じがいいなあ。




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2017年4月26日水曜日

高校生のとき、教室で鍋をした


高校生のとき、教室で鍋をした。


ぼくが通っていた高校にはエアコンはおろか、ストーブすらなかった。
同じ高校に通う姉から「高台にあるから消防法の都合でストーブをつけられないんだって」と聞いたことがある。
「ふーん、法律ならしゃあないな」と思って卒業まで寒いのを我慢して通ってたんだけど、今思うと、そんなわけない。
当時は本気で信じていたけど、たぶんだまされてたんだと思う。姉が嘘をついていたのか、姉もまた誰かにだまされていたのか。


昼休みに友人たちと「寒いなー。鍋とかやったらうまいだろうなー」みたいな話をしていて「じゃあやってみようか」となった。
男子高校生の唯一の長所である行動力のなせるわざだ。

担任に「教室で鍋やってもいいですか?」と訊いた。
担任は「そりゃああかんと言うしかないやろ」と答えたが、ぼくらはそれを「立場上イエスとは言えないが勝手にやるなら目をつぶる」という意味だと解釈した。

学校で鍋

完全な思いつきで「鍋をやろう」となったのに、じっさいに鍋をやるまでの段取りはじつに用意周到だった。
クラスの男子に声をかけて、参加者を七人集めた。
鍋やカセットコンロは重いので、前日に持ってきてロッカーの陰に隠しておいた。
学校帰りにスーパーに寄って食材を買いこんだ。

昼休みは五十分しかない。
のんびり鍋の準備をしていては、火が通って食べはじめる前に昼休みが終わってしまう。
あらかじめ自宅で食材を細かく切って、シイタケやニンジンなどの火の通りにくい食材は軽く下茹でしておいた。
お湯を沸かしている時間も惜しいので、ポットを持ってきて昼休みの前の4時間目に沸かした(授業中にお湯が沸いて教室の後ろから急に蒸気が噴きだしたのは誤算だったが、なんとかごまかせた)。


四時間目の授業が終わるとすぐに、机を移動させて大きなテーブルをつくる。
急いでカセットコンロに鍋をセットし、沸かしておいたお湯を入れ、がんがん食材を放り込む。
出汁をとっている時間はないので水炊きにした。
下茹でをしておいたおかげでどの食材もあっという間に火が通る。
ポン酢につけて、口に運ぶ。
うまい。
教室で食う鍋は、めちゃくちゃうまい。

廊下側の席だったので、窓ガラスが湯気で曇った。
ストーブがないから余計に目の前の火と湯気がやさしくぼくらを温める。
「四組の教室で鍋をやってるやつがいる」とうわさが流れたらしく、いろんな生徒がのぞきにきた。
鍋の前では人はみな饒舌になる。「めちゃくちゃいい匂いやなー」「ちょっとちょうだい」と声をかけられ、ぼくらは誇らしかった。


後片付けの時間も考え、昼休みの十分前には食事を終わらせた。
せわしない鍋だったが、そこは食べ盛りの男子高校生。すべての食材がなくなった。

まもなく5時間目の授業がはじまる。鍋を洗っている時間はないので、とりあえず教室の後ろの隅においてビニール袋をかぶせた。
カセットコンロや食器を片付け机を元に戻したところで、ちょうどチャイムがなった。


五時間目の英語の先生が、教室に入ってくるなり「なんでこの教室、こんないい匂いなん!?」と声を上げた。冬場で教室を締め切っていたので、匂いが立ちこめていたのだ。
だが若くて冗談にも理解のある先生だったこともあって、それ以上深くとがめられることはなかった。もちろん五時間目がそういう教師の授業であることを見越して、その日を選択したのだった。


ぼくの人生において、あれほど周到に計画を立て、計画通りにことが運んだことはない。仕事をするようになってからも。

まったく、我が母校の校訓である「創意工夫」に恥じない鍋パーティーだった。