2017年4月7日金曜日

【読書感想エッセイ】 小松左京・筒井康隆・星新一 『おもろ放談―SFバカばなし』


小松左京・筒井康隆・星新一
 『おもろ放談―SFバカばなし』


1981年に刊行の対談集。もちろんとっくに絶版。

どうですか、このメンバー。一部のファンにとっては垂涎ものでしょう。
20年くらい前に古本屋で買ったもので、ぼくの宝物。
主にしゃべってるのは小松左京・筒井康隆・星新一の3人だけど、他にも平井和正・豊田有恒・矢野徹といったSF作家もときどき参加。
久しぶりに読み返してみたけど、おもしろいなあ。

筒井 まあ、しかし最近世界各地でたくさん飢えて死んでますね。あれ、ひとまとめにして埋めときゃ石油になるのかな(笑)。
小松 そんなに早く石油になるもんか(笑)。まったくもう、血も涙もないな(笑)。
筒井 とにかくね、人間が死んでそのままというのがもったいないんですよ。死にかけてるのを日本へつれてくればね、古々米はいっぱいあるし、残りものでもなんでも食わせてやれば大きな労働力に(笑)。
小松 ひどいことを(笑)。ヒューマニズムのかけらもないな(笑)。
 しかし、本人たちにしてみれば、飢え死にするよりはいいかもしれんぞ。

はっはっは。不謹慎だなあ。
まちがいなく今だったら掲載できないな。冗談と本気の区別がつかない人が多いから。
いや、そこの区別がつかない人は昔もいっぱいいたんだろうけど、無視してたんだろうな。「ばかが文句言ってるわ。ほっとけほっとけ」ってな感じで。

ちょうと最近、筒井康隆が不謹慎なことをTwitterで言ったといって炎上していた。
まあ不謹慎な発言だし、怒る人がいるのもわかる。ぼくも、褒められた発言だとは思わない。
でも筒井康隆は何十年もこんなことを言い続けてきた。本に収録されているだけでもこんなんだから、現場ではもっと俗悪なことも言ってたんだろう。
当時と違うのは、今はこういう発言を拡散したり記事にしたりして、それを聞いて嫌がるであろう人に「あいつがあんなこと言ってますぜ。言わせてていいんですか」とわざわざ届けにいくゲスい人がいること。そのための手段があること。

ものを表現している以上、誰かを傷つけるリスクはつきまとう。表現者は、それに対して責任を負うべきだと思う。
でも、「代憤(ぼくがつくった言葉。当事者の代わりに勝手に憤慨すること)」をしてるやつはまったく相手にする必要がない。
地震の被災者を冒涜するような発言があったら、被災者は大いに怒ったらいい。謝罪を要求したらい。
でも、被災者でもないのに「被災者の気持ちを考えろ! 謝罪しろ!」と怒ってるやつは、他人の怒りを横取りして溜飲を下げたいだけのクズだから無視すればよい。
身内向けに語られたちょっと不謹慎な発言を「こんなこと言ってるやつがいる。被災者の反発が予想される」なんて煽り文付きで広めようとする記者は、自分で火をつけておきながら第一発見者になる放火魔といっしょだから、火あぶりにされればいい(言いすぎた)。


とにかく、代憤が嫌いだ。それを煽るやつも嫌いだ。
だってみんなトクしないじゃない。
怒ってるやつも、怒られてるやつも、知らなくてもいい不愉快なことを聞かされる本来の被害者も、イヤな気持ちになるだけ。
それを記事にした放火魔だけが第一発見者としてお手柄をあげられてトクをするけど。



「人間を食って何が悪いのか」という話。

小松 ひとつ問題があるのはね、そこでやっぱりヒューマニズムが踏んばらなきゃいけないのは死んだら食ってもいい、しかし生きている人間をぶっ殺して食うのはいかん、つまり食う側の人間と、食われるための人間とを作っちゃいけない、ここを頑張らなくちゃいかん。
筒井 しかし、食われるためのクローン人間を作った場合は、しかたないでしょう。
小松 クローン人間ができるのはまだまだだから、むしろヴァン・ヴォグトの『虎よ虎よ』に出てきた、ニワトリの肉の組織培養、あの方が簡単だろ。
 そんなら、たとえばガンだって、どんどん作っちゃ切り、作っちゃ切りして食えばいいんだな(笑)。
筒井 あれ、食っても大丈夫かな。
小松 一応、焼いて蛋白として食やあ、なんにもねえだろ。ガンのオドリ食いってのはよくないけどね(笑)。
筒井 いやあ、どうせなら、ナマのまま塩もみして、酢のものにして食えば(笑)。
小松 ばか、ばか、やっぱりサッと湯通しぐらいはしろ(笑)。
 人間を食ってはいかんというのは、今、野坂が「四畳半裁判」にかかってるけど、あれと同じだろ。結局もとは(笑)。人間食ってなぜ悪い。
小松 そうなんだ。この問題、とにかく意識の上で突破しなきゃな。不思議な思想だけど、こういうのがあるんだ。紀元前七世紀、ゾロアスターが、最後の審判、つまり最終戦争みたいなものがあって、そのあと人間は復活する、そういう思想を出した。その復活する時にボデーがないと大変である(笑)。その前にも、エジプトでも同じ思想が出てる。それで死体を損壊したらいけないということになったんだな。一方じゃラマ教か何かの風葬みたいに、死体を鳥に食わせるというやつもあるが、これだとエコロジカルサイクルに入ってくる。とにかく、焼くってのがいちばんいかんよ。炭酸ガスになるだけだ(笑)。
 焼くだけのエネルギーもいるしな(笑)。

ばか話をしてたのに、急に知識を放り込んでくる小松左京。
小松左京って知の巨人とか言われてたけど、そういうすごさって書くものより会話に現れるね。とっさに関連知識を引き出せるってのはすごい。
(※ ちなみに、「ヴァン・ヴォグトの『虎よ虎よ』」という一文があるが、『虎よ、虎よ』を書いたのはヴァン・ヴォークトではなくアルフレッド・ベスターなのでこれは小松左京の記憶違いと思われる)

深く考えたことなかったけど、死んだ人間を食うのってそんなに悪いことじゃないよな。もちろん心理的抵抗はあるけど、ちょっと訓練したらその抵抗は取り払えそうな気がする。
今のところは食うに困ってないから必要ないけど、『ひかりごけ』みたいな状況になったときに意識の切り替えができるだろうか。
そうなったときに「ゾロアスター教やエジプトの復活思想があるから食ったらいけないと思われてるんだ」という知識を持っていれば、案外切り替えができるかもしれない。
こういう何の役にも立たなさそうな知識が、極限状態の命を救うかもしれない。



反体制運動について。

小松 反体制運動が続いているけれども、なぜ先進諸国で完全にひっくり返すことができないかというと、実は情報がありすぎるからではないだろうか。たとえばベトナム報道でもそうなんだけれども、これでもかこれでもかと写真を出していると、またか……というんで飽きちゃうんだ。今度は何か知らないけど、資生堂のビッグサマーのほうがいいぞ……ということになっちゃう。
 純粋な反体制がなくなって、売名や利益に結びついちゃっているところがあるな。反体制で新しいことをおっぱじめると、すぐテレビが飛んでくるわ、週刊誌がくるわ……(笑)。ということは、テレビでやれば視聴率も上がってスポンサーも儲ける、雑誌社がそれを広告媒体に使って儲ける。もう、すぐ体制側に組み込まれちゃって、本人もそれでタレント気どりでいい気持になって……。どういうのかなあ。すぐ体制に組み込まれちゃうシステムができちゃったせいじゃないかな。
小松 だまってコツコツやらにゃいかんですよ。
筒井 もっとも、弾圧すればするほど強くなるんですね。あれはいじめないから全然強くならないわけで、むしろそれを育ててやろうというんで、保護的傾向がある(笑)。

SEALDsなんかも見てて思ったけど、反体制運動ってむずかしいよねえ。
権力をひっくり返そうと思ったら、武力だとかお金だとか人気だとかが必要になる。それってつまり、ひっくり返す側も権力を手にするということ。そうなると広い支持は得られなくなるし、権力をめぐって内部紛争も起こる。
そうなると社会党みたいに分裂をくりかえして縮小するか、共産党みたいに「確かな野党」として勝利をあきらめるか、公明党みたいに反体制のふりをしたまま体制につくかしか道はないような気がする。

筒井康隆が言ってるように、弾圧すればするほど結束も固くなって強くなるんだろうな。生死にかかわるような弾圧を受けていれば、少々の考えの違いがあっても目をつぶって団結するしかないもんね。

治安維持法で捕まって獄死した牧口常三郎(創価学会の初代会長)とか、社会主義者だったために処刑された幸徳秋水とか、そういう不遇な目に遭った人がいたからこそ、活動が盛り上がったのかもしれない。
今の日本だと、何を言っても殺されることはないもんね(たぶん)。自由にものが言えるからこそ、逆に発言の重みはなくなって運動を主導する力もなくなるように思う。
イエス・キリストが磔になって殺されてなかったら、はたしてキリスト教がここまで世界中に広まってたかどうか。

逆に言うと、権力を握る側にしたら、言論や思想の自由を与えるほうが体制を守ることになるのかもしれない。
身の危険を感じずに自由にものが言える環境だったら、命を賭してまで体制をぶっこわそうとは思わないもんね。

気に入らないやつには、そこそこいい地位を与えてやる
これこそが賢い権力者のやることかもしれない。



幼稚園の話。

筒井 今の幼稚園、たいていカトリックかプロテスタントかどっちかでしょ。あれももっと、いろんな宗教の幼稚園作れば面白いですよね。邪教のさ(笑)。なんだっけ、ほら、アモン神の、ツタンカーメンとかね(笑)。拝火教なんて。子供がゾロアスター拝んでるの。豚の頭とか(笑)。
小松 大きくなると放火魔になるんだ(笑)。
 今にアラブが作るな。カトリックに対抗して(笑)。イスラム幼稚園(笑)

(中略)

 似たようなものですよ(笑)。フロイト幼稚園(笑)。
筒井 マルクス幼稚園(笑)。
 ソ連も作るべきだな、日本みたいに(笑)。
筒井 ソ連の幼稚園はもともとそうなんだ(笑)。
 だから日本に出店を作るんだ(笑)。

この後「神道の幼稚園がないから靖国神社幼稚園を作ろう」なんて冗談を言い合ってるけど、最近冗談じゃなくほんとにやっちゃった一派があったからなあ。

酒の席でするような、ほんとにくだらない話が満載。
「どんな入れ墨をするのが面白いか。背中にへその入れ墨なんてどうだ」とかね。

小説はけっこう残るけど、こういうばか話はほとんど後世に残らない。
「昭和時代の人が酒を飲みながらどんなばか話をしてたか」ってのを後世に伝える、貴重な史料だね。



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【読書感想エッセイ】 川端 裕人『PTA再活用論―悩ましき現実を超えて』

川端 裕人『PTA再活用論―悩ましき現実を超えて』

内容(「BOOK」データベースより)
「親」どうし、顔を見て、一緒に仕事をするというのは、すごく健全なことだ(著者)。大変化を迎えた公教育の一断面をリアルに見すえた力作。忘れられた「PTA」を蘇らせる処方箋とは。

2008年刊行。
「きちんと調査したこと」と「個人的体験」が入り混じって書かれているので読みづらかったけど、PTAの問題についてはこの1冊でだいたいわかるんじゃないかな。

PTAは交通安全協会とはちがうのか


最近、「PTAに入るかどうか」がちょっと話題になってるみたいだね。
そんな議論が出るまで「PTAは任意加入」だってこともぼくは知らなかったし、まして「任意加入なのに保護者の意志も聞かずに勝手に加入させる」こともあると聞いてびっくりした。
勝手に加入させるって、もう詐欺集団じゃないか(全部のPTAじゃないにせよ)。

PTAに関する議論を耳にして、交通安全協会を思いだした。

運転免許を取得したとき、「運転免許申請費」と「交通安全協会加入費」を払うように言われた。
ん? なんだこれ? 免許申請費があるってことはそれさえ払えば免許はとれるのでは?
単純に疑問に思った(そのときは交通安全協会のことをまったく知らなかった)ので、窓口のおばさんに「交通安全協会ってのは加入しなくてもいいんですか?」と訊いてみた。

するとおばちゃんは血相をかえて、「加入は義務じゃないですけどねっ。でもみなさん入っていただいていますよっ! 交通安全協会はうんたらかんたら……」と怒りの説明をはじめた。それを聞いて「あ、これはヤバい団体だな」と察して「加入しません」と言った。
「みんなやっている」を押し文句として使うやつは、ろくでもないものを売りつけようとしていると相場が決まっている。
おばちゃんはその後も「んまあ、我らが交通安全協会に入らないなんて何考えてるのかしら……」みたいなことをつぶやいていたが、ぼくは黙ってその場を離れた。

その後「交通安全協会は警察OBのための天下り組織だから金を恵んでやる必要はない」という認識が広まって、「まるで義務であるかのような加入のさせ方」は、ぼくが知っているかぎりなくなった。

いや、交通安全協会の組織や活動を否定するわけじゃないんだけどね。騙して加入させようとする手口が悪質だったから嫌いなだけで。

だからまずぼくが思ったのは、「PTAも誰かの金儲けのためにある集団なのかな?」ということだった。
でも、どうやらそうではないみたいだ。



PTAの負担ってどれぐらい?


作者の川端裕人さんは、小学生の親としてPTAの役員をやったことがあるそうだ。
PTAの役員業務の負担についてこう書いている。

 やったことがある人でないと分からない、と経験者は言うけれどたしかにそうだ。
 そこで「数字」の力を借りる。「大変さ」の質はさまざまだが、定量化できる部分は定量化しておきたい。日々の役員業務を書き留めたいわば「航海日誌」から、PTA活動に費やした時間を抽出してみた。
 その数字は――、年間166日、計403時間だ。
 これは学校に赴いての仕事や対外的な会議などでの「拘束時間」であって、PTAについての個人的な勉強、自宅に帰ってからの連絡仕事、文書作成、さらには「自分がやりたい企画のための調査研究」などの時間は入っていない。
 この「数字」を述べた時に、役員経験者は「そんなものね」と首を縦に振り、非経験者は「そんなのありえない」と呆然とする。

年間166日!
1回あたりの時間は長くないとはいえ、主婦がパートに出る日数より多いかもしれない。

さらに、個々の学校のPTAの上位組織として日本PTA全国協議会というものがあり、その役員(これも保護者の中から選出される)にいたっては年間700時間ぐらいの拘束もあるという。

この時間を仮にパートにあてていたら数十万円。さらに1校あたりの役員は数十人いるから、1つの学校につきざっと1千万円。日本全体でどれだけの小中学校があるのか知らないけど、全国規模で見たら数千億という額になるだろう。
賃金換算するととんでもない労働が、ボランティアという名前の半強制システムによって吸い上げられている。

ぼくは震えあがった。
これだけの労働を搾取され、しかもそれが「ベルマークを切って貼る」という不毛な作業に費やされるなんて!

うちの娘はまた就学前だが、PTAにはぜったいに入るもんか!
同調圧力には負けないぞ!
と拳を握りしめた。



PTAって必要なの?


そもそもPTAってなんなのか。
いや、知ってはいる。Parent Teacher Associationの略だろう。すなわち保護者・教師連盟。
ぼくが小学校のときもあったし、母が役員をやっていたこともある。
母は「みんなやらないといけないのよ……」とため息をつきながらもPTAの集まりに参加していた。さいわい母は専業主婦で時間の余裕もあったし我が家は経済的にも困窮していたわけではなかったから、負担は大きくなかっただろう。

でも両親とも正規雇用で働いている家庭や、貧困や離婚や病気といった事情を抱えている家庭ではPTA役員をする負担は大きい。だからといって個々の事情を勘案していては役員選びは余計に難航する。

そこまでたいへんなPTAだが、小学生のぼくには、何をやっている組織なのかまったくわからなかった。学校の一室に集まってお茶を飲みながらおしゃべりしているおばちゃんの集まり。それぐらいの認識だった。
いや、大人になった今でもPTAが何をやっているのかわからない。
「やらないといけない」という情報はあるのに、「何をやっているか」はほとんど伝わってこない組織、それがPTA。
そもそも Parent Teacher Association なのに Teacher のイメージはまったくないぞPTA。

筒井康隆の作品に『くたばれPTA』という小説があったけど、あれは必ずしも筒井康隆だけのゆがんだイメージとは言い切れない。けっこう世間一般にも「くたばれ」とまではいかなくても「PTAはなくてもいい」というイメージがあるんじゃないかな。




PTAの歴史について。
GHQ(マッカーサーのアレね)からPTAを作ることが推奨され、PTAは「保護者と教師が共に学んでいく場」として誕生したらしい。

 そして、この場合、「成人教育」はとりあえず脇に置かれて、「子どものために」がクローズアップされるのがごく自然だった。戦後の貧しい時代だから、教員の生活補給金や、学校給食の実施、学校のさまざまな備品、図書館の整備のためなどの費用をPTAが負担せざるをえなかったという。
 こと給食に関しては「PTAなくしては学校給食なし」という地域が多く、「公立校ではなくPTA立校」と揶揄された。PTA会長には、集金能力に長けた地元有力者が就任し、いわゆる「ボス会長」が続出した。学校側もPTAに対して頭が上がらず、一方、保護者側も金銭的な負担にあえぐことが多々あった。
 日本が高度経済成長期を迎え社会が豊かになりつつあった60年代後半に状況が変わる。東京都の場合、67年、東京都教育長が各教育委員会に対して、義務教育の学校にかかる費用は公費負担として、PTAから寄付金を受け取らないよう指導した。また、それを実現するために必要な予算措置もとった。

なるほどねえ。
当初は重要度の高い組織だったんだね。この頃は「PTAなんかなくてもいい」という人はいなかっただろうねえ。
昔の貧しい家庭で育った人が「1日3食のなかで給食がいちばんまともな食事だった。ぼくは給食で大きくなった」なんて書いているのを読んだことがある。その給食を支えていたのがPTAだったのだ。

1960年代、日本全体が豊かになってきたことでPTAの支援がなくても学校教育にかかる費用は公費でまかなえるようになり、このへんからPTAの活動目的もあやしくなってくる。
教育を受けられることはあたりまえのことになり、「より質の高い教育」のための活動に向かうこととなる。
悪書追放運動を起こし、1978年には『テレビ番組ワースト7』を発表して改善がない場合は番組スポンサーの不買運動を起こしたという。
おそらくこういった活動が「子どもの楽しみを奪おうとする偏狭な考えのおばちゃん集団」のイメージをつくったのだ。
筒井康隆の『くたばれPTA』もこういった時代背景を受けて書かれたものだろう(たしかに筒井康隆には "悪書" も多いが、筒井康隆を読む子は賢い子だと思うけどね)。
手塚治虫もPTAの悪書追放運動のやり玉に挙げられたらしく、『鉄腕アトム』までもが非難の対象になっていたそうだ。今では多くの学校の図書館に手塚治虫作品が置いてあることを考えると、時代は変わったなあ。

ぼくが子どもの頃に『クレヨンしんちゃん』がヒットしたけど、あれもPTAから攻撃されていた。まあPTAが攻撃すればするほど話題にもなるし子どもは見たくなるだろうから、敵に塩を送っているだけなんだけどね。
とはいえ、「何をやっているのかわからない」けど、とにかく「子どもの楽しみを奪おうとする」というPTAのイメージはぼくが少年時代を送った1990年代には完全に定着していた。

PTAの悪口を言う人はいっぱいいても、「PTAがあってよかった!」と口にする人はいない。
おまけにみんなやりたくないのに半強制的に役員をやらされている。

じゃあいったい何のためにある組織なんだ?



結局悪いのはぼくらなんだけど


ぼくはPTA未経験だが、保育園の「保護者会の役員」というものは経験した。
保育園の行事のお手伝いをする係だ。

1年やって、ぼくも妻も不満がいっぱいあった。
  • 毎年役員のメンバーが変わるんだから、ちゃんとマニュアル作ろうよ。そのときはたいへんでも翌年以降は楽になるから。
  • 重要なことは口頭じゃなくて書面で伝えましょうよ。
  • すべての行事に全役員が参加することないでしょ。せっかく手伝いにきてもらったのに明らかに手持ち無沙汰な人いるよ。交代でやろうよ。
  • 会議のために集まってるけどほとんど確認作業だけなんだからメールとかチャットワークとかで良くない? みんな働いてるんだし。
  • なんで事前に出欠確認とらないの? 人数を把握しといたほうがぜったいに当日スムーズにいくじゃない。
  • ある程度の人が集まったらモラルにばらつきが出るのはあたりまえなんだからどうしても守らせたいルールは明文化しておこうよ。

とかね。
どれも、仕事だったらやっててあたりまえのこと。

でもぼくの不満のほとんどは、妻に対して愚痴をこぼしただけで改善の提案はしなかった。
いくつかは提案してみたけど、保育園側から「今まではこうやってきたから……」というわけわかんない理由で反対されて、「あ、そうですか」とあっさり引き下がった。

こんな顔になった


だってどうでもいいもん。
どうせ来年はうちが役員じゃないし。
来年以降の役員の苦労を取り除くために、わざわざ波風立てたくないし。
マニュアル作るのに苦労するのは自分だから、反対されてまでやりたくないし。


こうやって世の中は悪くなっていく。




PTAは変わりつつある(一部では)


「PTAは必要なのか?」という疑問を持った人はいっぱいいるようで、この『PTA再活用論』が刊行されたのは2008年だけど、その時点でさまざまな改革がなされていることが紹介されている。
「参加自由形」で「自由にものが言える風通しのよい雰囲気」で「保護者が楽しく活動」していて「保護者も一緒に学んでいける」場であるPTAがあるのだとか。

まあ、そういうとこもあるんでしょう。
やる気に満ちあふれていて、周囲の人をまきこむ魅力があって、行動力のある人というのはけっこういると思う。

しかし、大多数はそうではない。
PTAは基本的には学校ごとに独立した組織だから、日本のどこかにすばらしいPTAがあったとしても、自分の校区がそうでなければ意味がない。

 本当は義務ではないことが義務として成立してしまい、やりたくなくてもやらされる。自立した市民どころか、自発意識を削がれ諦めモードに入って身を守る者が続出する。そんなことが常態である共同体のモデルを容認していいのだろうか。ぼくの表現でいえば、2000万人近い人たちがかかわる、きわめて大きな「現象」がPTAだ。「特殊な場所での特殊事例」として済ませるわけにはいかない。これが当たり前の社会など、想像するだけで、息が詰まるし、恐ろしい。
 つまり、ぼくはPTAの潜在力に強い期待を抱きつつ、今のままだと「社会を悪くする」と懸念する。そして、期待と懸念は実は表裏一体で、良い方向に進めるのも、悪い部分を正すのも、同時に取り組まねば何も変わらないと感じている。

この文章が、PTAの抱える問題をすべて表している。

自分の子どもが通う学校のためなら、少々のめんどくさいことを引き受けたっていい。
地域の子どもが喜んでくれるなら、ただ働きをしてあげることもやぶさかではない。

ぼくはそう思っているし、たぶん世の中の保護者もだいたいそんなもんだろう。

ただ、問題は「どの程度の労務を提供しなければならないのか」であり、「それが本当に子どものためになるのか?」である。
月に1~2回手伝うぐらいならいいけど、1年に100日以上も学校に行きたくはない。
運動会のお手伝いならするけど、「悪書追放運動」には加担したくない。

これはつまり「参加が義務化されている」から起こる問題で、「自分が参加したい活動だけ参加する」という制度であれば問題にはならない。

というわけで、結局最初に書いた「任意団体なのに強制的に加入させれらる」という問題に還ってくるんだよねえ。


著者は「強制的に加入させられることがあってはならないけど、でもなるべくみんなに入ってほしい」と書いている。
ぼくも同じ立場だ。

さっき「PTAにはぜったいに入るもんか!」と書いたけど、ちょっと思い直した。

とりあえず、自分の子どもが小学校に入るときには、入会も検討してみようと思う。でも何も考えずに入ることはしない。
ちゃんと活動内容の説明を受けた上で、入るかどうかを検討しようと思う。

積極的に変革をするまではいかなくても、無条件に加入する人が減れば、PTAも無駄の少ない魅力的な組織に変わらざるを得ないんじゃないかな。


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2017年4月5日水曜日

「このとき作者の言いたかったことを答えなさい」が教えてくれること

学校の国語の授業で「このとき作者の言いたかったことを答えなさい」ってあったけど、そんなの作者本人じゃないんだからわかるわけないじゃない!

どうせ「締切早く終わらせなきゃ」とかでしょ!


……ってな批判をよく目にするよね。

言ってる本人は鋭い批判してるつもりなのかね。

たぶん何十年間も、何万人もの人が言ってると思うけど。

締切に追われる作者


それはそうと ぼくは「作者の気持ちを答えなさい」はいい設問だと思う。
「正解のない設問」に対して頭を使うのは、とても大事なことだ。

「作者の気持ちなんてわかるわけないじゃない!」と言って思考停止してしまう人間にならないためにも、こういう問いに対して頭を使う訓練を学校でやったらいい。



もちろん 作者の気持ちなんてわかるわけがない。
でもぼくらは想像することができる。
正解を出すことはできなくても、論理的に思考を組み立てて、他者を納得させるだけの解を導きだすことはできる。

「私は、作者は〇〇と言いたかったのではないかと思います。なぜならば、□行目に~という記述があるからであり、△行目の……という描写もそれを裏付けているように思います。またこの結論は直前で書いている××という記述とも矛盾しません」
という推論を述べ、それを明確に否定するだけの根拠を他者が文章中から見つけだすことができなければ、その解答は「とりあえず誤りとはいえない」ということになる。

ふつう、ぼくたちが生きる社会において信用されるのは、
この「とりあえず誤りとはいえない」解を導きだす作業ができる人であって、
他者の推論に対して「そんなの100%正しいとはかぎらないだろ! ぜったいに正しいっていう証拠を見せろよ!」とまくしたてる人ではない。



だから 「このとき作者の言いたかったことを答えなさい」は、論理的な思考力を養ううえでとても優れた設問だとぼくは思う。

さらにみんなにアンケートをとり、「クラスの60%はAだと思い、20%はBだと思った。Cだと思ったのは1人だけだった」と結果を出せば、もっと多くのことを学べる。

「自分の考えは多数派に属しているものなのか、独創的なものなのか」を知ることはとても大事なことだ。どっちがいいとか悪いとかではないけど、知るだけは知っておいたほうがいい。

「このとき作者の言いたかったことを答えなさい」のトレーニングは、相手をやりこめることを目的にしたディベートよりも、ずっとずっと学問やビジネスの役に立つと思うよ。

ディベート


それにさ。 妻から「なんであたしが怒ってるかわかる?」って聞かれたときに、「そんなの本人じゃないんだからわかるわけないじゃない!」って言って逃げるわけにはいかないんだよ、夫という弱い立場にあるものとして……。

正解はわからなくても、とりあえず今持っている手がかりを材料にして推論を組み立てて、いくつもの「これだけは言っちゃいけない」言葉を慎重に避けて、「とりあえず誤りとはいえない」答えを導きださなきゃいけないんだよ……。




【読書感想文】 つのがい 『#こんなブラック・ジャックはイヤだ』

つのがい 『#こんなブラック・ジャックはイヤだ』

内容紹介(Amazonより)
手塚先生ごめんなさい!禁断のB.Jギャグ
原作崩壊!?ゆとりのB.J、良い子なキリコ、パリピなロック達にピノコのツッコミが炸裂する!彗星の如く現れた新人イタコ漫画家、つのがいが天才的画力で描いた神をも恐れぬブラック・ジャックパロディ、ついに単行本化!しかも手塚プロダクション公認!!著者のSNSに公開された作品だけでなく、この本でしか読むことができない合計40ページを超える描き下ろし漫画(B.Jレシピや学園モノや手塚治虫タッチに目覚めるまでのエッセイコミックなどなど)も収録。そして巻末には、マジメに描いた美麗カラーイラストギャラリーのオマケもあります。

10年以上前に田中圭一の『神罰』を見たときは、「すげー! 手塚治虫の絵をここまでコピーできるなんて!」と驚いたけど(内容はヒドかったが。いい意味で)、それを上回るレベルの手塚治虫コピー漫画が出た。
いや、これぞ完コピ。
絵柄が似ているのはもちろん、コマ割り、手書き文字、テンポ、キャラの動きまでぜんぶ本物そっくり(特にピッチングフォームの酷似っぷりに驚愕した。そうそう、手塚キャラってリリースポイントが早いんだよね)。

さらに後書き漫画を読んで驚いたんだけど、絵を描きはじめて1年ぐらいでこの精度にまで達したんだとか。信じられない。

内容はというと、ブラック・ジャック、ピノコ、キリコ、その妹、間久部緑郎(ロック)らが織りなすドタバタギャグ。
正直、ギャグだけ見ると水準が高いわけじゃないけど、手塚治虫の絵そのものだから何をやってもパロディとして成立していておもしろい。意味わかんないネタも多いんだけどね。

Amazonサンプル画像より

ぼくは、母が手塚治虫ファンだったので物心ついたときから『ブラック・ジャック』『火の鳥』『三つ目がとおる』『鉄腕アトム』『ドン・ドラキュラ』『ブッダ』なんかが手の届くところにあった(今思うとよく小学生に『奇子』や『きりひと讃歌』なんかを読ませていたものだと思う)ので、手塚作品の間や呼吸というものは体に染みついている。
そんなぼくから見ても、この漫画は手塚治虫作品だ。「っぽい」のではなく「そのもの」なんじゃないかと錯覚してしまうぐらい。

手塚治虫のトリビュート作品もいくつか読んだことがあるけれど、結局、手塚作品を題材にしているだけで、主張はその漫画家のものだった(まあトリビュートってそういうもんだからね)。
だけど、つのがい作品はその逆で、「つのがい氏のギャグ漫画を借りて手塚作品が主張している」ように感じる。まるで「イタコの口を借りて霊が語っている」ような憑依っぷりだ。

この本に収録されているギャグでない作品『おるすばんピノコ』なんて、もうほんと「手塚治虫の未発表原稿が出てきた!」といって発表したらファンでもみんな騙されるんじゃないかってぐらいの作品。手塚先生の息遣いを感じるようで(いや本物の息遣いも知らんけど)、ちょっと泣きそうになった。
ギャグだけじゃなくて『ルードウィヒ・B』とか『グリンゴ』とかの未完作品の続きも描いてくれないかなあ。


ひょっとしてつのがい氏の正体は七色いんこで、手塚治虫の代役をしているのでは……?



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2017年4月3日月曜日

【作家について語るんだぜ】 近藤 唯之


よく読んだ作家について語ってみるという企画をやってみようと思う。

題して【作家について語るんだぜ】。

で、記念すべき第1回目にとりあげるのは 近藤唯之 



誰それ、知らねーという声が聞こえてきそう。

一応作家ではありますが、小説家ではないからね。スポーツライター。
なぜ作家について語る企画の第1回がスポーツライターなのか。それは「昔どんなの読んでたっけ」って思ったときにぱっと出てきた手頃な人だったから。
手頃というのは、よく読んでいたけど今は思い入れが強くないから書きやすそう、と思ったということ。大好きな作家について書くと、どうしても書きづらいからね。



さて近藤唯之についてですが。
スポーツライターというか、プロ野球ライター。
スポーツ記者として報知新聞から東京新聞、さらに夕刊フジへと渡り歩き、記者をやりながら野球の著作を次々に出した。

Wikipediaの近藤唯之の項には62冊の著作が並んでいるが、そのうちタイトルに『プロ野球』という文字が入っているのが34冊。タイトルだけですよ。
タイトルに入っていない著作も『王貞治物語』『白球は見た』『背番号の運命』『運命を変えた一球』『ダグアウトの指揮官たち』とか、とにかくプロ野球の本ばかり書いていた。
プロ野球選手以上にプロ野球で飯食っていたんじゃないか。

ぼくは小学校3年生ぐらいからプロ野球を観るようなり、甲子園球場や(今は名称なき)グリーンスタジアム神戸にもときどき足を運んでいた。
そのころ出会ったのが、近藤唯之の文庫本。
野球と読書が好きだった少年からするとすごくおもしろくて、1985~95年くらいに出版された文庫本は全部持っていたんじゃないかなあ。



なんかね、すごくおっさんくさいんだよね。
内容も古めの話が多くて、当時現役だった落合とか清原とかの話もあったけど、それより古い話が多かった。この人が記者をやっていたのは1950~70年くらいだから、その時代のプロ野球の話が中心。三原脩とか榎本喜八とか大杉勝男とか上田利治とか。ぼくにしたら、自分が生まれるよりずっと前の話なんだけど。

でもこの人の本がおっさんくさかったのは、古い時代の話を書いていたからだけじゃない。

とにかく文章が浪花節。
なにかあるとすぐに「男の人生」とか「男の涙」とか「悔しさをぐっとこらえた」とかのど根性フレーズが出てくる。
ただのスポーツのはずなのに、近藤唯之の手にかかるとこれは巌流島の戦いかというぐらいに一世一代の大勝負になってしまう(もちろん真剣にやってるわけだけど)。

これはもうスポーツノンフィクションではなく、活劇小説といっていいぐらい。
じっさい、資料にあたらずに記憶に頼って書いていた部分も多いらしく、まちがった情報も多い。でもそんなことは大した問題じゃない。小説なんだから!



この人は多筆で、1年に2冊くらいのハイペースで本を出していた(しかも新聞社の仕事もしながら)。
当然ネタの使いまわしも増えるわけで、宇野が星野に「またぶつけちゃいました――」と言った話とか大下弘の「月に向かって打て」なんか、何度読んだことか。
しかも記憶にもとづいて書いているわけだから、書くたびにエピソードの細部が微妙に変わっていってる。このへんは野村克也の本も同じことが起こっているらしく、スポーツについてたくさん本を書くと、どうしても「少しずつ内容を変えて伝わる」口承文学現象が起こるのは避けられないようだ。



プロ野球を題材にしているけど、サラリーマン小説といっていいかもしれない(スポーツの本なのに、PHP研究所から多く本を出していたし)。
特にこの人は(当時はそれほど多くなかった)転職を二度も経験したことから、トレードについてはいろいろと思い入れがあるらしく、「トレードの悲哀」みたいなことをよく書いていた。
今のようにFA宣言をして選手が自由に球団を選べる時代じゃなかったので(日本プロ野球でFA制度が導入されたのは1993年から)、昔のトレードは「新天地で活躍」というより「島流し」みたいな雰囲気が強かった。「望まれて行く」というより「必要なくなって追い出される」という感じ。
特に落合博満がロッテから中日に移籍したときなんか "1対4" という破格のトレードだったから、「4人のうちの1人」にされた選手の心中はつらかっただろうなあ。

そういう話を浪花節で語るもんだから、読者の気分はもう『プロジェクトX』(ぼくが読んでいた頃は『プロジェクトX』の放送開始前だけど)。
「男は、思った。古巣を見返してやる、と――」なんてナレーションが聞こえてきそう。

サラリーマンになった今読み返したら泣いちゃうかもしれないなあ。
全部処分してしまって手元にないんだけど、また買いなおしてみようかな……。