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2020年4月5日日曜日

中高生の居場所をつくるな


近所に「中高生向きの本を中心にした古本屋」がある。

これはおもしろい試みだとおもってぼくも応援の意味で何度か足を運んで本を買ったり(といってもライトノベルもヤングアダルト小説も読まないので一般書を)、Twitterをフォローしたりしていたのだが、そのうち見ていられなくなってフォローをやめてしまった。
店にもしばらく行っていない。

「見ていられない」とおもったのは、店主のおじさんがやたらと
「中高生の居場所をつくりたい!」
「本好きの若者の居場所になってほしい!」
といったメッセージを発信するからだ。
それを見るのがつらかったのだ。

いや、気持ちはわかる。
ぼくだって若い人に本を読んでもらいたい。
自分がそういう場をつくれたらすばらしいことだとおもう。

でも。
だったらそれを公言しちゃだめでしょ。
胸にしまっておかないと。

自分が中学生のとき。
「はい、ここが君たち中高生の居場所だよ! 学校や部活に居心地の悪さを感じている人はここに集まってね!」
と大人から言われて、そこに行きたいとおもった?

ぜったいイヤだ。
そういうのにいちばん嫌悪感を抱いた。
そこで「おれたちのための居場所なの? じゃあ行ってみよう!」ってなるタイプの中高生は読書に逃げ場所を求めないでしょ。


ぼくが中高生のとき、居心地のいい場所はいくつかあった。
友人Kの家とか、高校前の駄菓子屋とか、コロッケを安く買える肉屋とか、本屋兼レンタルCDショップとか、川原とか。
居心地が良かったのは、そうした場所がぼくたちのために何もしてくれなかったからだ。拒みはしないけど、招きもしない。行ってもいいし、行かなくてもいい。
そういう場所が好きだった。

だから、中高生の居場所にしたいなら、中高生の居場所にしちゃだめなんだよ。

って古本屋の店主に伝えたいんだけど。でも言えない。
言えるタイプだったらたぶん古本屋を好きになってない。


2020年3月30日月曜日

評価基準が外部にある人


評価基準が外部にある人はたいへんだろうな。

極力そういう界隈とか関わらないようにしているのだが、幼なじみにひとりだけいる。
しょっちゅうパーティーとかやって、Facebookに「今日は〇〇さんと会いました! 明日は△△でお食事です! 来月はロンドンに行きます!」みたいな報告をしているやつが。

なんだか見ているだけでこっちが疲れる。
「自分をよく見せる」ことに全身全霊を傾けていて、しかもそれがわかっちゃうものだから痛々しい。
本人はハッピーそうに見せているのだから他人がとやかく言うことではない。
彼の投稿を見るたびにうげえとつぶやいてそっとブラウザを閉じる。見なきゃいいじゃないかと言われるとそのとおりなのだが、でもときどき怖いもの見たさで見にいっちゃうんだよね。そしてそのたびにげんなりする。

ことわっておくが、そいつはいいやつなのだ。
そいつのことはぜんぜん嫌いじゃない。
まあいいやつに決まってる。周囲からよく見られたいという行動原理で動いてるのだから、当然明るく社交的で親切なのだ。嫌いになる要素がない。

だからこそ、しんどい。
いいやつが、勝ち目のないレースに参加しているのを見るのがつらい。

そう。勝ち目がないのだ。
「他人からよく思われるレース」に勝者はいない。全員が敗者だ。

だって、自己評価を他人の評価が上回ることなんてないんだもの。ぜったいに。
自分に対する自己評価が10としたら、他者が自分に下す評価なんてせいぜい2とか3とかだ。
5あったらいいほう。もしかしたら0とか-5とかかもしれない。

思春期のときなんかはそのギャップに悩む。ぼくも悩んだ。
でもだんだんわかってくる。この差はぜったいに埋まらないものなんだと。自分以上に自分を評価してくれる人なんておかあさんだけなんだと。

もちろんちょっとでも埋めようと努力するのはすばらしいことだけど、残念ながら努力しても差は縮まらない。それどころか開く一方。だって自分の努力をいちばんわかってくれるのは自分なんだもの。

だから他人の目なんか気にしなくたっていい。まったく気にしないのも問題だけど、それより自分がどう感じるかが百倍大事だ。
……とまあ、多くの人は二十代三十代ぐらいでこういうことをちょっとずつ悟るんじゃないかな。


しかしFacebookには「他人からよく思われるレース」出走者がたくさんいる(Instagramにもいるんだろうけどぼくはやってないので知らない)。

おれってこんないい暮らししてるぜ、オレっちはこんなに有名な人と付き合いあるんだぜ、ボクチンはこんな楽しい日々を送ってるんだぜ。

見るたびに心が痛む。
もうやめようぜ。そんな不毛な戦いは。
その先に幸せはないんだから。

やめてくれ。そんな必死に自己顕示をしなくたっていいじゃないか。
大丈夫だ、ぼくはわかっている。
そんなアピールをしなくたって、おまえが十分すごいやつだってことを。
ぼくは評価しているから大丈夫だ。おまえ自身の評価の二割ぐらいは評価してあげてるから。


2020年3月29日日曜日

六歳児とのあそび

六歳の娘と最近よくやる遊び。

◆ おぼえてしりとり

しりとりをしながら、これまでに言ったものをおぼえるという遊び。
「りんご」
「りんご、ごりら」
「りんご、ごりら、らっぱ」
「りんご、ごりら、らっぱ、ぱんつ」
「りんご、ごりら、らっぱ、ぱんつ、つみき」
……とだんだん長くなっていくしりとり。記憶力が試される。

高校時代、友人たちとの間でこの遊びが流行ったのだが、当時のぼくは無類の強さを誇っていた。ほとんど無敗。短期記憶が強いのだ。三十ぐらいまでならほとんど苦労せずに覚えられる。

さらに「かもしか」「いか → かい」のように同じ文字のワードを近接させると飛ばしてしまいがちになるとか、「なかよし」「げんき」のような抽象的なワードを言うことでイメージしにくくさせるとか、容赦ないテクニックを使って六歳児相手に連勝している。

ちなみにこれ、三人以上でやると格段にむずかしくなる。
自分の言ったワードより他人が言ったワードのほうが思いだしにくいからだ。

これの別バージョンとして「おぼえて古今東西」もやる。
赤いもの、というお題で
「りんご」
「りんご、ポスト」
「りんご、ポスト、トマト」

「りんご、ポスト、トマト、赤信号」

……とやっていくのだ。こっちは単語同士の間につながりがないためさらにむずかしい。

◆ キャラクターあてクイズ

「はい」か「いいえ」で答えられる質問をくりかえして、相手が思いうかべたキャラクターをあげるゲーム。
アキネイター の人力版だ。

選ぶのはぼくと娘の両方が知っている人でないといけないので、アニメのキャラクターや、親戚、保育園の友人など。

娘は慣れないころは序盤に「青いですか?」と質問したりしていたが(ドラえもんしかおらんやないか)、「人間ですか?」「女ですか?」「大人ですか?」のようにおおざっぱな質問をして徐々に狭めていくのがコツだよ、と教えると徐々に上達してたいてい十以下の質問であてられるようになってきた。

キャラクターだけでなく「場所」「動物」「食べ物」などでもやる。
ただし娘の知識が乏しいため、「卵を産みますか?」「いいえ」だったのにカメだったとか、「緑ですか?」「いいえ」なのにトウモロコシだったりとか(緑の皮に覆われていることを知らなかった)、意図せぬ嘘が混じって難問になることがある。

◆ めいろ、あみだくじ

娘は昔から迷路が好きだったのだが、最近は自分でそこそこ骨のある迷路をつくれるようになってきた。
以前は娘が作る迷路は分かれ道がなかったり、すべてが行き止まりだったりしたのに……。成長したなあ……うう……。

なので娘が作った迷路をぼくが解くことになる。らくちんで助かる。
昔は「めいろつくってー」と言われて十分ぐらいかけて大作をつくっても一分で解かれて「べつのつくってー!」と言われていたなあ……。あれはつらかった……うう……。

めいろもあみだくじも、ぼくも子どものころ好きだった。あとサイコロと。
単純な遊びなんだけど、おかげで高校数学の順列組み合わせとか確率とかを難なく理解できたので、何が役に立つのかわからない。

◆ めいたんていゲーム

1から7までの数字の中から、重複しない三つを紙に書いて相手に見せないようにする(2,4,7など)。
相手は、数字を予想して「1,2,5」と言い、それに対し出題側は「1つあたり」と答える(順番はどうでもいい)。
これをくりかえし、三つとも的中させるまでの質問数が少ないほうが勝ち。当然論理的思考力が必要になるが運の要素もあるので、三回に一回ぐらいは娘が勝つ。

ヒットアンドブローというゲームの簡易版。



娘には賢い人になってほしいとはおもうが、いかにも教育的なことはしたくない。

娘の友人たちは塾や英会話教室に通ったりしているが、ぼくはまだいいんじゃないかとおもっている。
足し算引き算を一、二年早くおぼえたところで十年たったらいっしょだし、それよりは学ぶことのおもしろさを今のうちに知ってほしい。

考える、知る、調べるっておもしろいんだよ、ということを伝えたい。

【関連記事】

四歳児とのあそび



2020年3月27日金曜日

ユニバーシティのキャパシティ


最近、大学の講義はチャットで質疑応答をしたりするところがあるらしい。

講義に対して質問や意見があれば、受講者はスマホを使いチャットで質問をする。
講師はそれを見ながら、回答・解説を講義に織りまぜてゆくのだという。

なるほど。
いい仕組みだとおもう。
手を挙げて質問をするよりぐっとハードルが下がる。文章でまとめて質問するほうが論理的な内容になるだろう。
講師にとっても、受講者の理解度がつかみやすいし、質問が文字として記録に残るので次回以降の講義にも活かしやすい。

しかし。
それだったら、もう一箇所に集まって講義をする必要もないのではないだろうか。
講義をネットで生配信して、受講者は自宅で視聴すればいい。どうせ質問はチャットなのだ。
どうせ大学の授業の出席なんてさして重要でないのだ。
そうすると講師は東京にいて、受講者は全国各地にいるなんてことも可能になる。
もしかすると大きな大学だともうやっているかもしれない。

待てよ。
この考えを突きつめていくと、そもそも大学の定員自体が必要なくなるんじゃないか?
入学試験という選抜制度をあたりまえのように認識しているけど、本来は物理的な制約から生まれた制度なんじゃないだろうか。
理想をいえば意欲と能力のある人なら誰でも勉強できるようにしたほうがいい。だけど教室に収容できる人数は物理的な制約がある。だから入学試験をおこなって選抜する。
ネットであれば制約はないに等しい。何万人が視聴しようが、せいぜいサーバーを増強するだけで済む。
だったら「ネット環境さえあれば誰でも受講できるよ! 日本中、いや世界中どこにいたってオーケー。年齢も職業も問いません。八十歳でもいいし、理解できるなら十歳でもいい。勉強したい人は誰でもウエルカム!」とできるし、少なくとも国立大学はそうするのが本来の在り方じゃないだろうか。

まあさすがに試験やレポートは採点の労力があるので人数無制限ってわけにはいかないが、講義に関しては一般無料公開でいいんじゃないだろうか。

もう希望者全員東大生でいいんじゃない?


2020年3月25日水曜日

自動運転車の形状


いろんな会社が自動運転技術を搭載した自動車を開発しようとしている。
試運転の映像を目にすることがあるが、今の自動車と見た目はほぼいっしょだ。

ふとおもう。
自動運転車は、あの形じゃなくていいんじゃないだろうか?

今の自動車の形状はたぶんベストに近いとおもう。
いろんな人が長い間数々の試行錯誤をくりかえして、今の形にたどりついたのだろう。

だからといって、自動運転車が同じ形である必要はない。
むしろ別の形のほうがいいとおもう。

だってまず運転席がいらないわけでしょ。
まあ最初は「必要に応じて人間が運転する」みたいなやりかたをとらざるをえないだろうけど、完全に機械にまかせっきりになったら運転手はいらない。
ということは運転席もいらない。助手席もいらない。今だって助手席の乗員がほんとに助手として働いているのって教習車ぐらいだ。
もっといえばフロントガラスだっていらない。前が見えなくたってかまわない。電車に乗るのと同じ感覚なんだから。電車で前方を見てる乗客って鉄道ファンと子どもだけだもん。
もちろんバックミラーもいらないしウインカーもいらない。
ヘッドライトは……いるか。歩行者のために。

今の自動車は「運転しやすい」「事故に遭ったときに乗員を守る」といった点を重視して設計されているけど、運転が必要なくなり、事故に遭う可能性もほとんどなくなったらエネルギーコストと乗り心地だけ考えればいいことになる。

ほぼ半球形に落ち着くんじゃないだろうか。完全自動運転が実現した社会の自動車は。
空気抵抗も少ないし、ぶつかったときの衝撃も小さくなるし。
テントウムシみたいな形の自動車がいっぱい走ることになる。

半球の周辺部ににエンジン類を積みこむ。すると中はほぼ直方体の部屋になる。
これがいちばん快適に過ごせる。

リクライニング椅子を置き、前には机。
未来の自動車はあんまり揺れないから、車内でひまつぶしができるように机にはパソコン。脇にはひまつぶし用の漫画。

これはあれだ。
漫画喫茶だ。
未来の自動車は走る漫画喫茶だ!


2020年3月24日火曜日

文才がある


学生のとき、よく自作の文章を書いて友人たちに見せていた。
何人もの人から「おまえは文才があるな」と言われた。ぼくは真に受けて、そうか自分には文才があるのかと信じきっていた。

そこからいろいろあって、今では自分に非凡な文才などないことを知っている。
読み手の心を揺さぶる文章だとか、巧みな描写だとか、玄人が舌を巻く表現とか、そういったものはまるで書けない。
ビジネス文書を書くのは得意だが、それは文才と呼べるようなものではない。
ぼくの場合、「書くことがあまり苦にならない」であって「書くのがうまい」わけではないのだ。

そう。
最近になってようやくわかった。
世の中には、まとまった分量の文章を書くことすらできない人がたくさんいるのだ。うまいへた以前に、書けない人が。
Twitterが世に出たとき「ブログとかmixiとかFacebookでいいのに、なんで140字しか書けないものをみんなわざわざ使うんだろう」とふしぎだった。
今ならわかる。「140字を超える文章を書くのがすごく苦痛な人」は存外多いのだ。

そういう人にとっては、長い文章を破綻なく書けるというだけで「文才のある人」だ。


ぼくは、いってみれば「42.195kmを走りきれる人」だ。
これだけでも、マラソンをやっていない人からしたらすごいことだ。
でも42.195kmを走れることはトップ選手になるための必要条件であって、十分条件ではない。
「42.195kmを走りきれる人」と「一流マラソンランナー」には遠い隔たりがある。
同じように、「長い文章を難なく書ける人」と「文才のある人」はまったく違う。
そんなかんたんなことに、最近になってようやく気づいた。

ということで、文章を書けない人の「文才がある」を真に受けちゃだめだぜそこの若ぇの。

2020年3月23日月曜日

倍倍菌

中学校の数学の授業で「文字につく1は省略して表記する」と教わった。

「2x」とは書くが「1x」とは書かない、「x」と書けばそれは「1x」のことなのだ、と。

数式にかぎった話ではない。

「おれは億を稼ぐ」といえば1億円のこと。2億円ではない。
「箱」とか「ダース」とか「カートン」とかも、特に数字をつけない場合は「1箱」「1ダース」「1カートン」だ。

単位につく係数(3xの3の部分が"係数")が省略されている場合は、係数は1である。
どんな単位でも。


ところがひとつ例外がある。

「倍」だ。
ただ「倍」という場合、それは「2倍」のことだ。「1倍」ではない。

「1倍」の場合はわざわざ「等倍」なんて言葉を使う必要がある。

「倍」だけが1ではなく2を省略する。
ちょっと考えてみたけど、ほかにこんな言葉はおもいつかない。

「倍々ゲーム」といえば、それは[1 , 1 , 1 , 1 , 1 ,……]ではなく[1 , 2 , 4 , 8 , 16 ,……]のことだ。



ところでふとおもったのだが「倍々ゲーム」ってなんなんだ。
「ねずみ算式」とか「等比級数的に増加」ならわかる。
でも何かが倍倍ペースで増えてゆくゲームなんか見たことも聞いたこともないぞ。

ひとつおもいつくのは、むかし北杜夫氏が書いていた『ルーレット必勝法』だ。
カジノのルーレットで、赤に1ドルを賭ける。はずれたら今度は赤に2ドル賭ける。それでもはずれたら次は4ドル賭ける。次は8ドル、その次は16ドル……。
とやっていけば、いつかは当たる。そうするとこれまでの収支で1ドルだけプラスになる。
という理屈だ。

一見もっともらしいが、これは「資金が無尽蔵にある」ことが前提の話だ。
はじめは1ドル2ドルであっても、13回目の賭け金は1,000ドルを超え、15回目には10,000ドルを超え、18回目には100,000ドル、21回目には1,000,000ドルを超える。
20回もはずれつづけることはめったにないが(赤になるのが1/2の確率だとしても100万回に1回ぐらい。実際は赤でも黒でもないこともあるのでもっと多い)、長くやっていればいつかは訪れる。資金が尽きればそこでジ・エンド。
「必ず1ドル稼げる必勝法」は「途中で降りるに降りれず莫大な損失を生みだす賭け方」になる。
(北杜夫氏の名誉のために書いておくともちろん氏はこれが必勝法でないことはわかって書いている)

「倍々ゲーム」とはルーレットのことだろうか。
しかし倍々に賭けていくのは戦略のひとつであって、ほとんどの人は倍々ゲームをしない。

なんで「倍々ゲーム」なんだろう。「倍々方式」でいいんじゃないか。
ゲーム理論の「ゲーム」だろうか。
それにしても倍々になっていくゲーム理論なんて聞いたことないけどなあ。

2020年3月8日日曜日

ラグビー発祥の地

 昨日公園で保育園児たちとドッチボールしてたら、ふたりの子がボールの取り合いをして、そしたら規模が大きくなって数人でのボールの取り合いになって、もうそっちのほうがおもしろいからボール奪って逃げるっていう遊びをやってたら近くにいた小学生たち(二年~五年生)もなんだなんだおもしろそうなことやってるなって感じで入ってきて、そしたら当然小学生ばっかりにボールが渡って保育園児が手出しできない状態になったからぼくも「よっしゃ! 保育園児 対 小学生や! おっちゃんは保育園児の味方や!」って宣言して参戦して(気分は第二次世界大戦に参戦したアメリカ)、小学生からボールを奪って保育園児にパス出して、保育園児が奪われたら小学生がパス回しするのを必死に追いかけてスチールしてまた保育園児に手渡して、っていう遊びを三十分以上やっていた。

 久々に全力疾走したね。
 走って、ジャンプして、ボール奪いにくる小学生をブロックして、フェイントかけて、保育園児に指示出して、また走って……ってやってたから汗びっしょり。山王戦の湘北の選手たちぐらいの運動量だったからね。

「ボールを奪って敵に奪われないように味方にパスをする」というだけのシンプルなルールだったけど、けっこういい勝負になった。
 保育園児チームがボールを持っている時間と、小学生チームがボールを持っている時間、それほど変わらなかったんじゃないだろうか。
 ふつうに考えれば小学生チームが圧勝しそうなものだけど、大人のぼくが保育園児チームに入ったことでバランスが良くなった。高さもスピードもまだ小学生には勝てる。体力はかなわないが、ぼくもかつては長距離走をやっていた人間なので同世代のおっさんの中では体力はあるほうだ。
 それに小学生は「保育園児に怪我をさせないようにしないといけない」という制約があるが、保育園児チームには一切遠慮がない。全力で小学生にぶつかってゆく。さすがの小学生も、六歳児が全力でぶつかってきたらけっこうひるむ。
 慣れない人がトカゲを捕まえようとするようなものだ。人間とトカゲのパワーは比べものにならないが、トカゲは文字通り死にものぐるいの全力で逃げるのに対し、人間側は「怪我をしないように」「強くつかみすぎてトカゲが死んじゃったらイヤだ」といった気持ちが邪魔をして全力を出せない。結果、トカゲに逃げられる。
 同様に小学生はボールを抱えて走る保育園児に追いつくことはできても、そこから手が出せない。うかつに手を出すと怪我をさせてしまうからだ。敵陣営のパスミスを待つしかない。結果的にちょうどいいハンデが生まれる。

 で、やりながらおもったことは「これはゴールのないラグビーだな」。
 ボールを抱えて走る。敵に取られる前に味方にパスを出す。このへんはラグビーといっしょ。
 ただしゴールラインはない。だからトライもない。キックでのゴールもない。相手にボールを取られるまでは走りつづける。取られたら取りかえすために走りつづける。終わりもなければ休めるタイミングもない。ひい。

 そんでおもったのは、やっぱりラグビーのルールってよくできてんなってこと。
「ゴールがあったほうがいい」ってのもそうだし、それ以外の部分でも。

 ボールを投げてパスをするのだが、小学生の子が保育園児のパスをスチールすることはあっても、その逆はない。
 うまい人同士がパス回しをしていたら、よほど人数が勝っていないかぎり技術的に劣るチームがボールを奪うことは難しい。小学生チームからボールを奪うのはもっぱらぼくの役目だった。
 ここでラグビーのルールである「前方に投げてはいけない」を導入すれば、技術的に劣るチームにもボールを手にするチャンスがぐっと増えるだろう。後方に投げたり前方にキックしたりすれば、自然とパスミスも増える。

 あとボールを抱えている人間が倒れこんだら、収集がつかなくなる。みんながボールを奪おうと群がってくるのでボールは動かなくなる。危険でもある。
 ラグビーのルールである「倒れたらボールを手離さなくてはいけない」を導入すれば、危険も解消される。

 ラグビー誕生のエピソードとして
「イングランドのラグビー校の生徒が、フットボールの試合中にボールを抱えて走りだした」
というのはあまりにも有名な話だ。
 ぼくらが昨日やったのとほぼ同じような状況だった。
 そこからもみくちゃになってボールを奪いあう競技になり、「前方にパスしちゃいかんってことにしないと相手チームにボールが渡らないよね」「倒れたのにボールを抱えてたら危ないし見てるほうもつまらないよね」みたいなことに気づいて徐々にルールが整備されていったのだろう。

 ラグビーの歴史が垣間見えた気がした。


2020年3月3日火曜日

えらいやつほどえらそう


池谷 裕二『自分では気づかない、ココロの盲点』に、こんな話が載っていた。

横断歩道で手を上げている歩行者が渡り終わるのを待たずに通過してしまう割合は、普通車よりも高級車のほうが高かった。交差点で割り込む率も普通車より高級車のほうが高い。
一般的に社会的地位の高い人ほどモラルに欠ける行動をとる傾向がある。

ほう。
たしかに言われてみればそんな気もする。社会的地位が高くなり、高い車を持つと偉くなった気になり、横柄にふるまってもよいとおもうのだろう。

年寄りのほうが若者よりマナーが悪いという話をよく聞く。ぼくの体感的にもそうおもうし、なによりぼく自身が昔よりがさつになった気がする。特にこどもを連れているときなんかは「こっちは子ども連れてんだぞ。スーツ着てんだぞ。まっとうな家庭人組織人として社会的信用度が高いんだぞ」という気持ちがまったくないといえば嘘になる。

おおっぴらには言わないけれど、ぼくは自分が人より賢いとおもっているし人より思慮深くて道徳的だとおもっている。
そんな自分の判断がまちがっているわけではないはずだという気持ちがないだろうか。うん、あるな。

こないだベビーカーを押して駅のエレベーターに乗ろうとしたら、あと二人分ぐらいしかスペースがなかった。前にいたおばちゃん(元気そう、大きい荷物も持ってない)がエレベーターに乗りこもうとしたので「おいこらおまえはエスカレーター使えや。ベビーカー優先やろがい」という気持ちが芽生えて、操縦を誤ったふりしてベビーカーでおばちゃんの足を軽く轢いてしまった。「あっ、すみません」と言ったものの内心は「ざまあみさらせ」という気持ちだった。
よくない。ぼくが悪い。おばちゃんも悪いがぼくも悪い。いや、そういう気持ちがよくない。おばちゃんは悪くない。ぼくだけが悪い。


「車のハンドルを握ると性格が変わる」とよくいうが、ぼくの場合、ベビーカーを持つと性格が荒っぽくなってしまう。おらおら、こっちは子連れ様だぞと気持ちが荒ぶる。
ぼくの中では「高級車に乗っている」というのはまったくステータスにならないが(だって車嫌いだもん)、「子どもを連れている」は高いステータスの象徴なのだ。

こないだベビーカーを押して百貨店に行き、エレベーターを待っていた。隣では車椅子に乗った高齢男性も待っている。
やがて「車椅子・ベビーカー優先エレベーター」が到着した。中は若い女性で満員。ベビーカーも車椅子も乗れる余地がない。だが乗っている女性たちは誰ひとり降りる気配がない。
ぼくは言った。「車椅子の人いるんで降りてもらえますか」と。
言われてようやく彼女たちはぞろぞろと降りた。ベビーカーを押したぼくは「ったく。言われる前に降りろよ。車椅子・ベビーカー優先エレベーターなんだから」とおもっていた。

だが少ししてから反省した。言い方がよくなかった。
「降りてください」と言ったこと自体は正しかったとおもっている。「車椅子・ベビーカー優先エレベーター」だったのだから。

だが「車椅子の人いるんで降りてもらえますか」と他人をダシにしたのはよくなかった。ちゃんと「ベビーカー優先エレベーターなので」と言うべきだった。

実るほど頭が下がる稲穂かな。偉そうにならないように気をつけないとね。
ぼくは世界一地位の高い人間だからね(自分の中では)。

2020年3月2日月曜日

マジックバー体験

六歳の娘に「手品やって」とせがまれる。

といってもぼくはマジシャンではないので、手品などほとんどできない。
指を隠して「指がなくなっちゃった!」とか、右手に握っていたビー玉を左手に持ちかえたふりをして「ビー玉が消えた!」とか、たあいのないものしかできない。

娘が三歳ぐらいのときはそれでも驚いてくれていた。まさに子どもだまし。
だが元々手品のレパートリーもないし、娘も知恵をつけてきたので「下に落としただけやろ」などとすぐに見破られるようになった。
手品の本を読んでみたのだが、そこそこむずかしいのはテクニックがいるのでぼくにはできない。

ということでマジックバーなる場に娘を連れていった。
お酒を飲みながらマジックを見るバーだが、土日は昼の公演もやっているという。


二十分くらい前についたが既に行列ができていた。

客は全部で十組ぐらい。半分ぐらいは子ども連れ。残り半分はおばちゃんグループ。いかにも昼公演らしい客層だ。

開場と同時に他の客は急いで席に詰めかける。ぼくは娘をトイレに連れていったり飲み物を買ったりしてから席に着いた。
後から気づいたのだが、マジックを観る上でポジション取りはすごく大事なのだ。最前列だとマジシャンの手元や足元がよく見えるし、マジシャンから話しかけてもらいやすい。
なるほど。してみると急いで最前列を陣取ったおばちゃんたちは常連客なのだろう。よくわかっている。

開園前だが、若いマジシャンが前に出てきてテーブルマジックを披露してくれる。トランプの数字を当てたり、コインが消えたりするマジックだ。残念ながら三列目の我々にはよく見えない。もっと前に座ればよかったと後悔する。

若いマジシャンはマジックを披露しながら前説もおこなう。
写真は撮ってもいいよ、でもフラッシュはやめてね、SNSにアップするときはハッシュタグをつけてね、と随所に笑いをとりながら説明してゆく。
ちなみにこのマジシャン、めちゃくちゃイケメンだった。男のぼくから見てもほれぼれするぐらい。堂本剛をもっと若くかっこよくした感じの顔立ち。堂本剛がすでにかっこいいのにそれをかっこよくするんですぜ!
かっこよくて、しゃべりも達者で、マジックもできる。ひゃあ。こりゃあ合コンでは敵なしだろう。

やがて幕が開き、マジックショーが始まる。
鳩が現れるとかテーブルが宙に浮くとかサインをしたトランプが別の場所から出てくるとか、定番のマジックが続く。だがそれがいい。
なにしろ娘はもちろん、ぼくも生でプロマジシャンのマジックを観るのははじめてなのだ。変に凝ったものよりシンプルなやつがいい。

幕間に暗転するのだが、隣に座っていた娘がぼくの手をぎゅっと握ってきた。怖いらしい。
大きな音が鳴るのも嫌みたいだ。暗転するたびに手に力が入る。
マジシャンたちはことあるたびに「誰か手伝ってくれませんか」と参加者を募る。子どもたちははいはいと手を挙げるのだが、うちの娘は手を挙げようとしない。「やってみたら?」と尋ねてもかたくなに首を横に振る。
一度マジシャンから「手伝ってくれない?」と指名されたのだが、「こわい」と言って下を向いてしまった。
もったいない。参加したほうがぜったいに楽しいのに。

代わりといってはなんだが、ぼくは協力した。
「誰かお札を貸してくれませんか」と言われたので一万円札を貸したのだ。
まず大丈夫だろうが、もしもこのまま返してもらえなかったら……と考えるとすごくドキドキした。ただマジックを観るよりも一万円札を貸したほうが四倍ハラハラできるのでおすすめだ。
驚くことに、お札は消えなかった。ぜったいにお札が消えるマジックだとおもったのに。
お札の中から金魚が出てくる、というマジックだった。お札は返してもらえたがちょっと濡れていた。

だったらお札じゃなくてただの紙でいいじゃないかとおもったのだが、「紙自体に仕掛けがあるわけではないですよ」とアピールするためにはやはりお札を客から借りるのがいいのだろう。
誰でも持っていて偽造が容易でないのだから、なるほど、お札はマジック向きだ。

手品をやるだけでなく、間にマジシャンのトークやジャグリングも挟まる。
落語寄席だと落語の間にマジックなどの色物が挟まるのだけど、マジックバーでは逆なのだ。

その後もパントマイム風のマジック、さっきの超イケメンが炎を口に入れる大道芸のようなマジック、そしてラストに大仕掛けの人間入れ替わりイリュージョンがあり、めでたく閉幕。
出口でまんまとマジックセットを買わされてマジックバーを後にした。



娘は暗転や炎を怖がっていたものの、「鳩が出てくるのと人間が入れ替わるのはおもしろかった!」と人生はじめてのマジック鑑賞を堪能していた。

帰り道には「お父さん、あの最後のおりの中の人と外の人が入れ替わるやつやって!」とリクエストされた。
無理! できたら刑務所に入れられたときに助かるけど!


2020年2月28日金曜日

ガリバーは巨人じゃない

電通(企業)のことを形容する言葉として、「広告界のガリバー」というのがあるらしい。

ふうん。まあ巨大代理店だもんなあ。

……ん?
まてよ。
大きいことを表すのに「ガリバー」っておかしくないか?

よく考えたら、ガリバーはでかくないぞ。
小人の国リリパットに行ったから巨人扱いされただけで、ごくふつうの人間だぞ。
しかもその後は巨人の国に行って小人扱いされてるし。

比喩がまちがっている。
まあ「じっさいは大したことないものを大きく見せる」のは広告の常套手段だから、広告代理店である電通を「じっさいは大きくないのに大きそう」なイメージのあるガリバーに例えるのは、あながちまちがいでもないかもしれない。



比喩がまちがっている例はほかにもある。

いちばん有名なのはフランケンシュタインだろう。
モンスターを生みだした博士がフランケンシュタインなのに、怪物の代名詞として使われている。

あと高校生の集まる大会を「俳句甲子園」「漫才甲子園」などというのも気に入らない。
甲子園は野球の全国大会がおこなわれる球場の周り一帯をあらわす地名だ。大会の名前じゃない。
「俳句界の全国高校野球選手権大会」というべきではないだろうか。俳句なのか野球なのかわからんな。
そもそも高校生による大会を別の高校生の大会で例えるって、変じゃないか? エルサレムのことを「キリスト教のメッカ」と呼ぶようなものだ。



以前、津波の映像を流しながらアナウンサーが「まるで怒涛のように津波が押し寄せています!」としゃべっていた。
怒涛のようじゃなくてそれが怒涛そのものなんだよ!

「怒涛」なんてほとんど比喩でしか使わないから本来の意味が失われつつあるのだ。

走馬灯とか金字塔なんて比喩でしか見ないもんな。
金字塔はピラミッドのことだけど、九割の人は知らずに使っている。



比喩でよく使われる人名がある。
必ずしもその人物自体の知名度と一致していないのがおもしろい。

ドン・キホーテやユダなんて、たいていの人はよく知らない。
なのに名前と「無謀」「裏切者」という強烈なイメージだけは知っている。

ちなみに世界三大有名な裏切者は、ユダ、ブルータス、明智光秀だ。
彼らには彼らの正義があったはずなのに、何百年何千年も裏切者の汚名を着せられるなんてかわいそうに。


日本人でいちばん比喩に使われる人物は、弁慶じゃないかとおもう。
物語ではたいてい牛若丸(源義経)が主人公だが、比喩の世界では弁慶が義経を抑えての堂々の一位だ。

同じく、主人公よりも多く比喩で使われる人物として、ワトソンがいる。
物語の世界では「ワトソン役」という言葉はあるが「ホームズ役」とは言わない。

主人公は案外個性がないのかもしれない。脇役のほうが独特のイメージがついていることが多い。
「孫悟空みたい」より「ヤムチャみたい」のほうがイメージが明確だし、
「桜木花道かよ!」より「ディフェンスに定評のある池上かよ!」のほうが強烈な印象を与える。



日本人にかぎらなければ、比喩の世界でいちばんよく使われる人物はジャンヌ・ダルクじゃないだろうか。

ちょっと女性が活躍するとすぐに「〇〇のジャンヌ・ダルク」と言われる。
Wikipediaにジャンヌ・ダルクの異名を持つ人物の一覧なる項目があるぐらいだ。

ちなみに、十年ぐらい前までは高校野球界にすごいバッターが現れるとすぐに「清原二世」と呼ばれていた(「〇〇のダルビッシュ」も大量にいた)。
さすがに清原氏が逮捕された今ではもう言わないだろうな。
次に呼ばれるのは甲子園で活躍した後覚醒剤で逮捕された選手が現れたときぐらいだろうな……。


2020年2月27日木曜日

修羅場発表会

小学校お受験をさせた友人から聞いた話。

人気の附属小学校ということで、倍率は五倍を超えていたそうだ。
当然合格発表の会場には落ちた側の人のほうが圧倒的に多いわけで、その会場が修羅場だったそうだ。

「もうそこかしこで泣いてるわけよ。親も子も」

 「まあそういう人もいるだろうね。
  しかし六歳の子どもも泣くんだねえ。状況を理解してるんだろうか」

「理解してないからこそじゃない?
『これで合格しなかったら人生終わり』ぐらいに脅されてきたのかもしれない」

 「あーそりゃ泣くわ」

「怒ってる人もけっこういたなあ」

 「怒る? なにに?」

「子どもに向かって『ちゃんとやらなかったからでしょ!』って怒ってる親とか」

 「ひええ。落ちてから子どもに怒ってもしょうがないだろうに」

「あと捨て台詞を吐く母親とか」

 「どんな?」

「『こんな学校つぶれてしまえ』みたいな」

 「うわー……。こわっ」

「うちは合格してたんだけどね。
 でも喜べるような雰囲気じゃなかったから沈痛な顔して外に出てから喜んだ」

 「小学校受験って、親の様子も見られるんでしょ?」

「うん。親子でいっしょに取り組む課題とかあって」

 「じゃあ、落ちてから子どもに怒る親とか、捨て台詞を吐く親とかは、ちゃんと試験官がそういうところを見抜いて落としたのかもしれないね」

「あー。そうかも。だとしたら試験官、すごいなあ。
 ちゃんと本質を見抜いている」

 「ね。だから怒ってる母親に言ってやればよかったのに」

「なんて?」

 「『おかあさん、そういうとこですよ』って」

「殺されるわ!」


2020年2月26日水曜日

すさみソビエト

和歌山県にすさみ町という町がある。

ひらがなですさみ。すごい名前だ。
周参見(すさみ)町が1955年に他の村と合併して、ひらがなの「すさみ町」が誕生したらしい。

なんでわざわざひらがなにしたのだ。
どうしたって「荒(すさ)む」を連想してしまうのに。
周参見町でよかったのに……とおもったけど、Wikipediaを見たら周参見町の由来も「海を波風が激しく吹きすさんでいたことより。」とある。
なんと。もともと「荒む」だったのだ。

古くからの地名だと、ネガティブな名前がついていたりする。「墓」がつく地名があったり。ぼくの家の近くの交差点も、かつては「斎場前」という名前だったらしい。

しかし市町村の名前が「すさみ」って……。もしかしたら日本で唯一のネガティブ市町村名かもしれない。
鳥取県や茨城県あたりがよく自虐的なキャッチコピーでPRしているけど、さすがにネガティブな町名まではつけないだろう。
よくこの名前が六十年以上も生き残ってきたものだ。改名しようと言いだす人はいなかったのだろうか。

もしかしたらほんとに町民の心がすさんでしまって
「もういいんじゃねえか。どうせ若いやつはみんな出ていくんだし。おれたちにぴったりの名前だよ」
なんて会話が町議会でおこなわれているのかもしれない。

そのうち「心もすさむ すさみ町」なんてキャッチコピーでPRしだすかもしれない。いや、心がすさみすぎてそんな気力もないか。



それはそうと、このすさみ町のWikipediaページを見ていたら気になる記述を見つけた。
2014年8月1日、政府は当町沿岸にある小島の一つに、「ソビエト」と命名することを発表した。釣り人の間で言い習わされてきた呼称だが、その由来は不明であるという。
Wikipedia すさみ町より) 
ソビエト……?
なぜ和歌山にソビエトが……。
しかも政府公認の名称だ。

ふしぎだ。
オホーツク海の島とかならわかる。
地元の漁師が「あれはソビエト領だ」と勘違いしてそのまま「ソビエト」という名前になってしまった……みたいなストーリーが容易に想像できる。

しかし和歌山県の小島だ。太平洋にソビエト領があるわけがない(もしロシアが太平洋に拠点を持っていたら世界の勢力図は大きく変わっていたかもしれない)。

なぜソビエトが和歌山にあるのだろう。
地元漁師の間に伝わる通称としてあるだけでなく、政府公認の名称ということがまた驚きだ。
勝手によその国の名前をつけていいんだ。
まあアメリカ村とかドイツ村とかスペイン村とかオランダ坂とかトルコ風呂とかあるしな。いいんだろうな。
海外にも「ニッポン村」「ジャパン崖」みたいなのがあるのかもしれないな。

それに「ソビエト」はたしか固有名詞ではなく評議会を指すロシア語の一般名詞だったはず。
だいたいソビエト連邦はもうないしな。
うん、まったく問題ない。

よしっ。
今日から我が家の浴室は神聖ローマ風呂、トイレはオスマン・トイレだ!

2020年2月23日日曜日

悪意なき凶器


中学生のとき、田舎のおばあちゃんがうちに来た。
会うのは数年ぶり。

おばあちゃんはぼくの姉(中学生)を見るなり
「まーよう肥えたねー」
「ほんとによう肥えたわー」
とくりかえし言った。

ことわっておくが、姉は太っていなかった。どっちかといったら細身のほうだった。
そしておばあちゃんは決して意地悪な人ではなかった。むしろ孫には甘い顔しか見せたことのない人だった。

つまり、おばあちゃんには孫を傷つける意図は微塵もなかったのだ。
おばあちゃんの「よう肥えたね」は「大きくなったね」とか「すっかり大人の女性らしくなったわね」の意味だったのだ。

だがその言葉を肯定的に受けとる余裕は、思春期の女子中学生にはなかった。
姉は翌日からダイエットをはじめ、ごはんを残すようになった。



善意はときに凶器になる。
善意だからこそ傷つけることもある。

姉は決しておとなしいほうではなかったから、クラスの意地悪な男子から「やーいデブー」とはなしたてられても「うるせえバカ」と聞きながすことができただろう。

だが優しいおばあちゃんににこにこしながら言われる「よう肥えたねえ」は受けながすことができなかった。

悪意をまとっていないからこそ、言葉がダイレクトに胸に突き刺さったのだ。


だから、
「まあまあ、悪気があって言ったわけじゃないんだから」
「あの人も悪い人じゃないからね」
なんてことを言う人に対してはこう言いたい。

「悪気がないから傷つくんだよ!!」と。


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2020年2月21日金曜日

狂牛病フィーバー


2001年のこと。

BSEなる病気が世間をにぎわせていた。

BSE。正式名称は牛海綿状脳症。日本での通称は狂牛病。

なんともおそろしい病気だ。
牛の脳がスカスカの海綿状(スポンジ状)になるという病気で、当時原因はよくわかっていなかった。その後判明したのかどうかは知らない。

何がおそろしいって、その名前。
狂牛病。狂犬病もおそろしいが「狂牛」はもっとおそろしい。アメリカバイソンみたいなやつが怒り狂って角をふりかざして暴れまわりそう。ドラクエにあばれうしどりというモンスターが出てくるが、あのイメージ。
じっさい狂牛病になったからってそんなことにはならないんだろうけど、でもそれぐらいインパクトのある名前だった。

潜伏期間が長いというのもおそろしかった。感染しても発症するまでに十五年ほどかかるという話だった。
今から十五年後に世界中の人たちの脳がいっせいにスカスカになって狂牛化する……。そんなイメージは多くの人を震えあがらせた(だから狂牛化しないんだってば)。

当時、日本中が狂牛病に大騒ぎしていた。ほんとに。
「牛肉を食べるとヤバい」みたいな話が出回って(きちんと処理されている牛肉は大丈夫だったのだが)、焼肉屋やステーキ屋の経営があぶなくなったなんて話も聞いた。


そんな狂牛病騒動のさなか、当時十八歳だったぼくは高校卒業祝いとして友人たちと焼肉を食いに行った。
風評被害のせいで客の来ない焼肉屋が「食べ放題半額キャンペーン」をやっていた。
金はないけどたらふく肉と飯を食いたい高校生にとっては「いつか発症するかもしれないおそろしい病気」よりも「目の前にある大量の焼肉」のほうが重要だったのだ。

客はぼくたち以外にいなかった。
ぼくらは他の客に遠慮する必要もなく、「狂牛の肉うめー!」「ほっぺたが落ちて脳がスポンジ状になるぐらいうまい!」なんて不謹慎な冗談を言いながら肉を腹いっぱい食べた。

ほんとはぼくも「狂牛病に感染したらどうしよう」という不安を抱えていたが、そのおそろしさをふりはらうための強がりでわざと不謹慎ジョークを飛ばしていたのだった。



あれから二十年弱。
今のところぼくの頭は正常に動いている。たぶん。
多少物覚えは悪くなったが、経年劣化にともなう正常な範囲だとおもう。

あのとき食べた牛肉はぼくに狂牛病をもたらさなかったのだろう。

しかし今でも「赤ちゃんの脳はスポンジのように吸収力がすごい」なんて言葉を聞くとぼくの頭の中に暴れまわるアメリカバイソンが現れてどきっとする。


2020年2月13日木曜日

気の毒な苗字


ぼくの苗字はごくごくありきたりの苗字だ。
日本の多い苗字トップ10に入っている。

めずらしい苗字にあこがれたこともある。
星野とか桜井とか月島とかの美しい苗字がうらやましい。

しかし「苗字をランダムに変えられるボタン」があってもぼくは押さない。
今より悪い苗字になるのが怖いからだ。

親が様々な想いを込めてつける名前とちがい、苗字は「なんでこんなのにしたんだろ」とおもうものがちょこちょこある。

その苗字で生きている人には悪いが、毒島とか大尻とか。
毒島なんて漢字もひどいし読みも「ぶすじま」で二重苦だ。つくづく「毒島じゃなくてよかった」とおもってしまう。ごめんやで。

江口とか。
ぜったいに小学生のときのあだ名は「エロ」で確定だもんな。

大学生のとき、同級生に田尾さんという女の子がいた。
田尾さんはあまり字がきれいではなく、漢字のヘンとツクリが離れてしまう、横に間延びした字を書く人だった。
あるとき友人のひとりが、左右離ればなれになった「尾」という字を見て「田尾さんの毛がはみでてる」と云った。
ぼくは大笑いしながら「名前が田尾じゃなくてよかった」とおもった。

前の会社に毛尾さんというおじいちゃんがいた。
苗字に毛がふたつも入っている。
当人は少し薄毛で、ぼくは毛尾さんに会うたびに「名前はあんなにふさふさなのに」とおもっていた。

もちろん口に出したりはしない。いい大人なので。
でもこれからも江口さんに会えば心の中で「エロ」と呼んでしまうだろうし、大尻さんに会えばこっそりお尻の大きさを観察してしまうのだ。


2020年2月12日水曜日

喪服のバラ売り

仕事で付き合いのあった方が亡くなくなり、お通夜に参列することになった。

葬儀なんて何年ぶりだろう。
ありがたいことに知人の死とはほぼ無縁の人生を送っている。親戚以外の葬儀に出席するのははじめてだ。

たしか喪服があったはず。ついにこれが役に立つ日が……。
あれ。
喪服はある。ジャケットだけ。ズボンがない。

ズボンだけがない。
衣装棚の服を全部調べた。ない。喪服のズボンだけがない。

そんなことあるか?
こないだ着たのいつだっけ。わかんない。喪服なんてめったに着ないから思い出せない。一度か二度しか着てないのに。

この喪服は、高校を卒業するときに母が買ってくれたものだ。
「こういうのが必要になるときも必ずあるから」と云って、数珠や袱紗と一緒に“葬儀セット”を買ってくれた。
さすがは母親だ。
息子が「こういうの」を自分では買わないことをちゃんとわかっているのだ。
もしものときに備えて買っておくなんてことはぜったいにしないし、いざ「必要なとき」になっても
「喪服買わなきゃいけないのか……。黒っぽいズボンとシャツじゃだめかな。なるべく文字が入ってないやつで」
とおもうか
「別の葬式と重なったことにして『葬式の先約があるんです』と云って行くのやめようかな」
と考えるかで、いずれにせよめんどくさいことから逃げようとする人間だということを、母はちゃんと理解しているのだ。すごいなあ。

その、母が買ってくれた喪服のズボンだけがない。

クリーニングの袋には入ってないから、クリーニングに出したわけではない。なによりぼくの性格的に、目に見えて汚れたわけでもないのにクリーニングに出すなんて面倒なことをするわけがない。

いつなくしたんだろう。喪服のズボンだけがどこかに行くなんてことあるだろうか。
前回お葬式に出たときに、ズボンを履かずに下半身パンツ丸出しで帰ってしまったとしか考えられない。
きっとどこかの葬儀場のトイレの中だ。我ながらうっかりさんだなあ。ウケる。

しかし、ないものを嘆いてもしかたがない。
問題は明日のお通夜をどうするか、だ。

時間はあるから、買いに行くことはできる。家から徒歩五分のところに紳士服屋もある。
さすがに結婚して子どもも持った今となっては「黒っぽいズボンと黒っぽいシャツ」というわけにはいかない。

でもなあ。
ジャケットはあるんだよなあ。
両方なくしたんなら潔く買い替えるんだけどなあ。
ジャケットは一回かニ回しか袖を通してないから新品同様なんだよなあ。ぼくは十八歳のときから体型も変わってないからまだ着られるんだよなあ。
このジャケットを紳士服屋に持っていって「これにぴったりのズボンください」って言って買えるのかなあ。むりだろうなあ。喪服のバラ売りやってないだろうなあ。

試しに他のスーツのズボンをあわせてみる。
いちばん黒っぽいの。
うーん。
やっぱりちょっとちがう。喪服は漆黒だけど、スーツは黒といってもちょっと明るいんだよなあ。
妻に訊く。
「これ、上下ちがうってわかる?」

「んー。明るいところでよく見たらぜんぜんちがう。でもまじまじと見なければ気づかないかも。敏感な人なら気づくかもしれないけど」

おお。
なかなかいい手ごたえじゃないか。
これならごまかせるかも。
そうだよな。よく見なきゃ気づかないよな。
それにお通夜って夜だしな。葬儀場って祭壇以外はそんなに煌々と照らさないしな。
うん、いける。
しかも黒ネクタイとか数珠とかの「葬儀セット」はちゃんとあるしな。そっちに目が行くしな。
そもそも誰も「この人喪服の上下そろってなくない?」なんて疑いもしないだろうしな。

よし、これでいこう!
大丈夫だ!


そして翌日。
喪服のジャケットと黒っぽいスーツのズボンでぼくは出かける。
そして玄関先で気づく。
真っ黒の靴がない。
まあこの黒っぽい靴なら……。黒というかダークブラウンだけど……。


2020年2月7日金曜日

カポエラと不倫

幼なじみの不倫

大学生のとき、幼なじみの女の子Sと同窓会で再会した。幼稚園からの付き合いなので色恋沙汰にはならない。いとこのような感覚だ。
Sは大学を中退して今は仕事をしているという。
すぐ近所に住んでいることがわかったので「じゃあ今度ごはんでも行こうよ」と連絡先を交換した。

それっきりなんともなかったのだが数ヶ月後にSから「カポエラに興味ある?」とメールが来た。

カポエラ?
ネットで調べると、南米発祥の格闘技とのことだった。踊るように戦う武術。
奴隷が格闘技をしていると反抗を企図してるとおもわれるので、ばれないように踊りに見せかけたのがはじまり。鎖につながれたままでも戦えるような動きが特徴で……。

興味あるどころかカポエラについて考えたことすら一度もない。

なぜカポエラなのか尋ねると、今度カポエラ教室の無料体験があるから一緒にいかないかという誘いだった。
自分から新しいことにチャレンジするのは苦手だが、だからこそこういう誘いはありがたい。
授業の終わったあとにSと待ち合わせてカポエラ教室に向かった。

行ってすぐに自分が場違いな存在であることに気づいた。
格闘技とはいうものの「カポエラで楽しくダイエット!」的なレッスンで、ぼくと講師の男性をのぞく全員がOLで、いたく恥ずかしい思いをした。
ぼくは他のOLさんたちからSの彼氏だと勘違いされた。「彼氏?」と訊かれて訂正しようかとおもったが、彼氏じゃないならOLの汗のにおいをかぎにきた変態野郎だということになるので訂正はやめておいた。

カポエラ教室の後、Sと食事に行った。
カポエラの話や共通の知人の話で盛り上がり、Sから「彼女いるの?」と訊かれた。
「いるよ。Sは彼氏は?」
「……いるといえばいるかな」
「どういうこと?」
「わたし、不倫してんねん」
「えっ……」

それからSは不倫について語りはじめた。
相手は同じ会社の既婚男性であること、ごくふつうのおじさんでかっこいいわけでもお金持ちなわけでもないけどそういう関係になったこと、相手には子どももいて子どもの写真を見せてくれたりもすること、別れさせるとか結婚するとかは考えてないこと。

かなり赤裸々に語られたのだが、ぼくはまるでテレビドラマのストーリーでも聞かされているような気持ちだった。

目の前の女性は、今は二十一歳の女性とはいえ、ぼくが幼稚園のときから知っている子だ。
幼稚園では一緒に登園し、プール教室に通いたくないと泣き、ぼくのいたずらを先生に言いつけにいっていた子だ。
小学校も中学校も高校も同じだったので、きょうだいかいとこみたいな存在だった。

かつて五歳だったSと、今不倫をしていると語る目の前の女性とがどうしても結びつかなかった。
んなあほな。五歳だったのに不倫なんかするわけないじゃないか。
もちろん世の不倫女性すべてがかつては五歳だったわけだけど、それでもぼくの知っている元五歳児は不倫なんかするわけがなかった。

だいたい不倫をする女って、もっとセクシーで男を手玉に取るようなタイプなんじゃないのか。
中学校の図書室でメガネをかけて小説を読んでいたSと、ぼくの中にある不倫女性のイメージとはほんの少しも重ならなかった。「互いに素」だ。

なぜSがぼくにそんな話をしたのかわからない。
ごくごくふつうの調子で、「最近海外ドラマにハマってるんだー」みたいな調子で、「わたし、不倫してんねん」と語っていた。
きっと、Sにとってぼくはちょうどいい距離感の人間だったのだろう。
家族や友人ほど近すぎず、かといってまったく知らない間柄でもない。不都合になればいつでも連絡を断つことができる。
だからこそ打ち明けられたのだとおもう。

ぼくは、Sの行為を肯定も否定もしなかった。
「へえ」とか「不倫とか現実にあんねんなあ」と間の抜けた相づちを打っていた。



数年後、Sからひさしぶりに連絡があった。
「東欧に行くことになったから挨拶しとこうとおもって」

東欧?
Sからの話はいつも唐突すぎてわからない。

数日後に会うことにし、喫茶店でパフェを食べながら話を聞いた。

結婚することになった、相手の仕事の都合で東欧に行くことになった、となんだかせいせいするというような口ぶりでSは語った。

不倫関係があの後どうなったのかは聞けなかった。
結婚相手は同い年だと言っていたので、不倫相手と結婚したわけではないことだけは確かだった。

「しかし外国に住むなんてたいへんやなあ。子どもができてもかんたんに親に手伝ってもらうわけにもいかんやろし……」
と話すと、Sは云った。
「子どもはぜったいにつくりたくない」
その強い言い切りように、ぼくは「なんで?」と聞けなかった。
聞けばどういう答えが返ってくるかはわからないが、その答えがおそろしいものであることだけはわかった。



それから数年。
お正月に実家に帰ったら、母から「Sちゃん離婚したんだって」と聞かされた。

その言葉がずしんと響いた。
驚いたのではない。むしろ納得感があった。落ちつくべきところに落ちついた、という感覚。
ビールを一気に飲んで、しばらくしてから溜まっていた炭酸が大きなげっぷとなって出てきたときのような。

よく「不倫するような女は将来結婚しても幸せになれない」という言葉を聞く。
それは事実というより願望なのだろう。他人を不幸にしていい思いをしたんだからしかるべき罰を受けてほしい、という願望。
「嘘つきは閻魔様に舌を抜かれる」と同じだ。

Sの離婚の原因がなんだったのか、ぼくは知らない。
Sが過去にしていた不倫と関係あるかどうかもわからない。きっとS本人にもわからないとおもう。

Sが「罰を受けた」という見方には賛成できない。
Sに与えられたのは、罰ではなく解放だったんじゃないかとぼくはおもう。
離婚を決めたときのSの心に「ああよかった」と安堵する気持ちがちょっとはよぎったんじゃないかと想像する。これで過去の不倫がチャラになる、というような。

なぜなら、ぼくも似た感覚を味わったからだ。
ぼくが不倫をしたわけではない。
でも、Sから不倫をしているという報告を受けたことで、それを咎めなかったことで、Sが不倫をしているということを誰にも言わずに自分の胸に秘めていたことで、知らず知らずのうちにぼくも共犯者になっていたのだ。
まるでぼくがSの不倫相手の家族を苦しめているかのような。

それが「Sが離婚した」と聞かされたとき、ようやく解放された。だからこうして書くこともできる(これまでは匿名であっても書けなかった)。

もちろんSが離婚したことと、Sが結婚前に不倫をしていたこととは無関係だ。不倫の罪(罪だとするなら)が消えるわけではない。
でも、ぼくの中では相殺された。打ち消しあって完全に消えてしまった(当事者でないからなんだろうけど)。


Sに対して、よかったなと言いたい。
皮肉ではなく本心から。

ずっと不倫の過去という鎖につながれたまま戦ってただろうけど、ようやく自由になれたな。
もうカポエラはしなくていいんだよ。


2020年2月6日木曜日

「無難」を選ぶ生き方

娘の通う保育園のすぐ横に園長先生の住宅があるのだが、今朝その前に救急車が停まっていた。
何かあったのかとおもったが、救急隊員たちもあわてている様子はない。しばらくすると救急車はそのまま走り去った。大したことはなかったようだ。

保育園に入ると、男の子がぼくに向かって言った。
「園長先生の家で事故があったんやでー」

すると横にいた保育士が「そういうことを大きな声で言ったらあかん」と言った。

また別の女の子が言った。
「園長先生の家で事故があったんやでー」

保育士がきつく叱る。
「そういうことを言ったらだめでしょ! まだはっきりわかんないのに!」


聞いていたぼくはおもう。
「保育士さんの言わんとすることはわかるけど、その言い方では子どもに伝わらないだろう」と。



まず抽象的すぎる。
「そういうことを言ったらあかん」と言われたって、五歳ぐらいの子には「そういうこと」が「どういうこと」なのかわからないだろう。

保育士は「不確かな情報を広めるな」「仮に真実だとしても本人が隠したがる情報かもしれないのだからむやみに広めるな」と言いたいのだろうけど、「そういうことを言ったらあかん」の一言で五歳児が理解できるわけがない。

なにしろ言ってる子どもに悪気はないのだから。
ただ園長先生の家に救急車が停まっているのを見た。だから怪我か急病が発生したにちがいない。それしか考えていないのだ。
「さっき猫が園庭に入ってきてたよ」とか「明日雪が降るんだってー」とかと同じぐらいの意味合いで「園長先生の家で事故があったんやでー」と言っているのだ。
園長先生をおとしめようとしているわけではないのだ。

もちろん「今の時点でむやみに話を拡散すべきでない」というのはわかる。
ぼくが大人だから。

ぼくが園長先生だったら、「階段から落ちて脚の骨を折った」ならどうせ近いうちに明らかになることなのだから広められたっていい。
でも「興味本位で便座を下げずに便器に腰をおろしてみたらすっぽりはまってしまって抜けだせなくなって救急車を呼んだ」なら恥ずかしいから広めないでほしい。
だから本人が言うまでは話を広げるべきではない。大人のたしなみだ。

しかしいずれにしても
「言われた当人が傷つくか傷つかないかはわからないような情報で、言わなくてもいいことならとりあえず黙っておいたほうがいい」
ことを五歳児に理解させるのはむずかしいだろうな。



ぼくが中学一年生のとき。
クラスにSさんという休みがちな女の子がいた。毎週のように休む。出席したときは明るくてまじめな子だったので、サボっているわけではなく身体が弱かったのだろう。

その日もSさんは休んでいた。三日連続だ。
日直だったぼくは、日誌の [欠席者] の欄にSさんの名前を書いた。そして余白に「三日連続!」と書いた。

翌朝、担任から職員室に呼びだされた。
ぼくには呼びだされた理由がさっぱりわからなかった。担任から日誌を見せつけられても、やはりわからなかった。

「こんなこと書いて、Sが読んだときにどういう気持ちになるかわからんのか?」
と叱られた。
ぼくにはわからなかった。心から。
だって「三日連続!」は事実を書いただけだったのだから。Sさんを傷つけようという意図はまったくなかったし。
仮にぼくが三日連続欠席したときに同じことを書かれたらどうだろうと想像してみても、やっぱりぜんぜんイヤじゃなかったから。

「三日連続!」をSさんが見たら、イヤな気持ちになっていたかもしれない。イヤな気持ちにならなかったかもしれない。
それは誰にも分からない(「三日連続!」は担任に叱られてすぐ跡形もなく消したのでSさんの目には触れていないはず)。

今ならわかる。担任の言いたかったことが。
「言われた当人が傷つくか傷つかないかはわからないような情報で、言わなくてもいいことならとりあえず黙っておいたほうがいい」
処世術としては正しい。
今のぼくが担任だったとしても「書かないほうがいいんじゃない?」という。「たとえSさんを傷つけてでも書かずにいられないことならむりには止めないけど、そこまでじゃないでしょ? だったらやめといたほうが無難だよ」と。

しかし「無難」を選ぶには人生経験がいるんだよね。
中学一年生のぼくにはできなかった。
もちろん五歳児も無理だろう。


2020年1月31日金曜日

リュックあいてる


電車で前に立っている女性が背負っているリュック。
リュックの口がちょっとあいてる。
腕一本が余裕で入るぐらい。


不用心だな、とおもう。
でもそれだけ。何もしない。
勝手にファスナーを閉めたらスリや痴漢とまちがわれるかもしれない。
かといって声をかけて教えてやるほどでもない。全開になってて中のものが落ちそうになったらさすがに教えるけど、そこまででもない。ちょっとあいてるだけだもの。

ここは見て見ぬふり。
それが大人の処世術。

しかし意識はずっとそこにある。
いやもうとっくにリュックの中に腕をつっこんでいる。まさぐっている。
腕をつっこんで、これは手帳、これは携帯電話、これは化粧ポーチ、これは財布、中には札が四枚。たいしたことないな。
しかし狭いな。ちょっと物を乱雑に詰めこみすぎなんじゃないか。

いつのまにかぼく自身がリュックの中に入っている。
暗いけど中が見えないほどではない。なぜならぼくの頭上、リュックの口があいているから。
スマホの上に立ってあたりをみわたす。壁がきたない。このリュック、けっこう使いこまれている。このペットボトルはいつのだ。なんかにおうぞ。
たいしたものは入ってないな。お嬢さん、今度からは気をつけなよ。悪い人だったら財布を盗んだり個人情報を手に入れたりしてたぞ。ぼくだからリュックの中に入りこむだけで済んだけど。


ふいに、背後から肩を叩かれる。

ひっ。ぼくはあわてて意識をリュックから出し、肉体に戻ってくる。
まずい、勝手に他人のリュックに入ってたことがばれたのか。
おそるおそる振り向くと、後ろの男性が言う。

「リュックあいてますよ」