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2020年1月31日金曜日

リュックあいてる


電車で前に立っている女性が背負っているリュック。
リュックの口がちょっとあいてる。
腕一本が余裕で入るぐらい。


不用心だな、とおもう。
でもそれだけ。何もしない。
勝手にファスナーを閉めたらスリや痴漢とまちがわれるかもしれない。
かといって声をかけて教えてやるほどでもない。全開になってて中のものが落ちそうになったらさすがに教えるけど、そこまででもない。ちょっとあいてるだけだもの。

ここは見て見ぬふり。
それが大人の処世術。

しかし意識はずっとそこにある。
いやもうとっくにリュックの中に腕をつっこんでいる。まさぐっている。
腕をつっこんで、これは手帳、これは携帯電話、これは化粧ポーチ、これは財布、中には札が四枚。たいしたことないな。
しかし狭いな。ちょっと物を乱雑に詰めこみすぎなんじゃないか。

いつのまにかぼく自身がリュックの中に入っている。
暗いけど中が見えないほどではない。なぜならぼくの頭上、リュックの口があいているから。
スマホの上に立ってあたりをみわたす。壁がきたない。このリュック、けっこう使いこまれている。このペットボトルはいつのだ。なんかにおうぞ。
たいしたものは入ってないな。お嬢さん、今度からは気をつけなよ。悪い人だったら財布を盗んだり個人情報を手に入れたりしてたぞ。ぼくだからリュックの中に入りこむだけで済んだけど。


ふいに、背後から肩を叩かれる。

ひっ。ぼくはあわてて意識をリュックから出し、肉体に戻ってくる。
まずい、勝手に他人のリュックに入ってたことがばれたのか。
おそるおそる振り向くと、後ろの男性が言う。

「リュックあいてますよ」

2020年1月30日木曜日

ロンパース紳士

君はロンパースを知っているか。

ロンパース。あかちゃんの正装。
シャツとパンツが一体になった肌着。

シャツとパンツがくっついていたらいったいどこから着るのか。
心配ご無用。股のところがあいているので頭からかぶせ、最後に股の下についたホックをポチンポチンと止めれば完成。

これを着せると、ザ・あかちゃんになる。どこからどう見てもあかちゃん。これでもううっかりあかちゃんを大人とまちがえて「つかぬことをお尋ねしますが……」と話しかけてしまうことはない。
ザ・あかちゃん

うちの子がずっと寝ているだけの新生児だったとき。
ロンパースは便利だった。
ははあなるほど。
おむつを替えるたびにいちいちズボンを脱がせたり履かせたり必要がないので便利だな。すきまがないから腹も冷えないしな。
すなおに感心した。

だが一歳二ヶ月の今。
彼女は立ってすたすた歩いている。後ろ向きに歩くこともある。ジャンプらしき動きもする(本人の中ではジャンプなのだろうが傍からはスクワットにしか見えない)。
さすがに肌着でうろうろするのもまずかろうと、ロンパースの上からセーターやズボンを着せて歩かせている。

しかしどれだけ歩こうが走ろうが四回転半ジャンプを決めようが、しょせんは赤子。
自分のケツも自分で拭けない。文字通りの意味で。
おむつを替えてやるのだが、そのたびに不便を感じる。
おむつを替えるためには

1.まずズボンを脱がせ
2.ロンパースのホックをはずし
3.ロンパースのすそにウンコがつかぬようすそをまくりあげてうなじのところに挟み
4.ウンコおむつを脱がせ
5.ケツを拭き
6.新しいおむつを履かせ
7.ロンパースのホックを留め
8.ズボンを履かせる

じつに八つのステップを必要とする(5の後に「自分の手に付いたウンコを拭く」というステップが加わることもある)。
だがロンパースがなければ、2と3と7の手順は省略できる。

面倒だ。
ロンパースなしじゃだめなのか。ふつうの肌着じゃだめなのだろうか。

妻に言ってみた。
「もうロンパースいらんのちゃうん?」と。
我ながら建設的ないい提案だ。

すると妻は言う。
「ふだんはいいんだけどね。でもウンチやおしっこをするとおむつが重くなって、おむつの重みでズボンが脱げちゃうのよ。おなかがぽっこりしてるからベルトをさせるわけにもいかないし。だからロンパースがいるのよ」

くっ……。
まただ。いつも妻は、理路整然と正論を語ってぼくの出鼻をくじく。理にかないすぎてぐうの音も出ない。


ロンパースに「おむつずり落ち抑止機能」があることはわかった。
だが。
うちの一歳児は食べることが大好き。歯が四本しかないくせに大人顔負けの量を食べる。口にバナナをほおばり、右手にバナナを持ち、左手でバナナをつかむ。
当然ながら身体はでかい。常に成長曲線の上限いっぱいをキープし、同世代に圧倒的な差をつけている。
おなかがぱんぱんなので、ロンパースのホックはしょっちゅうはずれる。はずれるというよりはじけるといったほうがいいかもしれない。
だっこをすればパチン。座ればパチン。しゃがめばパチン。
千代の富士の肩関節と同じくらいよくはずれる。

で、ロンパースのすそがズボンの外に出て燕尾服みたいになっている。びろーん。

もちろんおむつずり落ち防止機能は正常に動作していない。おむつずりーん。
うむ、ロンパースいらんな。
おむつずり落ち防止機能どころか「大人とまちがえられるの防止機能」も機能してないもんな。燕尾服の紳士とまちがえて「つかぬことをおたずねしますが、ここいらでおなかぱんぱんのあかちゃんを見かけませんでしたか」と話しかけてしまうもんな、これじゃ。


2020年1月28日火曜日

考えないための傘


いつからだろう、天気について考えるのをやめたのは。

はじめは「雨が降るかもしれないから」だった。
降水確率が五十パーセントぐらいのときに、念のためにとおもって鞄に折り畳み傘を入れた。

そんな日が続き、ぼくは天気のことを考えるのをやめた。
いまやぼくの鞄には毎日折り畳み傘が入っている。入れているのではない。入っている。

雲ひとつない絶好の快晴であっても鞄には折り畳み傘があるし、朝から雨が降っていて傘を持って出かけるときにも折り畳み傘が入っている。

折り畳み傘は重い。重い鞄を持つと肩がこる。
でも傘について考えるほうがめんどくさい。天気予報を見て「今日は傘いるかな」と頭をはたらかせたくない。だから折り畳み傘がずっと入っている。
濡れないための傘というより、考えないための傘。


天候全般に対して関心がなくなった。梅雨も夕立も気にしない。今降っていれば折り畳み傘をさすし、降っていなければささない。それだけ。
十分先の天気も気にしない。空を見上げることがなくなった。

狩猟採集民族でなくてよかった。

ぼくが狩猟採集民族だったら、天気を読み誤ったせいでずぶぬれになっている。遭難して体温が冷えて死んでいた。
ワナをしかけてからしばらく悪天候で出かけられず、久しぶりに見にいったら獲物がかかった形跡はあるのにとっくに逃げていた。飢えて死んでいた。
収穫した果実がカビだらけになっていたこともある。もっと早く収穫しておけばよかった。しかたなくカビだらけの果実を食べたらおなかをこわして死んだ。
もう三回も死んだ。
折り畳み傘にどんどん命が削られてゆく。


2020年1月25日土曜日

運命のティッシュ配り

運命の出会いというのはその瞬間には気づかなぬものだ。

仕事帰り。オフィス街を歩いているとき、ティッシュを受け取った。
いや受け取ったという言い方は適切ではない。
気づいたら手の中にあった、それぐらい自然だった。

ティッシュを渡され、数歩歩いて、そしてようやくティッシュを手渡されたことに気が付いた。

あわてて後ろを振り返る。だがぼくにティッシュを握らせた彼は、もうぼくのことなど気にも留めず一心に次の通行人の手にティッシュを握らせようとしていた。



思えば、街頭ティッシュ配りにはイライラさせられっぱなしの人生だった。

まずはじめにことわっておくが、ぼくはティッシュを欲しい。タダでもらえるのならばいくらでもほしい。
花粉症なので春先には途方もない量のティッシュを消費するし、幼い子どもふたりも鼻水をたらしたり口のまわりをアイスクリームでべたべたにしたりするので、ポケットティッシュはどれだけあってもいい。
とにかく欲しい。箱でくれたってかまわない。

だが、それと同時にぼくには「人からあさましいとおもわれたくない」という厚かましい願望もある。
本心では
「あっ、ティッシュ配ってんの!? ちょーだいちょーだい! えー、一個だけー? あっちのおじさんふたつももらってんじゃん。いいじゃんそんなにいっぱいあるんだからさ。もっとちょうだいよー!」
と言いたいところだが、それは三十代のいい大人としてさすがにみっともない。あと十歳若ければできたのだが。

だからできることなら
「ティッシュなんていくらでも買えるからいらないんだけどな。でもまあティッシュ配りのバイトも大変だろうから人助けだとおもってもらってやるか」
というスタンスでもらいたい。

この「タダでもらえるならどれだけでももらいたい」と「しかしタダに群がるあさましい人間だとおもわれたくない」というジレンマを抱えて人は生きている。
このことを理解していないティッシュ配りが多い。


まず押しつけがましいやつ。
道の真ん中にまで出てきて、こっちが避けようとしてもついてきて、強引にさしだしてくるやつ。
そこまでされたら受け取りたくない。あくまで歩道は通行人のためのもの。おまえらはそこで商売させてもらってんだから通行の邪魔すんじゃねえよという気持ちが先に来てしまう。
しかもそういうやつにかぎって差しだしてくるのがティッシュじゃなくてコンタクトレンズのチラシだったりする。いらねえ。
しかしなんでコンタクトレンズ屋にかぎってあんなにチラシ撒くんだろう。謎だ。世の中にはいろんな商売があるのに、道でチラシを撒いているのは決まってコンタクトレンズ屋だ(そして看板を持って立っているのはネットカフェだ)。
しかも、一見して相手がコンタクトレンズを必要としているかどうかわからないのに。チラシを渡す相手の視力が2.0かもしれないのに。

話がそれた。ティッシュ配りの話だ。
図々しいのはイヤだが、かといって遠慮がちなのもだめだ。
道のはじっこでおずおずと様子をうかがっているやつ。通行の邪魔にはならないけど、邪魔にならなさすぎる。あれだとこっちからわざわざ進路を変えてティッシュをもらいにいかなくてはならない。そんな意地汚いことできない。こっちは意地汚いことを隠して生きたいんだから。

突然差しだしてくるのもだめだ。
唐突に人からものを差しだされても、とっさには受け取れない。数秒前から「よしっ、受け取ろう」という心づもりをしておかないと手を伸ばせない。こっちは合気道の達人じゃないんだから油断してるときに斬りかかられても対処できない。

だからといって十メートルも前から「ティッシュどうぞー!」と声を張り上げられるのも困る。
「あっ、ティッシュ配ってる。ほしいな」と気づくけど、直後に自尊心が首をもたげる。どんな顔をして近づいていいのかわからない。
あれと同じだ。職場で、旅行に行った誰かがお土産を買ってくる。で、ひとりずつに配る。「お土産です」「どこ行ってたの?」「奈良です」「へーいいなー」なんて会話がふたつ隣の席から聞こえる。次の次だな、とおもう。もうすぐぼくの番だ。でもどんな顔をして待てばいいのかわからない。犬みたいにへっへっと舌を出して待つのは恥ずかしい。
だから気づかぬふりをする。目の前のパソコンをまっすぐに見つめて「仕事に集中しすぎて周りの声が耳に入っていません」という猿芝居をする。
心の中では「あとふたり、あとひとり」とカウントダウンしているのに、名前を呼ばれてからはじめて気づいた様子で「えっ、なに? お土産? ぼくに?」という顔をする。まちがいなくこの三文芝居も見すかされている。でも他にどんなリアクションをとっていいのかわからない。だから毎回気づかないふりをする。
これと同じで、早めに「ティッシュどうぞー!」と言われると気恥ずかしいが勝ってしまい、結局受け取らずに立ち去ってしまう。自尊心に負けたー! と敗北感に打ちひしがれてその日はもう仕事が手につかない。

まとめると、ぼくの要求としてはただひとつ、近すぎず、遠すぎず、遅すぎず、早すぎず、ちょうどいい間合いで渡してほしい。欲を言えば渡す人が美女であってぼくの手を包みこむようにしてティッシュを握らせてくれればそれでいい。

ただそれだけのささやかな願いだ。



さっきのティッシュ配りは完璧だった。
絶妙なタイミング、ちょうどいい距離、押しつけがましくない表情。どこをとっても一級品。さぞかし名のあるティッシュ配り士なのであろう。

ティッシュだと意識する間もなく手渡されていた。
すごい剣豪になると斬った相手に斬られたことを気づかせないというが、まさにそんな感じだった。気づかぬうちに斬られた気分。それでいて不快ではなくむしろすがすがしい。

彼と出会うことは二度とないだろう。
でももしふたりが生まれ変わったら、マラソンランナーと給水所の係員として出会いたい。そして少しもペースを落とすことなく受け取れる絶妙な間合いで給水してほしい。


2020年1月16日木曜日

給料安いよ!来てね!


北新地という大阪でも有数の繁華街のすぐそばの地下街に、ひっそりと「各自治体のPR会場」がある。
ブースがいくつかあって、そこに「〇〇県就農体験者募集」「〇〇県〇〇町でお見合いパーティー」みたいなポスターがたくさん貼ってある。
わりと人通りもある場所なのにその一角だけやたらと薄暗く、妙に静まりかえっている。そこを通るたびにぼくはいたたまれない気持ちになる。

ポスターたちの発するうらさびしいオーラに吸い込まれそうになるのだ。とても直視できない。つらい。

なにがつらいのかというと、みんな「虫のいいこと」しか言ってないのだ。
就農だの移住支援だのお見合いパーティーだのと書いているが、内容はどれも同じ。
「この地域で生まれ育った若者にすら見放されるような土地だけど、働き者で文句を言わずに土地の蛮習に従ってくれる若者来てくれませんか? 給料安いよ! 不便だよ! 不自由だよ!」
としか言ってないのだ。

メリットがないか、せいぜい「空気がきれい」ぐらい。
そりゃあ来ねえだろう。こういうポスターを作っちゃうところがもう絶望的にセンスがない。
ブラック企業が「やりがいのある職場です!」「オンとオフの切り替えは大事。土日はみんなバーベキューをするぐらい仲良しです!」と求人票に書いちゃうぐらいまちがっている。


まあそれはいい。感覚は人それぞれだ。ぼくも地方で育ったのでその感覚はわからなくもない。

ただ心配になるのは、こういうポスターにお金を使っていること。
いろいろ背景を想像してしまう。
街のコンサルだか広告代理店だかが村役場を訪れて
「このままじゃいけませんよ。他の町村はいろんな手を打ってますよ。たとえばお隣の〇〇町なんか××っていうプロジェクトをやってますよ。ほら」
なんて持ちかけて、町長さんだか広報課長だかが「そっか。お隣もやってるのか。じゃあうちもやらなきゃな」
なんつってお金払って、各部署からだったらこれも載せてくれこれも書いといたほうがいいだろなんて言われて、見た目だけきれいだけど結局何が言いたいのかわからないポスター作って、ろくに効果検証もしないままお金を垂れ流しているんだろう。

「そんなお金があるなら今いる若者のために仕事をつくりましょうよ」なんていう人はひとりもいないまま、誰も足を止めないブースにポスターを貼るためにお金を払いつづけている。

そりゃあさ。
「来てね!」って呼びかけるだけで来てくれるならそれがいちばんいいけどさ。
でもじっさいは逆なわけじゃない。
「働き手がいねえんだよー。嫁さんが来ねえんだよー。若い夫婦もいないんだよー」って言ってる自治体に行きたい人はほとんどいないわけじゃない。

なんだか、貧乏人ほど宝くじを買うって話みたいで切なくなる。もう配当率の低い一発逆転に頼るしかないんだよなー。


2020年1月15日水曜日

書店の飾りつけは自己満足


とある書店員のツイートを目にした。
その人は売場をPOPや装飾できれいに飾りつけた写真を投稿して、「Amazonには負けない」とつぶやいていた。

それに対して賛同するコメントもあったが、「努力の方向がまちがってる」「客はそんなの求めてない」「飾りつけをがんばるんじゃなくて本を切らさぬようにしろ」という辛辣なコメントも並んでいた。

ううむ。
元書店員であり現Amazonヘビーユーザーであるぼくとしては、どちらの気持ちもわかるので心苦しい。


飾りつけは自己満足


「努力の方向がまちがってる」、厳しいがその通りだ。
まったくの無駄とは言わない。
でも飾りつけに使う材料費と人件費以上の効果があるかといわれれば、残念ながら首をかしげざるをえない。
シビアにコストと効果を計算すれば、おそらく「やらないほうがマシ」だろう。

そもそも店舗内で目立たせてどうする。
書店が二店舗並んでいるので、看板やのぼりを目立たせてライバル店から客を奪ってくるのならわかる。
でも自店舗内で〇〇フェアをやって一角だけ目立たせるということは、相対的に他の売場を目立たなくさせることになる。

ぼくも文庫コーナーで「〇〇フェア」を何度となくやったのでわかるが、フェアをやればたしかにその売場内の本はよく売れるが、文庫全体の売上が伸びるわけではなかった。
店舗内で売上をあっちからこっちに動かしているだけなのだ。

書店員のやれることに限界がある


とはいえきれいに飾りつけをしたくなる書店員の気持ちもわかる。
「大事なのは売場を飾りたてることじゃなく買いたくなる本を置くことなんだよ」
そんなことは客から言われるまでもなく書店員自身がよーくわかっている。できることなら人気の本を山のように積みたい。

が、やりたくてもできない事情がある。
まず売場面積の事情。
オンライン書店とちがって実店舗の棚には限りがある。すべての本を置くのが理想だが、そうはいかない。「この本を置いておけば一年に一冊ぐらいは売れるんだけどなあ」という本でも泣く泣く返品せざるをえない。

また経済的な事情もある。
返品すれば取次からお金がかえってくる。つまり在庫を持つことには金がかかるのだ。
資本が無限にあるならいいけど、使えるお金に制約がある以上、一定数は返品にまわさざるをえない。
在庫量を二倍にすれば売上も二倍になるのならいいけど、実際は十パーセント増えればいいほうだ。
棚に置いておくより返品するほうが確実に収入になるのだから、コンスタントに売れない本は返品に回さざるをえない。

そしてなによりいちばん大きな理由は、注文した本が手に入らないことにある。
話題の本、人気作家の新刊、映画の原作、文学賞受賞作品。いくら注文しても入荷しないのだ。
どこにもないのならあきらめもつく。だがあるところにはあるのだ。
取次や書店によって力の強弱があり、力の弱い書店がどれだけ注文しても入ってこない本が、力の強い書店には山のように積んであったりする。
返品すれば基本的に仕入れ値でお金がかえってくるのだから、力の強い書店は必要以上に仕入れる。で、弱いところにはまわってこない。まわってくるのはもうブームが去ってから。

もちろんこんな事情は客の知ったことではないのだが、書店員だって「もっと大事なことがある」ことはとうに承知なんだよ。

意欲だけがからまわり


で、意欲のある書店員はPOPや売場の飾りつけに走る。
「とりあえず何かやった気になれる」からだ。
フェアを組んで売場の一角を目立たせればとりあえずそこの売上は伸びるから、達成感も得やすい(さっきも書いたように店舗全体の売上が増えているわけではないのだが)。

たぶんほとんどの書店員は、こんなことをしても大して意味がないと気づいているとおも(「Amazonには負けない」と書いていた人は書店が好きすぎて気づいてないかもしれないけど)。

でも他に打てる手がないから売場を飾る。不安から逃げるために。
意欲はあるけどできることがなくてからまわり。

そしてある日気づく。
もうだめだ、と。
書店が息を吹き返すには、業界全体をリセットしてやりなおすしかない(それでもうまくいかない可能性のほうが高いけど)。
でもそんなことは不可能だと。
書店といっしょに沈むか、沈む船から逃げだすか。選択肢は二つだけ。


ああ。
書いてていやになった。
同じようなことを今までにも何度も書いている。書店で働いているときからずっと同じことを考えていた。でもどうにもならない。

書店は好きだ。だけど「買って応援」なんてする気にはなれない。
そんなことしてたらますます現状にあぐらをかいてAmazonとの差が拡がるに決まってるんだもの。

でももうしかたない。

いっそ完全に滅んでみんなが「リアル書店があったころはよかったなあ」と懐かしむ……。

それが書店にとっていちばん幸福な未来のかもしれない、とまで最近はおもうようになった。
想い出の中で美しく生きていてくれればそれでいいよ……。

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書店員の努力は無駄

書店が衰退しない可能性もあった

2020年1月8日水曜日

詰将棋と成功者


六歳の娘が将棋の駒の動かし方をおぼえたので何度か対局したのだが、勝負にならない。
ぼくも決して強いわけではないが、娘の指し方がでたらめなので十枚落ち(つまりこちらは王将と歩兵のみ)でも完勝してしまう。ゲームにならない(ぼくも負けず嫌いなのでわざと失策するような手は指したくない)。

娘の指し方は、とにかく駒を大事にする。歩兵一個でもとられないように全力を尽くす。結果、歩兵を守ろうとして角をとられる、なんてことになる。
あえて駒を捨てるなんてぜったいにできない。

また、せっかく取った駒を使わない。後生大事に抱えている。結果、守りはどんどん薄くなる。
たしかに初心者にとって「駒を打つ」のはむずかしい。盤上の駒が動ける範囲は限られているが、持ち駒を打てる箇所は数十個もある。ルール上は、空いている場所であればどこにでも打てる(歩兵、香車、桂馬には一部制約があるが)。
五種類の駒を持っていれば打てる場所は理論上数百になるわけだから、そこからひとつに定めるのはむずかしい。
ある程度慣れた差し手なら「現実的に意味のない手」ははじめから除外するので選択肢はぐっと狭くなるのだけど、慣れていなければ選択肢がありすぎて混乱する。
「カレーとハヤシライスどっちがいい?」なら答えられても「ばんごはん何がいい?」だと悩んでしまうのと同じだ。

そういやAI将棋ソフトは、「ベテラン棋士なら無意識に除外する手」も含めて検討すると聞いたことがある。
六歳児はAIと同じことをしているのだ。そう考えるとすごいな。すごかないけど。


ということで、「駒の捨て方を身につける」「駒の打ち方を身につける」練習のために、子ども向けの詰将棋の本を買ってきた。
一手詰めや三手詰めの問題を盤上に並べ、娘に解いてもらっている。

詰将棋をやっていると、ぼくも子どもの頃に父と詰将棋をしたことを思いだす。
だが、ぼくはちっとも詰将棋を好きにならなかった(今はわりと好きだが)。
そのわけは、父が出題する問題が難しすぎたことにあった。
父は新聞に載っている詰将棋の問題をぼくに解かせようとした。好きな人なら知っているとおもうが、新聞に載っている問題はけっこう難しい。七手詰めとか九手詰めとか。そこそこやっている人でもじっくり考えないと解けないレベルだ。
とうぜんぼくはさっぱり解けなかった。まちがえたとしてもどこでまちがえたのかわからない。七手目がちがったのか、五手目がまずかったのか、三手目が誤っていたのか、それとも初手からやりなおすべきなのか。
七手詰めだと可能性がありすぎてちっともわからない。娘の本将棋と同じ、「選択肢がありすぎてわからない」状態だった。

その経験を踏まえて、まずは一手詰めの問題ばかりを娘に出している。
一手詰めだと王手の方法は四通りぐらいしかない。これはダメ、これもダメ、これもダメ、じゃあこれだ。ってな具合に総当たり消去法でも答えが出せる。
娘がまちがえるたびにぼくは「それだと王様はここに逃げるよ。じゃあここに逃げられないようにするためにはどうやって王手をすればいいかな」とヒントを与えてもう一度指してもらう。
いろんな問題に挑戦しているうちに、娘の腕も少し上がってきた。

困るのは、娘がいきなり正解を出してしまったとき。
じっくり考えてあらゆる可能性を検討した上で正解を導きだしたのであればたいへん喜ばしいことなんだけど、そうではなく、何も考えずに指した手が正解だったとき。

正解なので褒めてやる。
で、その上で「そうだね。たとえばこの手だったらこう逃げられるからダメだもんね。こっちに行った場合はこう逃げられるしね」と説明する。
……のだが。
後半の台詞を娘はぜんぜん聞いてくれない。
「やったー! さっ、正解したから次の問題!」
という感じで済ませてしまう。
ぼくが「なぜこの手がいい手だったのか」を説明しても「わかってたし」と言って耳を貸そうとしない。

これでは学びが得られない。

ああ、これか、と。
野村克也氏が言ったとされる「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」だ。
失敗には原因があるが成功はたまたま成功してしまうこともあるのだ。

成功者は成功の秘訣を真剣に考えない。
スポーツでもビジネスでもそうだ。
なぜ成功したのかをつきつめない。「おれがすごかったからだ」「がんばったからな」で済ませてしまう。他の選択肢を選んでいたらもっと良かったのではないか、他の選択ではどこがだめだったのかを考えない。
真剣に考えるのは今までのやり方がうまくいかなくなったときだけだ(そしてそのときにはもう遅い)。

詰将棋を通して、うまくいっているときこそ他者のアドバイスに耳を傾ける謙虚さを持ちなさいと伝えたいんだけど、まあ無理だわなあ。
だからぼくは、娘がまちがえた手を指してくれることをいつも願っている。


2020年1月7日火曜日

チェーホフの銃

最近のディズニー作品って、すごく人種に配慮してるじゃない。

たとえば『アナと雪の女王2』には肌の黒い兵士が出てくる。
はっきりとは描かれていないけどあの話の舞台(アレンデール王国)は中世の北欧っぽい雰囲気だから、黒人が出てこなくても不自然ではない。というか出てくるほうが不自然。
でも出てくる。
2015年の『シンデレラ』(実写版のほう)にもやはり黒人が出てくる。
どちらも、その役が黒人である必然性はない。「彼は移民の息子だ」みたいな説明もなく、ただいる。

それがいいとか悪いとかは言わない。
おもうところはあるけど、はっきり書くとややこしいことになりそうなのでやめておく。

まあいろんな事情があるのだろう、製作者もたいへんだ。


ところでこの傾向はどこまでいくのだろう。

この「あらゆる人種を平等に」を求めていけば、
「盲人がいないのはおかしい」
「どうして知的障害者が出てないのか」
「これだけの人がいれば同性愛者だって一定数いるはずだ」
「くせ毛の登場人物が少なすぎないか」
「どうしてこのミュージカルには音痴の人が登場しないんだ。現実には一定数いるはずなのに」
みたいな話になる。まちがいなく。

で、「いろんな人種の人をまんべんなく登場させろ」という声に抵抗しなかった製作者は、そういった声に反論することができない。だって前例に倣えば従うしかないんだもの。


演劇界には『チェーホフの銃』という言葉がある。
劇作家のチェーホフが「舞台に銃を置くのであればその銃は劇中で必ず発砲されなければならない」と語ったことに由来する。

つまり「意味ありげなものを出すなら必ず使えよ」「なくてもいいアイテムはなくせ」ということだ。
あえて意味ありげなものを置いて使わないことで観客の予想を裏切るというシチュエーションもあるだろうが、それはそれで「観客をミスリードする」という効果がある。

使われない、ミスリードにもならないアイテムなら使うな。観客が余計なことを気にするから。
ルールというより、「芝居をおもしろくするために守ったほうがいいこと」だ。

政治的な配慮のためだけにストーリーに関係のない属性の人をむやみに登場させた映画は、[発砲されない銃]や[昇られないハシゴ]や[撮影されないカメラ]だらけの映画だ。

その先にあるのは、[観られない映画]なんじゃないかな。


2020年1月6日月曜日

ノーヒットノーランの思い出


今から15年前のこと。
当時つきあっていた彼女(今の妻)と甲子園球場に行った。

ぼくは高校野球が好きで、毎年甲子園球場に足を運んでいた。
彼女のほうはテレビ観戦すらしたことがないぐらい野球に無関心。「一回ぐらい球場の雰囲気を知っておきたい」というので一緒に行くことになった。

2004年3月26日のことだ。
ぼくらは外野席に座り、東北ー熊本工の試合を観戦した。
特にこの試合を選んだ理由はない。二人の予定があったから。それだけ。
東北にはダルビッシュ有投手がいた。当時から注目されていたので、東北側スタンドは客が多いだろうとおもい、あえて逆の熊本工側のスタンドに座った。

熱心な高校野球ファンならピンときたかもしれない。
そう、ダルビッシュ投手が熊本工相手にノーヒットノーランを成し遂げた試合だ。

五回ぐらいからスタンド全体が「おいおいまだノーヒットだぞ」という雰囲気になり、七回、八回になると「まさか……」と観客席全体が浮足立ち、九回には全員が固唾を飲んで見守っていた。
もちろんぼくも大興奮。
「まさかノーヒットノーランを目の前で観れるなんて……!」と色めきたっていたのだが、ふと傍らの彼女に目をやると、なんともつまらなそうな顔でグランドを眺めている。

「このままいくとノーヒットノーランっていう大記録になるんだよ! 十年に一度ぐらいしか達成できないすごい記録! 1998年には横浜高校の松坂大輔が決勝で……」
とぼくは熱く語ったのだが、彼女は「ふーん。すごいねー」と気のない返事。

そこでぼくは気づいた。
そうか、ノーヒットノーランのゲームは野球に興味のない人にとってはすごくつまらないゲームなのだ。

ぜんぜん得点が入らない。ほとんどランナーも出ないから盛りあがりどころもない。おまけに熊本工側のスタンドに座っているからすぐ隣のアルプススタンドはお通夜のような状態。
野球ファンにとってはたまらないノーヒットノーランも、ルールもよくわかっていない人にとってはほとんど動きのない退屈な試合。
シーソーゲームの末に8対7でサヨナラ、みたいな展開であればルールがよくわからなくても楽しいのだろうが。

とうとうダルビッシュ投手はセンバツ大会史上12人目となるノーヒットノーランを達成。
感動に打ち震えるぼくと、つまらなそうにあくびをする彼女。その大きな温度差によって巨大な上昇気流が発生した……。



東北ー熊本工の試合だけ観て帰り、その後も彼女と球場に行ったことはない。
退屈なゲームに懲りたのか、二度と野球場に行きたいということはなかった。

ということでぼくの妻は、「ノーヒットノーランゲームしか野球の試合を観たことがない」というめずらしい人間だ。

2020年1月3日金曜日

娘と銭湯

六歳の娘とよく銭湯に行く。

娘は銭湯が好きだ。
風呂も好きだし、水風呂も好きだし、お湯と水がいっぺんに出るシャワーも好きだし、風呂上がりに牛乳やジュースを買ってもらうのも好きだし、それを飲みながらテレビを観るのも好きだ。

三歳ぐらいのときから何度も銭湯に連れていった。
妻はあまり公衆浴場が好きではないので行くときはたいていぼくと二人。
娘の友だちを連れていったこともある。幼児六人の面倒を一人で見たときはさすがにゆっくり風呂に漬かるどころではなく閉口した。

ぼくにとっても楽しい「娘との銭湯」だが、もうそろそろ行けなくなる。娘を男湯に入れることに気が引けるからだ。
条例では十歳ぐらいまでセーフだそうだが、さすがに十歳の女の子を男湯に連れていくのはまずいとおもう。自身も嫌がるだろうし。

六歳の今でも、「娘の身体をじろじろ見るやつはいねえだろうな」と周囲に目を光らせ、娘が歩くときはさりげなく前に立って身体を隠し、脱衣場ではすばやくタオルを巻きつけ、なるべく娘の身体が人前にさらされないように配慮している。

「娘を男湯に連れていくのは小学校に入るまで」と自分の中で決めている。
こうやっていっしょに銭湯に浸かれるのもあとわずかだなあ、と少しさびしい気持ちになる。


そんなふうにして、娘といっしょにできることが少しずつ減ってゆく。
手をつないで歩くとか、いっしょに公園で遊ぶとか、肩車するとか、おんぶするとか、寝る前に本を読んでやるとか、手をつないで寝るとか、娘の友だちの話をするとか、娘から手紙をもらうとか、髪をくくってやるとか、ピアノの連弾をするとか、朝起こしてやるとか。
今あたりまえのようにやっていることも、あるとき、娘から「今度からは一人でやるからいい」と言われて終わる。
(肩車やおんぶに関してはぼくのほうからギブアップする可能性もあるが)

いや、そんなふうに終わりを告げられるならまだこちらも感慨深く受けとめられる分まだいい。よりさびしいのは「気づけば終わっている」ケースだ。たぶんこっちのほうがずっと多い。

ふと「そういや最近娘と手をつないでないなあ」とおもう。最後につないだのはいつだったっけ。おもったときにはもう「最後のチャンス」は永遠に失われている。
「これが最後」と感じることもなく。
今までだって、おむつを替えるとか自転車の後ろを持って支えてやるとか、「これが最後のおむつ替えだな」とか意識することもなくいつのまにか終わっていた。今後もそうなのだろう。

娘の中でのぼくの居場所がちょっとずつ削りとられてゆく。娘もぼくも気づかぬまま。
あたりまえなんだけど、やっぱり寂しさはぬぐえない。
死ってある日突然訪れるものではなく、ちょっとずつ死んでゆくものなんだろうな。ぼくは今もゆるやかに死んでいっている。


2019年12月25日水曜日

寝具の魅力

娘たちとの遊び。

よく娘たちと寝室であそぶ。
ぼくに課せられた使命は、妻が料理をしている間、キッチンに次女(一歳)を近づけないこと。
包丁、火、熱湯、熱々のグリル、落ちた食べ物。そういったものから、なんでもさわりたい、なんでも食べたい年頃の次女を遠ざけることが求められている。
そこで、キッチンから遠い寝室で遊ぶことになる。

最近よくやるのは、布団とマットを組み合わせてすべりだいやテントやトンネルや船をつくるという遊びだ。
長女(六歳)はもちろん大はしゃぎだし、最近すべりだいをすべれるようになった次女も楽しんでいる。よたよたしながら坂(マット)をのぼり、すべりだい(マット)をすべり、テント(マット)に出入りし、トンネル(マット)をくぐり、船(マット)の上で歓喜の声をあげる。もうぜいぜいはあはあ言いながら遊んでいる。
あとは、ぼくが娘たちを布団の上に放りなげたり、マットの坂道に乗せて転がしたり、どったんばったん遊んでいる。



ぼくも子どもの頃、寝室で遊ぶのが好きだった。
一歳上の姉と、ベッドをトランポリンにしたり、枕を投げたり、布団の上で逆立ちをしたり、押し入れに入ったりして遊んでいた。
子どもはみんな寝室で遊ぶのが好きだ。

寝具というのは特別な魅力がある。
寝具を見ていると、ついつい飛びこみたくなる。どったんばったん遊びたくなる。

子どもだけでない。大人も同じだ。
家具売場のベッドを見るとついつい乗りたくなる。じっさいに腰をかける人も多い。さすがに飛び乗ったりする大人はまずいないが、本音はみんなやりたいはずだ。ぼくもやりたい。ウォーターベッドなんかたまらん。あんなとこにダイブしたらめちゃくちゃ愉しいだろうな。ぽよんぽよん弾んでみたいな。

ぼくが大金持ちになったら、でっかい部屋にキングサイズのベッドを三つ並べて、その上にとびきり弾力のあるマットとふかふかの布団を敷いてぴょんぴょん跳びはねるんだー!

あと押し入れの中に電灯と本とパソコンを持ちこんで秘密の書斎もつくるんだー!(それは今でもやろうとおもえばできる)


2019年12月24日火曜日

14 ÷ 4 =?


「いちご14個を家族4人で分けます。1人あたりのいちごは何個でしょう」

算数だったら正解は
「3あまり2」
「3.5」
「3と1/2」
のいずれかになる。

が。
現実にはたぶんそのどれでもない。

「1人が3個ずつ食べてからじゃんけんをして、勝った2人がもう1個ずつ食べる」
「おかあさんが『2個でいいわ』と言ったので、残りの3人が4個ずつ食べる」
みたいなことになる。

算数だと「3あまり2」だけど、現実にはまずいちごはあまらない。
「平等を期すために3個ずつ食べて、余った2個は捨てよう」とはならない。
「2つはナイフで2等分して、3.5個ずつ食べよう」ともならない。
みかんなら分割するかもしれないけど、イチゴを分割して食べる家庭はほとんどない。


だから同じ「14 ÷ 4 =?」という問題であっても、

「長さ14メートルのロープで1辺1メートルの正方形を囲うといくつ囲える?」
の場合は
「3個囲って2メートル余る」から
答えは「3あまり2」で、

「14個のみかんを四つ子が分けると1人いくつ?」
だったら
「1人3個ずつ。残る2つは2等分」だから
答えは「3.5」になるし、

「いちご14個をおとうさん、おかあさん、子ども2人で分けるとき、子どもはいくつ食べられる?」
なら
「両親、またはおかあさんが遠慮するだろうから子どもは4個食べられる」で
「4」が正解だよね。

2019年12月20日金曜日

六歳と一歳との平日夜

平日夜の過ごし方。
オチも何もないけど、将来自分で読み返したくなるかもしれないので書いておく。


ぼくが家に帰ると、一歳が出迎えてくれる。
「あっ!あっ!」といいながらとたとたと玄関までやってくる。
たいてい何か持っている。
おもちゃだったり、紙切れだったり。あるいはパプリカを口の中に入れている(夕食前はおなかがすいて不機嫌になるのでパプリカを渡されている。パプリカをしゃぶっている間はごきげんになる)。
手にしたおもちゃをぼくに見せてくれる。ぼくの鞄の中身を見ようとする。ぼくの脚にしがみついてくる。

一歳を抱えて手を洗い、リビングに行く。
六歳が寄ってきて「本よんで」「しょうぎしよ」などという。
一歳児の相手をしながら六歳児と将棋を指す。本を読む。最近はドラえもんの漫画を読むことが多い。六歳はもう自分で本を読めるのだが、読んでもらうほうが好きなのだ。
一歳がまとわりつくと料理がしづらいので、妻が料理をしている間に一歳の相手をするのがぼくの仕事だ。

夕食。
一歳がごはんを食べる手伝いをする。最近少しだけフォークやスプーンが使えるようになったが、うまくフォークを刺せないことも多い。刺すのを手伝ってあげる。スプーンでごはんをすくってやる。
コップでお茶を飲めるようになったが、飲んだ後にお茶をわざとこぼすことが多い。こぼさぬようコップに手を添える。
一歳の相手をしながら妻や六歳と話す。保育園でしたことを聞く。大げさに褒めてやったり六歳クイズにわざとまちがえたり。

夕食の後は一歳の歯みがきをする。歯は四本しか生えていない。上の前歯二本と下の前歯二本。いとをかし。四本しかないので歯みがきは一瞬で終わる。
六歳は自分で歯みがきをするが、雑なこときわまりないので仕上げをしてやる。六歳はぼくの膝の上に座って口を開ける。わざと口を閉じたりするので「あー」とか「いー」とか言いながら仕上げをする。
妻が料理や洗い物をし、ぼくが子どもの相手をするという役割分担にいつのまにかなった。ぼくが洗い物をしようとすると妻はあからさまにイヤそうな顔をして「それより子どもの相手してあげて」という。ぼくの洗い物が雑なのが許せないのだ。

風呂を沸かしている間に自分の歯みがきをし、一歳と六歳と遊ぶ。絵本を読んだり風船で遊んだり。
一歳と六歳と風呂に入る。一歳を膝の上に乗せて洗う。六歳は自分で身体を洗う。
一歳を湯船に漬ける。おぼれないように六歳が身体を支えてくれる。助かる。ひとりめのときはたいへんだった。
その間に自分の髪と身体を洗い、一歳と六歳と湯船に漬かる。狭いがリラックスできる。ペットボトルや水風船や水鉄砲で遊ぶ。
ぼくが先に出て身体を拭いてパジャマを着てから、一歳児を風呂から出し保湿クリームを塗りたくる。おむつを履かせる。パジャマを着せる。たいていその途中で逃げるので追いかけながら服を着せる。
次に六歳にも保湿クリームを塗ってやる。六歳はすぐにくすぐったがる。しかし自分では塗らずに必ず「お父さんぬって」と言いにくる。

妻が風呂に入っている間にまた一歳と六歳と遊ぶ。ぼくのおなかの上に二人を乗せたり、寝室でかくれんぼをしたり。ぼくと六歳が布団の下に隠れ、一歳が布団をめくって「あっ!あっ!」と言う。

妻が風呂から出てくると一歳はおっぱいをもらいにいく。
六歳は「やっと行った!」と言って本をぼくのところに持ってくる。一歳がいるとじゃまをされるので落ちついて本を読めないのだ。
最近は長めの児童文学を読むようになったので読みおわるまでに三十分ぐらいかかる。端からぼく、六歳、妻で寝る。一歳の寝る場所は決まってない。あちこち移動して好きなところで寝る。
六歳はすぐ寝る。ぼくも少しだけ本を読むがすぐ眠くなって寝る。

2019年12月17日火曜日

犯罪者予備軍として生きる


犯罪者予備軍として生きている。

その意識が芽生えたのはいつからだろう。
たぶん二十歳を過ぎたあたりから。そして無職だった期間がいちばんその気持ちが強かった。

といっても、べつに犯罪を企図しているわけではない。
「周囲の人から犯罪者とおもわれているかもしれない」という思いを持って日々生きている、ということだ。


たとえばひとりで公園に行く。
ベンチに座ってぼんやりする。

法的にはなんの問題もない。公園は市民の憩いの場だからだ。

だが、「世間の目」的にはどうだろう。
二十歳を過ぎたいい大人が、だらしない恰好で、何をするでもなく、公園のベンチに座っている。
不審者ではないだろうか。
小さい子どもを連れて公園に来ているお母さんは警戒しないだろうか。
警戒する。
ぼくが逆の立場なら「なんだあいつ」とおもう。


「男女で公園のベンチに座って話しこんでいる」「子どもが公園でサッカーをしている」「お父さんが子どもを連れて散歩している」ならまったく問題ない。
「スーツ姿の男性が公園のベンチでお弁当を食べている」はぎりぎりセーフ。目的がわかるから。
だが「普段着の大人の男がひとり公園に座っている」はアウト。法的にはセーフでも“世間的”にはアウト。
むしろ「明らかに家のなさそうなボロボロの服のおじさんが公園で空き缶を集めている」ほうがまだ目的がわかりやすいだけマシかもしれない。少なくとも「なんでこんなとこにいるんだよ」という目は向けられないだろう。

世間の目なんて気にしなくてもいい! と言うのはかんたんだが、社会で生きるぼくらはそんなに強くない。
“世間”から白い眼を浴びながら生きていくのはすごくしんどい。“世間”にあわせるほうが楽だ。少なくともぼくにとっては。

だからぼくは用もないのに公園に行ったりしない。
もし行くならこぎれいな恰好をする。
本を読む、たいして飲みたいわけでもないコーヒーを飲むなどして「目的のある人」であることをアピールする。


また、ぼくの所属する会社は服装自由だが、ぼくはスーツを着て出勤している。
なぜならスーツを着ているだけで、“世間”からの風当たりはぐっとやわらぐから。
サングラスにジャージ姿よりも、スーツ姿のほうが見知らぬ人から警戒されずに済むから。

高校生のときは、まだぼくは「犯罪者予備軍」ではなかった。
人目を気にせず好きなことをできた。
学校帰りに公園に行ってベンチの上にひっくりかえって昼寝をしたこともある。
周囲の人からは「変な学生」とおもわれるかもしれないが、変質者には見えないだろう。学校の制服、という帰属を表すサインを持っていたから。

屋根の上によじのぼって本を読んでいたこともある。
近くを歩いている人からしたら「あそこの息子さん変な子ね」とはおもっただろうが、「警察に通報しなきゃ!」とまではおもわなかっただろう。学生の特権だ。

でも今のぼくは、公園で寝ることも意味なく屋根によじのぼることもできない。
通報されかねないから。
少なくとも「変わった子ね」という生あたたかい視線ではなく、「ヤバい人だ」という凍てつく視線を向けられることは必至だ。

なぜなら、いい歳した男は存在自体が犯罪者予備軍だからだ。



子どもが生まれたことで、ぼくの犯罪者予備性はぐっとやわらいだ。

ベビーカーを押していると、赤ちゃんをだっこしていると、子どもと手をつないでいると、どこで何をしていても不審者扱いされない。

昼日中に公園にいても、道端に立ち止まっても、ショッピングモールの女性下着売場の前を歩いても、エレベーターで女子高生と乗り合わせても、「あの男こんなとこで何やってんのかしら。犯罪者じゃないの」という視線を感じない。

だって子ども連れだからな! 子連れは無敵だ。子どもはフリーパス。どこにいても許される。

そういや貧しい国だと、乞食に赤ちゃんを貸す商売があると聞く。
子連れの乞食のほうが多く恵んでもらえるからだそうだ。
子どもは免罪符。子どもを連れているだけで世間はぐっと優しくなる。

そして、子どもを連れて公園に行くぼくはこうおもう。
「なんだあの男、昼間っからベンチに座って。怪しいやつだ。うちの子に変なことするんじゃねえだろうな」と。


2019年12月16日月曜日

ハナクリーンの話

ハナクリーンSの話をしようとおもう。

知っているだろうか、ハナクリーンSを。
その名の通り、鼻をクリーンにする道具。またの名を、右の鼻から入れた液体を左の鼻から出す装置。

作っているのが東京鼻科学研究所で、販売しているのがティー・ビー・ケー。
なるほど、Tokyo Bikagaku KenkyujoでTBKなのだな。しらんけど。

ハナクリーン公式ホームページ

東京鼻科学研究所の沿革を見ると、
1979年2月 創業 鼻洗浄器「ハナクリーン」発売
1987年9月 鼻洗浄器「ニューハナクリーン」発売
1992年9月 鼻洗スプレー「ハナクリーンミニ」発売
1994年11月 鼻洗スプレー「ハナクリーンミニ30」発売
1995年9月 鼻洗浄器「ハナクリーンEX」発売
1997年9月 鼻洗スプレー「ぐ~クリーン」発売
1998年9月 鼻洗浄器「ハナクリーンα」発売
1999年9月 鼻洗スプレー「ハナぴゅあ」発売
1999年11月 鼻洗浄器「ハナクリーンS」発売
……と続く。一貫して鼻を洗うことしかやっていない。実に潔い。
創業以来40年、一途に人々の鼻をきれいにすることだけを考えてやってきたのだ。なんと尊い考えだろう。スポーツ選手とか芸能人ではなく、こういう会社にこそ国民栄誉賞をあげてほしい。

と、ぼくがさっき知ったばかりのこの会社を絶賛するのは、昨日試してみたハナクリーンSの効果がすばらしかったからだ。

添付しているサーレという薬をお湯で溶かし、ハナクリーンSを使って鼻に注ぎこむ。

おお、ぜんぜん痛くない。
ちょうどいい濃度、ちょうどいい温度なのでまったく痛くないのだ。ぬるま湯を飲むのと同じで、ただ流れこむだけ。
はじめはおそるおそるやっていたのだが徐々に勢いよく入れる。そして鼻をかむ。
これを何度かくりかえすと、鼻の奥にたまっていた鼻水が一気に流れ出てすっきりする。
鼻が通るようになり、右の鼻から入れた液体が左の鼻から出てくる。口からも出てくる。鏡を見るとめちゃくちゃマヌケな姿だが、これが気持ちいい。

水道管のパイプ洗浄剤ってあるじゃない。ぬめり詰まりをごぼっととるやつ。あれをやってる感覚。快感。
あー、人間って管なんだなーと実感する。
管なんだよね。鼻や口から肛門までの長い管。管のまわりに、管をとおるものを消化する器官や、それらを支える骨や筋肉がついている。単純化すればただの管。
溜まりに溜まった鼻水を洗い流すと、管に戻れる気がする。


何かの本で(たぶん『完全自殺マニュアル』だったとおもう)、服薬自殺に失敗したときは胃洗浄という処置をとられるがそれがめちゃくちゃ苦しい、と書いてあった。
胃にチューブをつっこんで液体を流し、胃を洗い流すのだという。

苦しいだろうな。
でも、終わったあとはめちゃくちゃすっきりするんじゃないかな。
胃や食道にこびりついた汚れを一気に洗い流すのだから、きっと気持ちいいだろう。
ちょっと経験してみたい気もする。でも苦しいのはイヤだな。

ぼくが死んだら、口から高圧の水を一気に流しこんで、食道や胃や腸のものを全部ずばずばずばーっと洗い流してほしい。
想像するだけでめちゃくちゃ気持ちよさそうだ。死んでるけど。汚いから誰もやりたくないだろうけど。
ただ、まちがっても入口と出口を逆にはしないでほしい……。

2019年12月6日金曜日

保育士の薄着至上主義と闘う


六歳の娘が熱を出した。
一日休ませたら元気になったので保育園に行くことに。
さすがに今日はあったかくしときなさい、長袖長ズボンで行きなさい(これまで半袖半ズボンだった。どうかしてる)というと、娘は泣いて抵抗する。
イヤだイヤだ、半袖半ズボンじゃないとイヤだ、と。

で、どうしてそんなに長袖長ズボンを嫌がるんだとくりかえし訊くと、娘が口を開いた。
「だって先生が長袖長ズボンはダメって言ってた……」


娘の言葉を鵜呑みにしたわけではない。
保育士が「長袖長ズボンはダメ」とはっきり言うとはちょっと考えられない。
だが、それに近い保育士からのメッセージはぼくも受信していた。

保育士たちがやたらと薄着を礼賛すること。

おたよりでも「冬でもなるべく薄着で過ごすよう指導しています」などと書いていること。

他の保護者が「うちの子はおなかこわしやすいんで長袖を着せていったら『なるべく半袖にしてくださいねー』と言われた」と語っていたこと。

少し前に子どもたちがみんな半袖半ズボンだったので「みんな寒くないん?」と訊いたら、子どもたちが口をそろえて「長袖なんか着るわけないやん!」と言ったこと。


矯正まではしなくても、園の方針として「なるべく薄着で過ごさせる」というスタンスでいるらしいこと、そしてその方針を子どもたちがまるで金科玉条のように絶対視していることを前々から感じとっていた。



くだらない。ほんとくだらない。

そのくだらなさがぼくにはよくわかる。
なぜならぼく自身、「一年中半袖半ズボンで過ごした子ども」だったから

「半袖半ズボンは元気の証」と信じていたぼくは、小学二年生のとき、親からどんなに言われても長袖長ズボンを着なかった。
もちろん寒かった。がたがた震えていた。家に帰ったらストーブの前に直行した。風邪もひいた。
他の大人たちから言われる「こんなに寒いのに半袖半ズボンなんてすごいねー」という言葉を、文字通りの褒め言葉として受け取っていた。本音は「ようやるわ。あきれた」なのだと理解していなかった。

そんな経験のあるぼくだからこそわかる。
無理して薄着でいることのメリットなんて何もないということが。



しかし多くの保育士が「薄着でいると元気になる」と信じているように見える。
保育士は、自分の経験から「薄着で遊んでいる子は元気な子が多い」とおもってしまうのかもしれない。

あほらしい。
典型的な[前後即因果の誤謬]だ。
薄着でいるから元気になるんじゃない、元気だから薄着で外で遊べるのだ。

その理屈で言うなら、「病院にいる子は公園にいる子より不健康な子が多い。ということは病院に行くと不健康になる」ということになってしまう。

ぼくが子どもの頃は「おひさまの下でいっぱい遊んで真っ黒になるまで日焼けした子は元気になる」と言われていた。
これも同じだ。元気だから外で遊べるだけの話だ。
現代において「紫外線をたっぷり浴びると元気になる」なんていう人はまさかいないだろう。
なのにまた同じ失敗をくりかえそうとしている。


いや知りませんよ。
もしかしたら、ほんとうに薄着で過ごすことが免疫力を高めるのかもしれませんよ。

でもそれを科学的に検証しようとしたら、多数の子どもを集め、ランダムに二つのグループに振り分けて、片方のグループには防寒具を着せ、片方のグループの子どもたちはどんなに寒がっても半袖半ズボンしか着せず、その二つのグループの数年後、数十年後の健康状態にどれだけ差が出たかを検証しないといけない。
そんな非人道的な実験が今の日本で認められるとは到底おもえないから、たぶん検証不可能だろう(仮に他の国で実験したとしてもそれはその国の気候でしかあてはまらない話だ)。

だから薄着で過ごすことが健康にいいかどうかを議論するのがそもそも無駄だ。
だったら「快適なほうを選ぶ」でいい。



仮に、子ども数百人を用いた非人道的実験がおこなわれて「半袖半ズボンだと元気になる」という結果が得られたとする。

それでもぼくは真冬に薄着で過ごさせることには賛成しない。

健康がすべてに優先するわけではない。

もしも「パンツ一丁で過ごすと元気になる」というデータが出たら、どうだろう。
男も女もパンツ一丁で過ごすか。パンツ一丁で往来を歩くか。
そんなバカなことはしない、と誰もがおもうだろう。
なぜならパンツ一丁で歩くことは健康云々に関係なく、非常識だからだ。

社会常識を教えるのも教育の役割だ。

「冬でも半袖半ズボン」は社会常識からは外れている。
たまにいるけどね、真冬でも半袖のおじさん。
あれを見て、たいていの人は「ああアレな人なのね」とおもう。
そりゃ冬でも半袖半ズボンのおじさんから「私の恰好見てどうおもいますか」と訊かれたら、面と向かって「ばかじゃないかとおもいます」とは言えないから「あ……えー……健康的ですごいなーと……おもいます……」と答えるだろうけど、それは本心ではない。

「冬には冬にふさわしい恰好があります。寒い中で半袖半ズボンで過ごすのはおかしなことです」と教えてやるのが保育士の仕事だろう。

子どもは「少し肌寒いからもう一枚着ていこう」などと判断する力がないからこそ、大人が先回りして防寒対策をしてやらねばならない。
(中学校などで衣替えの時期が決まっているのも同じ理由だとおもう)



いくら「あったかい恰好をしなさい」と言っても娘が「でも長袖長ズボン着てる子は弱いって言われるから……」と渋っていたので、洗脳を解くためにかなりきつい言葉で言い聞かせた。

「いい? 長袖長ズボンをダメってのは先生のウソなんだよ。ウソ! だから信じちゃダメ! その証拠に先生たちは長袖長ズボン着てるでしょ! 先生も適当に言ってるだけ!」

「寒いときに我慢して半袖半ズボンにする人はバカなだけ! バカなの! 先生が言ってることはバカなこと!」

娘が持っている保育士への信頼感を壊すようなことはできればしたくなかったが、強固に「薄着至上主義」を信じこまされていたので仕方がない。

何度も言うことで、ようやく娘も長袖長ズボン+コートを着てくれた。
洗脳が解けたかどうかはわからないが、まずは呪縛を解く行動をとることが必要だ。



……みたいなことを、二十分の一ぐらいに希釈して保育士への連絡ノートに書いた。

「いつもお世話になっております。ふざけたことをぬかさないでいただくようお願いいたします」みたいな感じで。

そしたらすぐ連絡があって、すんませんまちがってましたすぐ改めます、とめちゃくちゃ丁重に詫びられた。

……なんだかなあ。
それはそれで腑に落ちないというか。

「いやあなたはそういいますけどやはり薄着で過ごすことが大事だと私たちは考えるんですよ!」みたいな気概はないのかよ。
おまえら確固たる信念もなしに、他人に薄着で寒い中過ごすことを半ば強要してたのかよ。それただの虐待じゃん。

プロの保育士として信念があるんだったらちゃんとそれを主張しろよ、と。
信念がないんだったらはじめっから他人に自分の価値観を押しつけんなよ、と。

そんなふうにおもうわけです。
我ながらめんどくせえ保護者だなあ。



2019年12月5日木曜日

ニュートンのなりそこない


うちの次女。
こないだ一歳になった。
よちよちと歩くようになり、すれちがう人みんなに笑顔をふりまき、パーとかアイーとかの音を発するようになり、どこをとってもいとをかし。百パーセント癒しだけの存在だ。ウンコすらかわいい。

そんな彼女、近ごろは物理法則に興味を持ちだした。
机の上にあるものをひきずりおろしたり、箱を逆さにして中身をぶちまけたり、コップをひっくりかえしてお茶をこぼしたり、飽きもせずにそんなことをくりかえしている。
エントロピーが増大する一方なのでやめてほしいのだが、まあこれも彼女の正常な発達のために必要なんだろうとおもって基本的にはあたたかく見守っている(液体をこぼそうとするのは止めるが)。

こういう作業を何十回、何百回とくりかえすことによって
「これぐらい力を弱めると手からものが落ちる」
「ものを持っている手を離すととこれぐらいの速さで下に落ちる」
「液体は低い方に向かって流れる」
といった物理法則を経験的に学んでゆくのだろう。



ここでぼくはニュートンにおもいを馳せる。


ニュートンが「なぜものは下に落ちるのだろう」と疑問を持ったとき、周囲の人たちはどんな反応をしただろう。

「なるほど。言われてみればふしぎだ。何か大きな力がはたらいているのかもしれない。その力がなんなのか、どれぐらいの大きさなのか、気になるところだ」
……とはならなかっただろう。まちがいなく。

「は? 上から落としたら下に落ちるにきまってるだろ。わけのわからないこと言ってないで働け」

「なに赤ん坊みたいなこといってるんだ。落ちるから落ちる、それが答えだよ」

「だったらおれが教えてやるよ。おまえがクズだからそんなことを疑問におもうんだよ! わかったら働け!」

みたいなことを言われていたはずだ、ぜったい。
かわいそうなニュートン。

いや、ニュートンはまだいい。
そんな反応を受けながらも彼は研究に打ちこみニュートン力学を確立して後世に名を残したのだから。

ほんとうにかわいそうなのは、「なぜものは下に落ちるのだろう?」という疑問を持ちながらも「そんなこと考えるひまあったら働け」という声に負けて、研究の道をあきらめた数多くの、そして無名のニュートン予備軍たちだ。
もしも「たしかにふしぎだね。その理由をつきつめてみたらすごい発見につながるかもしれないよ」と言って背中を押してくれる理解者がいれば、彼らのうちの誰かがニュートンになっていたかもしれないのに。

そんな気の毒なニュートンのなりそこない。彼らと同じ道を我が子に歩ませないために、我が子がわざと食卓にお茶をこぼしてぬりひろげているのをぼくは今日もあたたかく見守る。
……でも液体はやめてくれって言ってるだろ!


2019年12月2日月曜日

かわいそうおばさん


妻が言う。
「二人目の育児になってから、“かわいそうおばさん”が寄ってこなくなった」

 「かわいそうおばさん? なにそれ?」

「赤ちゃんを連れて歩いていると、やたらとかわいそうかわいそうっていうおばさん。ひとりじゃなくて複数いる。『寒いのに外に連れだされてかわいそうねー』とか『あらー。泣いてるの。かわいそうねー』とか言ってくるの」

 「えっ、なにそれ。子どもは寒くたってお出かけが好きだし、赤ちゃんが泣くなんてごくごくふつうのことなのに」

「そう。今ならそうおもえるんだけどね。でもこっちははじめての子育てでいろいろ神経質になってるから、いちいち気にしちゃうのよねえ。自分の子育ては良くないのかもしれない、って」

 「その人たちは何が目的なんだろう」

「さあ。おまえの子育てはなってないって言って優越感にひたりたいんじゃない? だっこして歩いてたら『あらー。おんぶじゃなくてかわいそうねー』って言われたこともあるからね」

 「えええ。だっこがかわいそうなんだ。そういう人は、おんぶしてたらしてたで『だっこじゃなくてかわいそうねー』って言うんだろうね」

「だろうね。でも、そういうオバハンは気にする必要ないっておもうようになったら、向こうから寄ってこなくなった。はじめての育児で不安になってる母親ばっかり狙うんだろうね、かわいそうおばさんは。きっと弱ってるにおいをかぎわけるのよ。サメがケガした獲物の血のにおいに集まってくるように」

 「こえー。でもぼくもよく赤ちゃん連れて歩いてたけど、そんなおばさんには会ったことないなー」

「あいつらは弱い獲物しか狙わないからね。男の人のところには行かないのよ」

 「こえー。でもそうやって弱っているお母さんを狙って攻撃せずにはいられないなんて、きっとそういうおばさんたちは子育てでいろんなイヤな思いをしたんだろうね。だから後輩をいたぶらずにはいられない」

「先輩からしごかれつづけたから、自分が三年生になったときに後輩を殴るみたいな」

 「“かわいそうおばさん”が本当に『かわいそう』と言いたいのは過去の自分なのかも」

「そう考えると“かわいそうおばさん”こそがかわいそうな存在……とはならないからね! 自分がイヤな目に遭ったからって若い母親をいじめていいことにはならんわ! ×××××(書くのもはばかられる悪口)!」


ということで、幼い子どもを持つおかあさん。
“かわいそうおばさん”はほうっておくのがいちばんです。
もしくは「泣いてるの。かわいそうねー」と言われたら

そうなのよ、今日はあいにくいつも面倒を見てくれてる召し使いがお休みをとっちゃって。ばあやがいなくてほんとにかわいそうだわオホホホホ!

ぐらいのことを言って撃退するのがいいんじゃないっすかね。


2019年11月19日火曜日

おばけなんてじゃないさ


小学生のとき、親に「早く寝ないとおばけが出るよ」「いい子にしてないとサンタさんが来ないよ」と言われるたびに「何をくだらないことを言っているんだ」とおもっていた。
「しつけのために嘘を教えるなんて、指導者の立場にある人間として正しい行いとはおもえない」とおもっていた。
「自分が親になってもおばけだのサンタクロースだの妖怪あずきあらいだのといった茶番に子どもは付きあわせないぞ!」と決意した。

で、自分が親になって数年たった今、おばけもサンタクロースもばんばん使っている。
「夜更かししてるとおばけが出るよ」「じゃあサンタさんに悪い子ですって報告しとくわ」と言っている。

こんな恰好をして脅したこともある



同じく幼い子を持つ友人と話すと、やはりみんなおばけもサンタクロースも大いに活用しているようだ。

べつに積極的におばけだのサンタクロースだのと教えるわけではないが、子どもが保育園でおばけやサンタクロースの存在を仕入れてくるので、
「保育士がせっかく教えたものを、あえて否定することもあるまい」
と乗っかっているうちについつい依存してしまうのだ。

子を持ってわかる、先人の知恵の重要性。

おばけやサンタクロースというのは、いってみれば「賞罰の外注」だ。

ふだんは子どもに対する賞罰の権限は親が握っている。
「悪いことをしたから怒ります」
「言うこと聞かないと遊びに連れていきません」
「がんばったから好きなお菓子を買ってあげます」
と。

しかし、権限者が近くにいると都合が悪いこともある。
子どもが大きくなると、知恵をつけてきていろいろ反論されるようになる。
「こないだはよかったのになんで今日はだめなのよ」
「自分だって〇〇できてないくせに」
「なんで大人は好きなときにお菓子買ってるの?」

こう言われると困ってしまう。
親にもいろいろ事情があるのだ。
「忘れてた」とか「めんどくさい」とか「いいの! お父さんがいいって言ったらいいの!」とか、それぞれ正当な理由がある。
だがそれを子どもに言っても理解してもらえそうにない。

そこで、外注ツールを使うのだ。
それが、おばけであり、サンタさんであり、なまはげだ。
賞罰を与える主体が遠くの存在であれば、子どもの反論もなんなくかわせる。

「こないだはよかったのになんで今日はだめなのよ」
→ 「知らない。決めるのはおばけだもん」

「自分だって〇〇をできてないくせに」
→ 「おばけは子どもをさらうから、大人は関係ないんだよ」

「なんで大人は好きなときにお菓子買ってるの?」
→ 「大人のところにはサンタさんが来ないからね」


子どもというやつは、
大人はルールに従って生きているとおもっているし、
大人の言動は首尾一貫していなければならないとおもっているし、
大人は嘘をつかないと信じている。

大人の正しさを信じてくれることはありがたいのだが、そうすると現実とのズレが生じる。
そのズレを埋めてくれるパテがおばけでありサンタなのだ。

いやはやおばけさん、サンタクロースさん。
いつもたいへんお世話になっております。その節は存在ごと否定してしまい申し訳ございません。
もうほんと、おばけさんには足を向けて寝られません。どちらの方角にいるのか存じあげませんか。


2019年11月15日金曜日

早く行くのは三文の徳


中学三年生のとき。
部活を引退して、朝練がなくなった。
せっかく早起きする習慣がついたのにそれを捨てるのももったいないとおもい、早朝から学校に行くようにした。
本を読んだり、当時はまっていた漢字能力検定の勉強をしたりしていた。

ぼくが早く来るのを知って、友人Sも早く登校してくるようになった。
まだ誰もいない教室で、くだらない話をしたり、漢字クイズを出しあったりして過ごすようになった。

あるとき、早朝の教室に男性体育教師が怒鳴りこんできた。
「おいおまえらなにしとんねん!」

突然のことにぼくらはびっくりした。
そのときは漢検の問題集を広げていたので戸惑いながらも「えっ、漢字の勉強してるんですけど……」というと、体育教師はきょとんとした顔をした。

「ほんまか……? そっか、まぎらわしいことすんなよ……」
といって、職員室へ帰っていった。
残されたぼくらは顔を見合わせた。なにがまぎらわしいことなんだ?
どうやら体育教師は、ぼくらが早朝の教室で何か悪いことをしているとおもったらしい。
男子中学生というのは非行に走りやすい年頃だ。同級生には隠れて校舎の裏でタバコを吸ったりしている連中がいたので、ぼくらもその手合いだとおもわれたようだ。

その後も体育教師は何度かそっと教室をのぞきにきた。
よほど「誰にも言われないのに早朝から学校にきて勉強する生徒がいる」ということが信じられなかったらしい。



高校に進学してからも早朝に登校する習慣は続いた。
ぼくは野外観察同好会に入った。もちろん朝練はない。けれど朝練をしている野球部やサッカー部よりもずっと早く登校した。早く着きすぎて校門が開いていないこともあった。

早く行ったからといって何をするわけでもない。
まずは机につっぷして少し寝る。
学校に行って寝るのなら家で寝ればいいじゃないかとおもうかもしれないが、誰もいない教室で寝るのが楽しいのだ。おまけに遅刻の心配もないからストレスなく寝られる。
起きたら、本を読んだり、ときどき宿題をしたり、ぼくほどではないが早く登校してくる友人たちとしゃべったり。

そんなふうに朝の時間をのんびり過ごしていただけなのに、ふしぎと教師からは褒められるのだ。
朝、顔を合わせると「今日も早いな。えらいなー」と言われる。早く来て寝ているだけなのに、えらいと言われる。家でやらなかった宿題を学校でやっているだけなのにえらいと言われる。

これが放課後に教室に残っている場合だとこうはいかない。見回りに来た教師から「いつまで残ってんねん。はよ帰れよ」と注意されたりする。
ふしぎなことに、同じことをやっていても、朝だと「感心な生徒」になり、放課後だと「だらしない生徒」の扱いになるのだ。


そのとき学んだことは、社会人になってからも役に立った。
人は、早く来る人のことを「まじめなやつ」と評価するらしい。

三十分残業しても「がんばってるな」とは言われないが(まあぼくがいた会社は長時間が労働があたりまえだったってこともあるけど)、始業時間よりも三十分早く出社すると「まじめだな」と言ってもらえる。
逆に、始業時間一分前に来る社員は「だらしないやつ」というレッテルを貼られたりする。
毎朝一分前に来る人は、いつも同じ時刻に家を出て、少しでも電車が遅れたら走って遅れを取り戻したりして、すごくがんばっているように見える。毎朝ぎりぎりの人のほうがスケジュール管理をきっちりしているのに、だらしないと思われるのだから気の毒だ。

ぼくはだらしないから早めに家を出る。
ぼくからすると「毎朝一分前に来る」よりも「だいたい三十分前に着く」ほうがずっとかんたんだ。何も考えなくていいのだから。

だらしない人は早めに家を出るほうがいいぜ。
時間を気にしながらあわてるぐらいなら、早起きするほうがずっと楽だぜ。