2017年8月15日火曜日

ばか、なぜ寄ってくるんだ!



街中でビラを配っている人がいる。
ぼくはやったことがないが、つらい仕事だろうな、と思う。
夏は暑いし冬は寒いし立ちっぱなしだし、そしてなにより「人々から無視され、拒絶される」ということが心を削りそうだ。


ビラ配りに遭遇すると心が痛む。
少し先で、若い女性がコンタクトレンズのビラを配っているのが見える。
しかしぼくには不要なものだ。ぼくは以前レーシック手術をしたので両眼ともよく見えている。その証拠にほら、あんなに先にあるのにコンタクトレンズのビラだということがわかってるじゃないか。

拒絶するのは気が引ける。
向こうが「どうぞ」と言って差しだしたものを無下に断れば、彼女はきっと傷つくだろう。
人が人生に絶望するのは、大きな壁にぶつかったときだけではない。小さなストレスが積もりに積もり、最終的にほんの些細な出来事を引き金にして、自分自身や他人を傷つける行動にでるのだ。
ぼくの拒絶が、その引き金にならないともかぎらない。

といって「ありがとう。でもぼくは視力がいいからこれはぼくには不要なものだ。せっかくだから他の人に渡してくれるかい?」なんて丁重に説明して断られても薄気味悪いだけだろう。
「ヤベーやつに出会った」と思うこともきっとストレスだろう。

だったらもらっておいて後で捨てればいいじゃないか、と思うかもしれない。
しかし捨てると知りつつもらうことは彼女の前でいいかっこしたいばかりに自分に嘘をつくことになる行為だ。
ぼくがその余計な1枚を受け取ったことで、本来もらえていたはずの「コンタクトレンズ屋を探していた人」がビラをもらえなくなるかもしれない。


と考えると、「そもそもビラを差しだされないようにする」が最善手だ。
差しだされなければ傷つけれれることもないし、傷つけてしまった自分を苛むこともない。
「私たち、出逢わなければよかったのね。やりなおしましょう」

だからぼくは前方にビラ配りの存在を確認したら、針路を変えることにしている。道の右側にビラ配りがいたら、おもいっきり左に寄る。さらに視線もビラ配りから背ける。「私はビラをもらうつもりがありません」ということを全身で意思表示するのだ。


これでたいていの場合は八方丸く収まるのだが、中にはぼくの全身の訴えが届かないのか、道の反対側にまで駆け寄ってきてビラを差しだす強靭なハートの持ち主がいる。
やめてくれ。
数メートル前からあからさまに避けてるじゃないか。なぜ寄ってくるんだ。

『アドルフに告ぐ』に、ヒトラー・ユーゲントのアドルフ・カウフマンがドイツ在住のユダヤ人であるエリザの家族を逃がそうとするのだが、エリザの家族は財産を取りに家まで戻ってきてユダヤ人狩りに捕まるというシーンがある。まあ読んでない人にはさっぱりわからんと思うが、そのときカウフマンが「ばか、なぜ戻ってきたんだ! もう終わりだ!」と叫ぶ。
ビラ配りがすり寄ってきたときのぼくの心境も同じだ。
「ばか、なぜ寄ってくるんだ!」

そしてぼくは心を鬼にして、冷たい一瞥をくれてビラの受け取りを拒否する。

わざわざ寄ってきたおまえが悪いんだぞ!
そう思えば良心は傷まない。ビラ配りに胸を痛めている人にはおすすめの手法だ。というわけでぜひ、手塚治虫『アドルフに告ぐ』を読んでみてほしい。どんな結論だ。



2017年8月12日土曜日

自分はどうも信用ならん


自分のことが信用ならない。

ぼくは高いところが苦手で、橋の欄干近くを歩くときはすごくドキドキする。
そのとき頭をよぎるのは「急に橋がくずれたらどうしよう」とか「突風で飛ばされたらどうしよう」ではなく「急に飛び降りたくなったらどうしよう」という心配だ。
「よっしゃ飛び降りたれ!」という衝動に駆られたらと思うと、自分を制御できる自信がない。


駅のホームに立っていて、電車が近づいてくると「線路に飛び込んじゃだめだ。飛び込んじゃだめだ」と自分に言い聞かせる。
自殺なんて考えたことないのに。

貴志 祐介の『天使の囀り』という小説に、「スリルを味わいたくなる病気」なるものが出てくるが、その気持ちがちょっとわかる。

車を運転しているときにも「ここでおもいっきりアクセルを踏んだらとんでもないことになるな。でもだめだぞ」と思いながら運転している。
そんな人間が運転していると思うと、他の車や歩行者も怖くてしかたがないだろう。だからなるべくハンドルを握らないようにしている。



ぼくは今までにタバコを1本たりとも吸ったことがない。
二十歳くらいのときに友人から「吸ってみるか?」と勧められたことはあるが、好奇心よりも「1本吸ったらもう死ぬまでやめられなくなるんじゃないか」という恐怖心のほうが勝って、吸わなかった。タバコの煙に囲まれて死んでゆく未来の自分が見えた。
タバコやパチンコや覚醒剤を始める人間は「こんなものいつでも辞められる」と思って徐々にハマってしまうのだと聞く。よくそんなに自分のことを信用できるものだ、と感心する。ぼくは今までに何百回も自分に裏切られている(明日からはジョギングしよう、と思ったのにやらないとか)から、自分のことなどまったく信用していない。
自分のことを信用していないから、他人のことなんかもっと信用していない。


「信用」「信頼」という言葉はポジティブな意味で使われることが多いが、はたしていいことなんだろうか。

ぼくは自分を信用していないから危うきに近寄らないようにしているし、身体や社会に害のあるものに「1回だけ」と手を出すこともない。
また他人のことも信用していないから、人がミスをしたり悪さをしても腹も立たない。

困難なチャレンジをする際(たとえばダイエット)、自分を信じてポジティブにとらえる人(「きっと成功して半年後には痩せてるわ!」)よりも自分を信じていない人(「どうせ挫折して甘いものを食べてしまうよ……」)のほうが結果的に成功しやすいと聞いたこともある。

信用や信頼は捨ててしまったほうが世の中うまく回るんじゃないだろうか。


2017年8月11日金曜日

ぼくの好きなトーナメント表


トーナメント表が好きだ。

高校生のときから、高校野球のシーズンになると模造紙にトーナメント表を書いて部屋の壁に貼っていた。ちゃんと長さを計算して、寸分の狂いもないようにトーナメント表を書いていた。
それを眺めてはにやにやして、大会中はもちろん毎日勝敗や点数を書きこんで、大会後も次の大会が始まるまではずっと壁に貼ったままにしていた。

「勝ち上がってきた勝者同士が頂上でぶつかる」のが視覚的にわかるのがいい。
「勝者の後ろには多くの散っていった者が存在する」ことを感じられるのもいい。
負けたら終わりなので緊張感があること、一発勝負なので番狂わせが起こりやすいこと、消化試合がないこと。トーナメント戦には魅力がたっぷり詰まっている。

まだ1回戦がはじまってない状態でトーナメントを眺めて「あそことあそこが勝ったら準々決勝でぶつかるな……」とかいろいろ空想するのも楽しい。
大会が進むにつれて妄想する余地が減っていくので、「あっ、ちょっと待って。まだ始まらないでよ!」と思うこともある。
大会が終わってからもトーナメント表を見ると「3回戦の横浜ー星稜戦もいい試合だったな」と細かく思いだせる。

ぼくは高校野球が好きだが、もしトーナメント形式ではなく「総当たりで勝率1位のチームが優勝」というシステムだったとしたら、きっと今ほど好きじゃなかったと思う。
トーナメントだから好きなのだ。

プロ野球でも12球団によるトーナメント戦をやったらものすごく盛り上がると思うのにな。なんならサッカーの天皇杯みたいに学生チームや社会人チームも入れたトーナメント戦をやってほしい。


ぼくの好きなトーナメント表は、いびつな形をしたやつだ。
16とか32とか64より半端な数のほうがいい。シードが生まれるからだ。
運の入る余地があったほうがおもしろい。
高校野球でいうと、春の選抜は32校が出場し、夏の選手権大会は49校が出場する(記念大会除く)。春はシードがないので、ぼくは夏のほうが好きだ。

『幽遊白書』の暗黒武術会トーナメントもすごくいびつでよかった。あのトーナメント表を見たときは、当時の読者はみんなゾクゾクしたはずだ。


でも、プロスポーツでは意外とトーナメントをやらない。
ときどきやる(サッカー天皇杯とか大相撲トーナメントとか)ことはあっても、興行のメインではない。大相撲トーナメントなんかテレビ中継すらしないし。
野球のクライマックスシリーズではトーナメント表はあるが、あれは「負けたら終わり」ではないのでぼくはトーナメント戦として認めていない。
ゴルフのツアーのことを「トーナメント」と呼ぶが、これももちろんいわゆるトーナメント戦ではない。
ほとんどのスポーツはリーグ戦がメインで、トーナメントが興行のメインとなっているプロスポーツは、ぼくが知っているかぎりテニスぐらいのものだ。あとスポーツじゃないけど将棋。

トーナメント戦は試合数が必要最小限(出場チーム数-1)になってしまうので、プロスポーツとしては収入面で割にあわないのだろうな。負けたチームはひまを持てあますし。

プロスポーツは難しいかもしれないが、会社の採用試験とか、お見合いパーティーとか、市長選挙とか、もっといろんなところでトーナメント形式をとりいれてもらいたい。



2017年8月10日木曜日

笠地蔵の失礼すぎる恩返し



『かさじぞう』という昔話がある。
 たいていの人は知っていると思うが一応あらすじを書いておくと、

年の瀬におじいさんが笠を売りに出かけるが、笠はひとつも売れなかった。
帰る途中、おじいさんは地蔵を見かけ、雪が積もってはかわいそうだと思い売れ残りの笠を地蔵にかぶせてあげる。足りない分は自分の笠をかぶせる。
その夜、地蔵が恩返しのために餅や米俵や財宝を持ってきてくれた。

という話だ。

 この話、どうも納得できない。

 構造としてはいたってシンプルだ。「人(地蔵だけど)に親切にしてあげるといいことがありますよ」という話だ。それはわかる。
 しかし、おじいさんが地蔵に対して親切にして、その直後当の地蔵から恩返しをされる、という点が納得できない。



 どうやって恩返しをしたのか?


 まず、地蔵はどこから餅や米俵や小判を持ってきたのか? という疑問が浮かぶ。
 石づくりの地蔵が餅や米を常備しているとは思えないから、おじいさんに渡すためにどこかから調達したのだろう。山菜やキノコだったら「地蔵が山に行って取ってきた」ということも考えられるが、餅や米俵は自然界にはないから、地蔵が持ってくる以前は誰かのものであったはずだ。

「悪いやつ」がいれば、そいつから餅や米俵を奪って持ってくるという『義賊システム』も考えられる。
 だが『かさじぞう』に悪人は出てこない。
 仮に物語には出てこない悪党がいたとしても、地蔵が餅や米俵や小判を奪うというのは話として無理がある。



 地蔵には神通力があったのか?


「いやいや、どうやって入手したのか考えるなんて野暮だよ。地蔵は仏様の使いだからね。神通力があるんだよ。その神通力で餅や米や財宝を生みだしたんだ」
と言う人もいるだろう。
 では地蔵に神通力があったとしよう。好きなものを出現させられる幽波紋(スタンド)だ。

 だったらなぜはじめから笠を出さなかったのか?

 雪に凍えてつらかったのなら笠を出せばいい。八十八の手間をかけてつくると言われているお米を出現させるよりも、ばあさんが内職で作れる笠のほうがかんたんだろう。
 いや、神通力があるのだから笠といわずにダウンコートとかヒートテックとか屋根とか石油ストーブとかを出現させればいい。

 なぜやらなかったのか? 答えはひとつ、「必要なかったから」だ。
 あたりまえだ。神通力を備えている地蔵、しかも石づくり。吹雪なんか屁でもない。
 つまり、おじいさんがした笠をかぶせるという行為はまったくのおせっかいだったのだ。



気持ちの問題か?


「いやいや、おせっかいというのはドライすぎるでしょ。地蔵は、おじいさんの気持ちこそがうれしかったんだよ。だから恩返しをしたんだ」
という意見もあろう。
 なるほど、実益を伴わなくても行動してくれたことがうれしいということはある。
 ぼくも、四歳の娘が「はい、お父ちゃんにあげる」と言ってダンゴムシを差し出してきたときは、行為は迷惑千万だったが好意だけはうれしく感じたものだ。

 だが、売れ残りの笠をかぶせてくれたこと(しかもおせっかい)に対するお返しが「餅と米俵と小判」というのはどう考えてもやりすぎだ。逆に失礼じゃないか?

 考えてみてほしい。食べきれないほどのイチゴをもらったので、お隣さんにおすそ分けをする。その直後にお隣さんが「イチゴのお礼です」と言って百万円を持ってきたら、あなたは受け取るだろうか? もしくは地蔵のように夜中にこっそりやってきて郵便受けに百万円を入れていたら?

 まず受け取らないだろう。気持ち悪いから。
 どう考えても不釣り合いすぎる。ばかにされているように感じるかもしれない。



お返しの作法


 人から親切にしてもらったらお返しをするのは礼儀だが、お返しにはいくつかのお作法がある。

 1. 別の形でお返しする
 2. 時間をおいてお返しする
 3. 少なくお返しする

 これがお作法だ。

1. 別の形でお返しする』はわかりやすい。
 イチゴをもらったら、お返しにイチゴを持っていってはいけない。イチゴに対してイチゴでお返ししたら、「あなたがくれたイチゴはいりませんでした」という意味だと受け取られかねない。
 ピーマンをもらったからパプリカでお返し、というのもよろしくない。ぜんぜん違うもののほうが望ましい。
 また、現金を渡すのもなるべく避けたほうがいい。価値が一目瞭然だからだ。
「イチゴをもらった翌月、掃除のついでにお隣さんの家の前も掃いてあげる」だと、どっちがプラスなのかがわからない。この「損得をあいまいにする」ことこそが友好関係を維持するコツだ。


2. 時間をおいてお返しする』は、少しわかりづらい。
 お返しをするなら早いほうがいいと思うかもしれないが、好意を受けてその場でお返しをしたら、それは「取引」になってしまう。ただの物々交換だ。
 必要なのは、時間をおいて「好意をお預かりする」ことだ。
 親しい人の間では貸し借りがあるのがふつうだ。引っ越しを手伝ってあげたり、車で家まで送ってもらったり、どちらかが「借り」をつくっている。
「誕生日プレゼントを贈る」というのも貸し借りを生む行為だ。貸し借りをつくるためにやるといってもいい。なぜなら貸し借りのある関係こそが友好的な関係だからだ。

 人間関係における貸し借りは清算してはならない。
 今までにしてあげたこととしてもらったことを数えあげて収支を合わせようとするのは、金輪際おまえとは付きあわないぞ、という意味になってしまう。
「恋人と別れたときに彼から借りていたものを全部宅配便で送りかえしてやった」なんて話を聞いたことがあるだろう。あれはまさに「貸し借りを清算してあなたとの関係を絶つ」という明確な意思表示だ。


3. 少なくお返しする』のも同じ理由からだ。相手が好意を向けてくれた場合、借りをつくらなければならない。
 結婚式のご祝儀に対しては引き出物を贈るし、葬儀の香典には香典返しをするが、もらった額より少なく返すのが礼儀だ。同じ額、または上回る額でお返しするのはたいへん失礼だ。

と考えると、"その日のうちに" "もらった分よりはるかに多く" 返した地蔵の行動が、いかに礼を失したことだったかわかるだろう。




 地蔵はどうすべきだったのか


 先ほどお返しのお作法を3つ紹介したが、実はもうひとつお作法がある。

 4. 直接お返ししない

というものだ。
 特に目上の人から親切にしてもらった場合、本人にお返しをすること自体が失礼になることもある。

 新入社員が上司にごちそうしてもらったときは、その上司に対してお礼の品を贈る必要はない。上司もそんなことは望んでいない。新入社員が上司になったときに部下にごちそうしてやればいい。

「他者に返す」というのもお返しの作法のひとつだ。

 他者に返すのは、目上の人から親切にしてもらったときだけではない。
「困ったときはお互い様」という精神もある。
 自然災害に遭って義援金をもらったら、義援金をくれた人ではなく、別の災害の被害者に対して寄付をすればいい。


 だから吹雪の中でおじいさんから笠をもらった地蔵は、その恩をべつの困った人に対して向けるべきだったのだ。
 地蔵が誰かを助け、助けられた人がべつの人に親切にし、善意の連鎖がまわりまわっておじいさんのところに戻ってくる。

 こういうお話にしておけば、「他人におこなった親切はいつか戻ってくる」と同時に「善意に対して直接的な見返りを期待してはいけない」という教訓も得られるしね。


2017年8月9日水曜日

クソおもしろいクソエッセイ/伊沢 正名『くう・ねる・のぐそ』【読書感想】

伊沢 正名 『くう・ねる・のぐそ』

内容(「e-hon」より)
他の多くの命をいただいている私たちが、自然に返せるものはウンコしかない。著者は、野糞をし続けて40年。日本全国津々浦々、果ては南米、ニュージーランドまで、命の危険も顧みず、自らのウンコを1万2000回以上、大地に埋め込んできた。迫り来る抱腹絶倒の試練。世界でもっとも本気にウンコとつきあう男のライフヒストリーを通して、ポスト・エコロジー時代への強烈な問題提起となる記念碑的奇書。

40年間にわたってできるかぎり屋外でのウンコにチャレンジしつづけ、12,000回以上の野糞をしてきたによる伊沢正名さんによる半生記。
4793日連続でトイレで用を足さなかったという大記録を持ち、野糞のしやすさで仕事も住むところも決める。野糞の世界で(どんな世界だ)右に出る者はいない野糞界のレジェンド。

これめちゃくちゃおもしろい本だね。
伊沢さんの本業は菌類などの写真を専門にするカメラマンなのでキノコや菌の話もあるけど、ほとんどずっとウンコについて書いている。写真も豊富。なんと自分のウンコ(菌によって分解された後)の写真まで公開している。ぼくは電子書籍で読んだのだが、文庫版では問題の写真は「袋とじ」になっていたらしい。細かいところまでよく作りこまれている。


伊沢さんが野糞をはじめたきっかけは、屎尿処理場建設反対の住民運動を知ったことだったという。
屎尿処理場の恩恵にあずかりながら、自分の生活圏の近くには設置してほしくないという住民のエゴに疑問を持ち、そもそも排泄物を処理するのにエネルギーを使い有機物(ウンコ)を生態系サイクルの外に出してしまうことは自然環境にとってマイナスでしかないのでは、という疑問を持ち、ウンコを「自然にお返しする」ために野糞を始めたのだという。

さらに、紙も使わず葉っぱで拭いて仕上げに手に水をつけて拭く「インド式」を導入している。立派な美学を持っているのだ。

 しかし、私が心底衝撃を受けたのはそのことではない。それは、ちり紙がこれほど分解されないという事実を目の当たりにしたことだった。ちり紙は木材が原料のパルプでできているのだから、土に埋めれば適度な湿気があり、菌類などの働きで短期間のうちに分解され、土に還ると思っていた。ところが実際には、分解の進む暑い夏を越え、すでにウンコも葉っぱも姿を消しているにもかかわらず、紙だけはほとんどピカピカの状態で出てきたのだ。快適な使い心地を追求してさまざまに加工されたちり紙は、もはや単なる植物繊維ではなかった。大木をも分解する強力な菌類すら寄せつけないちり紙とは、一体どのような物質を含んでいるのだろう。自然の循環に自らを組み込む目的ではじめた野糞によって、いくら使用量を減らしたとはいえ、こんな代物をあちこちの林に埋め続けていたとは!
 野糞率アップなどといい気になっていたが、結果的に私の野糞は、ただのゴミのばら撒きだったのではあるまいか。そう思うと強い自責の念に苛まれた。

この文章を読めばわかるように、なんとも真面目な人なのだ。
真面目すぎるからみんなが看過している矛盾が許せないのだ。

伊沢さんの真面目さは、その記録や記憶にも現れている。
この本には伊沢さんが年別に何回野糞をして、野糞率(年間に野糞をした回数/全排便回数)も付記したデータが掲載されているが(こんなに役に立たないデータがかつてあっただろうか!)、それも彼が40年間排便のたびに手帳に記録をとりつづけていたおかげだ。

そして彼は、野糞のことをよく覚えてる。

 ところで、海岸での取材時には、野糞も当然海岸ですることになる。とはいえ波打ち際に近い砂浜では、あまりに見晴らしがよすぎて心もとない。排便という無防備な行為は、たとえ羞恥心のない野生動物でさえ、安心感のあるものでするものだ。私はすこし奥へ進み、腰くらいまで草が茂り、小さな松がまばらに生えたところでウンコをすることにした。地表は砂に覆われているが、すこし掘ると土が現れ、さらに植物の根っこも出てきた。穏やかな心持ちでウンコをしながら、ふと考えた。
 動物である私は、安心をもとめてここでウンコをしているが、植物の側から考えればどうなのだろう。海岸の痩せた砂地では、ウンコは貴重な栄養源だ。植物は身を隠す場を提供しつつ、そこで動物にウンコをさせて、必要な栄養を手に入れているのではなかろうか。動物は植物を利用しているつもりが、じつは植物の方でも動物の行動を、まんまと操っていたのかもしれない。共生の糸が張りめぐらされた自然の妙に、とんだところで気づかされた浜野糞だった。

ぼくも毎日のように用を足しているが、こんなふうに「いつ、どこで、どんなふうに、どんなことを考えながら」したかなんてまったく覚えていない。
間に合わずに漏らしたときか、よほど汚いトイレを使ったときしか記憶に残っていない。

だが伊沢さんは何十年も前の野糞を、じつに細かく描写している。状況が毎回変わる野糞をくりかえしていると、一回一回が「記憶に残るウンコ」となるのだ。
トイレで排便している人よりもはるかに充実した排便ライフを送っているわけで、ちょっとうらやましい。


さらに『くう・ねる・のぐそ』では、100回分以上の野糞を後日掘り返して、切断して断面を見たりにおいを嗅いだりして、ウンコの状態や経過日数によってどのように分解が進んでゆくかの記録が書かれている。

これは人類史上はじめての試みだろう。というか40億年前に地球上に生物が誕生してから、100回以上も自分のウンコを掘り返した生物なんて他にいないだろうから、生物史上はじめての偉業だ。
(しかも伊沢さんは季節による変化を調べるため、夏にも冬にもやっている)

そして得られたこの結論。

 私はこれまで、どちらかと言えばウンコを始末してもらうという意識で野糞をしてきた。ヒトは動物として、栄養を他の生きものに依存して生きるしかない。いわば寄生虫的な生物だと卑下していた。だからせめてもの罪滅ぼしに、食べた命の残りであるウンコを、全部自然に返そうと野糞に励んできたのだ。
 ところが、この野糞跡の掘り返し調査では、多くの動植物や菌類が私のウンコに群がり、たいへんな饗宴を繰り広げている現場を目撃した。ウンコは分解してもらうお荷物などではなく、とんでもないご馳走だった。ウンコをきちんと土に還しさえすれば、もうそれだけで生きている責任を果たせそうな気がしてきた。三十数年間背負っていた重荷が、スッと消えてなくなった。

この本を読むと、野糞をしたくなる。というよりトイレで用を足すことに罪悪感を持ってしまう。

「野糞をするうえで気をつけることは?」
「野糞をする人が増えたら分解できなくなるのではないか?」
「都会で野糞をしたら生態系にダメージを与えることにならないか?」
といった疑問にも、百戦錬磨の著者がずばりと回答してくれる。

都市部のマンション住まいのぼくには伊沢さんのようにいきなり「トイレでウンコをしない」というのはハードルが高いが、今度山登りに行ったときにはチャレンジしてみようかな。


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