2017年8月11日金曜日
ぼくの好きなトーナメント表
トーナメント表が好きだ。
高校生のときから、高校野球のシーズンになると模造紙にトーナメント表を書いて部屋の壁に貼っていた。ちゃんと長さを計算して、寸分の狂いもないようにトーナメント表を書いていた。
それを眺めてはにやにやして、大会中はもちろん毎日勝敗や点数を書きこんで、大会後も次の大会が始まるまではずっと壁に貼ったままにしていた。
「勝ち上がってきた勝者同士が頂上でぶつかる」のが視覚的にわかるのがいい。
「勝者の後ろには多くの散っていった者が存在する」ことを感じられるのもいい。
負けたら終わりなので緊張感があること、一発勝負なので番狂わせが起こりやすいこと、消化試合がないこと。トーナメント戦には魅力がたっぷり詰まっている。
まだ1回戦がはじまってない状態でトーナメントを眺めて「あそことあそこが勝ったら準々決勝でぶつかるな……」とかいろいろ空想するのも楽しい。
大会が進むにつれて妄想する余地が減っていくので、「あっ、ちょっと待って。まだ始まらないでよ!」と思うこともある。
大会が終わってからもトーナメント表を見ると「3回戦の横浜ー星稜戦もいい試合だったな」と細かく思いだせる。
ぼくは高校野球が好きだが、もしトーナメント形式ではなく「総当たりで勝率1位のチームが優勝」というシステムだったとしたら、きっと今ほど好きじゃなかったと思う。
トーナメントだから好きなのだ。
プロ野球でも12球団によるトーナメント戦をやったらものすごく盛り上がると思うのにな。なんならサッカーの天皇杯みたいに学生チームや社会人チームも入れたトーナメント戦をやってほしい。
ぼくの好きなトーナメント表は、いびつな形をしたやつだ。
16とか32とか64より半端な数のほうがいい。シードが生まれるからだ。
運の入る余地があったほうがおもしろい。
高校野球でいうと、春の選抜は32校が出場し、夏の選手権大会は49校が出場する(記念大会除く)。春はシードがないので、ぼくは夏のほうが好きだ。
『幽遊白書』の暗黒武術会トーナメントもすごくいびつでよかった。あのトーナメント表を見たときは、当時の読者はみんなゾクゾクしたはずだ。
でも、プロスポーツでは意外とトーナメントをやらない。
ときどきやる(サッカー天皇杯とか大相撲トーナメントとか)ことはあっても、興行のメインではない。大相撲トーナメントなんかテレビ中継すらしないし。
野球のクライマックスシリーズではトーナメント表はあるが、あれは「負けたら終わり」ではないのでぼくはトーナメント戦として認めていない。
ゴルフのツアーのことを「トーナメント」と呼ぶが、これももちろんいわゆるトーナメント戦ではない。
ほとんどのスポーツはリーグ戦がメインで、トーナメントが興行のメインとなっているプロスポーツは、ぼくが知っているかぎりテニスぐらいのものだ。あとスポーツじゃないけど将棋。
トーナメント戦は試合数が必要最小限(出場チーム数-1)になってしまうので、プロスポーツとしては収入面で割にあわないのだろうな。負けたチームはひまを持てあますし。
プロスポーツは難しいかもしれないが、会社の採用試験とか、お見合いパーティーとか、市長選挙とか、もっといろんなところでトーナメント形式をとりいれてもらいたい。
2017年8月10日木曜日
笠地蔵の失礼すぎる恩返し
『かさじぞう』という昔話がある。
たいていの人は知っていると思うが一応あらすじを書いておくと、
という話だ。
この話、どうも納得できない。
構造としてはいたってシンプルだ。「人(地蔵だけど)に親切にしてあげるといいことがありますよ」という話だ。それはわかる。
しかし、おじいさんが地蔵に対して親切にして、その直後に当の地蔵から恩返しをされる、という点が納得できない。
どうやって恩返しをしたのか?
まず、地蔵はどこから餅や米俵や小判を持ってきたのか? という疑問が浮かぶ。
石づくりの地蔵が餅や米を常備しているとは思えないから、おじいさんに渡すためにどこかから調達したのだろう。山菜やキノコだったら「地蔵が山に行って取ってきた」ということも考えられるが、餅や米俵は自然界にはないから、地蔵が持ってくる以前は誰かのものであったはずだ。
「悪いやつ」がいれば、そいつから餅や米俵を奪って持ってくるという『義賊システム』も考えられる。
だが『かさじぞう』に悪人は出てこない。
仮に物語には出てこない悪党がいたとしても、地蔵が餅や米俵や小判を奪うというのは話として無理がある。
地蔵には神通力があったのか?
「いやいや、どうやって入手したのか考えるなんて野暮だよ。地蔵は仏様の使いだからね。神通力があるんだよ。その神通力で餅や米や財宝を生みだしたんだ」
と言う人もいるだろう。
では地蔵に神通力があったとしよう。好きなものを出現させられる幽波紋(スタンド)だ。
だったらなぜはじめから笠を出さなかったのか?
雪に凍えてつらかったのなら笠を出せばいい。八十八の手間をかけてつくると言われているお米を出現させるよりも、ばあさんが内職で作れる笠のほうがかんたんだろう。
いや、神通力があるのだから笠といわずにダウンコートとかヒートテックとか屋根とか石油ストーブとかを出現させればいい。
なぜやらなかったのか? 答えはひとつ、「必要なかったから」だ。
あたりまえだ。神通力を備えている地蔵、しかも石づくり。吹雪なんか屁でもない。
つまり、おじいさんがした笠をかぶせるという行為はまったくのおせっかいだったのだ。
気持ちの問題か?
「いやいや、おせっかいというのはドライすぎるでしょ。地蔵は、おじいさんの気持ちこそがうれしかったんだよ。だから恩返しをしたんだ」
という意見もあろう。
なるほど、実益を伴わなくても行動してくれたことがうれしいということはある。
ぼくも、四歳の娘が「はい、お父ちゃんにあげる」と言ってダンゴムシを差し出してきたときは、行為は迷惑千万だったが好意だけはうれしく感じたものだ。
だが、売れ残りの笠をかぶせてくれたこと(しかもおせっかい)に対するお返しが「餅と米俵と小判」というのはどう考えてもやりすぎだ。逆に失礼じゃないか?
考えてみてほしい。食べきれないほどのイチゴをもらったので、お隣さんにおすそ分けをする。その直後にお隣さんが「イチゴのお礼です」と言って百万円を持ってきたら、あなたは受け取るだろうか? もしくは地蔵のように夜中にこっそりやってきて郵便受けに百万円を入れていたら?
まず受け取らないだろう。気持ち悪いから。
どう考えても不釣り合いすぎる。ばかにされているように感じるかもしれない。
お返しの作法
人から親切にしてもらったらお返しをするのは礼儀だが、お返しにはいくつかのお作法がある。
1. 別の形でお返しする
2. 時間をおいてお返しする
3. 少なくお返しする
これがお作法だ。
『1. 別の形でお返しする』はわかりやすい。
イチゴをもらったら、お返しにイチゴを持っていってはいけない。イチゴに対してイチゴでお返ししたら、「あなたがくれたイチゴはいりませんでした」という意味だと受け取られかねない。
ピーマンをもらったからパプリカでお返し、というのもよろしくない。ぜんぜん違うもののほうが望ましい。
また、現金を渡すのもなるべく避けたほうがいい。価値が一目瞭然だからだ。
「イチゴをもらった翌月、掃除のついでにお隣さんの家の前も掃いてあげる」だと、どっちがプラスなのかがわからない。この「損得をあいまいにする」ことこそが友好関係を維持するコツだ。
『2. 時間をおいてお返しする』は、少しわかりづらい。
お返しをするなら早いほうがいいと思うかもしれないが、好意を受けてその場でお返しをしたら、それは「取引」になってしまう。ただの物々交換だ。
必要なのは、時間をおいて「好意をお預かりする」ことだ。
親しい人の間では貸し借りがあるのがふつうだ。引っ越しを手伝ってあげたり、車で家まで送ってもらったり、どちらかが「借り」をつくっている。
「誕生日プレゼントを贈る」というのも貸し借りを生む行為だ。貸し借りをつくるためにやるといってもいい。なぜなら貸し借りのある関係こそが友好的な関係だからだ。
人間関係における貸し借りは清算してはならない。
今までにしてあげたこととしてもらったことを数えあげて収支を合わせようとするのは、金輪際おまえとは付きあわないぞ、という意味になってしまう。
「恋人と別れたときに彼から借りていたものを全部宅配便で送りかえしてやった」なんて話を聞いたことがあるだろう。あれはまさに「貸し借りを清算してあなたとの関係を絶つ」という明確な意思表示だ。
『3. 少なくお返しする』のも同じ理由からだ。相手が好意を向けてくれた場合、借りをつくらなければならない。
結婚式のご祝儀に対しては引き出物を贈るし、葬儀の香典には香典返しをするが、もらった額より少なく返すのが礼儀だ。同じ額、または上回る額でお返しするのはたいへん失礼だ。
と考えると、"その日のうちに" "もらった分よりはるかに多く" 返した地蔵の行動が、いかに礼を失したことだったかわかるだろう。
地蔵はどうすべきだったのか
先ほどお返しのお作法を3つ紹介したが、実はもうひとつお作法がある。
4. 直接お返ししない
というものだ。
特に目上の人から親切にしてもらった場合、本人にお返しをすること自体が失礼になることもある。
新入社員が上司にごちそうしてもらったときは、その上司に対してお礼の品を贈る必要はない。上司もそんなことは望んでいない。新入社員が上司になったときに部下にごちそうしてやればいい。
「他者に返す」というのもお返しの作法のひとつだ。
他者に返すのは、目上の人から親切にしてもらったときだけではない。
「困ったときはお互い様」という精神もある。
自然災害に遭って義援金をもらったら、義援金をくれた人ではなく、別の災害の被害者に対して寄付をすればいい。
だから吹雪の中でおじいさんから笠をもらった地蔵は、その恩をべつの困った人に対して向けるべきだったのだ。
地蔵が誰かを助け、助けられた人がべつの人に親切にし、善意の連鎖がまわりまわっておじいさんのところに戻ってくる。
こういうお話にしておけば、「他人におこなった親切はいつか戻ってくる」と同時に「善意に対して直接的な見返りを期待してはいけない」という教訓も得られるしね。
2017年8月9日水曜日
クソおもしろいクソエッセイ/伊沢 正名『くう・ねる・のぐそ』【読書感想】
伊沢 正名 『くう・ねる・のぐそ』
40年間にわたってできるかぎり屋外でのウンコにチャレンジしつづけ、12,000回以上の野糞をしてきたによる伊沢正名さんによる半生記。
4793日連続でトイレで用を足さなかったという大記録を持ち、野糞のしやすさで仕事も住むところも決める。野糞の世界で(どんな世界だ)右に出る者はいない野糞界のレジェンド。
これめちゃくちゃおもしろい本だね。
伊沢さんの本業は菌類などの写真を専門にするカメラマンなのでキノコや菌の話もあるけど、ほとんどずっとウンコについて書いている。写真も豊富。なんと自分のウンコ(菌によって分解された後)の写真まで公開している。ぼくは電子書籍で読んだのだが、文庫版では問題の写真は「袋とじ」になっていたらしい。細かいところまでよく作りこまれている。
伊沢さんが野糞をはじめたきっかけは、屎尿処理場建設反対の住民運動を知ったことだったという。
屎尿処理場の恩恵にあずかりながら、自分の生活圏の近くには設置してほしくないという住民のエゴに疑問を持ち、そもそも排泄物を処理するのにエネルギーを使い有機物(ウンコ)を生態系サイクルの外に出してしまうことは自然環境にとってマイナスでしかないのでは、という疑問を持ち、ウンコを「自然にお返しする」ために野糞を始めたのだという。
さらに、紙も使わず葉っぱで拭いて仕上げに手に水をつけて拭く「インド式」を導入している。立派な美学を持っているのだ。
この文章を読めばわかるように、なんとも真面目な人なのだ。
真面目すぎるからみんなが看過している矛盾が許せないのだ。
伊沢さんの真面目さは、その記録や記憶にも現れている。
この本には伊沢さんが年別に何回野糞をして、野糞率(年間に野糞をした回数/全排便回数)も付記したデータが掲載されているが(こんなに役に立たないデータがかつてあっただろうか!)、それも彼が40年間排便のたびに手帳に記録をとりつづけていたおかげだ。
そして彼は、野糞のことをよく覚えてる。
ぼくも毎日のように用を足しているが、こんなふうに「いつ、どこで、どんなふうに、どんなことを考えながら」したかなんてまったく覚えていない。
間に合わずに漏らしたときか、よほど汚いトイレを使ったときしか記憶に残っていない。
だが伊沢さんは何十年も前の野糞を、じつに細かく描写している。状況が毎回変わる野糞をくりかえしていると、一回一回が「記憶に残るウンコ」となるのだ。
トイレで排便している人よりもはるかに充実した排便ライフを送っているわけで、ちょっとうらやましい。
さらに『くう・ねる・のぐそ』では、100回分以上の野糞を後日掘り返して、切断して断面を見たりにおいを嗅いだりして、ウンコの状態や経過日数によってどのように分解が進んでゆくかの記録が書かれている。
これは人類史上はじめての試みだろう。というか40億年前に地球上に生物が誕生してから、100回以上も自分のウンコを掘り返した生物なんて他にいないだろうから、生物史上はじめての偉業だ。
(しかも伊沢さんは季節による変化を調べるため、夏にも冬にもやっている)
そして得られたこの結論。
この本を読むと、野糞をしたくなる。というよりトイレで用を足すことに罪悪感を持ってしまう。
「野糞をするうえで気をつけることは?」
「野糞をする人が増えたら分解できなくなるのではないか?」
「都会で野糞をしたら生態系にダメージを与えることにならないか?」
といった疑問にも、百戦錬磨の著者がずばりと回答してくれる。
都市部のマンション住まいのぼくには伊沢さんのようにいきなり「トイレでウンコをしない」というのはハードルが高いが、今度山登りに行ったときにはチャレンジしてみようかな。
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2017年8月8日火曜日
断られやすい誘い方をしろよ
断られやすい誘い方 をしろよ、と思う。
どういうことかというと、たとえばぼくが以前にいた会社では不定期でフットサルやバーベキューを開催していた。
そこで許せなかったのは、主催者の誘い方だ。
という誘い方が多かった。
この誘いを受けるたびに、なんて相手のことを考えられない人なんだろう、と心底腹が立った。
こんな誘い方をされると、断ることがすごくむずかしい。
いい大人なんだから、相手に断りやすい逃げ道を用意してあげてから誘えよ、と思う。
「〇月□日か△日にバーベキューをやるんですけど」とピンポイントで指定すれば、一応手帳を見るふりをして「ああすみません、どっちも予定がありまして……。行きたかったんですけど」とさしさわりのない嘘をついて断ることができる。
あと、用件を言わずに予定が空いているかを訊くやつも、バーベキューに火種を忘れていって生野菜だけ食うことになればいいのにと思うぐらい嫌いだ。
「〇日ひま?」って訊かれても、バーベキューのお誘いなら「その日は予定が」と答えるし、「もう使わなくなった100万円の札束あげるから家まで取りにきてくれない?」だったら「何の予定もないよ!」と即答するから、先に用件を言えよ。
まあ、ぼくは会社の人からどう思われようとわりと平気な人間なので、
「再来月の週末はすべて結婚式に出席する予定があるので参加できません」
「靴は革靴しか持ってないのでフットサルはできません」
と、丸わかりの嘘をついて断っていたんだけど。
どういうことかというと、たとえばぼくが以前にいた会社では不定期でフットサルやバーベキューを開催していた。
そこで許せなかったのは、主催者の誘い方だ。
「再来月あたりにバーベキューやろうと思ってるんですけど、いつがいいでしょう?」
「土日のどこかでフットサルをやろうと思います。(8ヶぐらい候補日が書かれた紙を見せてきて)参加できる日に〇をつけてください」
という誘い方が多かった。
この誘いを受けるたびに、なんて相手のことを考えられない人なんだろう、と心底腹が立った。
こんな誘い方をされると、断ることがすごくむずかしい。
いい大人なんだから、相手に断りやすい逃げ道を用意してあげてから誘えよ、と思う。
「〇月□日か△日にバーベキューをやるんですけど」とピンポイントで指定すれば、一応手帳を見るふりをして「ああすみません、どっちも予定がありまして……。行きたかったんですけど」とさしさわりのない嘘をついて断ることができる。
「〇日ひま?」って訊かれても、バーベキューのお誘いなら「その日は予定が」と答えるし、「もう使わなくなった100万円の札束あげるから家まで取りにきてくれない?」だったら「何の予定もないよ!」と即答するから、先に用件を言えよ。
まあ、ぼくは会社の人からどう思われようとわりと平気な人間なので、
「再来月の週末はすべて結婚式に出席する予定があるので参加できません」
「靴は革靴しか持ってないのでフットサルはできません」
と、丸わかりの嘘をついて断っていたんだけど。
2017年8月7日月曜日
本格SF小説は中学生には早すぎる/ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』【読書感想】
ジェイムズ・P・ホーガン (著), 池 央耿(訳)
『星を継ぐもの』
多くの読書好き中学生と同じように、ぼくも中学生のときはSF作品を多く読んだ。
星新一は小学生のときから好きだったから、そこから派生して、筒井康隆、小松左京、豊田有恒、かんべむさし、新井素子などあれこれ手を伸ばしていった。
でも、評価の高い筒井康隆の七瀬3部作なんかを読んでもいまいちぴんとこなかった。「筒井康隆もドタバタ短篇はおもしろいんだけど本格SFはあんまり楽しめないな……」
その頃読んだSF作品は数多くあるのだが、20年近くたった今でも記憶に残っているのは、星新一作品をのぞけば、新井素子『グリーン・レクイエム』ぐらいだ。『グリーン・レクイエム』は講談社文庫版 表紙の高野文子のイラストも含めて感動するほど美しい作品だった。借りて読んだのだが、あまりに良かったのですぐに買って本棚の特等席に並べた。
こういう本が絶版にならずに電子書籍で手に入る時代になったのはほんとにいいことだなあ。
話はそれたが、しばらくSFからは遠ざかっていたのだが、少し前にハインラインの『夏への扉』を読んで「SFってやっぱりおもしろいなあ」と思いを新たにした。
で、SF史上名作中の名作中の名作との呼び声高い『星を継ぐもの』(1977年刊行)を手にとった。
月面で人間の遺体が発見された。調べたが、地球上のどの国の人物でもない。遺体の年代を測定すると、彼は5万年前に死んでいたことがわかった。チャーリーと名付けられた遺体は、地球人なのかそれとも宇宙人なのか。彼はどうやって月面に降りたち、そしてなぜ死んだのか――。
という、なんともわくわくする導入。
そして期待を裏切らない展開。謎が謎を呼び、ひとつの謎が解決されるたびに新たな謎が浮上してくる。
ずっとこんな調子で、物理学、天文学、進化生物学、解剖学、考古学、言語学、化学、数学などありとあらゆる知識を総動員して、ひとつひとつの謎が丁寧に解き明かされてゆく。まるで推理小説のよう。
以前、『眼の誕生』という本を読んだとき、「どうやって生物は眼を持ったのか」という謎に対してさまざまな検証がおこなわれ、それが真実に向かって収束されていく展開に興奮をおぼえた。
『星を継ぐもの』を読んでいる間も、そのときに似た知識欲の昂ぶりを感じた。フィクションだとわかってはいるのに、まるで学術研究書を読んでいるかのような圧倒的なリアリティがあった。
小松左京も「知の巨人」と呼ばれていたけど、本格SF小説を書くには広く深い知識が必要なんだ、とつくづく思わされた。
SF小説の翻訳って難しいと思うけどこれは訳も良くてすんなり読めた。邦訳含めて名作だ。
『星を継ぐもの』は非常におもしろかったんだけど、ぼくが中学生のときにこの本を読んでいたら「おもしろくねえな」と思っていただろうと思う。
『星を継ぐもの』は、「5万年前に何があったのか?」の謎を解き明かす話なので、現在のストーリーだけで見ると退屈だ。科学者たちが集まってああでもないこうでもないと話しているだけだ。この物語のおもしろさは大胆すぎる想像を精緻な論理で形作っていくことにあるので、論理の流れが理解できなければ本の魅力は半分も感じられない。
天文学や進化生物学に関して少なくとも大学の一般教養程度の知識は持っていないと、謎解きについていけないと思う。
ぼくが中学生のときにSF小説をいまいち楽しめなかったのは、ぼくの知識が足りなかったからというものあるんだろうな。
当時はおもしろくないと思っていた作品の中にも、今読み返したら楽しめるものもたくさんあったんだろうな。
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