2016年1月31日日曜日

【エッセイ】ぼくのHong Kong


小学三年生のとき、家族で香港旅行に行った。
香港がイギリスから中国に返還されたのが1997年。ぼくが訪れたのは香港返還の少し前、まだイギリスの租借地だった時代だ。
(ところで「香港」は英語で「Hong Kong」だから、「香港返還」は「Hong Kong Heng Kang」だ)

住んでいるのはアジア人でありながら統治はイギリス。あくまで租借地なので植民地ともまたちがい、中国とイギリスの文化が入りまじった独特の雰囲気があり、たいへんおもしろかった。
……のだろうけど、当時8歳だったぼくにはそんなことまったくわからなかった。なにしろ日本国内さえろくに旅行したこともないのだ。香港の文化が独特かどうかなんてわかるわけがない。

覚えているのは、旅行中ずっと雨が降っていたこと、泥棒市と呼ばれる市場で折り畳み式のはさみと、折り畳み式の時計を買ってもらったこと(香港人は折り畳むのが好きなのだろう)、そして満漢全席を食べたことだ。

満漢全席とは。
Wikipediaによると、
清朝の乾隆帝の時代から始まった満州族の料理と漢族の料理のうち、山東料理の中から選りすぐったメニューを取りそろえて宴席に出す宴会様式である。後に、広東料理など漢族の他の地方料理も加えるようになり、西太后の時代になるとさらに洗練されたものとなった。盛大な宴の例では途中で出し物を見たりしながら、数日間かけて100種類を越える料理を順に食べる場合もあったと言われる。
だ、そうだ。
さすがにぼくが食べたのは数日かけて食べるようなものではなかったが、それでも30以上の料理が順に出てくるコースだった。

電子レンジが古くなって、10分稼働させないとごはん一杯をあたためられなくなってもまだ買い替えず、ついにはお茶を温めながらぼかんという音を立てて大量の真っ黒い煙を噴きだすという、20人以上から一斉に刺されて死んだカエサルに匹敵するぐらいの壮絶な最期を遂げるまでボロい電子レンジを使いつづけた我が家からすると、一家心中前夜かと思うほどの贅沢だった。


まずはじめにフカヒレスープが出てきた。
フカヒレスープを食べるのは生まれてはじめて。
一口すすって、驚いた。
世の中にこんなにうまいスープがあったなんて。

スープといえば、家で出てくる具だくさんすぎて豚汁みたいになってるコーンとかぼちゃとにんじんのポタージュか、給食で出されるねじで出汁とってんのかってぐらい機械油くさいワカメスープしか飲んだことのなかったぼくにとって、はじめて口にするフカヒレスープは衝撃的なお味だった。


ものすごくうまかったフカヒレスープだが、そのときのぼくは半分ほどしか飲まなかった。
なぜなら、両親からこう言われていたから。「30種も料理が出てくるコースだから、全部食べてたら途中でおなかいっぱいになっちゃうよ」と。
なるほど。
30種のコースの最初に出てくるスープなど、しょせんは序ノ口。この後、二段目、三段目、十両、前頭、小結、関脇、大関、横綱、親方と徐々に手強い相手が出てくるにちがいない。
ぼくはさらなる美味に備えるため、フカヒレスープには半分しか手をつけなかった。

そして。
その後に出てきた料理は、ことごとく口にあわなかった。
子どもの味覚は保守的だ。食べなれた味を好み、珍しいものはあまり食べようとしない。動物の本能が濃く残っているのかもしれない。
そんな味覚保守党の8歳のぼくの口には、外国の料理などもちろんまったくあわなかった。

これはおいしくない。
これは辛すぎて食べられない。
これは風味にクセがありすぎる。

次から次へと出てくる料理を次から次へと残す。
さっき残したフカヒレスープをまた飲みたいと思うが、コースだからとっくに皿は下げられたあとだ。
こうして、途中でおなかいっぱいになるどころか最後までおなかに余裕を残したまま、ぼくの満漢全席デビュー戦は終わった(そしていまだに再戦を果たしていない)。

あれから二十余年。
今ではぼくも毎日おやつ代わりにフカヒレをかじれるぐらいの収入を手にするようになったが(サメ絶滅するわ!)、あのときの味を超えるフカヒレスープにはいまだに出会っていない。

やはりあのとき、後のことなど考えずにフカヒレスープを飲みほしておくべきだったと、今でもZang Nengでならない。

2016年1月30日土曜日

【読書感想】Newton別冊 『統計と確率 ケーススタディ30』

Newton別冊『統計と確率 ケーススタディ30』


統計の本は何冊か読んだけど、入門書としてはこの本が優れているように思う。
正規分布や標準偏差といった基本中の基本から、疑似相関や標本誤差といった陥りがちな失敗例まで取り上げている。

株価の変動、新薬の開発、スポーツの八百長調査、生命保険の掛け金の決め方、世論調査、ギャンブルで理論的に儲ける方法、迷惑メールの振り分け方、DNA鑑定が間違う確率など、社会のあらゆる分野で統計と確率は根幹を支えている。

この本では、ケーススタディというだけあって、それらをひとつひとつ、事例と図と数式で懇切丁寧に説明している。
統計を専門的に学ぼうという人よりも、むしろ数学も統計も苦手という人に読んでもらいたい。
なにしろ、さっきも書いたようにこの社会のありとあらゆるところで統計と確率は使われている。
ということは裏を返せば、統計と確率を知らなければ、さまざまな局面で不利益を被るということなのだから。



この本の中で紹介されている「疑似相関」について紹介。
1)
日本人男性の年収と体重には相関関係があります。体重が重い人ほど、年収が高い傾向がある。

2)
理系が文系かということと、指の長さの間に相関関係があります。理系の人々には人差し指が薬指より短い人が多く、文系の人々には同じくらいだという人が多いのです。

3)
図書館が多い街ほど、違法薬物の使用による検挙数が多い。
上の文章は、すべて間違ってはいないが、誤解を招く内容になっている。どこが問題か、わかるだろうか?

これらはすべて疑似相関で、因果関係があるように見えるのは以下の理由によるものだ。

1)年収が高いのは体重のためではなく、男性は年齢を重ねると体重が増える傾向にあり、年齢が高いほど年収も増えるので、因果関係があるように見える。

2)男性には人差し指が短い人が多く、男性には理系が多い。

3)図書館が作られるのは人口が多い街で、人口が多い街ほど犯罪の検挙数も多い。


わからなかった方は、統計にだまされないようにご注意を。
テレビで伝えられている統計なんか、こんなのばっかりですよ。

2016年1月28日木曜日

【読書感想文】橘 玲 『「読まなくてもいい本」の読書案内 ー知の最前線を5日間で探検するー』


橘 玲『「読まなくてもいい本」の読書案内 ー知の最前線を5日間で探検するー』

内容(Amazonより)
20世紀半ばから“知のビッグバン”と形容するほかない、とてつもない変化が起きた。これは従来の「学問」の秩序を組み替えるほどの巨大な潮流で、少なくとも100年以上、主に「人文科学」「社会科学」という分野に甚大な影響を及ぼすことになるだろう。この原動力になっているのが、複雑系、進化論、ゲーム理論、脳科学、ICT(情報通信技術)などの爆発的な進歩だ。本書では、5つの分野に分けて何が起きたかを解説、「読まなくていい本」を案内することで読むべき本が浮かび上がる構造になっており、これ一冊で効率よく知の最前線を学ぶことができる。

あとがきで橘玲氏がこう書いている。
 古いパラダイムでできている知識をどれほど学んでも、なんの意味もない。
 一九八〇年代には、NEC(日本電気)が開発したPC ─ 9800が日本ではパソコンの主流で、 98(キュウハチ)のOSを専門にするプログラマがたくさんいたけれど、マイクロソフトの Windows の登場ですべて駆逐され、その知識は無価値になってしまった。哲学や(文系の)心理学は、いまやこれと同じような運命にある。「社会科学の女王」を自称する経済学だって、「合理的経済人」の非現実的な前提にしがみついたり、複雑系を無視してマクロ経済学の無意味な方程式をいじったりしている学者はいずれ淘汰されていくだろう。

この本の主張はほとんどこれに要約されている。
ぼくが大学時代、一般教養の授業で「囚人のジレンマ」に代表されるゲーム理論や、マルクス経済学や、フロイトやユングなんかを学んだ。講義で指定されているテキストは何十年も前に発刊されたものだった。
コンピュータの世界だと、十年前のテキストなんか何の役にも立たない。
ところが経済学や心理学の世界では、へたしたら百年前の理論が幅をきかせていたりする。あれだけ多くの人が研究しているのに、何の進歩もないのか?
まさか。

もちろん古いものが役に立たないわけではない。ダーウィンの進化論は(誤りもあるにせよ)大枠のところでは今でもさまざまな進化論の土台になっている。
だが、この本では、こんな例を説明している。
 フロイトは一九世紀末のウィーンの女性たちに蔓延していたヒステリーの治療から、無意識の影響力の大きさに気がついた。そして、神経症の原因は社会的・文化的に禁じられている欲望を無意識に抑圧しているからだという精神分析理論を唱えた。
(中略)
だがフロイトの評価が難しいのは、そこから先の理論がほとんど間違っているからだ ─ ─ それも、とんでもなく。
 エディプスコンプレックスなんてなかったし、女の子は自分がペニスを持っていないことで悩んだりしない。どのような脳科学の実験からもリビドー(性的エネルギー)は見つからないし、意識が「イド、自我、超自我」の三層構造になっている証拠もない。夢は睡眠中に感覚が遮断された状態で見る幻覚で、抑圧された無意識の表出ではなくたんなる「意識」現象だ。

役に立たないならまだしも、誤解を生むだけのまちがった理論がずっと教育の現場では栄えつづけていたりする。
ぼくが中学校のときの教科書には「原子はそれ以上細かく分けることができない。ある原子から新たにべつの原子をつくることもできない」と書いてあったが、もちろんこれは真っ赤な嘘だ(たぶん今の教科書にも書いてあると思う)。
古い教科書で学んだ人が教師になり、自分が教わったことをそのまま次の世代にも教える。教科書を作っている人も今の研究なんか学んでいないから、何十年たっても何も変わらない。
新しいことをやっている人は学生に教えている時間がないし、教えている人は新しいことを学ぶ時間がない。

ぼくは、学生のときにリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』と池谷裕二の『進化しすぎた脳』を読んで、めまいがするほどの衝撃を受けた。
新しい知見を得て、学校で習ってきたことはなんだったんだ! と叫びたくなった(ドーキンスはそのときでもすでに生物学の世界では古典だったけど)。
「人はなぜ生きるのか」という問いに対する答えは、科学の世界ではとっくに明らかになっている。「遺伝子を残すため」が答えであり、脳はそのために設計されているから、人の行動はそれで説明がつく。もっと早く教えてほしかった。



以下、再び『「読まなくてもいい本」の読書案内』より引用。
まず、次の二つの質問を考えてほしい。

質問一 あなたには以下の二つの選択肢があります。どちらを選びますか。
選択肢A 一〇〇万円が無条件で与えられる。
選択肢B コインを投げ、表が出たら二〇〇万円が与えられるが、裏が出たら何も手に入らない。

質問二 あなたは二〇〇万円の借金を抱えています。そのとき、以下の二つの選択肢が提示されました。どちらを選びますか。
選択肢C 無条件で負債が一〇〇万円減額され、負債総額が一〇〇万円になる。
選択肢D コインを投げ、表が出たら負債が帳消しになるが、裏が出たら負債総額は変わらず二〇〇万円のまま。

 この実験はとてもかんたんなので、欧米だけでなく世界じゅうで行なわれているが、文化のちがいに関係なく、質問一では圧倒的に選択肢A(一〇〇万円が無条件で手に入る)を選ぶひとが多い。ところが選択肢Aを選んだほぼ全員が、質問二では選択肢D(コイン投げで表が出たら負債は帳消しになるが、裏が出たら借金はそのまま)を選択する。でもこれは、「合理的経済人」の行動としてはものすごくヘンなのだ。
(中略)
 ひとがこうした選好を持つ理由は、進化心理学で明快に説明できる。 進化適応環境(EEA)である石器時代には、そもそも「負債」などという概念はなかった。原始人が知っていたのは、獲得する(利益を得る)か、奪われるか(損をする)かの二者択一だ。そのうえ原始時代には、富を蓄える手段がほとんどなかった。獲得するものの多くは生の食料で、たくさんあっても腐らせるだけでほとんど役に立たなかった。大事なのは大量に獲得することではなく、確実に獲得することなのだ。
 それに対して、損をする=獲物を奪われることはただちに死を意味した。ぜったいに損をしないことが生存の条件で、万が一損をしたらただちに取り返さなければならない。そう考えれば、「生きる望み」のある選択肢Dが選好されるのは当然だ。
ぼくもやはりAとDを選んだ。
シンプルだが、明快で力強い考え方ではないだろうか。
こういうことを知らずにミクロ経済学を論じた本をいくら読んでも無駄だとわかるだろう。



はたまた、「正義」についての脳の研究。
 正義についてはむかしからあまたの思想家・哲学者がいろんなことを語ってきたが、現代の脳科学はここでもたった一行で正義を定義する。正義は娯楽(エンタテインメント)である。
(中略)
 復讐はもっとも純粋な正義の行使で、仇討ちの物語があらゆる社会で古来語り伝えられてきたように、それは人間の本質(ヒューマン・ユニヴァーサルズ)だ。そればかりか、「目には目を」というハンムラビ法典の掟はチンパンジーの社会にすら存在する(仕返しは認められるが、過剰な報復は禁じられている)。
 ひとはなぜこれほど正義に夢中になるのか。その秘密は、現代の脳科学によって解き明かされた。脳の画像を撮影すると、復讐や報復を考えるときに活性化する部位は、快楽を感じる部位ときわめて近いのだ。

人間が善行をするのも罪を犯すのも、すべては「脳が遺伝子を残すための設計になっているため」だ。
ほどほどに正義感を持ち、ほどほどに悪いことをする人間が遺伝子を残す上で有利であったため、そういう人間だけの世の中になった。
すべては遺伝子を残すための戦略だ。
その事実を知っているかどうかで、ものの見え方はまったくちがう。
「ゴミの排出を減らすには」「臓器提供者の割合を増やすには」「脱税をさせなくするには」といった問題に対する進化行動学からの見事な解答も、この本では紹介されている。

最新の脳研究については、医学や薬学だけでなく、哲学や倫理学、心理学、経済学、政治学、法学、教育学なと、あらゆる学問に携わる人間が知っておくべきことだ。

古くて役に立たない考え方がわかるようになるし、なにより、新しい見方で世界をとらえられるようになるのはおもしろいことだから。


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2016年1月27日水曜日

ムダを避けようとしてムダなことをする話


たとえば、電車に乗って友人の家に行くとする。


友人の家は、A駅とB駅の間にある。
A駅からだと歩いて15分、そのひとつ先のB駅からだと5分かかる。
A駅~B駅間は、電車だと3分だ。運賃はどちらで降りても変わらない。

この場合、B駅まで電車に乗って5分歩くほうが、A駅から歩くよりも早く目的地に着く。
でも、ぼくはA駅で降りる。
7分余計に歩くとしても、A駅から歩く。
なぜなら「引き返したくない」から。
さっき通った道を、まっすぐ引き返すのはムダだから、極力したくない。

A駅から歩くほうが時間も体力も無駄にしていると理屈ではわかっているけど、
「来た道をただ引き返す」という精神的なムダに比べればずっとマシだ。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

べつの例。
昼食を食べようと、定食屋に行く。
だがちょうど店はいっぱい。
店員に「5分ほどお待ちいただくことになります」と云われる。
だったらぼくは、この先5分歩いたとにあるべつの定食屋に行く。

5分待つくらいなら5分歩いて遠くの店に行くほうがマシだ。
5分先の店が空いているかもわからないし、食べおわったあとにまた5分歩いて戻ってこなければならないわけだから、実際はここで待ってたほうがずっとムダがない。
でもいやなのだ。
「ただ並ぶ」という時間がすごくムダに思えてしかたがない。


さっきは「来た道を引き返したくない」といっていたくせに、今度は「5分歩いて向こうの店に行って、また5分歩いて戻ってくる」という選択をするのは矛盾じゃないかと思われるかもしれない。
しかし、これはぼくにとってはぜんぜん別の話だ。
後者は、行きは「ごはんを食べに行く」、帰りは「家に帰る」という目的がある。
目的のために歩くのはぜんぜんムダじゃない。

こういう、ムダを避けるあまりムダなことをしてしまう感覚、うまくことわざとかで言い表せないだろうか。
「皿洗いたくなくて新しい皿買いに行く」みたいな。

2016年1月26日火曜日

【エッセイ】世界三大がっかり料理 ~駅弁編~


ちょっと待って。
冷静に考えてみて。
それ、ほんとにおいしいわけ?
ほら、あなたが今、おいしいおいしいって云いながらパクついてる駅弁のこと。
誰も言わないならあたしが言う。
何度も駅弁に騙されてきたあたしが言う。

駅弁はおいしくない!

揚げ物は冷めてるし、ごはんは固いし、刺身はぬるいし、傷まないように保存料は多いし、ボリュームのわりに値段はけっこう高いし、改めて考えたら駅弁にいいとこなんかひとつもない。

え?
……あー、はいはい。
なるほど、なるほど。

はい、反論出ました。
旅情によるおいしさ3倍説ね。
駅弁は雰囲気を含めて味わうもの説ね。

当然、駅弁擁護側からそういう反論が出ることは予想していました。
あたしは声を大にして言いたい。

風景だとか旅情だとかに騙されちゃいけない!
そんなものは言い訳にすぎない。
それってほら。

夫には先立たれ、ひとり暮らしも長くなり、孫たちが大きくなってからはめったに寄りつかず、そんなときに現れておばあちゃんおばあちゃんといってほんとうの孫よりもなついてきたあの青年。
老後のために蓄えていたお金は騙しとっていったけれど、あの優しさは本物だったと信じたい……!

っていうおばあちゃんの気持ちと一緒。駅弁がおいしいと思いこむのって。
いくら親切にされたって詐欺は詐欺。
旅情なんか駅弁があなたを騙すための見せかけの優しさよ。
そんな甘い誘いに乗っちゃだめ。すぐに途中下車して。駅弁だけに。

あたしも、これまで何度、駅弁に裏切られてきたか。

旅情によっておいしくなる説がほんとうなら、コンビニのパンでもかまわないと知りながら。

その土地のものを食べたいのなら、電車を降りてお店に入ったほうが同じ値段ではるかにおいしいものを食べられると知りながら。

それでも、けなげに駅弁を買った。
いつかこの人(駅弁)は、まじめに働いてくれる。あたしのひたむきな愛に誠意を持って応えてくれるひが必ず来るはず。

けれどもあたしの思いもむなしく、駅弁はまたもおいしくない。


なんてだめな人。
あたしが支えてやらなければ。
デパートの駅弁フェアに足を運んだりもした。
でもやっぱり駅弁は変わらない。
駅弁のわたしに対する態度は、駅弁の揚げ物と同じくらい冷めている。

そしてあたし気づいたの。
駅弁は、このままじゃもっとだめになる。

だから、こうして駅弁の悪いところをさんざん挙げていってるわけ。
これはあたしから駅弁への決別宣言。

そう。
駅弁を愛しているから!

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【エッセイ】世界三大がっかり料理 ~パエリア編~