2017年9月25日月曜日

「品がいい」スパイ小説/柳 広司『ダブル・ジョーカー』【読書感想】

『ダブル・ジョーカー』

柳 広司

内容(e-honより)
結城中佐率いる異能のスパイ組織“D機関”の暗躍の陰で、もう一つの諜報組織“風機関”が設立された。その戒律は「躊躇なく殺せ。潔く死ね」。D機関の追い落としを謀る風機関に対し、結城中佐が放った驚愕の一手とは?表題作「ダブル・ジョーカー」ほか、“魔術師”のコードネームで伝説となったスパイ時代の結城を描く「柩」など5篇に加え、単行本未収録作「眠る男」を特別収録。超話題「ジョーカー・ゲーム」シリーズ第2弾。

『ジョーカー・ゲーム』に続く"D機関"シリーズ2作目。

シリーズものの小説ってたいてい「だんだん質が落ちてくる」か「同じようなパターンで飽きてくる」のどっちかなんだよね。
夢枕獏『陰陽師』シリーズなんか、はじめはおもしろかったけど毎度毎度同じパターンだったのでげんなりした。

ところがこの"D機関"シリーズは、どの短篇も高いレベルで安定しているし、さらにすべてが個性的で飽きさせない。
10篇ほど読んだが、「またこのパターンか」と思う作品はひとつとしてなかった。

安定感はともすれば退屈につながりがちなのに、安定と変化の両方を維持できているのはすごいよね。


飽きさせない工夫のひとつは、作品ごとに登場人物が変わること。
"魔王"こと結城中佐以外は、全員が非凡な能力を持ちながらまったくの無個性(であろうとしている)。スパイは目立っちゃいけないからね。
個性がないから飽きない。スパイとして生きるために名前も経歴もころころ変わるから、シリーズものでありながらまったくべつの小説になる。

視点や舞台が作品ごとに異なるのも楽しい。
『ダブル・ジョーカー』に収録された作品の主人公はそれぞれ、

  • 日本陸軍内に設置された諜報組織のボス
  • 中国でソ連のスパイをつとめる陸軍軍医
  • フランス領インドシナに勤務する無線通信士
  • かつて日本人に逃げられた逃げられた経験を持つナチスドイツのスパイ組織幹部
  • 開戦前夜のアメリカに潜入している一流スパイ

D機関に対する立場も違うし、目的も違う。
はじめは誰が"D機関"のスパイかわからないから、誰がスパイなのか? と推理するミステリの味わいも楽しめる。

ほんと、スパイ養成機関という装置がうまく機能している。
柳広司はいい発明をしたよなあ。


ほどよい含蓄があり、スリルと驚きがあり、最後は鮮やかな着地が決まる。
エンタテインメント小説として完璧といっていいぐらいの作品集だよね。
一言でいうなら……「品がいい小説」。

全方位的に完成度が高くて逆になんか物足りないと少しだけ感じてしまう……のは欲張りすぎかな。



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2017年9月23日土曜日

汚くておもしろいスポーツ


少し前にTwitterに書いた投稿。


Twitterでは文字数制限があって不正確になってしまった点もあるので、補足。

まず「スポーツ」とひとくくりにしてしまったけど、スポーツにもいろいろある。
たとえば剣道なんかは、いくら相手に鮮やかに打ち込んだとしても「打ち込んだ後に気を抜かずに相手を意識していないと一本にならない」「相手への敬意を欠いていると一本にならない」といった決まりがある。
これはスポーツのルールとしてはすごくあいまいだ。「気を抜いていたかどうか」なんて他人が判断できることではない。
しかしこういうあいまいなルールは、あいまいであるがゆえにどんなシチュエーションにも対応できる。

法律に詳しくない人は「法律って杓子定規で人間味がないんでしょ」なんてイメージを持っていることが多いが、じっさいは逆だ。法律というのは最低限のことだけ決めておいて、あとはあいまいなまま残しておく。懲罰ひとつとっても「無期または3年以上の懲役」「1000万円以下の罰金」などかなりざっくりとしか決められていない。「1000万円の罰金」の刑で罰金1万円、ということだってありうる。
1人殺したら15年、2人殺したら無期、3人で死刑みたいな刑罰表があるわけではない。判例はあるけれど、最終的には裁判官のさじ加減で刑は決まる。
不公平なようにも思えるが、おかげで「長年の介護生活の末にこれ以上息子を苦しめまいよう自分を殺してくれと頼んだ老母を泣きながら手にかけたケース」と快楽殺人の刑罰に差をつけることができる。
社会や倫理観は変化するが、ルールがあいまいであれば「とりあえず今の時点ではベスト」な判断ができる。




たとえば野球のルールはそうではない。
野球のルールブックを見たことがあるだろうか?
数百ページあり、シチュエーションごとの詳細な規則が記されている。
ルールの数は数千ともいわれている。もしかするとプロ野球において一度も適用されたことのないルールもあるかもしれない。
だが野球のルールは細かすぎるがゆえにすべての局面に対応することができない。

たとえば1992年の高校野球選手権大会で、明徳義塾高校が強打者だった星稜高校の松井秀喜を5打席連続敬遠したことが話題になった。
社会現象にもなるぐらい賛否両論を巻き起こし、そのほとんどが否定的な意見だったが、野球のルールでは5打席連続敬遠を罰することはできなかった(今もできない)。数百ページにわたるルールブックのどこにも「敬遠四球は4打席連続まで」なんて書かれていないからだ。仮に書いたとしても、ピッチャーが「この四球はわざとじゃない」と主張すれば規定には引っかからないからザル法となる。
だから今後同じ作戦を弄する学校が現れたとしても、少なくともルール上はそれを防いだり罰したりすることはできない。

剣道方式なら話はかんたんだ。
「相手への敬意を欠いたプレーをおこなったチームは負けとする」の1行で済む。
審判の判断で、明らかにコントロールの悪いピッチャーなら5打席連続四球を与えても見逃すし、状況的に敬遠と判断されても仕方のないケースであれば3打席連続であっても負けになる。

前代未聞のプレーが起こったとしても、審判の内なる「相手への敬意を欠いたプレーかどうか」の基準に照らし合わせればすべて判断可能だ。



あいまいなルールは、プレイヤーからするとすごくやりにくい。
どこまでがセーフでどこからがアウトかわからないのだから。
だからこそ厳密にルールを守る。「ここまではぜったいに大丈夫」と自信を持って言える範囲を超えることはない。
「これは規定がないけどフェアじゃないかもしれないな」という作戦は実行しにくいし、仮に試してみて見逃されとしても次の試合の審判が見逃してくれるとはかぎらない。実力者であるほどアンフェアなプレーを試せない。

野球のような事例を列挙していくパターンだと、安心してギリギリを攻められる。「ルールに書かれていない」=「やってもいい」のだから。
わざとデッドボールを当ててもランナーを1人許すだけ。危険なタックルして相手の野手を怪我させても守備妨害でアウトが1つとられるだけ。チームが即負けになることはない。
卑怯と罵られるかもしれないが、少なくともグラウンド上ではたいした罰は受けない。基本的に「反則スレスレの行為をしたほうが得をする」構造になっているのだ。



……と、まるでぼくが野球を憎んでいるかのようなネガティブなことを書いてしまったが、そんなことはない。毎年甲子園に高校野球を観にいくぐらい野球は好きだ。
相手をだますプレー(隠し球、スクイズ、1塁走者が気を惹いている隙に3塁走者が本塁を陥れる重盗、ランナーを誘いだす牽制……)があるからこそ野球はおもしろいと思っている(逆に、剣道を観戦したことはない)。

野球以外でも、人気のあるスポーツは反則すれすれの汚い手が横行しているのがふつうだ。
相手を怪我させかねない危険なスライディング、審判の見えないところでおこなわれる暴力を伴う激しいポジション取り、敵が反則をしたことを印象付けるための大げさなアピール。状況によってはわざと反則をしたほうが有利になることもある。
そうした駆け引きがあるからこそ観客は熱狂する。
だから反則すれすれのプレーをやめろという気はないし、これからもどんどんやってほしい。
犯罪や騙しあいを描いた小説や映画がおもしろいのと同じだ。


ただ、さんざん汚い手を使う競技をやらせておきながら「スポーツは若者の心身の健全な育成に役立つ」とかしゃあしゃあとのたまうやつは気に食わない。

「世の中は汚いことだらけだから、その予行演習として汚い振る舞いかたを覚えさせるためにスポーツは役立つよ」と言うのならわかるけどさ。



2017年9月22日金曜日

読み返したくないぐらいイヤな小説(褒め言葉)/沼田 まほかる『彼女がその名を知らない鳥たち』【読書感想】

『彼女がその名を知らない鳥たち』

沼田 まほかる

内容(e-honより)
八年前に別れた黒崎を忘れられない十和子は、淋しさから十五歳上の男・陣治と暮らし始める。下品で、貧相で、地位もお金もない陣治。彼を激しく嫌悪しながらも離れられない十和子。そんな二人の暮らしを刑事の訪問が脅かす。「黒崎が行方不明だ」と知らされた十和子は、陣治が黒崎を殺したのではないかと疑い始めるが…。衝撃の長編ミステリ。

イヤな気持ちになる小説だった。
精神的に安定しているときに読まないと死にたくなるような小説だ。
個人的にはイヤな気持ちになる小説は好きだから楽しめたけど。

 玄関のドアを開くと、十和子の脱いだスリッパの横に、幅広の偏平足に踏みひろげられた薄茶色のスリッパが並んでいるのが目に飛び込んでくる。それはスリッパというより陣治の足そのもののようにそこにある。水虫でめくれた足の皮を、胡坐をかいてちびちび向いている姿が頭をよぎる。靴を脱ぎ、自分のスリッパをつっかけた足先で、薄汚れたスリッパを壁際に蹴り飛ばす。

 ドアが開く前から真っ先に聞こえるのは陣治の咳だ。誰のものでもない陣治の咳。しないでもすませられるのに、咳き込んでみては悦に入っているような、高らかな、それでいてからんだ痰のせで濁った咳。続いてカッとその痰を吐く音。お定まりのワンセット。

こういう不愉快な描写がひたすら続く。読者をイヤな気持ちにさせる描写がうまいねえ。

何がイヤって、事件が起こらないんだよね。
ただイヤな女がイヤな男とイヤな感情をぶつけあいながら暮らしていて、イヤな男に利用されて捨てられたことを回想し、イヤな姉からイヤな説教をされて、新たにイヤな男と出会って騙されながら不倫をする様が延々と描写されている。
事件らしきものといえば、「昔の恋人が行方不明になったらしい」という話を耳にするだけ。
いつまでも打破される兆しのない不快感。長雨のような陰鬱な気分になってくる。


『彼女がその名を知らない鳥たち』の登場人物はすべてがクズだ。

とはいえ「後でややこしくなるとわかっててもその場しのぎの適当なことを言う」とか「自分ができていないことでも年下の人には偉そうに言いたい」なんてのはぼくの中にもある気質だから、「こいつらほんとサイテーだな」という言葉がふっと気づくと自分にも返ってきてしまい、自分の吐いた唾で顔を濡らすことになる。
自分にもあるイヤな部分を目にして、さらにイヤな気持ちになる。

話の9割が進んだあたりから急速に過去の謎が明らかになり、多少救いのあるエンディングが用意されているのだが、「よかったね」1割、「それはそれできつい真実だな」9割で、最後までイヤな気持ちにさせてくれる。



”イヤミス” と呼ばれるジャンルがある。イヤな気持ちになるミステリ、読後感の悪いミステリだ。

まあミステリ小説には犯罪がつきものだから(中には犯罪が起こらない「日常の謎」系ミステリもあるけど)、罪のない人が殺されたり、性悪でない人がなんらかの事情で殺人を起こさざるを得なかったりと、ある程度は後味がよくないのがふつうだ。スカッとさわやか! な読後感のミステリ小説のほうがむしろめずらしい。

とはいえ、ミステリにはいくつか基本の”型”がある。型から大きく逸脱したものは特にすっきりしない。
『ハサミ男』みたいに犯人が××××するパターンや、『悪の経典』のように犯人が捕まるけど××××するパターンは(ネタバレのため伏字)、読んだ後ももやっとした思いが残った。どっちもすごくおもしろかったけど。


湊かなえ・真梨幸子・沼田まほかるの3人が「イヤミスの女王」と呼ばれているらしい。

ぼくは湊かなえに関しては『告白』含めて3冊ほど読んだけどそこまで不愉快には思わなかった。これぐらいは不快な描写も書いたほうがミステリとして説得力があるよね、という許容範囲内だった。

真梨幸子は『殺人鬼フジコの衝動』『インタビュー・イン・セル 殺人鬼フジコの真実』を読んだけど、これはすごくイヤな気持ちになった。
とはいえ、イヤな人間が書かれていてその人間描写が嫌だっただけで、シンプルにミステリ小説として見るならむしろ出来はそんなに良くなかった。
ミステリ小説にこだわらずにただイヤな女のイヤな一生を描けばいいのに。桐野夏生『グロテスク』のように。『グロテスク』も殺人事件を扱っているけど、事件はあくまで悪意を描くための手段でしかなかった。ひたすら悪意を描くことに軸足が置かれていて、あれはとことん不愉快な小説だったなあ(褒め言葉ね)。

沼田まほかる『彼女がその名を知らない鳥たち』に関しては、息苦しくなるような不快感があるし、かつその不快さもミステリ小説として必然性がある(××が徹底的に不愉快な人間として描かれているからこそ、真相が明らかになったときにそのギャップで「すげー愛情!」と思える)。

イヤさとミステリの両方が必然性を持っていて、これぞイヤミス! と思える小説だったよ。
某所のレビューで「真相が明らかになった後もう一度読み返しました!」ってなことが書かれていたけど、ぼくはもう読み返したくない! それぐらいイヤなミステリだった。



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2017年9月21日木曜日

ニュートンやダーウィンと並べてもいい人/『奇跡のリンゴ 「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録』【読書感想】



『奇跡のリンゴ
「絶対不可能」を覆した農家
木村秋則の記録』

石川拓治 NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」制作班

内容(e-honより)
リンゴ栽培には農薬が不可欠。誰もが信じて疑わないその「真実」に挑んだ男がいた。農家、木村秋則。「死ぬくらいなら、バカになればいい」そう言って、醤油、牛乳、酢など、農薬に代わる「何か」を探して手を尽くす。やがて収入はなくなり、どん底生活に突入。壮絶な孤独と絶望を乗り越え、ようやく木村が辿り着いたもうひとつの「真実」とは。

2013年に刊行され、農業について書かれた本としては異例の数十万部のヒットを飛ばした『奇跡のリンゴ』。
今さら読んでみたのだが、これはすごい本だ。いや、この木村秋則さんというのはすごい人だ。
科学の歴史を変えたニュートン、ダーウィン、アインシュタインといった人たちと並べても遜色ないぐらいじゃないだろうか?

農薬を使わずにリンゴを育てる。
農業の知識がまったくないぼくにしたら「ふーん、たいへんなんだろうね。でもまあ無農薬野菜なんてのもあるから、効率はよくないけど手間ひまかければできるもんなんでしょ?」ぐらいの認識だった。

ところがそうかんたんな話ではないらしい。
今われわれが食べているリンゴというのは、ひたすら甘く大きい実ができることだけを追求して品種改良を重ねた果実だ。肥料や農薬に頼ることを前提に品種改良しているから、虫や病気にはめっぽう弱い。
エデンの園になっていたリンゴとはまったく別の植物といってもいい。そのリンゴを肥料も農薬も使わずに育てるというのは「チワワの赤ちゃんをジャングルの中で放し飼いで育てる」ぐらい無謀なことなのだろう。


木村秋則さんも、当初は「むずかしいけどやってやれないことはないだろう」と考えていたらしい。コメや野菜を無農薬で作って経験があったから、リンゴも同じようにできると考えた。
そして酢や焼酎やワサビなど殺菌作用のあるさまざまな食品をリンゴの樹に塗布して病気を防ごうとした。
ところが病気は広がるばかり。リンゴは実をつけないどころか、花も咲かず、葉も樹も枯れていく一方だった。

 木村が経験したことは、すでに一〇〇年前の先人達が経験していたことでもあった。
 はっきり言ってしまえば、焼酎やワサビを散布したくらいで対処出来るなら、誰も苦労はしない。明治二〇年代から約三〇年間にわたって、全国の何千人というリンゴ農家や農業技術者が木村と同じ問題に直面し、同じような工夫を重ね続けていた。何十年という苦労の末に、ようやく辿り着いた解決方法が農薬だったのだ。
 木村はその結論を、たった一人で覆そうとした。
 自分の能力を過信していたのかもしれない。
「地獄への道を駆け足した」という木村の言葉は、誇張でも何でもない。まさしく木村はその時、最悪のシナリオを突き進んでいた。
 日本のリンゴ栽培の歴史を逆回しにして、破滅への道を突き進んでいたのだ。


何年もリンゴの収穫ゼロの年が続き、家族を食わせていくこともできなくなる。打つ手がなくなり、リンゴの樹に向かって「実をならせてくれ」と懇願するぐらい追いつめられる木村さん。
ついには死ぬことも考えた彼が、死に場所を探しているときに目にした光景が、リンゴを無農薬無肥料で栽培するヒントを与えてくれる――。

ちょっとこのへんは話ができすぎなので、木村さんか筆者が話を盛っているんじゃないかなあ。野暮なこと言うけど。

できすぎと思うぐらい、ノンフィクションなのにストーリーも起伏に富んでいておもしろい。ときおり挟まれる挿話(宇宙人に会った話!)や木村さんの人間的魅力の描写などで飽きさせず、エンタテインメントとしても一級品だ。木村さんの並々ならぬ苦労がようやく実を結ぶ(リンゴだけに)シーンは、報われてほんとに良かったなあと胸が熱くなった。

それにしても木村さんの家族はよく耐えたよね。妻や子どももそうだけど、なによりリンゴ農家だった義父(妻の父)がすごい。無収入になっても無農薬栽培を追い求める婿につきあってくれるなんて。いいお義父さんだったんだなあ。
しかしこれ、結果的に成功したから「みんなで支えてくれていい家族だなあ」と思えるけど、なんの根拠もなく「無農薬でリンゴを育てる!」と突き進む木村さんを止めようとしなかったのは、はたして優しさだったんだろうかと思う。
常識的に考えれば止めるほうが優しさだろう。まあその常識を無視したからこそ「奇跡のリンゴ」が生まれたわけだけど。




農家だったぼくのおじいちゃんは、機械や科学に対して全幅の信頼を置いていた。「これは新しい機械だからいい」「あの病院は薬をいっぱい出してくれるから信用できる」とよく口にしていた。
以前『現代農業』という雑誌を単純な興味から読んでみたことがあったが、やはり機械や化学肥料の話が多かった。
現代農業と科学は切っても切り離せないのだ。

科学に対するカウンターとして「自然に還ろう」なんてのんきなことを言えるのはスーパーに並んでいる食べ物を買って食べている人だけだ。常に自然と対峙して生きている人はその恐ろしさを知っているから、「いきすぎた科学文明はいつか人間の身を滅ぼす」なんて悠長なことは言わない。
クマ射殺のニュースを見て「クマがかわいそう」と言えるのは、ぜったいに自分がクマに襲われることがないと思っている人だけなのだ。

だからこそ、農家として常に自然に向き合いながら、それでも自然を屈服させようとせずにリンゴを収穫させた木村さんの業績は偉大だ。
木村さんが発見した「リンゴを無農薬で育てるための理念」は、すごくシンプルなものだ。ぼくの言葉にするとうすっぺらくなりそうだからあえてここには書かないけど。
木村さんの理念は、ぼくのような素人が読んでも「なるほど。言われてみればそのとおりだ」とうなずけるぐらい、理にかなっている。

とはいえ理念がかんたんだからって現実もかんたんかというとそんなことはない。理念を現実のリンゴの木に適用させることは想像もできないぐらいの苦難があるはずで、そのへんの苦労はこの本ではごくわずかしか触れられていないけど、おそらく本何冊分にもなるぐらいの試行錯誤があったのだろう。
世界中のあらゆる品種の農家が教えを乞いにくる、というのもなるほどと思う。


またこの人がすごいのは、無農薬でリンゴをつくって満足するのではなく、それを普及させようとしているところだ。

 木村が本気だなと思うのは、米にしても野菜にしても、無農薬無肥料の栽培で収穫が安定してくると、次は出来るだけ価格を下げるようにとアドバイスしていることだ。
 木村のつくったリンゴも、その美味しさと稀少価値を考えれば今の値段の五倍にしても売れるに決まっているのに、木村はぜったいにそうしようとはしない。出来ることなら日本中の人に、自分のリンゴを食べて貰いたいくらいなのだ。
 少なくとも、誰にでも買える値段でなければいけないと木村は思っている。
 値段が高くても、買ってくれるというお客さんはもちろんいるだろう。
 無農薬無肥料で農作物を栽培するのは手間もかかるし、農薬や肥料を使う農業に比べればどうしても収穫量が少なくなる。出来るだけ高い値段で売りたいというのが、生産者としての当然の気持ちなのもよくわかる。
 けれど、それでは無農薬栽培の作物はいつまで経っても、ある種の贅沢品のままだと木村は言う。無農薬作物が裕福な人のための贅沢品である限り、無農薬無肥料の栽培は特殊な栽培という段階を超えられないのだ。
 現状では難しいとしても、いつかは自分たちのやり方で作った作物を、農薬や肥料を与えて作った農作物と競争出来るくらいの安い価格で出荷出来るようにする。
 それが、木村の夢だ。


そうなんだよね。無農薬野菜とかオーガニック料理のお店とかってたいてい値段が高い。
そうするとよほど余裕のある人以外は日常的に食べることができない。


木村秋則というたった一人の農家の偉業が、世界中の農業の姿を変える日がくるかもしれないな。
わりと本気でそう思う。


農業に関わる人にもそうでない人にも読んでほしい良書だ。
大げさでなく、世界観が変わるんじゃないかな。ぼくはちょっと視界が開けた気がしたよ。



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2017年9月20日水曜日

パスワードをどうやって決めるか



みんな、パスワードってどうやって決めてる?

パスワードを決めろって言われるじゃないですか。
WEBサイトで会員登録するときに。


ぼくはだいたいこんなふうにしてる。

 【どうでもいいサイト】
 → 誕生日 または 誕生日+名前の英字表記

 【個人情報を登録するなどまあまあ重要なサイト】
 → 過去に住んでいた住所の番地+名前の英字表記

 【クレジットカード番号を登録するなどすごく重要なサイト】
 → 過去に住んでいた住所の番地+サイトごとに変わるランダムな英数字


どうでもいいサイトってのは、
「ログインしないと見られない情報があるからアカウント作るけど明日以降見ることないだろうな」ってサイトとか、
「個人情報を一切入れないから万が一漏れてもべつにいいや」ってサイトね。

でもさ。
どうでもいいサイトにかぎってやたらと堅牢だったりするんだよね。
誕生日4桁で設定したら「パスワードは8文字以上にしてください」って言われて、
めんどくせえなって思いながら誕生年+誕生日の8桁にしたら「パスワードには数字とアルファベットの大文字と小文字を1文字以上ずつ含んでください」とか言われるの。

うるせえって。
そんな強固な鍵、おまえんちにいらねえって。
中に何もないボロボロの廃墟だけど2重の錠+指紋認証つけてます、みたいな感じ。
誰もおまえんちに泥棒に入らねえって。

ほんと嫌になる。地球を滅ぼしたくなる。滅ぼせる力が備わってなくて良かった。


20年前の人は、未来人がこんなことで頭を悩ませているとは思わなかっただろう。
面倒な計算はすべてコンピュータがやってくれて人間は創造的なことだけに頭を使う世の中がくるはずだったのに、そのコンピュータを使うためにわけのわからない文字列を記憶しないといけないのだ。

コンピュータの活用が進んだ結果、「無意味な英数文字列の記憶」というもっとも非創造的なことに頭をつかわなくちゃいけないなんて、なんとも皮肉な話だ。



2017年9月19日火曜日

正規雇用を禁止する




派遣の規制緩和をすすめようとする国や経団連と、
労働者を守るために派遣規制を緩めるなといっている労働者団体。


もういっそ、正規雇用を禁止にしてみたらどうだろう。どうせ終身雇用制度なんて崩壊してるし。
全員パート・短期契約社員。正社員禁止。2年以上連続して同じ会社で働くことを禁止する。


一気に雇用の流動化が進む。みんなすぐ辞める。バイト感覚で辞める。「おまえ同じ会社で1年も働いてんの? 長いなー」ってなことになり、愛社精神なんて言葉は死語になる。

そうすっと会社としては片時も気が抜けない。社員がごっそり辞めたらすぐにつぶれちゃうから。
優秀な社員に対しては高給を支払うか労働条件を緩和してつなぎとめるしかない。
「がんばってたらいつか出世させるよ」みたいないいかげんな言葉では誰も来てくれない。短期労働者なんだから。「今いくら払うか」だけが重要になる。
今までやりがいや将来の出世という中身のないエサで釣っていた企業はつぶれる。


安定を求める労働者は2社か3社と労働契約を結ぶ。非正規だからね。
複数社で働けば、完全失業のリスクが小さくなる。
月・火はA社、水・木はB社、金曜日はC社。
労働者からすると1社に依存する度合いが減るので、会社に対しても強気で交渉できる。
他の会社の情報も入ってくるので、今いる会社の良し悪しがすぐわかる。
相場より低い給与しか出さない会社はどんどん人が離れていく。


非正規化をとことん推し進めてみたら、かえって労働者の立場が強くならないだろうか?


2017年9月18日月曜日

ガソリン自動車と国産ミュージックプレイヤー


ミチオ・カク『2100年の科学ライフ』にこんな一節があった。

 商品資本主義に取って代わりつつあるのが、知能資本主義である。知能資本には、まさにロボットやAIがまだ実現できていない、パターン認識と常識的判断が含まれる。
(中略)
 この歴史的移行がどうして資本主義の土台を揺るがすのだろう。至極単純なことだが、人間の脳は大量生産できない。ハードウェアは大量生産してトン単位で売ることができるのに、人間の脳ではそれができない。となると、常識が未来の通貨になるだろう。商品の場合と違い、知能資本を生み出すには、人間を育成し教育しなければならず、これには個人の数十年にわたる努力が要る。

かつて国の力は資源に大きく依存していた。
金属や石炭や石油をどれだけ保有しているかが国の強さを決め、資源を求めて人々は移動し、資源を保有する国を植民地にしていた。
日本もまた資源を求めて海外に進出し、最終的に資源の差でアメリカに敗れた。


しかしその時代は終わろうとしている。
戦後日本の復興があらわすように、資源そのものよりもどれだけの付加価値をつけられるかが求められている。
マサチューセッツ工科大学の経済学者レスター・サローはこう語っている。
「シリコンバレーとルート128沿いに最先端企業が集まるのは、そこに頭脳があるからだ。それ以外のものは、何もない」(『資本主義の未来』)

今後はもっと頭脳集約型の労働が求められる。
頭脳によって生みだされるのはモノではない。プログラム、デザイン、システム、コンテンツ。ソフトの重要性が増す時代が来ることはまちがいない。




さて。
イギリスとフランス政府が2040年までにディーゼルやガソリン車の新車販売を禁止する方針を発表した。中国も電気自動車への完全切り替えを検討しているらしい。

日本政府はそうした期限を定めない方針だ、というニュースを見てぼくは愕然とした。

国内産業を守るためなのだろうが、それが産業を守ることになっているとは到底思えない。
どの燃料が次世代自動車の主流を占めるかはわからないが、いずれガソリン車が廃れることはまちがいない。イギリス・フランスは2040年という期限を設定しているが、2040年よりずっと早くに世代交代の日が来るとぼくは信じている。

政府が決めなくても市場が決める。
明確な期限を切って強制的に次世代自動車にシフトさせたほうがよくないか? ガソリン車を改良している時間的余裕などあるのか?
未来のない産業に優秀な人材を回さないほうがいい。消費者からすると国産車がなくなってもかまわないのだから。


iPodが出てきたときの、国産ミュージックプレイヤーの開発部の話を思いだす。
CDやMDで音楽を聴いていた時代に、1,000曲をダウンロードできるiPodが登場した。
そのとき、国産某メーカーでは開発部が「iPodに対抗するためもっと音質をクリアにした商品をつくるべきでは」という話をしていたらしい。消費者がiPodを購入する理由をまったくわかっていなかったのだ。
「市場が求めているもの」「自分たちが劣っているところ」ではなく「提供できそうなもの」「自分たちが勝てるところ」を必死に探していたのだ。

国産ガソリン車の保護も同じことをやっているように思えてならない。


2017年9月17日日曜日

香辛料でごまかす時代


ミチオ・カク『2100年の科学ライフ』という本に、昔の香辛料に関するこんな一文があった。

それが重宝されたのは、冷蔵庫のなかった当時、腐りかけの食べ物の味をごまかすことができたからだ。ときには王や皇帝さえ、ディナーで腐ったものを食べなければならなかった。冷蔵庫も保冷コンテナもなく、海を渡って香辛料を運ぶ船もまだなかったのだ。

だからコロンブスたちは香辛料や香草を求めて海を渡り、大航海時代が到来した。
つまり香辛料こそが船乗りたちが追い求めた ”ONE PIECE” だったわけだ(そういや漫画『ONE PIECE』でウソップがタバスコを武器として使うシーンがあるが、ほんとの大航海時代なら貴重な香辛料を武器として使うなんて考えられない話だ)。


昔の人々が「食べ物が腐りかけているから味をごまかそう」という発想にいたったことは、すごくおもしろい。
現代人なら「食べ物が腐りかけているから新鮮な食べ物が手に入るようにしよう」と考えるだろう。
はるばる海を渡って未知の大陸を探検するよりも、「新鮮な肉や野菜が手に入るように王宮の近くに牧場や農場をつくる」とか「鮮度が落ちないような輸送・管理の方法を考案する」とかのほうがずっと安くつきそうなものだけど。

問題の本質的な解決ではなく、ごまかすことに心血を注いでいたというのが滑稽だ。





とはいえ現代の常識を昔にあてはめて「ばかだなあ」と言ってもしかたがない。

今の時代だって、2100年の人から見たら

「がんばって穴掘って石油を探すより、もっと身近なものをエネルギーに換えればいいじゃん」

「ゴミを処分するために遠くまで運ぶぐらいだったら、分解して有用な物質に転換するほうがずっと楽なのに」

「病気を治すよりも身体を捨てて脳だけ新しい身体に移植するほうがずっと安上がりなのに、なぜそういう方向に努力しないんだろう」

と言いたくなるような、問題の本質的解決から逃げまくっている時代なのだろう。




2017年9月15日金曜日

未来が到来するのが楽しみになる一冊/ミチオ・カク『2100年の科学ライフ』

『2100年の科学ライフ』

ミチオ・カク(著) 斉藤 隆央(訳)

内容(e-honより)
コンピュータ、人工知能、医療、ナノテクノロジー、エネルギー、宇宙旅行…近未来(現在~2030年)、世紀の半ば(2030年~2070年)、遠い未来(2070年~2100年)の各段階で、現在のテクノロジーはどのように発展し、人々の日常生活はいかなる形になるのか。世界屈指の科学者300人以上の取材をもとに物理学者ミチオ・カクが私たちの「未来」を描きだす―。

科学者たちの 未来予想が好きだ。読んでいるとわくわくする。
エド・レジス 『不死テクノロジー ―― 科学がSFを超える日』もおもしろかった(→ 感想文はこちら)。宇宙空間に人工的な地球をつくるという奇想天外な話なのに、まじめに研究をしている頭のいい人に理論を説明されると「もうすぐできるんじゃないの?」という気がする。

ほんの20年前は、1人1台携帯端末を持っていてその中に電話もカメラも電卓も図書館もゲーム機も財布もテレビもウォークマンもビデオデッキも新聞も収まっているなんてまったくの夢物語だった。それが実現した今となっては、人工地球がなんぼのもんじゃいと思える。
なにしろ『2100年の科学ライフ』によると、1台のスマートフォンは月に宇宙飛行士を送ったときのNASA全体を上回る計算能力を持っているらしい。それぐらいすごいスピードで科学は進歩しているのだ。つまりこのスマホがあれば月に行けるってこと? ちがうか。




『2100年の科学ライフ』は、物理学者であり、科学解説者としても知られるミチオ・カク氏が、最先端のテクノロジーや各分野の専門家の話をもとに「現在の最先端」「近未来(20年後ぐらい)」「世紀の半ば(2030~2070年ぐらい)」「遠い未来(21世紀後半)」の科学技術を大胆に予想したものだ。
「現在の最先端」を読むだけでも、そんなことできんの、すげえ! と思うことしきり。まして50年以上も先の話なんて。
まるでSFなんだけど、それでもこの中のいくつかは実現するんだろうなあ。中には予想より早く叶うものもあるんだろう。

専門的になりすぎず、かといって素人くさくもない、ちょうどいいレベルの解説。
理論だけの話ではなく、過去のエピソード、SF映画や小説、さらには神話からの引用までちりばめられていて、読み物としてもおもしろい。ちゃんと取材にも足を運んでいるし。
いやあ良書だ。訳もいいし。


もう目次を見るだけで興奮する。
  • 四方の壁がスクリーンに
  • 心がものを支配する
  • トリコーダーとポータブル脳スキャン装置
  • サロゲート(身代わり)とアバター(化身)
  • 老化を逆戻りさせる
  • われわれは死なざるをえないのか?
  • 恒久的な月基地
ぞくぞくするよね?
しない? あっ、そう。20世紀へのお帰りはあちらですどうぞ。


目次だけじゃない。内容も刺激に満ちあふれてる。

ボタンひとつですべてがモニターになる壁面スクリーン。壁紙を1秒でかけかえられる。モニターを丸めて持ち運べる。

強力な磁場を作る技術がタダ同然になり、輸送に革命が起きる。
あらゆる物体に小型の超電導チップを埋め込むことで、思念するだけで物体を動かすことができる。

自由自在に変形できるロボット。形を変えたりばらばらになったりしてどんな隙間にも入れる。

分子サイズのマシンを使った治療。癌細胞をピンポイントで殺すことができる。

遺伝子工学を使って二酸化炭素を大量に吸収できる生物を作りだすことで地球温暖化を解消。

核分裂ではなく核融合によるエネルギーを生み出す。安全かつ強力。カップ1杯の水から80,000キロリットルの石油に相当するエネルギーを取りだせ、廃棄物はほとんど出ない。
言ってみれば実験室で太陽を作るようなもの。

核融合を使って化成の氷を溶かし、南極で繁茂している藻類を持ちこんで火星をテラフォーミング(地球化)する。

超小型サイズのナノロケットを大量に宇宙に送り(コストは非常に小さい)、さまざまな惑星に到達したナノ探査機が自己複製をして、また別の星へと飛び立っていく。


どや、現代人たち。これが未来やっ!!




いいニュースと悪いニュースがある。

まずはいいニュースから。医療問題、環境問題、エネルギー問題。あと何十年かしたらすべて解決している。地球の未来は明るい。イエーイ!
悪いニュースは? その時代にぼくらの大半が生きてないってこと。
この本を読むとそんな気分になる。あーあ、もっと後の時代に生まれたかったなあ!
ずっと健康でいられてあんまり働かなくてもいい時代に生きたかった(『2100年の科学ライフ』ではそんな時代の到来を予言している)。


昔から科学はずっと発展しているわけだけど、科学の進歩をもっとも妨げているものは何かっていったら、人間の身体という制約だろう。

椎名誠のエッセイにこんな話があった。
とても頑丈なダイバーズウォッチを買った。水深数百メートルの水圧でも壊れないという。これはいい買い物をしたと思っていたが、よく考えたら水深数百メートルまで潜ったら人間の身体がぺしゃんこになってしまうのだからその性能は意味がないということに気がついた……。

このように、科学の進歩に人間の身体は追いつけない。
人間の身体は壊れやすいから乗り物は重厚にせざるをえないし、出せるスピードにも限界がある。身体的制約があるから宇宙や深海に行くのもたいへんだ。知識を蓄えた天才科学者だってたった数十年したら死んでしまう。

この先、科学が進めば進むほど身体がじゃまになるのではないだろうか。
医療技術が発達して病気は早期に治療ができて長生きできるようになったとしても、遺伝子改変で強固な肉体を手に入れたとしても、生物である以上限界はある。

だから、この本で予想されている技術の中で、いちばん実現しそうなのは、機械の身体をつくってそこに自分の全人格をインポートするというテクノロジーではないだろうか。
『不死テクノロジー』にも同じ未来予想図があった。
人間の脳というのはすごく高度なものでコンピュータで同等のものをつくることは当分不可能らしい(今の最先端でも虫の脳程度だそうだ)けど、身体のほうはそこまで優れているものではないのだろう。
もしかしたら我々が生身の身体を捨てる時代が、今世紀中にも到来するかもしれない。




人は科学のみにて生くるにあらず。

『2100年の科学ライフ』では、科学の進化がもたらす経済や政治の変化までも予想している。
「今後も残る仕事、ロボットにとってかわられる仕事」「2100年のある1日をバーチャル体験」など、21世紀後半まで生きる人にとってはたいへんありがたいコンテンツも盛りだくさん。

未来が到来するのが楽しみになる一冊だ。冷凍冬眠しよっかな。
明日の朝起きたら未来になってないかなー(ちょっとだけなっとるわ)。


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2017年9月14日木曜日

バケツ一杯のおしっこ


詳しい経緯は省くが、4人がかりでバケツ一杯におしっこを溜めたことがある。


酒を飲みながら 代わる代わるバケツに用を足し一晩かかってバケツ一杯にした。もう10年以上も前のことだ。
千里の道も一歩から。ローマは一日にして成らず。困難なチャレンジではあったが、強固なチームワークと必ずやり遂げるんだという強い意志が、プロジェクトを成功に導いた。
企業の人事担当のみなさんは、ぜひ新人研修で取り入れていただきたい。


健康診断で 採尿したとき、予想以上の重みを感じたことがないだろうか。
毎回「あれ。紙コップに半分しか入れてないのにこんなに重いの?」とその重量感に戸惑う。明らかに同量のお茶より重い。

お茶と尿では存在感が違う。
「これがさっきまで自分の体内に……」という思い入れ。
「検査の結果によってもしかしたら入院なんてことも……」という不安。
「これをこぼしたらとんでもないことになるぞ」という緊張感。
諸々の感情が乗っかっているから重たい。人の命は地球より重く、おしっこはお茶より重い。


バケツ一杯に 溜めたおしっこは、重たかった。
どのくらい重たかったかというと、詳しい経緯は省くが、中身をテニスコートにぶちまけようとした友人がバランスを崩して自分の靴を盛大に濡らしてしまったぐらい重たかった。


2017年9月13日水曜日

ゴルフと血糖値と傘


ぼくはゴルフやらないんだけど、ゴルファーの会話ってどうしてあんなにスコア聞くんだろうね。
絶対言うよね。
「ゴルフやるんですか」
「そうなんですよ」
「いくつで回るんですか?」
「こないだ90でした」
「ほーすごいですねー」
みたいな。

すぐ聞く。中には聞かれてもないのに言うやつもいる。
病院の老人か。すぐに血圧と血糖値の話しだす老人か。

ゴルフとボーリングはやたらとスコアを聞く。あとTOEICも。

まあTOEICはわかる。スコアをとるためにやってるわけだし。

ボーリングもまあわかる。全員共通の指標だからね。
スコア200のやつは180のやつよりうまい。

でもさ。ゴルフっていろんなコースがあるわけでしょ。
当然、いいスコアを出しやすいコースとそうじゃないところがあるわけでしょ。
一応パー4とか決めてるけど、かんたんなパー4とむずかしいパー4があるわけでしょ。

だったら違うコースで出したスコア比べても意味なくね?

それ野球でさ。
「こないだソフトバンクホークス相手に投げたんですよ。7回5失点でした」
「じゃあおれのほうが上だ。先週の草野球で5回2失点だったから」
みたいなことでしょ。
その比較、何の意味もないよね。

ボーリングだってレーンによって多少は差はあるんだろうけど、ほんとに微々たるもんでしょ。
でもゴルフってコースによって距離も地形もぜんぜん違うし、天候や風の影響も大きい。
そのへんの諸々を無視して比べても、まるで比較にならない。

だからゴルファー同士の会話では、スコアじゃなくてもっと比較しやすいものを言いあうようにしたらいい。
「スイングの速さ」とか「サンバイザーをいくつ持ってるか」とか「てもちぶさたなときに傘とかでゴルフの素振りをしてしまうことが1日に何回ぐらいあるか」とか。


2017年9月12日火曜日

報われない愛の呪縛


芸能に 興味のない人間なので、アイドルに入れあげる人の気持ちが理解できなかった。
いくら熱狂しておかしくなっているファンであったとしても、アイドルがファンの一人になびく可能性がないことぐらいはわかるだろう。
それなのに、なぜアイドルに莫大なお金を投下するのだろう?
同じCDを何枚も買ったり、すべてのコンサートに足を運んだりするのは度を越しているとしか言いようがない。もはやそこまでいったら楽しみよりも苦痛のほうが大きいのではないだろうか?
それだけやっても、得られるものといえばせいぜい握手ができるぐらい。
同じお金と労力を他にかけていたらもっと多くのものを手にしていたのでは?
リターンがないとわかっている投資をするのはなぜなのだろう?


と、かねがねアイドルファンに対して疑問に思っていたのだけれど、子どもを育てるようになって「いや、リターンがないからこそハマるのかもしれない」と思うようになった。

何かにハマる度合いというのは、得られたもの、得られそうなものではなく、投下したものに比例するのではないだろうか。


小学校1年生から 毎日野球をやってきた子が、高校3年生の春に「受験に集中したいから野球部やめるわ」という決断を下すことは、かなり困難だろう。仮にそこが弱小校で甲子園に出場できる可能性がほぼゼロだったとしても。
でも1週間前に野球部に入った生徒なら「練習きついし、どうせ甲子園出られないし、もうすぐ受験だから」という理由で、ずっとかんたんに辞められる。
”甲子園出場” というリターンがほぼゼロなのはどちらのケースも同じ。それでも多くの資本を投下してきた前者の子は、「せっかくここまでやってきたのだから」というもったいなさに引きずられて合理的な判断を下すことができない。
「いやいや甲子園出場だけが野球をする目的ではない。続けることでこそ得られるものもあるんだ」という人もあろうが、それは1週間前に野球部に入った子も同じだ。むしろ初心者のほうが上達のスピードが速いから得られるものは大きいだろう。


子育てを していると、子育てはコストが大きくてリターンがゼロの行動だと思う。
夜中に泣き声で起こされたり、夜中にゲロ掃除をしたり、夜中におねしょで濡れた布団を洗ったり、朝早くにおなかの上に飛び乗ってきて起こされたり、「やってらんねえよ」と言いたくなることばかりだ(ぼくは眠れないのがいちばんつらい)。
それでもなんとかやっているのは、無償だからだ。
「夜中に起こされてゲロ掃除をしたら350円もらえます」なんてシステムだったら「いや350円いらないから寝かせて」となっている。

子どもが将来自分の老後を見てくれる、なんてリターンがないわけでもないが、そんな不確実なことのために多大なる金と労力を使うぐらいなら貯金して上等な介護施設に入居するほうがずっと効率がいい。お金を払って他人に世話されるほうがずっと気楽だし。


母親はどうかしらないけど、父親であるぼくは正直、子どもが生まれた直後は愛情なんてほとんど持っていなかった。ちっさくてかわいい足だなとは思ってはいたけど、仔犬のほうがずっとかわいいと思っていた。
それでも夜泣きにつきあわされたりウンコまみれのお尻を洗ったりしているうちに、我が子が愛おしくなってきた。何かしらのリターンがあったからではない。投下した労力が大きくなってきたからだ。

「バカな子ほどかわいい」という言葉があるが、これはまさに「投下した資本が大きいほどハマる」を言い表している。



報われない愛 の呪縛は随所で観測される。

スポーツで弱いチームのファンほど熱狂的だったり(今でこそ強くなったけど、昔の阪神タイガースや浦和レッズは弱くてファンが熱狂的だった)、
ギャンブルで負けてばかりの人がなかなかやめられなかったり、
ブラック企業の社員が自殺するまで辞めなかったり、
いたるところで人々は「せっかくここまでがんばってきたんだから」に拘束されている。子育てはどうかわからないけど、往々にして不幸な結果を生んでいるように見える。

もしかすると、太平洋戦争末期における日本軍も「報われない愛」の呪縛に陥っていたのかもしれない。
多くの兵士を失い、戦艦を沈められ、戦闘機を墜とされ、失ったものは数知れず。ひきかえに得られたものは何もない。
後の時代の人間からすると「長引かせても悪くなる一方だったんだから早めにやめときゃよかったのに」と思えるが、長引かせても悪くなる一方だったからこそ抜けだせなかったのかもしれない。

個人レベルならまだしも、国家単位で「報われない愛」の呪縛に囚われると大惨事になる。
国民年金・厚生年金なんか、この呪縛に陥っているように見えてならない。


2017年9月11日月曜日

スパイの追求するとことん合理的な思考/柳 広司『ジョーカー・ゲーム』【読書感想】

『ジョーカー・ゲーム』

柳 広司

内容(e-honより)
結城中佐の発案で陸軍内に極秘裏に設立されたスパイ養成学校“D機関”。「死ぬな、殺すな、とらわれるな」。この戒律を若き精鋭達に叩き込み、軍隊組織の信条を真っ向から否定する“D機関”の存在は、当然、猛反発を招いた。だが、頭脳明晰、実行力でも群を抜く結城は、魔術師の如き手さばきで諜報戦の成果を上げてゆく…。吉川英治文学新人賞、日本推理作家協会賞に輝く究極のスパイ・ミステリー。

陸軍に創設されたスパイ養成機関”D機関”で養成された天才スパイたちの活躍を描いたミステリー。
スパイものの小説ってよく考えたら読んだことがないな。漫画では 佐々木 倫子『ペパミント・スパイ』 ぐらい。完全にコメディだけど。
海外には007シリーズとか『寒い国から帰ってきたスパイ』とか有名なものがあるけど、日本を舞台にしたスパイの物語ってほとんど聞かないなー。
んー……。考えてみたけど、手塚治虫『奇子』ぐらいしか思い浮かばなかった。
日本にもスパイはいたんだろうけど、物語の主人公にならなかった理由は、諜報活動が卑怯なもの、武士道に反するものとして扱われていたことがあるんだろうけどな。
スパイってその特質上、活動が公になることはないしね。


しかし日本にもスパイがいなかったわけではない。
陸軍中野学校という、諜報や防諜に関する訓練を目的にした機関があった。こないだ読んだ NHKスペシャル取材班 『僕は少年ゲリラ兵だった』 にもその名が出てきた。戦況の悪化により諜報どころではなくなり戦争末期はゲリラ戦を指揮するのがメインの活動となっていたらしいけど。

東京帝國大学(今の東大)出身者らが多く、他の陸軍とは一線を機関だったという陸軍中野学校。
『ジョーカー・ゲーム』の ”D機関” は陸軍中野学校をモデルにしているらしいが、もっとマンガ的。
D機関の生徒は、天才的な頭脳と冷静沈着な思考を持つ。数ヵ国語を操り、スリ顔負けの手先の器用さ、変装術、強靭な体力を有している。どんな文書でも一瞬見ただけで一字一句正確に記憶できる。鳥かよ(鳥は頭悪いけど記憶は正確)。
当然「ありえねーだろ」と思うんだけど、精緻な構成と第二次世界大戦時の諜報活動という非現実的な舞台のおかげで意外とすんなり入りこめる。


スパイの追求するとことん合理的な思考と、日本陸軍の根性主義の対比がおもしろい。

「殺人、及び自決は、スパイにとっては最悪の選択肢だ」
 結城中佐が首を振った。
 ――殺人や、自決が……最悪の選択肢?
 軍人とは、畢竟敵を殺すこと、何より自ら死ぬことを受け入れた者たちの集団のはずではないか。
「おっしゃっている意味が……わかりません」
「スパイの目的は、敵国の秘密情報を本国にもたらし、国際政治を有利に進めることだ」
 結城中佐は表情一つ変えずに言った。
「一方で死というやつは、個人にとっても、また社会にとっても、最大の不可逆的な変化だ。平時に人が死ねば、必ずその国の警察が動き出す。警察は、その組織の性格上、秘密をとことん暴かなければ気が済まない。場合によっては、それまでのスパイ活動の成果がすべて無駄になってしまうだろう……。考えるまでもなく、スパイが敵を殺し、あるいは自決するなどは、およそ周囲の詮索を招くだけの、無意味で、バカげた行為でしかあるまい」


スパイ小説って誰が味方かわからない緊張感もあるし複雑な心理模様も描かれるし、読んでいてたのしいね。
柳広司はいい金脈を見つけたね。

良質な短篇集なんだけど、後半になるにつれてパワーダウンしていくのが残念。スパイじゃなくてええやんって短篇も混ざってる。
最後の『XX(ダブル・クロス)』なんか密室殺人を題材にした推理小説だからね。しかもトリックは平凡だし。
1作目の『ジョーカー・ゲーム』のインパクトが強烈すぎたってのもあるのかもしれないけど、尻すぼみの印象はぬぐえない。

とはいえ ”超人的能力を持ったスパイ集団” という設定は「こんなおもしろいジャンルがまだ手つかずで残っていたのか」と思うほどに魅力的だ。
今作以降も『ダブル・ジョーカー』『パラダイス・ロスト』『ラスト・ワルツ』とシリーズ化されている人気シリーズなので、また続きを読んでみる予定。



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2017年9月10日日曜日

ツイートまとめ 2017年7月

美男子

新婚旅行

萎縮

豹変

自然淘汰

希少部位


不憫

妙案

納戸御殿

責任回避

落下傘
賭博黙示録

平行線

寝姿

2017年9月8日金曜日

天性のストーリーテラーの小説を今さら/劇団ひとり 『陰日向に咲く』【読書感想】

『陰日向に咲く』

劇団ひとり 

内容(e-honより)
ホームレスを夢見る会社員。売れないアイドルを一途に応援する青年。合コンで知り合った男に遊ばれる女子大生。老婆に詐欺を働く借金まみれのギャンブラー。場末の舞台に立つお笑いコンビ。彼らの陽のあたらない人生に、時にひとすじの光が差す―。不器用に生きる人々をユーモア溢れる筆致で描き、高い評価を獲得した感動の小説デヴュー作。

どうでもいいこだわり があって、「話題になっている本は読まない」というルールが自分の中にある。
本は自分の感性で選びたいという信念があって、話題になっている本を読むことは自分の感性を曲げて選んだようで、許せない行為なのだ。「読みたい」と思っても「話題の本だから」ということで手に取らないわけだから、そっちのほうが自分の感性に正直じゃないんだけど。

『陰日向に咲く』が2006年に刊行されたとき、ぼくは書店で働いていたのでこの本が飛ぶように売れていることを目にしていた。さらに数々の書評でも取り上げられ、ちゃんとした書評家たちが「タレントが書いたということとは関係なくおもしろい!」と絶賛しているのも読んでいた。
いったいどんな小説なんだろうと気になっていたものの、前述したように「話題の本は読まない」というルールを自分の中に課している手前、誰に対してかわからない意地を張って『影日向に咲く』を手に取ることはなかった。

その後、『週刊文春』で劇団ひとりが『そのノブは心の扉』というエッセイの連載を始めたので読んでみたらクソつまらなかったので小説に対しても興味を失った。


そして10年以上が経過。「もう話題の本じゃないから大丈夫だよね」と、誰に対してかわからない確認をとってから、読んでみた。今さら。



ちゃんとおもしろかった よね。ちゃんとおもしろかったってのも変な表現だけど、この小説がテレビに出てる人じゃなくてもおもしろいってことです。
ちょっと漫画的というか、ホームレスはホームレスらしく、ギャンブル狂はギャンブル狂らしくて、みんな思慮が浅くて、良くも悪くもわかりやすい小説。まあエンタテインメントで内面をじっくり掘り下げても重たくなるだけだし、これでいいんでしょう。
愚かな人間の描写はほんとに巧みで、デジカメの使い方がわからない女性の思考回路とか、ギャンブル狂の内面の浮き沈みとかの描かれ方は説得力があるねえ。

なによりストーリー展開がうまい。起承転結に沿って物語が進んで、丁寧な伏線があって、ほどよく意外なオチがあって、という創作のお手本のような作品。
劇団ひとりってバラエティ番組でも瞬発的におもしろいことを言うんじゃなくて、芝居に入ってきちんとストーリーを展開させてそこに起伏をつけてオトす、っていうやり方をとっている。演技のほうが注目されがちなんだけど、天性のストーリーテラーなんだろうね。


やっぱり10年前に 読んどきゃよかったな、って思う。
連作短編集で、メリーゴーラウンド方式っていうんですかね、ある短篇の端役が次の短篇では主人公になってるってやつ。伊坂幸太郎がよく使うやつね。
昔からある手法ではあるんだけど、伊坂幸太郎以後、雨後の筍のごとく増えて、今ではよほど効果的な使われ方をしないかぎり「メリーゴーラウンド回しときゃ読者が感心すると思うなよ!」と逆にうんざりする手法になってしまった。
『陰日向に咲く』もその手法が用いられているので、たぶん2006年に読んでたら「おもしろい手法!」と感心してたんだけど、今読むとそれだけで評価を下げてしまう。2017年に読むのが悪いんだけどさ。
あとちょっと大オチがあざとかったな。


いちばん残念なのは、ちょっときれいすぎるってことだね。文章も読みやすいし、ストーリーも無駄がないし、全体的にうまくまとまっている。
でも、『ゴッドタン』の劇団ひとりを観ている者としては、もっとクレイジーな部分を出してほしかったなと思う。
テレビでは「いきなり自分の服を破きだす」「自分のケツの穴につっこんだ指をなめる」みたいな狂気そのものを出している劇団ひとりなんだから(いちばん狂ってるのはそれを放送しちゃう制作者だけど)、表現規制の弱い本ではもっともっとイカれた部分を出してほしかったな。



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2017年9月7日木曜日

困ったときはステゴサウルスにしとけ


ステゴサウルス っているじゃないですか。いないけど。こないだいなくなっちゃったね。こないだっていうか1億年くらい前。
背中にへんな五角形がいっぱいついてるやつ。20個ぐらい。五角形が20個あったら将棋1式できるじゃない。2頭いたら対局できるね。
将棋やってたのかもね。そんでいらない駒を背中につけてたのかも。あ、もしかしてステゴサウルスって名前、捨て駒からきてるとか? ステゴマサウルスがなまってステゴサウルスになったとか。違うか。


まあ変な形状してるよね。
化石から形を再現した人も困っただろうね。頭部とか脚とか背骨とか組み立てて、
ん? なんか五角形のパーツが20枚余ったんだけど? これどこのパーツだ?
将棋の駒? ちがうよね。だって「と」とか書いてないもんね。
この五角形なんだろう。ホームベース? 絵馬? ペンタゴン?
んー。とりあえず背中に並べとくか。余らすわけにもいかんしな。

そんな感じであの形状になったんだろう。


地球に隕石が つっこんできて粉塵がまきあがって大氷河期がきたとする。
人間はもちろん、大型の動物はほとんど死に絶えるよね。その中には、もちろんキリンも。

そんで1億年して、またべつの知的生命体が地球上に繁栄して、そいつらがキリンの化石を見つける。
頭はここ、脚はここ、これが首で、
ん? 首の骨みたいなやつがいっぱい余ったぞ?
これ全部首の骨? まさかね。そんなことしたら首だけが長いアンバランスな生物になっちゃうもんな。

どこにつけたらいいんだろう。
んー。とりあえず背中に並べとくか。余らすわけにもいかんしな。



2017年9月6日水曜日

地に足のついたサイコホラー/堀尾 省太 『ゴールデンゴールド』【漫画感想】

『ゴールデンゴールド』

堀尾 省太

内容紹介(Amazonより)
福の神伝説が残る島・寧島で暮らす中2の少女、早坂琉花。ある日、海辺で見つけた奇妙な置物を持ち帰った彼女は、ある「願い」を込めて、それを山の中の祠に置く。すると、彼女の目の前には、“フクノカミ”によく似た異形が現れた――。幼なじみを繋ぎ止めるため、少女が抱いた小さな願いが、この島を欲望まみれにすることになる。

人から『ゴールデンカムイ』って漫画がおもしろいよ、と勧められてAmazonで検索窓に「ゴールデン」と打ちこんだら候補に「ゴールデンゴールド」が表示されてうっかりクリックしてしまい、でもこっちも評価高いなー、あらすじも怖そうでいいなーということで半ば偶然のような出会いで購入。

小さな島に住む少女が偶然拾った人形に願い事(「島にアニメイトができますように」)をすると、徐々に島が発展しはじめる。人形の存在を知る者は豊かになっていくが、それにあわせるように少しずつ性格が変わってゆく。
また、裕福になるものとそうでない者との間に対立が深まり、島は二分されてゆく――。

ってな感じが2巻までのあらすじ。ここから先どう展開していくのかは読めない。
じわじわと足元が崩れていくような恐怖に引きこまれてしまう。
こういうじんわりとした恐怖って漫画向きだよね。説明過多にならずに変貌を描けるから。


”フクノカミ” がいい存在なのか悪いものなのかは、今のところ明らかではない。まあいいやつではないだろうけど。
 ”フクノカミ” が直接何かをするということはない。周囲の人間にはたらきかけて、その人が本来持っていた欲望を引き出すだけ(2巻の後半では間接的に手を下してたけど)。
手垢にまみれた表現だけど、生身の人間がいちばん怖い、ってやつだね。

それにしても細部の描写がうまい。
狭い島での人間関係とか(「そらいけんよのう。世の中法律だけで回っとるんじゃないんじゃけえ」という言い回しの絶妙さよ!)、田舎の半端なヤクザの造詣とか、中学生同士の恋愛とも呼べないような恋模様とか、島の産物とか、細部のリアリティが不思議な力を持つ ”フクノカミ” の異質さを際立たせてくれている。
設定が突飛であるほど舞台や人物造詣はリアリティが必要だよね。『寄生獣』なんかはそのへんに成功してたから傑作と呼ばれるわけだし、名前を書くと人が死ぬノートを拾う人物が頭脳明晰・容姿端麗・冷血無慈悲な正義感の塊で警察幹部の息子では奇天烈ハチャメチャコント漫画になってしまう。


こういうサイコホラー的な漫画って終盤はエスカレートしすぎて現実味がまったくなくなってがっかりさせられることが多いんだけど(どの作品とは言わんけど)、この現実感の絶妙なバランスを保ったままストーリーがうまく着地してくれることを願う。



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2017年9月5日火曜日

むずかしいものが読みたい!/小林 秀雄・岡 潔 『人間の建設』【読書感想】

『人間の建設』

小林 秀雄・岡 潔

内容(e-honより)
有り体にいえば雑談である。しかし並の雑談ではない。文系的頭脳の歴史的天才と理系的頭脳の歴史的天才に雑談である。学問、芸術、酒、現代数学、アインシュタイン、俳句、素読、本居宣長、ドストエフスキー、ゴッホ、非ユークリッド幾何学、三角関数、プラトン、理性…主題は激しく転回する。そして、その全ての言葉は示唆と普遍性に富む。日本史上最も知的な雑談といえるだろう。

日本最高の天才数学者と呼ばれる数学者の岡潔氏と、日本有数の思想家・批評家である小林秀雄氏による対談(発表は1965年)。
まったく専門分野の異なるトップランナー同士の対談ってわくわくするね。お互い噛み砕いてわかりやすく語ってるんだろうけど、難解すぎてさっぱりわかんねえ。50年以上前の対話だから、ってのもあるんだろうけど。

そうはいっても、今の時代にも通ずる話も多い。
「なるほど、そういうものですか」と素直に拝聴できる。すごい人が語っているという先入観がそうさせるのかもしれない。

 人は極端になにかをやれば、必ず好きになるという性質をもっています。好きにならぬのがむしろ不思議です。好きでやるのじゃない、ただ試験目当てに勉強するというような仕方は、人本来の道じゃないから、むしろそのほうがむずかしい。
小林 好きになることがむずかしいというのは、それはむずかしいことが好きにならなきゃいかんということでしょう。たとえば野球の選手がだんだんむずかしい球が打てる。やさしい球を打ったってつまらないですよ。ピッチャーもむずかしい球をほうるのですからね。つまりやさしいことはつまらぬ、むずかしいことが面白いということが、だれにでもあります。選手には、勝つことが面白いだろうが、それもまず、野球自体が面白くなっているからでしょう。その意味で、野球選手はたしかにみな学問しているのですよ。ところが学校というものは、むずかしいことが面白いという教育をしないのですな。

ぼくがこの『人間の建設』を手に取ったのも、まさにときどき難しい本を読みたくなるから。本を選んでいるとしばしば、「これはぼくには十分に理解できねえだろうな」と思う本を読みたくなる。
それは己の成長のためとか高尚な動機があるからじゃなくて、シンプルに「むずかしいものが読みたい!」って欲求に応えているだけだ。

言われてみれば、学校って「勉強が嫌いな生徒に勉強をさせる」ためのシステムで動いてるよなあ。進学校はどうだか知らないけど、ぼくが通っていた公立学校はそうだった。
程度の差こそあれみんなそれぞれ「勉強したい」「むずかしいことに挑戦したい」という欲求を持っているはずなのに、それを伸ばすようなやり方はとられていない。
「勉強ってつまんねえだろ。でもやらなきゃいけねえんだよ、やれオラ」ってやり方をやってるから勉強嫌い養成機関になってしまうのだろう。
大勢をいっぺんに教えようと思ったらそういうやり方をとるしかないのだろうか。もう少し「勉強好きな子向け」のやり方に変えられないものだろうか。


ぼくには4歳の娘がいるけど、勉強を「やりなさい」と言わないように気を付けている。数字やカナのドリルを買い与えて「これやってもいいよ」と言うと、娘は嬉々としてドリルをやっている。あっという間に1冊終わらせて、またドリルやりたいと言ってくる。
これが自然な姿なのだろう。わからなかったことがわかるようになる、できなかったことができるようになる。おもしろいに決まっている。
もし「必ずドリルは1日3ページやらなきゃいけません!」ってなノルマを課したら、子どもはすぐに勉強嫌いになるだろう。

ぼく自身、母親からは「この本読んでいいよ」と言われ、父親からは「これおもしろいんじゃない?」と算数や論理学のパズルを与えられたので、読書も算数も好きになった。
だから娘に対しても勉強のおもしろさを忘れないでほしいと願っているのだけれど、どこかで勉強を強制される日が来るわけで、いつか勉強のおもしろさを忘れてしまわないかと不安でしかたがない。




数学の世界というとガッチガチの論理の世界で一分のゆらぎも許されないようなイメージがあるけれども、意外とそうでもないという岡潔さんの話。

 矛盾がないということを説得するためには、感情が納得してくれなければだめなんで、知性が説得しても無力なんです。ところがいまの数学でできることは知性を説得することだけなんです。説得しましても、その数学が成立するためには、感情の満足がそれと別個にいるのです。人というものはまったくわからぬ存在だと思いますが、ともかく知性や意志は、感情を説得する力がない。ところが、人間というものは感情が納得しなければ、ほんとうには納得しないという存在らしいのです。
小林 近ごろの数学はそこまできたのですか。
 ええ。ここでほんとうに腕を組んで、数学とは何か、そしていかにあるべきか、つまり数学の意義、あるいは数学を研究することの意味について、もう一度考えなおさなければならぬわけです。そこまできているのです。

数学にも感情が必要なんてほんまかいな。感情からいちばん遠いところにある学問のような気がするが。
とはいえ、今の時代に教育を受けた人の中にも地動説や進化論を否定している人がいるわけで、論理や知性というものには限界があるという話はわからんでもないような。
ぼくは数字を扱う仕事をしているけど、専門家同士の話でない場合は数字を出さないほうが納得してくれるケースも多いしなあ。「これやったらアクセスが増えるんスよ。コストも下がりますし。結果、良くなることが多いスね」みたいな適当なトークのほうが、詳細な表やグラフを持っていくより効果的だったりする。

数学だって最終的には人が納得しないことには公理として通用しないわけだから、意外と感情に訴えかける必要があるのかも。
数学者の知性を上回る感情的説得ってどんな手段なのか、さっぱり見当もつかないけど。



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2017年9月4日月曜日

VBAで魔法呪文のマクロを組んでみた


魔法使いは呪文を唱えることが多い。「チンカラホイ!」とか(『のび太の魔界大冒険』より)。
なぜ唱えるのだろうか。ぼくは魔法を使ったことがないのでよくわからない。

わざわざ呪文を口にすることにはデメリットがいくつかある。
まず、発動までに時間がかかる。
スポーツ漫画だと「トルネードアロースカイウイングシュート!」と言いながらシュートを打ったりするが(『キャプテン翼』より)、どう考えても時間の無駄だ。「トルネードアロースカイウイングシュート!」と叫ぶためには相当長い”溜め”をつくることが必要で、PKのときならともかく、ゴール前でそんなことを叫んでいたらあっという間にボールを取られてしまうだろう。

また、相手に察知されるというマイナス面もある。野球でピッチャーが「スライダー!」と叫びながら球を投げたら、打たれる可能性はまちがいなく高まる(ときどき嘘を混ぜれば効果的かもしれないが)。



かようなデメリットがあるにもかかわらず魔法使いが呪文を唱えるのは、そうしなければならない理由があるからだろう。

それはつまり、魔法というものは魔法使いの内なる力ではないということを意味する。
内なる力の発動であれば心の中で思うだけで十分だ。ピッチャーが黙ってスライダーを投げるように。
わざわざ言語化するのは他者に対して指示を与えているからだ。
たぶん精霊みたいなものが近くにいて、そいつに対して「こういう魔法を使いたいからよろしく!」というメッセージを発する、それが呪文なのだ。

構造としては、コンピュータを操作するときにコマンドを打ちこむことで望むとおりの動作をさせるのと同じだ。
つまり、魔法使いとは精霊を思い通りに動作させるプログラマーであり、呪文はプログラミング言語にあたるわけだ。



魔法は科学と対極にあるものとして語られることが多いが(『のび太の魔界大冒険』でも魔法が使える世の中では科学が迷信扱いされていた)、はたしてそうなのだろうか。

魔法を使いこなすためには、同一の条件下で同一の呪文を唱えたときは同一の動作が確認されなければならない。あるときは火が出て、あるときは氷が出て、あるときは相手を回復させるような呪文は使い物にならない。ドラクエシリーズには「パルプンテ」という何が起こるかわからない呪文があるが、これを常用するユーザーはまずいないだろう。
少なくとも呪文を唱えることによって何が起きたかという結果が確認できて、さらに「この呪文を唱えれば10回中8回以上は××という効果が生じる」といった傾向が把握できないと役には立たない。

すなわち魔法を有用なものとして使うためには検証可能性や再現性、測定可能性が求められるわけで、これはまさしく科学のアプローチそのものである。
魔法とは科学なのだ。



呪文が精霊に対するコマンドである以上、命令の内容は客観的・普遍的なものでなければならない。
たとえばドラクエシリーズにおける呪文”メラ”は「敵に対して小さな火球をぶつける」といった説明がなされているが、これはゲームユーザーに対する簡略化された説明であって、実際はこんな指示では魔法は発動できないはずだ。

まず”敵”のような漠然とした概念では場所を特定できないから、座標を用いて火球をぶつけるオブジェクト(対象)を指定してやる必要がある。
「呪文詠唱者を起点として真北から方位角132度の方向6.1メートルの位置」といった一点に定まる座標の指示を与えなければならない。
方位角や距離を正確に把握するためには三角法に対する正しい知識と素早い計算能力が必要になるから、魔法使いは相当数学に強くないとやっていけない。


さらに”小さな火球”といった曖昧な表現では精霊はうまく対応できないから、サイズ、温度、継続時間といった指標を設定する必要がある。
ただし”敵”は毎回変わるのに対して”小さな火球”は毎回同じものでもかまわないから、マクロのようなものを組んで毎回の発動を簡素化することができる。
一般にはそのマクロの名前が呪文と呼ばれるのだろう。
(ドラゴンボールに出てきた「タッカラプト ポッポルンガ プピリットパロ」のように極端に長い呪文はマクロではなくコードをそのまま読みあげているものだと予想する。神龍の召喚のように数年に一回しか使わないコマンドはマクロとして登録する必要性があまりない。)


ということで、VBAでメラのマクロを組んでみた。



2017年9月3日日曜日

星新一のショートショートを落語化 / 古今亭志ん朝・柳家小三治『星寄席』

『星寄席』

星新一(原作), 古今亭志ん朝 , 柳家小三治 (演) 


ショートショートの神様・星新一の作品を落語家が演じたもの。
『戸棚の男』を古今亭志ん朝が、『ネチラタ事件』『四で割って』を柳家小三治が落語化。
もともとは1978年にレコードで発売されたものだが、なぜか2015年にCDで再発売されたらしい。

星新一に関連するものなら全集から評伝まですべて揃えずにはいられないぼくとしては見逃せないということで購入。上方落語を聴いて育ったので江戸落語は肌に合わないんだけどね。

星新一作品と落語って相性がいいね。
まず落語は古典でもSFの噺が多い。『犬の目』『一眼国』『地獄八景亡者戯』など。あたりまえのように幽霊や死後の世界が出てくる。
また『蛇含草』『天狗裁き』のようなあっと驚くオチ(サゲ)で落とす噺もあり、そのへんもショートショートに似ている。

星新一自身、江戸落語が好きだったようで、『いいわけ幸兵衛』のように落語(『小言幸兵衛』)を基にした作品も書いている。本CDに収録されている『ネチラタ事件』も、古典落語の『たらちね』を下敷きにしている。 また『うらめしや』のように落語原作も書いている。
描写を必要最小限にしていること、登場人物に特徴が少なく記号的であること、時事性が強くないことなども落語的だね。



というわけで『星寄席』だけど、話のチョイスが絶妙だった。
  • 絶世の美女を妻にしたら声帯模写の達人、ルパンの孫、キューピッド、フランケンシュタインたちが間男としてやってくるようになった『戸棚の男』
  • 世の中の人々の言葉遣いが突然乱暴になる病原菌が広まった世界を描く『ネチラタ事件』
  • 賭け事が好きすぎて命を賭けたギャンブルに挑戦した男たちが地獄に行く『四で割って』
いずれもSFらしい奇抜な設定と落語らしいばかばかしい展開がうまく融合されていた。
とはいえそれは原作が良かったからこその出来であって、落語として聴いたら、正直おもしろくなかった。

まずひとつには原作を忠実に言葉にしていたこと。
落語の噺というのは著作権フリーであり、噺の改編も自由にしていいことになっている。
大筋は残しつつも、時代にあったわかりやすいオチに変更したり、節々にギャグを交えたりすることは当たり前におこなわれている。ところがこの『星寄席』に関しては、そういった”あそび”がまったく存在しない。ただの朗読劇になっており、落語としては笑いどころがほとんどない。

そしていちばん残念だったのが、スタジオ録音だということ。タイトルに「寄席」と入っているにもかかわらず高座でかけられたものではないのだ。
したがって客席の笑い声も皆無なわけで、他の客の笑い声も一体となってひとつの話を形作る落語と呼べるものではない。
これではただの朗読劇で、落語家が演じる必要性が感じられなかったなあ。
ついでにいうと、柳家小三治の『ネチラタ事件』は上品すぎた。

高座ウケするようにアレンジして客の前で演じたらずっとおもしろいものになっただろうに。
40年前の音声でもまったく古びない星新一のショートショート。ぜひ落語に取り入れて、今後もしゃべりついでもらいたいものだ。


2017年9月2日土曜日

子どもを野党に入れるには




以前Twitterにこんなことを書いた。
そっちを覚えんのかい!


親として娘に望むことはいろいろあって、その中のひとつが「素直に謝れる人になってほしい」だ。
たいていの場合、早めに謝ったほうがトクをする。意地を張っていいことなんかない。
だから娘がぼくの足を踏んだときとか、寝ているときにおなかに飛び乗ってきたには(想像してほしい。睡眠中に17kgの塊が腹部に落ちてくるのを)、「痛かったよ。ごめんは?」と厳しく注意している。

で、昨日保育園の先生から聞いたのだけれど、娘は失敗をした園児に対してとても厳しいらしい。
少しぶつかられただけで「痛かった! ごめんは!?」と強い口調でまくしたてるのだという。

そっちを覚えんのかい!
素直に謝ることではなく、相手に謝らせる方法を学んでしまったらしい。

以前「子どもは親に言われたことはしない。親がすることをする」と聞いたことがあるが、まったくそのとおりだ。

他人の失敗を厳しく糾弾するのは、とても感じが悪いのでやめてもらいたい。
野党の議員には向いている資質かもしれないけど。


2017年9月1日金曜日

ツイートまとめ 2017年8月



罵声

賛否両論
刺青


尋問

暗転

怪魚

複製人間

路上床屋

生活保護

両立

先端恐怖症

寄居虫

国際競争力

太陽系

不健康

婉曲