2017年8月25日金曜日

「道」こそが「非道」を生む

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「報道」という言葉について。

報道、という言葉はどうも鼻持ちならない。
自分で「報道やってます」という人間はどうも信用ならない。「ニュース番組作ってます」とか「新聞記事書いてます」は事実だから何とも思わないんだけど。

思うに「道」という言葉がついているのが、自称"報道関係者"の態度を尊大にさせるのではないだろうか。

ニュースを伝えることなんて、いってみりゃただの商売だ。「報道」なんておこがましい。「報業」で十分だ。
「広告道」とか「製造道」とか「サービス道」とか言わないじゃないか。「農道」は農地脇の道だし。

商売には正しさは必要だ。広告だって製造だってサービスだって同じだ。
法を破ってはいけない、人を傷つけてはいけない。そんなことはあたりまえだからわざわざ「道」をつけたりしない。
「報道」という言葉には「おれたちは他の商売とはちがうんだぜ」という意識が透けて見える。


「道」をつけると、どうしても「正しき道を追い求める者」ということになる。
宮本武蔵のような求道者のイメージだ。
しかし正しい道を求めることは危険極まりない行為だ。

人が度の過ぎた悪に手を染めるのは、正義のために行動するときだ。
「抑圧されている人々を救うため」「正しい世界をつくるため」といった大義名分をふりかざしはじめたとたん歯止めは利かなくなり、あとは自らが破滅するか他者を破滅させるかしかないことは多くの戦争が教えてくれている。
太平洋戦争だって、指導者たちが「金儲けのため」と思っていたらほどほどのところで手を引いていただろう。
金儲けのためなら「これ以上やったら赤字」という損益分岐点があるが、正義には引き際がない。


「報道」はときに正義のために暴走する。災害救助の邪魔になるような取材をしたり、罪のない被害者やその遺族を苦しめたりする。
商売のためにニュースをつくっているという意識があれば「さすがにこれはやりすぎだな」とブレーキがかかるのに、「報じることが正しい道」と思えばどこまででも突き進んでしまう。

正義の色眼鏡をかけて突き進むことでこそ得られる真実もあるのだろうが、これだけ多くの情報にかんたんにアクセスできるようになった時代、報道に求められるのは「道」を捨てることじゃないかな。

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