2017年4月28日金曜日

公園で缶チューハイを飲むおじさんだけが怖いのはなぜなのか

大阪市内に 引っ越してきて5年。
昼間から公園でお酒を飲んでいる人も見慣れてきた。

子どものころは郊外の住宅街で育ったこともあって、昼間からお酒を飲んでいる人はほとんど見なかった。

せいぜいお花見のシーズンぐらい。

田舎は車社会だからってのもあるけど。


今ぼくが住んでいるエリアでは、公園のベンチでお酒をちびちびやっているおじさんはめずらしくない。

朝から缶ビール片手にふらふら歩いている人もよく目にする。

公園でお酒を飲む人
大阪ではよくある光景(嘘)


見慣れてくると、べつになんとも思わない。

小さい子どもがいることもあって、はじめのうちはちょっと怖いと思っていたけど、そういうおじさんはいたって無害な存在だ。

静かにベンチに座って、何をするでもなくちびりちびりと飲んでいる。

することといえば、たまに鳩に食べ物をやるぐらい。

ほんとは鳩に餌をやるのはよくないことなんだけど、それぐらいの楽しみには目をつぶってあげたい。



ビール(発泡酒等含む)を飲んでいるおじさんは比較的身なりがきれいだ。

日本酒や焼酎を飲んでいるおじさんはよく日焼けをしている。

お酒を飲みながらお菓子やパンを食べているおじさんはわりといるが、おにぎりやお弁当を食べながら飲んでいるおじさんはなぜか少ない。



よくわからないんだけど チューハイを飲んでいるおじさんが怖い。

見ちゃいけない気がする。

目を合わせたら良くないことが起こりそうな気がする。

なぜだろう、ビールや日本酒のおじさんには怖さを感じないのに。

チューハイを飲むおじさんだけ、怖い。



なんでだろう。

通勤電車に揺られながらゆっくり考えてみた(こういうことを考えていると満員電車もつらくない)。


1. チューハイは、お酒を好きな人はまず飲まない。

「お酒好きで、毎晩のように吞んでます!」という人は、たいていビールや日本酒やハイボールや焼酎なんかを飲む。

「甘いお酒が好き」という人は、梅酒やワインやカクテルを飲む。

お酒好きでチューハイが好き、という人に出会ったことがない。


2. チューハイは、お酒が苦手だけど酔いたいときにちょうどいい。

ぼくの感覚では、チューハイを飲む人=お酒が苦手な人 だ。

お酒は好きじゃない。ビールは苦いしワインは後に残るしカクテルは高い。

でもお酒の席は好きだから酔いたい。あるいは、雰囲気的にソフトドリンクは頼みづらい。

そんなときにちょうどいいのがチューハイ。甘いし、安いし、あんまり残らないし。

ぼくも大学生のときは飲んでたけど、お酒に慣れてきたらいつのまにか飲まなくなったなあ。


3. チューハイを飲んでいるおじさんは、ほんとは飲みたくない

ということは、公園でチューハイを飲んでいるおじさんは、ほんとはお酒を飲みたくないんだと思う。

お酒が好きならビールや日本酒を飲めばいいし、甘いものが好きならジュースのほうがずっと安い。

それなのにチューハイを飲んでいる。


酒なんか好きじゃない。できることなら飲みたくない。

だけど、飲まずにはいられない。酔わずにはいられない。

何がおじさんを缶チューハイへと駆り立てたのか。彼の心中を察することはできないが、あれはまちがいなく「我慢の酒」だと思う。



我慢している人はこわい。

いつか爆発しそうな気がする。

お酒が好きな人ならお酒で発散できるかもしれない。

でも酒を好きでない人が酒を飲んでもストレスが溜まるだけだ。

公園で缶チューハイを飲んでいるおじさんに言ってあげたい。

「無理しなくていいんですよ」と。

「カルピスとかヤクルトとか飲んだほうが幸せになれますよ」と。


そしたらおじさんはどんな顔をするだろう。

案外「うるせえ、おれはこの世の飲み物のなかでチューハイがいちばん好きなんだよ」と言われるかもしれない。


2017年4月27日木曜日

吉田 修一 『怒り』 / 知人が殺人犯だったら……

吉田 修一 『怒り』

内容(e-honより)
若い夫婦が自宅で惨殺され、現場には「怒」という血文字が残されていた。犯人は山神一也、二十七歳と判明するが、その行方は杳として知れず捜査は難航していた。そして事件から一年後の夏―。房総の港町で働く槇洋平・愛子親子、大手企業に勤めるゲイの藤田優馬、沖縄の離島で母と暮らす小宮山泉の前に、身元不詳の三人の男が現れた。


吉田修一の小説を読むのは『元職員』に次いで2作目。
『元職員』の感想として、こんなことを書いた。
どんどん逃げ場がなくなっていって、常におびえながら暮らさないといけない。ときどきふっともうどうにでもなれという気になるし、でもやっぱり逃げなくちゃとも思う。
ガス漏れしている部屋にいるように、気がつけば恐怖と不安と焦燥が充満している。

『怒り』もまた、そういう小説だった。ずっと喉元に短剣をつきつけられているような気分。
「指名手配をされる悪夢」をよく見るぼくは、「自分だったらどう逃げるか」って考えながら読んでいた。追われるようなことは(今のところ)していないんだけどね。 



『怒り』には、4人の「正体不明の人物」が出てくる。漁港に現れた無口な青年、ゲイのサラリーマンの部屋に転がり込んできた男、沖縄の離島にやってきたバックパッカー、そして殺人事件の犯人を追う刑事の恋人の女性。
女性は明らかに犯人じゃないから除外して、3人の男はそれぞれが殺人事件の犯人の特徴を持っていて、3人ともときおり怪しい言動を見せる。

ぼくもいろんなミステリ小説を読んできたので、いろいろと勘ぐりながら読んだ。

「こいつが犯人っぽく書かれてるけどまだ中盤だからミスリードだろうな」

「3人の中に犯人がいない、という可能性もあるな」

「実は『×××(ネタバレのために伏字)』のトリックみたいに時系列がばらばらで、3人とも犯人なのかもしれないな」

「いやいや、時系列トリックと叙述トリックが組み合わさっていて、怪しい青年と出会ったこの男性こそがもしかしたら犯人の未来の姿だったりして……」

とかね。
「これはミステリじゃないんだ」とわかっていても、ついつい推理してしまうね。

ぼくの持論として、いいミステリ小説の条件として、「いい謎解きがある」ってのは必要条件であって十分条件ではない、と思っている。
いいミステリであるための必要十分条件は「いい謎がある」だ。
極端に言うと、謎解きがなされなくても、いい謎を提示していればそれはいいミステリだ。じっさい、芥川龍之介『藪の中』のように真相が明らかにならないミステリはけっこうある。東野圭吾もそれに近いことをチャレンジしてたね。

『怒り』は、まさに「真相が明らかにならない」タイプの小説だ。ミステリ小説じゃないけど「いいミステリ」といっていいと思う。
「これ、最後まで犯人が明らかにならないという展開もあるな」と思いながら読んでいたんだけど、さすがにそれはなかった(個人的にはそれでもよかったと思う)。



ぼくらの 生きる世界はいたって不明瞭だ。

電車で隣に座っている人が殺人犯かもしれない。

友人や会社の同僚が、本当に名乗っているとおりの人物なのかわからない。

家族ですら、彼らが自分と出会う前は何をやっていて、どんな内面を隠し持っているのかは知るすべもない(自分の親が過去に人を殺していなかったと言えるだろうか?)


周囲の人物が凶悪犯ではないだろうという "前提" で生活している。
「置いている財布からお金を抜くぐらいのことはするかもしれない」けど、「こいつと2人っきりになったら殺される」とまでは思っていない。
それは「信じる」というほど積極的な信頼ではなくて、「疑うことを放棄する」ってぐらいのもの。

もしも。その "前提" が揺らいだとき、正しくふるまえるだろうか。
仲のいい友人や家族に対して「殺人犯かもしれない」という疑念が沸いたとき、
  • 直接問いただす
  • 返答に納得がいかない場合は警察に通報する
  • あるいはとことん信じぬく
ってのが「正しいふるまい」だと思うんだけど、ぼくにはそれができる自信がない。
問いただしたら関係が壊れてしまいそうで、親しい間柄であればあるほど、訊けないような気がする。
かといって信じぬくこともできない。

きっと「疑念を抱えたままなんとなく付き合う」っていう、うやむやな対応をとっちゃうような気がする。不誠実だけど。


逆に、自分が人を殺してまだばれていない場合。

妻から「あなたがやったの?」って単刀直入に訊かれたら、ちょっとイヤだなあ。
「ぼくを疑うのか!?」って怒っちゃうかも。犯人のくせに。

やっぱり、古畑任三郎みたいにカマをかけたり罠をしかけたりして、じわじわと外堀を埋められていく感じがいいな。
で、最後は「自首……していただけますね?」って言われてがっくりうなだれる、みたいな感じがいいなあ。




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2017年4月26日水曜日

高校生のとき、教室で鍋をした


高校生のとき、教室で鍋をした。


ぼくが通っていた高校にはエアコンはおろか、ストーブすらなかった。
同じ高校に通う姉から「高台にあるから消防法の都合でストーブをつけられないんだって」と聞いたことがある。
「ふーん、法律ならしゃあないな」と思って卒業まで寒いのを我慢して通ってたんだけど、今思うと、そんなわけない。
当時は本気で信じていたけど、たぶんだまされてたんだと思う。姉が嘘をついていたのか、姉もまた誰かにだまされていたのか。


昼休みに友人たちと「寒いなー。鍋とかやったらうまいだろうなー」みたいな話をしていて「じゃあやってみようか」となった。
男子高校生の唯一の長所である行動力のなせるわざだ。

担任に「教室で鍋やってもいいですか?」と訊いた。
担任は「そりゃああかんと言うしかないやろ」と答えたが、ぼくらはそれを「立場上イエスとは言えないが勝手にやるなら目をつぶる」という意味だと解釈した。

学校で鍋

完全な思いつきで「鍋をやろう」となったのに、じっさいに鍋をやるまでの段取りはじつに用意周到だった。
クラスの男子に声をかけて、参加者を七人集めた。
鍋やカセットコンロは重いので、前日に持ってきてロッカーの陰に隠しておいた。
学校帰りにスーパーに寄って食材を買いこんだ。

昼休みは五十分しかない。
のんびり鍋の準備をしていては、火が通って食べはじめる前に昼休みが終わってしまう。
あらかじめ自宅で食材を細かく切って、シイタケやニンジンなどの火の通りにくい食材は軽く下茹でしておいた。
お湯を沸かしている時間も惜しいので、ポットを持ってきて昼休みの前の4時間目に沸かした(授業中にお湯が沸いて教室の後ろから急に蒸気が噴きだしたのは誤算だったが、なんとかごまかせた)。


四時間目の授業が終わるとすぐに、机を移動させて大きなテーブルをつくる。
急いでカセットコンロに鍋をセットし、沸かしておいたお湯を入れ、がんがん食材を放り込む。
出汁をとっている時間はないので水炊きにした。
下茹でをしておいたおかげでどの食材もあっという間に火が通る。
ポン酢につけて、口に運ぶ。
うまい。
教室で食う鍋は、めちゃくちゃうまい。

廊下側の席だったので、窓ガラスが湯気で曇った。
ストーブがないから余計に目の前の火と湯気がやさしくぼくらを温める。
「四組の教室で鍋をやってるやつがいる」とうわさが流れたらしく、いろんな生徒がのぞきにきた。
鍋の前では人はみな饒舌になる。「めちゃくちゃいい匂いやなー」「ちょっとちょうだい」と声をかけられ、ぼくらは誇らしかった。


後片付けの時間も考え、昼休みの十分前には食事を終わらせた。
せわしない鍋だったが、そこは食べ盛りの男子高校生。すべての食材がなくなった。

まもなく5時間目の授業がはじまる。鍋を洗っている時間はないので、とりあえず教室の後ろの隅においてビニール袋をかぶせた。
カセットコンロや食器を片付け机を元に戻したところで、ちょうどチャイムがなった。


五時間目の英語の先生が、教室に入ってくるなり「なんでこの教室、こんないい匂いなん!?」と声を上げた。冬場で教室を締め切っていたので、匂いが立ちこめていたのだ。
だが若くて冗談にも理解のある先生だったこともあって、それ以上深くとがめられることはなかった。もちろん五時間目がそういう教師の授業であることを見越して、その日を選択したのだった。


ぼくの人生において、あれほど周到に計画を立て、計画通りにことが運んだことはない。仕事をするようになってからも。

まったく、我が母校の校訓である「創意工夫」に恥じない鍋パーティーだった。


2017年4月25日火曜日

記憶の捏造

新社会人の子が入社してきて、

朝は「おはようございます!」

帰るときは「おつかれさまでした!」

って、違う部署のぼくにまで深々と頭下げてあいさつをする。
たいへんさわやかだ。
ああ若いなあ、ぼくにもあんな時代があったなあ。

って思ってたんだけど、よく考えたらぼくにはそんな時代なかったわ。
一日たりともあんなさわやかな時代なかったわ。

あぶないあぶない。
あやうく記憶を捏造して、昭和はよかったとか言う人になっちゃうとこだった。

逃げるように退社していた


2017年4月21日金曜日

「ねえ、過ちをおかして」


3歳の娘は「まちがえた」という遊びが大好きだ。
しょっちゅう「おとうちゃん、まちがえてー」と言ってくる。
そして、ぼくはわざとまちがえる。

とはいえ、覚醒剤に手を出したり不倫をしたりするわけではない。
そういう人の道をまちがえるやつじゃなくて、もっと単純な「まちがい」だ。



たとえば、保育園に行くためには右の道を通らなくてはいけないのにわざと左に行く。
妻の靴を履いてみせる。
犬を指さして「猫だ」と言う。

そして「あっ、まちがえた!」という。

ぼくがまちがえる姿を見て、娘はきゃっきゃっと笑う。
「それおかあちゃんの靴やでー」と訂正してくることもあるし、真似して自分もわざとまちがえることもある。そしておかしそうに笑う。
たあいもない遊びだ。
これを何十回もくりかえさせられる。
大人からすると「もうかんべんしてくれよ……」という気分になる。


しかし、この「まちがえて」の遊びは、3歳児にとってはけっこう高度なことをしているのかもしれないと気がついた。
  • この生き物は犬である
  • 猫という生き物もいる
  • 犬と猫は別種であり、重なることのない概念である
という3段階の判断をしており、その結果としての「まちがえた!」に笑っているわけだ。
身の回りのものをあるがままに受け入れていた時期は終わり、自分なりの常識を持ってそれに適合する/しないを判断しながら生きているわけだ。

おおっ、たいへんな進歩じゃないか。
つい1年前までうんこ漏らしてたのと同じ人間とは思えない。今でもたまに漏らすけど。



2017年4月20日木曜日

自分の人生の主役じゃなくなるということ


いちばん影響を与えた本


人生に影響を与えた本はいっぱいあるけれど、あえて1冊選ぶなら、リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』 を挙げたい。


二十歳くらいのときに『利己的な遺伝子』を読んで、それまで学校教育やテレビで押しつけられてきた「努力」だとか「優しさ」だとか「愛情」だとか「正義」とかがみんないっぺんにふっとんだ。
なーんだ、努力とか優しさとか愛情とか正義とかって、こんなにどうでもいいものだったのか、と目から鱗が落ちた。

思春期のころはみんなそうだと思うけど、ぼくもいっちょまえに「人は何のために生きるんだろう。自分は何を成し遂げられるんだろう」と思い悩んでいた。答えなんて見つかるわけないから、好きでもない新しい環境に飛び込んだり、好きでもない人と会ったり、模索を続けていた。
でも答えは『利己的な遺伝子』に書いてあった。

人は遺伝子の乗り物にすぎない。


乗り物の目的は?
乗り手を運ぶこと、ただそれだけ。
それ以上の意味なんて必要ない。
自転車が愛や美や善を担う必要がないように、乗り物としての人にとっても「遺伝子様を運ぶこと」以上の意味なんかどうでもいい。

そりゃあダサい車よりかっこいい車のほうがいい。でも車の最大の目的は「人を乗せて走ること」だから、どんなにかっこよくても人を乗せられない車は車じゃない。飛べない豚はただの豚だし、飛べる豚は脂の乗ったコクと鳥の持つあっさりした口あたりを兼ねそろえていておいしそう。何の話だったっけ。



ぼくらは死ぬけど遺伝子は生きる


ぼくらの細胞は毎日大量に死んでいくけど、それでも新しい細胞がどんどんできて、1年もすればもうまったく別の細胞に入れ替わっているらしい。
だけどぼくらは別人になるわけじゃない。細胞が死んだってぼくらが死ぬわけじゃない。

ぼくらと遺伝子の関係も同じこと。
ぼくらは100年ちょっとすれば完全に入れ替わるけど、遺伝子はずっと生きている。ぼくらが死んでも遺伝子は死ぬわけじゃない。


結局、人は遺伝子を残すためだけに生きている。

ってなことを書くと、「いろいろな事情で子孫を残せない人を人間扱いしないのか」って言われそうだけど、そんなことはない。
『利己的な遺伝子』を読めばわかるけど、子どもを産むことだけが遺伝子を残す方法じゃない。
甥や姪や従兄弟の子だって、自分と同じ遺伝子を持っている。
赤の他人だって、いくらかは共通の遺伝子を持っている。

だから人類みんなのためにおこなう行為がめぐりめぐって自分の遺伝子のためになるわけで、そうすると愛とか善とかも無意味なものではないということになるんだけど、どっちにしろ「人の行動はすべて遺伝子様に尽くすための行動」ということに変わりはない。



生きるのが楽になった


「自分は遺伝子にコントロールされる乗り物にすぎない」ということを受け入れた後は、生きるのがすごく楽になった。
だって乗り物なんだもの。何を悩むことがあろうか。

しょせんは乗り物

後世に遺伝子を残すことさえできればそれでいい。しかもそれは自分の子孫という形じゃなくてもいい。
生きることのゴールが、「善く生きる」という崇高である上によくわからない目標から、「人類が死滅しないこと」に変わったわけだ。
しかもアメリカ大統領ならいざしらず、「人類を死滅させない」ためにぼくができることはほとんどない。
借金に苦しんでいたのにいきなり徳政令を出されたような気分だった。




ぼくは主役の座を降りた


さらに子どもが生まれたことで、生きることの負担はさらに軽くなった。

子どもが生まれて1年くらいしてからだろうか。
友だちと話していて、ふっと「ぼくはもう人生の主役じゃないからなあ」という言葉が出てきた。
それまでそんなことを考えたこともなかったから自分でも驚いたのだけど、「人生の主役じゃない」という言葉は己の心境をよく言い表していた。


あたりまえだけど、それまで自分の人生の主人公は自分だった。
誰が何といおうとぼくの人生はぼくのためにあったし、他の登場人物はすべてぼくを引き立たせるための脇役にすぎなかった。通行人Aとか森の樹Wとかぐらいの扱いだった(森の樹多いな)。
誰しもがぼくのためにあった。

でも、子どもがすべり台をしている横で寒さに震えながらじっと付き添っているぼくは、明らかに脇役だ。
ぼくの人生において、父や母が主役を支える脇役だったのと同じように。

我が子だけではない。
娘と同じ年頃の子どもたちを見ていると、「ぼくはこいつらのためなら死ねるかもしれない」と思う。
無条件に命を投げ出すのはイヤだけど、「知らない子どもが溺れていて死にそうだ。飛び込んだら自分も50%の可能性で死ぬけど、50%の可能性で助けられる」という状況だったら、ちょっと迷うけれども飛び込めるんじゃないかと思う。
それってマリオを助けるためにヨッシーを切り離して穴底へ落とすようなもので、寂しいけど脇役なんだからしかたないとも思う。

もちろん何歳になったって、子どもや孫や雲孫(孫の孫の孫の孫)が何人いようと、「おれの人生の主役はずっとおれだぜ!」って人もいるんだろうしそれはそれでけっこうなことだけど、ぼくは「脇役は脇役なりの楽しみ方をすればいいや」って気持ちだ。
もともと主役は遺伝子様だったんだし。

ぼくはヒーローの座を降りた


2017年4月19日水曜日

【読書感想文】 小林 直樹 『だから数字にダマされる』

小林 直樹 『だから数字にダマされる』

内容紹介(Amazonより)
「最近の若い人は内向き志向で海外旅行に興味がない」――。これ、ウソです。統計調査やアンケートの結果は、そのまま受け止めると実態とズレが生じてしまいます。
日本からの海外渡航者に占める20代の比率が大きく下がっている。これは事実。しかし20代の人口そのものが少子化で大きく減っているのだから、20代の渡航者も減るのは当然です。20代の中で渡航者の割合をみると、80年代後半のバブル期の20代よりも上回っています。「若者の海外旅行離れ」はかなり無理がある。ウソと言っていいでしょう。
 いわゆる「統計にダマされない」系の本では、「数字で一般人をダマして買わせようとする悪い大人がいるから、惑わされないようにしよう」という趣旨のものが多いですが、学者やアナリストら統計のプロらも意図せず検証を欠いたデータを公表し、それをメディアが無批判にニュースとして報じることで、おかしな数字が悪意なくニュース視聴者・閲覧者に届いてしまっているのが実情です。本書ではそうした具体的な事例をケースに分けて紹介し、違った角度からの見方を提示します。
<紹介事例>
・消費不況の元凶は、モノを欲しがらない若者のせい?
・内向き志向の若者急増で「海外旅行」に興味ナシ?
・「キレる若者」が急増しているのは教育が悪いから?
・最近の若者は「政治」に興味がないのか?
・保育園建設に反対しているのは中高年のオヤジ?
・訪日観光客向け商戦は「爆買い」終了で崩壊したか?
・「使える人材輩出大学」 ワースト1位は○○大学?
・禁酒すると早死にするって本当?
・開票速報番組 なぜ開票率数%で「当確」が打てるのか? ほか多数

「若者の ××離れはウソ」「若者の犯罪は激減している」など、どこかで一度は聞いたことがある内容じゃないかな。
こういうテーマは、べつに目新しいものではない。
それでもこういう本がなくならないのは、ろくに調べもせずに「最近の若者はすぐに凶悪犯罪に手を染める」なんてことを言ってしまう輩がいるから。
そして、どれだけこういう本が出たとしても「ちょっと調べればわかることを調べない人」は読まないだろうから、永遠にすれちがいつづけるんだろうな。

まあべつに年寄りが「最近の若者は……」と言いながら病院の待合室でくだを巻いているだけならいいんだけど、企業や報道機関や政府のそれなりの立場にいる人の中にも「自分のふたしかな記憶だけを基準にものを言う人」って少なからずいるからなあ。「おれのときはこうだった」「おれはこうしてたからほとんどのやつもこうしてたはず」ってやつね。



似たような 趣旨の本はけっこうある(この系統の本の白眉はパオロ・マッツァリーノ『反社会学入門』)けど、この本のおもしろいところは、マーケティングの専門家という立場から書いていること。
「通念に反すること」はマーケティングにどういう影響を与えるのか、どう活かせるのか、という視点が入っているのがおもしろい。


たとえば若者のビール離れ(じっさいには20代だけでなく、ほとんどの年代で減っているらしい)。
その数字を解説するだけでなく、そんな状況の中でも売上を伸ばしている企業のマーケティング戦略を紹介している。

だいたいね。マーケティング職の末端にいるものとして言うけど、結果が出なかったことを「時代の流れ」とか「時期的要因」とかのせいにするやつってマーケターとしてド三流ですよ。それが事実だったとしても。
いや、じっさい時代の流れで衰えるものってあるよ。今、紙の時刻表を20年前と同じ部数売ってこいって言われたら「今の時代では無理ですよ」と言うしかない。
でもそれは事前に予見しとくべきものであって、後から言い訳として並べ立てられたって「いやその潮目を読めなかったのはおまえじゃん」と言うしかない。


そして「最近の若者は酒を飲まない」って、まるで悪いことみたいに語られてるのにも疑問。

 年齢確認が厳格化されることで、新歓コンパで18歳の学生が救急車で運ばれたり、不幸にも命を落とすような事件事故は以前より減った感がある。一方で学生の飲み会はめっきり減った。その世代がすでに社会人になっているのだから、飲み方が変わるのも当然だ。
 2006年に福岡市・海の中道大橋で飲酒運転によって3人の用事が死亡した事故以降、飲酒運転撲滅に向けた動きも強化され、ドライバーにはアルコールを提供しない取り組みも定着している。こうした規則の徹底は、アルコール消費量からみればマイナス要因である。規制が緩かった時代と比べて嘆いても仕方ないだろう。

今の50歳以上の話を聞くと「昔は飲酒運転なんてみんなやっていた」という言葉がよく出てくる(これも「ふたしかな記憶」だけどね)。「泥酔していなければオッケー、警察に捕まったら運が悪かった、ぐらいに思っていた」という認識の人も少なくなかったようだ。

また未成年の飲酒に関しても、10年くらい前までは「大学に入ったらお酒解禁」というムードだったけど、今はすごく厳しくて18歳、19歳に飲ませたら退学もある、という状況らしい。

結局、「未成年の飲酒禁止」「一気飲み禁止」「飲めない人への強要禁止」「飲酒運転禁止」という風潮になっているわけで、"違法な飲酒" と "むりやり飲まされる機会" が減ってるんだよね。
まったく問題がない。すばらしいことだとしか言いようがない。

お酒がもたらすものって、いいことより悪いことのほうが圧倒的に多いわけだし。酒の消費量が減れば、事故も盗難事件も暴力も性犯罪も浪費も病気も減るだろうし。
この点に関しては、いい世の中になっているように思う。
お酒好きな人にとっては、昔よりいろんなお酒がかんたんに手に入る世の中になってるしね。



「車離れ」に関しても、単なる趣味嗜好の変化だけの話ではないようだ。
  • 全体的に車の性能が向上しているので長持ちするようになり、買い替えの頻度が減っている
  • 子どもができると車を持つ人が増えるが、晩婚化、少子化で子どもを持たない層が増えている
  • 若者は都心部に多く集まっているが、都心部では車は不要(それどころか邪魔になるだけ)
といった事情があるらしい。

最近の若者は渋滞を嫌う傾向がある

ぼくは今、街中の交通便利なところに住んでいることもあって、自動車はおろか、自転車すら持っていない(子ども用のペダル無し自転車だけはある)。でもまったく困ったことはない。
いっとき、街中で車を所有していたことがあるけど、駐車場だけで月3万円かかって閉口した。おまけにやっと借りられた駐車場は自宅から50メートル離れていたし、車で出かけても停めるところはないし、「車なんてじゃまなだけだ!」と早々に売っ払ってしまった。外出のたびに毎回タクシーを捕まえるほうが安くつくのだから。

自動車離れにしても酒離れと一緒で、「若者が離れたからって自動車産業の人以外に誰が困るの?」という感想しか出てこない。自動車が減れば環境にもいいし、騒音も減るし、事故も減るし、本当に必要な車(救急車とか)は早く到着するし、トータルで見ればプラスのほうが多い。

人口が減っていく中で国内需要が増えるわけないんだし、輸出だって日本車がいつまでも関税や輸送コストを補ってあまりあるほどの優位性を保ちつづけられるわけないんだし、自動車産業が衰退しないと思っていたとしたら、相当能天気だというしかない。
「衰退業界だとわかっててそこに入ったのはあなたたちでしょ?」と思うだけだ。

だから考えるべくは「若者の車離れを食い止めろ!」じゃなくて、「業界が衰退していく中で利益を最大化するためにはどうしたらいいか」だと思うんだけど、これはべつに自動車業界にかぎった話ではなく、誰しも退却戦は苦手なんだよね。

これからの時代は、味方の被害を最小限にしながらうまく撤退・縮小することのできるリーダーが求められるだろうね。



いちばん 印象に残ったのはこの一節。

 同様にイメージと実態がずれる内容として、駅や電車で迷惑だと思う行為のランキングがある。日本民営鉄道協会が実施した2014年度の調査では、「混雑した車内へのベビーカーを伴った乗車」が男性は8位(16.5%)だったのに対し、女性は3位(30.2%)だった。「女の敵は女」などと言いたいのではない。自分の経験、流儀、一家言あることに対して、人は見る目が厳しくなりがちということだろう。

ちなみに、近所に保育園ができることに対して最も反対する率が高い層は40代女性らしい。
「日中家にいることが多い」のに加えて、「あたしらのときは保育園に預けられなくて苦労したのに」と思うと、そりゃおもしろくないよね。気持ちはわからなくもない。
ぼくも子どもは好きだけど、四六時中よその子の絶叫を聞きたいかといわれると、それはまたべつの話。

もう保育園は森の中に作るしかない

自分が通ってきた道には厳しい」って、そのとおりだよなあ。

自分とはまったく関係のない世界、たとえば宝塚音楽学校の生徒が「すごくたいへんなんですよ」と言っていたら、「よく知らないけどたいへんだろうなあ。がんばれ」と素直に思うのに、母校の後輩が「すごくたいへんなんですよ」と言っていても「甘ったれんな。みんな通ってきた道だろ」と思っちゃうもんなあ。
きっとどの学生もそれぞれたいへんで、比べられるようなものじゃないのに。


高校野球が毎年八月の真昼間に、酷暑の甲子園球場でおこなわれることについても、毎年「無駄にたいへんだし危険だから日程をずらしたほうがいい」と言われているのに、いっこうに改善されない。
「進学する生徒のことを考えたらこの日程じゃないと……」とかうだうだする人がいるけど、サッカーやラグビーの全国大会は冬にやってるわけだから秋にずらしたってかまわないと思う。いつ全国大会があろうが勉強するやつはするし、しないやつはしない。

あれも結局、高校野球を取り仕切ってるのが野球部のOBばっかりだから、
「おれたちが暑い中苦労してきたのに、今のやつらだけが楽をするなんて許せん」
って気持ちが強くて改善されないんじゃないかな。

高校野球ファンだけど野球部じゃなかったぼくなんかからすると「寒い時季じゃなければいつだっていいよ。暑くないほうが観る側としても助かるし」としか思わないんだけどね。
まあ「高校生が必死に汗水流して走り回ってるのを見ながら飲むビール最高!」って気持ちもあるわけで、高校野球選手権大会が八月じゃなくなったらますますビール離れが加速しちゃうかもね。



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2017年4月17日月曜日

未開人の前ででかい顔する話


自動車とか炊飯器とか電子レンジとか冷蔵庫とかデジカメとかタブレットとか、今の時代の文明の利器を大量に持って明治時代に行く(電力やガソリンは使えるものとする)。


その時代の人が困っていたら、自分が発明したわけでもないのに
「しょうがねえなあ。今回だけだぞ」
と偉そうな顔をして文明の利器を貸してやる。

もちろんその時代では誰もがぼくをあがめたてまつる。
みんなから感謝されるから、何を生みだしたわけでもないのに、自分が偉くなった気になって自尊心は満たされる。
ぼくが活躍する物語まで作られるし、さらには「みんな大好き犬犬さん」と、ぼくをたたえる歌まで作られて、みんながもてはやしてくれる。

そんな、ドラえもんみたいな生き方がしてえなあ。


書店が衰退しない可能性もあった

とある本に「人は、自分が通ってきた道に厳しい」という言葉があった。
妊婦や子育て世代に対していちばん厳しいのは、少し前にそれを経験した40代女性なのだとか。

ぼくは本屋で働いていたので、本屋には厳しい。出版業界に厳しい。
「このままじゃAmazonにやられて町の本屋がつぶれる!」なんて声を耳にすると「つぶれるのもしょうがないよね」と思う。
  • 目当ての本があるかどうかわからない
  • 注文してもいつ入荷するのかわからない
  • 傷んでいることが多い
こういう欠点があると、本好きな人ほどリアル書店を離れてAmazonに行きたくなる。

リアル店舗のメリットしては「立ち読みできる」ぐらいだけど、たいていの書店では漫画は立ち読みできないし、今ではオンラインである程度内容が確認できることが多い。


こうした問題が改善されることはないだろうし、Amazonはどんどん進化していくだろうから、リアル書店がつぶれていくのは避けられない。

それ自体は誰が悪いわけでもない。
どんな商売だっていつかは新しいものにとって代わられる。
Amazonが存在しなかったとしても、別の何かが書店を衰退させただけだろう。

ただ、ぼくは思う。
衰退するにしても、もう少しうまくやれなかったのか、と。

アマゾンと斜陽




とことんダメだった取次システム


今、本屋の抱える問題の多くは、取次というシステムに起因するものだ。

ご存じの方もいるだろうが、通常、出版社から書店に直接本が送られてくることはない。
取次と呼ばれる会社(日販とかトーハンとか聞いたことがあるかもしれない)が必ず間に入る。
出版社は取次に本を送り、取次が書店に本を送る。お金の流れはこの逆だ。

数万の出版社が数十万の書店にそれぞれ本を送っていたら、どう考えたって効率が悪い。
中継点を挟んだほうがうまくいく。だから取次システム自体には何の問題もない。

ただ、この取次が「おまえら仕事する気あんのか?」と言いたくなるような雑な仕事をしていた。そこに大きな問題がある。

※ ぼくは書店員として某取次1社としか取引をしていなかったので、たまたまその会社がひどかっただけかもしれない。またぼくが書店にいたのは5年くらい前までなので、今は状況が変わっているかもしれない。


まずわかりやすいところでいうと、本の輸送状態がひどかった。
取次から書店には段ボールやビニールに入って本が送られてくるのだが、本がぐんにゃり曲がっているなんてのはざらで、ひどいときはカバーが大きく破れたりしていた。
もちろんトラックで揺られながら運ぶのだから多少の破損が出るのはいたしかたない。だが、段ボールの中で本を縦に詰められてその上に別の本が乗せられていたりするのだ。誰が見たって本が破損するってわかるだろうに。
野菜なんかとちがって、本はみんな同じ形をしている。判型の違いこそあれ、ふつうに考えて箱詰めすればそうそう破損することはない。
なのによほど時間がないのか、縦横斜めに本が詰められて運ばれてくるのだ(本を斜めに箱詰めするなんて頭おかしいとしか思えなくない?)。

お客さんから「今度発売の〇〇っていう本を予約したいんだけど」と言われ「あ、ちょうど1冊入荷します!」と答えたのに、その1冊が入荷時に破損していた、なんてこともあった。
楽しみに本を買いに来たお客さんに対して「すみません、すぐに取り寄せますので……」と頭を下げたものの、「だったら他の店で探すのでいいです」と言われて、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。ぼくがあのお客さんの立場だったら「もうこの店は利用しない」と思うだろう。

本なんて、立ち読みをされたってそうそう傷まない。
破損は、取次から書店に入ってくる段階での発生が圧倒的に多かった。



それから、他の業界の人からはびっくりされるのだけれど、
「新刊本が発売日に何冊入ってくるかは書店側では決められず、取次が一方的に決める」
「しかもそれがわかるのが2~3日前」
というルールもあった。
これは取次が悪いわけじゃなくて出版社がギリギリまで部数を決めないせいらしいんだけど。

たとえば村上春樹の新作小説が発売される、ということになる。
発売前に、お客さんから「予約したいんです」と言われる。
わざわざ予約してくれるなんて、本屋からするとすごくありがたいお客さんだ。こういうお客さんを大事にしたい。
でも。
断らざるをえない。「すみません、予約は受けられないんです……」。
なぜなら何冊入荷するかわからないから。
「発売日に入荷しない可能性もありますけど、それでもよろしければ……」
「だったらいいです」
あたりまえだ。確実に手に入らなくて、何のための予約だ。


新刊本だけじゃない。
取次はまったく在庫の管理ができていなかった。
取次にどの本が何冊あるか、誰も把握していないのだ。倉庫に見にいって「あー1冊だけあるねー」、みたいな感じなのだ(ぼくは取次倉庫に行ってじっさいにそういう現場を見た)。
出版社から何冊入荷して、各書店に何冊納品して、何冊返品されて、何冊廃棄処理されて、というデータはすべて存在するはずなのだから、あとはそれをデータベース化して、各書店員が確認できるようにすればいいだけなのに、それをしていなかった。
昭和時代の話じゃないよ、2010年頃の話だよ。小学生でもパソコン使ってる時代の話だよ。
今はシステム化されてるのかもしれないけどね(ぼくの勘では今もないと思う)。


そのデータベースがないから、本の注文は「とりあえず注文してみる」だった。
お客さんから「〇〇という本を取り寄せてほしいんだけど」と言われる。
出版社に電話をする(わあ、アナログ!)。
「〇〇という本を取り寄せたいんですけど」「承知しました。では取次経由で送ります」
そして出版社から取次経由で書店へ入荷。この間、約10日。Amazonなら? 即日配送、翌日到着。

それでもまだ、ある場合はいい。でも出版社に在庫がない場合もある。
でもひょっとしたら取次にはあるかもしれない → データベースがないからとりあえず注文する → 数日後「ありませんでした」という返事が来る → お客さんに謝罪の電話 → お怒りの言葉「何日も待たせて、結局ありませんってどういうことだよ。はじめからAmazonで買えばよかった!」
ごもっとも。書店員のぼくもそう思ってました。


こんなことは一書店員の愚痴レベルで、書店が滅びゆく原因の一部でしかない。
だけど、何かが終わるときはその要因はひとつじゃない。こうしたことの積み重ねが、書店をつぶすのだと思う。




本は消えない。文化も衰退しない。


取次の悪口ばかり書いたけど、もちろん書店もダメだった。何も変えようとせず、旧来のシステムに必死にしがみついていた。
ぼくが働いていた書店はぼくが辞めた1年後につぶれた。責任はぼくにもある。

「このやり方、今の時代にあわないから変えたほうがいいよね」
と、たぶんみんなが思っていた。
同時に「でもどうせ変えられないだろうけど」とも。

でも、Amazonは変えた。
在庫を管理してユーザーにもリアルタイムで確認できるようにし、適正な仕入れをおこない、送品方法も改善した(10年前はAmazonから送られてくる本は傷んだり曲がったりしていることが多かった。今はまずない)。

取次と書店が経営努力不足により、Amazonに負けた。ただそれだけ。
「町の本屋がなくなると文化が衰退する」なんて声もあるが、そんなことはない。レコード屋はなくなってMDもなくなったけど音楽文化は衰退していない。
新聞は衰退しているが、人々がニュースサイトやアプリでニュースを目にする機会は昔より増えた。

書店が消えゆくのは、必然だ。
でも、Amazonに負けない方法はあったと思う。

たとえば、すべての出版社と取次が共同でAmazonみたいなWEBサイトを作っていたら。
書店員がPOPを書く時間を、そのサイトの改善に費やしていたら。
そこで注文したら自宅近くの書店に翌日届くシステムを作っていたら。
返品リスクがないわけだから再販制度を捨ててもっと安く売っていたら。
個別配送しなくていい分、Amazonよりも安く売っていたら――。

本屋は衰退するどころか成長していたんじゃないだろうか。
もちろんこんな案は完全に後出しジャンケンだし、歴史が100回くりかえしたとしても起こりえないだろう。
だけど、取次や本屋がAmazonに勝つチャンスはゼロではなかった。だけど、そのチャンスをものにできなくて負けた。
それだけは言っておきたい。



2017年4月14日金曜日

読書とスーパーマリオブラザーズ3の共通点

本を読む習慣がない人から「なんか読書って敷居が高いよね」と言われた。

まあねえ、慣れてない人にはそうかもねえ、ってそのときは思ったんだけど。

いや待て。
読書って敷居が高いのか?
むしろ、趣味としては相当間口が広いんじゃないのか?

というわけで読書、その中でも小説を読むことの "敷居" について考えてみた。

ハードルを乗り越えた先がいい場所とはかぎらない


もちろん 文字を読めない人にとっては、読書は敷居が高い。とんでもなく高い。
今、たどたどしく一文字ずつ「の、ち、ん、ぽ、が、ら、な、い」と読んでいるうちの3歳児を見ていると、こいつがあと10年もすればたいがいの文章をすらすら読めるようになるとはとても信じられない(3歳児に『夫のちんぽが入らない』を読ますな)。

でも、かなと常用漢字を読める人であれば、読書って十分に楽しめるものだと思う。
古典や翻訳ものはべつにして、軽い小説やエッセイであれば特に前提知識を必要としない。


かたや 他の趣味を考えてみよう。

たとえばプロ野球観戦。
読書でいうところの「文字が読めること」に相当するのが、「野球のルールを知っている」だ。
じゃあ野球の基本的なルールを理解していればプロ野球の試合を観て100%その魅力を味わえるかというと、そんなことはないと思う。たぶん50%ぐらいじゃないだろうか。
両チームが現在何位で、昨年の成績は何位で、ピッチャーは何年目でここまで何勝を挙げていて、バッターはドラフト何位の選手で打率や本塁打数はどれぐらいで、ランナーはどこの高校を出ていてケガをしたのはいつで、センターを守っている選手の肩の強さはどれぐらいで年俸はいくらで昨年までどの球団にいたのか……。

そういうことを把握していたほうが、ぜったいにプロ野球観戦は楽しい。
毎日のようにプロ野球の結果を確認して、選手名鑑を読みこんで、ドラフトや契約更改の情報をチェックして、キャンプ情報なんかも見て、そういうことを何年も何十年も続けたうえで試合を見たほうが楽しめる。

野球を楽しむためには、これぐらいのデータを頭にたたきこんでおく必要はある


こないだ稀勢の里が優勝決定戦で勝利して大きな話題になったけど、あれもあの一番を見ただけではそのすごさがわからない。
貴乃花を最後にずっと日本人横綱が不在で、朝青龍の時代に横綱の品格が問題になって、その後白鵬を筆頭にしたモンゴル勢の時代が続いて、稀勢の里は将来を嘱望されながらなかなか大関に昇進できなくて、師匠が亡くなって、先場所やっと横綱昇進を果たして、場所の途中で怪我を負って出場が危ぶまれていて、対戦相手の照ノ富士はモンゴル出身力士で……という背景を知っているのと知らないのでは、あの一番の重みはぜんぜん違う。

つまりスポーツ観戦を十分に楽しもうと思ったら、少なくとも10年は見続けないといけないと思う。
もちろん初心者でもそれなりに楽しめるけど、10年見続けている人とは理解の度合いに大きな差が生じてしまう。
これを「敷居が高い」と言わずしてなんといおう。

他の趣味でも同じこと。
昨日カメラや自転車や将棋や古銭集めや陶芸をはじめた人が、20年間それを趣味にしている人よりも深淵を味わうことはできないだろう。


だけど 読書については、「これまで教科書以外で小説を1冊も読んだことのない人」と「過去に1万冊読んできた人」が同じ本を手に取ったとき、初心者のほうが深い部分に達することが十分にありうるのではないだろうか。

もちろん、読書にも「前提知識があったほうが楽しめる」部分は存在する(続編とかはおいといて)。
たとえば村上春樹の新作を読んだとき、『ノルウェイの森』を読んだことのある人は「これは『ノルウェイの森』のあの部分と共通するな」といった楽しみ方ができる。
でもそれで増える楽しみって、せいぜい2%ぐらいじゃない?

本というメディアは基本的にその1冊の中ですべての情報が提示されているので、毎回まっさらな状態で接することができる。そこに初心者と熟練者を隔てる大きな壁は存在しない。
だから敷居が低い、とぼくは思う。
(映画も近いかもしれないけど、映画は俳優の過去の出演作品やプライベートな情報が多少乗っかるので、完全にまっさらではないと思う)


逆に 言うと、たくさん読んだからって読書スキルが積みあげられるわけではない。
多少読むのが速くなるぐらいだし、速ければいいというものでもない。

読書は、毎回一からのスタートだ。

スポーツ観戦やギターや蒐集の趣味がオートセーブ型のロールプレイングゲームだとしたら、読書は初代ファミコン版の「スーパーマリオブラザーズ3」。どれだけがんばっても、セーブができないから次回はまた一から。

べつにどっちがいいとかじゃなくて、積みあげていくのも楽しいし、毎回新しい気持ちで取り組める趣味も楽しい。

ただ「読書は敷居が高い」という点だけは否定しておきたいと思う。

1冊読むコストはすごく安いしね。



2017年4月13日木曜日

【読書感想エッセイ】 岩瀬 彰 『「月給100円サラリーマン」の時代』

岩瀬 彰 『「月給100円サラリーマン」の時代』

内容(「BOOK」データベースより)
戦前社会が「ただまっ暗だったというのは間違いでなければうそである」(山本夏彦)。戦争が間近に迫っていても、庶民はその日その日をやりくりして生活する。サラリーマンの月給、家賃の相場、学歴と出世の関係、さらには女性の服装と社会的ステータスの関係まで―。豊富な資料と具体的なイメージを通して、戦前日本の「普通の人」の生活感覚を明らかにする。

講談社現代新書で2006年に出版されたものの絶版になっていたのを、ちくま文庫から再刊されたもの。
いやあ、いい本。再刊してくれてよかった。筑摩さん、ありがとう。



戦前は意外と今と近い


昭和十年頃(日中戦争、太平洋戦争が始まるちょっと前)の都市生活者の暮らしを、「お金」という切り口で描いた本。

「戦前の生活」というのは江戸時代の暮らしと同じくらい遠い時代のイメージだったんだけど、この本を読むと、サラリーマンはスーツを着て会社に行き、学生は勉強そっちのけでビリヤードに精を出したりしていたらしい。なーんだ、今と似たような生活を送っていたんじゃないか(少なくとも男性は)。
「玉音放送で価値観がガラッと変わった」なんて話をよく聞くけど、大きな断絶があるのは「戦中から戦後になったとき」であって、「戦前の平和な時代と戦後の復興後」はけっこう近い生活をしていたんだとか。

 戦後に人々が復興しようとしたのは、当然のことだが「平和の戦前」であり、復興のスローガンは、戦前で最も経済が安定していたとされる「昭和八年に帰ろう」だった、という。実際、昭和ヒトケタから昭和三十年代なかごろまでの日本人の基本的ライフスタイルはほぼ同じだったといってよい。つまり、戸建ての日本家屋に住み、主に和室で生活し、ふだんの買い物は八百屋や魚屋といった個人商店ですませ、日常の足は公共交通機関に頼るという生活だ。ここに、昭和八年と昭和二十六年の雑誌小説の挿絵を並べてみるが、戦争をはさんで十八年の時差があるにもかかわらず驚くほどスタイルが変わっていないのがわかる。

どうも、江戸時代よりはずっと近いようだ。
といってもこれは都市生活者の暮らしの話で、農村部と都心部の暮らしの差は今よりもずっと大きかったのだろう。
ぼくの父は昭和30年生まれだけど雪国の農家で育ったので、幼少の頃は「牛を飼っていて、冬になると家の中に入れて一緒に生活していた」そうだ。日本昔ばなしみたいな話だけど、昭和40年くらいでもまだそんなところはあったんだねえ(もしかしたら今でもあるのかも)。
母は同世代だけど都会育ちなので、母がテレビで『鉄腕アトム』を観ていたころに、父は「村で唯一電話があるのが自慢だった」という。ずいぶんと差がある。





戦前の金銭感覚について


物価についてはいろいろと説があるようだが、だいたい2,000倍して考えるとだいたい今の価値に近くなる、とこの本には書いている。
外食で30~50銭ぐらい出せばそこそこの食事ができたらしいから、今の価値だと600~1,000円。まあそんなもんだろう(東京だと600円で食事できるところはファーストフードしかないだろうけど)。

この本のタイトルにもなっているように、「月給100円」というのが戦前サラリーマンにとってひとつのボーダーだったようだ。100円稼いでいればそこそこいい暮らしができる、という認識だったみたい。
しかし月に100円ということは、今の価値だと20万円。しかもボーナスを入れての金額なので、毎月支給されるのは10万円をちょっと超えるぐらい。10万円ちょっとで「そこそこいい暮らし」ができたのだから、いい時代だ。

今は30代の平均年収が400万円くらいらしいので(賞与含む)、月収ベースにすると30万とちょっと。
物価は2,000倍で所得は3,000倍以上になっているから、それだけ今の暮らしは楽になっていることになる……。単純に考えるとそうなんだけど、じっさいはそうでもないよね。

 家賃は2,000倍どころでなく上がってるし、昔はなかった家電や携帯電話に使うお金もあるし……。
「平均的な暮らし」をするためのコストで考えると、昔も今もたいして変わらないんじゃないかなあ。



そうしてサラリーマンは戦争へ駆り出された


特に興味深かったのは、最終章の「暗黙の戦争支持」。
日本が勝ち目のない戦争に突き進んだ責任の一端はサラリーマンたちにもあると著者は指摘する。

 当時のホワイトカラーも、極端な貧富の格差の存在や政財界の腐敗には内心怒りを感じてはいた。だが、多くのサラリーマンはただじっとしていた。文春のアンケートで資本主義は行き詰まっていると訴えた二十九歳のサラリーマンは「自分の生活のためと、プチブル・インテリの本能的卑怯のために現代社会生活の不合理と矛盾を最もよく知りながらも之が改革運動の実際に参与出来ない」と言い、それが「一番の不満です」と述べている。

さまざまな問題を知りながら、「自分の生活のため」に目をつぶっていたサラリーマンたち。
民衆の不満はくすぶっていた。その不満を解消する手段として選ばれたのが、戦争だった。
戦争に勝てば景気は沸き、贅沢もできないから格差は縮まり、軍人は大きな顔をできる(戦前の軍人は安月給で扱いも低かったらしい。彼らの鬱屈した思いが戦争を招いたとも言えるかもしれない)。

かくして「今の良くない状況を打開してくれるもの」として戦争支持者は歓声を上げ、日本は後には引けない戦争へと足を踏み入れる。

 満州事変以降、生活の苦しいブルーカラー(つまり当時の日本の圧倒的多数)や就職に苦しむ学生は、「大陸雄飛」や「満州国」に突破口を見つけたような気分になり、軍部のやり放題も国家主義も積極的に受け入れていった。しかし、すでに会社に入っていた「恵まれた」ホワイトカラーはますますおとなしくなっていったように見える。彼らは最後まで何も言わず、戦争に暗黙の支持を与えたのだ。
 彼らもやがて召集され、シベリアの収容所やフィリピンの山中で「こんなはずじゃなかった」と思っただろう。学生時代に銀座で酔っ払って暴れたり、給料日に新橋の「エロバー」まではしごで豪遊したり、三越でネクタイを選んでいられた頃に心底戻りたかっただろう。でも、気がついたときはもう遅かったのだ。


この描写にぞっとした。
そうだったのか。出兵していた兵士たちって、元サラリーマンもいたのか。想像したこともなかった。



今ぼくらが耳にする戦争体験って、昭和生まれの人の話が多い。だって大正生まれはもう90歳を超えているのだから。
戦中育ちの人の戦争体験は、どこか遠い世界の話だった。
でも、サラリーマンも戦争に行っていたというのは、現在サラリーマンであるぼくにとってはかなりショッキングだった。

今の日本も、格差は広がり、ほとんどの若者が豊かな生活を送れていない。今後高齢化は進む一方だから将来的な展望も暗い。
『「月給100円サラリーマン」の時代』を読むと、昭和十年頃の空気はもしかしたら今と同じように閉塞的な雰囲気が漂っていたのかもしれないなと思う。

今、裕福でない家庭に生まれて高い技能を持たない若者にとっては、状況を打開する手段はもはや宝くじで一発当てるか、戦争が起こることぐらいしか残されていない。

だからってすぐに日本が戦争を始めるとは思わないけど、しないとも言い切れない。「防衛のための戦争」という大義名分があれば今の憲法でもできるしね。ちょうど東アジアの情勢が不安定になっていることもあるし。
戦争をしたい人は少ないだろうけど、「戦争をするといわれても積極的に反対はしない」という人も少なくないんじゃなかろうか。


ぼくは思う、日本が戦争をすることは、ない話じゃないと。
そしてこうも思う。いざその道に進みかけたときに、ほとんどの人は何もしないんじゃないかと。



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2017年4月12日水曜日

いちばんセンスのないあだ名


4月
といえば、あだ名をつけられる季節。
きっと今頃、いろんな学校やサークルや会社で新しいあだ名がつけられていることでしょう。

あだ名には、つけた人間のセンスが如実に表れる。
世の中にはセンスのいいあだ名をつける人がいる。

ぼくが知っている中で、いちばんセンスを感じたあだ名は「貯金」だ。
大学のサークルに入ってきた新入生を見て、先輩が「おまえ貯金してそうやな」という理由でつけたものだ。
たしかに、その名をつけられた貯金氏はがんばって小金を貯めてそうな顔をしていた(金持ちっぽかったわけではない。本当に「貯金」をしてそうな見た目だった。預金じゃなくて、豚の貯金箱にお金を入れてそうだった)。
しかも「ちょきん」という音の響きは呼びやすいし親しみもある。
「資産家」とか「リッチ」だったら若干の悪い響きも含まれているが「貯金」にはそれもなく、付けられた当人も「貯金ってあだ名としておかしいやろ~」と言いながらもまんざらでもなさそうだった。

  • つけられた経緯がエピソードとして印象に残る
  • 当人のキャラクターにしっくりくる
  • 呼びやすい
  • 言葉に悪いイメージがない
  • オリジナリティがある

と、五拍子そろった秀逸なあだ名だった(しかし五拍子ってリズム悪いな)。



では逆に センスのないあだ名とはどんなものだろうか。

ぱっと思いつくところでは、「名前をもじっただけのあだ名」というものがある。
すなわち「よっしー」「さかもっちゃん」「ナベさん」「はるちん」「ミカピー」みたいなやつ。あだ名を聞いただけで、名前がある程度推測されるやつ。
これはお世辞にも「センスのある」あだ名とは言えない。
ただ、これがワーストかというと、それも違う気がする。だってつけた人は何も考えていないのだから。

こうしたあだ名をつける人は、「狙って」いない。
あだ名をつけることで己のユーモアを示してやろうとか、気の利いた比喩表現を見せてやろうとか、そういった意図がない。
「他人のあだ名という土俵を借りて自分の才覚で相撲をとってやろう」という勝負心がないので、そもそも「センスがあるかないか」という勝負の舞台にすら立っていない。

「坂本くんと呼ぶよりはもうちょっと踏み込んだ関係をあなたと築きたい」という意志表示としての「さかもっちゃん」なので、ある意味これはこれですごく正しい。あだ名って元来そういうものだし。
みんながみんなこういう「狙って」いないあだ名をつける世の中になれば、きっと世界は平和になると思う。それはすごくつまんない世の中だろうけど



じゃあ センスがないあだ名、すなわち己の持てる感性を誇示してやろうと「狙って」つけたにもかかわらず愚かにもその企図が失敗しているあだ名とは何なのか。


ずいぶん前置きが長くなってしまったが、ぼくが思う「いちばんセンスのないあだ名」は

同じ苗字の有名人の名前をつける あだ名だ。

たとえば夏目さんに対して「漱石」とつけるようなやつ。
野口に対して「英世」とか「五郎」とか「みずき」とかつけるようなやつ。

元祖・英世

このタイプのあだ名、誰しも一度は聞いたことがあるだろう。つけられたことのある人もいるだろう。そしてうっすらと嫌な思いをしただろう(わざわざ抗議するほど嫌でもないのが余計にタチが悪い)。

  • 笑えない
  • 当人のキャラクターと何の関連もない
  • オリジナリティがない
  • 呼ばれる側を不快にさせる
  • つけられた経緯が安易に想像できて周囲の人間も不愉快になる

と、悪いところが五つそろった逆ロイヤルストレートフラッシュなあだ名だ。



この手の センスのなさが前面に出たあだ名がつけられる時季は、圧倒的に4月が多い。
こういうあだ名をつけるやつは、ふだんは周囲から相手にされていない分、入学直後とかの新しい環境でまだ嫌われていないときは1年でいちばんイキイキとしていて、
「おまえ速水っていうの? じゃあ "もこみち" って呼ぶわー。もこみちー!」
なんてうすら寒いことを言いだす。

言われたほうも、他の季節なら「冷ややかな顔で小さくため息をついてから無言で目をそらす」ぐらいのリアクションをとるのだけれど、なにぶん4月は周囲から浮かないように気を付けている時期。「ハハッ」とミッキーマウスのような乾いた愛想笑いをして甘んじて受け入れてしまう。


このような悲劇はもうくりかえされてはいけない。
だから新学期になったら真っ先に担任教師から
「同じ苗字の有名人のあだ名をつけないように。
 あと雑巾2枚持ってくるように」
と伝えることを忘れないようにしていただきたい。


【読書感想エッセイ】 高山 トモヒロ『ベイブルース 25歳と364日』

高山 トモヒロ『ベイブルース 25歳と364日』

内容(「BOOK」データベースより)
「絶対一番なるんじゃ」。かつての野球少年達が選んだ芸人への道。焼け付くような焦りの中を頂点目指してもがき、ついに売れると確信した時、相方を劇症肝炎が襲う。人生を託した相方である友の再起を願い、周囲に隠し続ける苦悩の日々…。今なお、芸人に語り継がれる若手天才漫才師の突然の死と、短くも熱いむき出しの青春が心に刺さる感動作。

ときに「ベイブルース」という漫才コンビをご存じだろうか。
大阪で漫才の賞を総ナメにし、「ダウンタウン以来」とも言われるほどの快進撃を続けながら、人気絶頂の1994年にメンバーの河本栄得の急逝により活動休止したコンビ。

ぼくがお笑いにはまってテレビで漫才番組を欠かさずチェックするようになったのは1995年からなので、ベイブルースのことは「名前だけはちらっと聞いたことがある」という程度だった。
この本を読んで気になったので、YouTubeを検索して、ベイブルースの漫才映像を観てみた。
おもしろかった。20年以上たつのに、その発想は色あせていない(構成は「昔の漫才だなあ」と思うけど)。

そんなベイブルースの「残されたほう」である高山トモヒロの私小説。



なにが 恥ずかしいって、こういう「親しい人が死ぬとわかっている小説」で泣くことほど恥ずかしいことないよね。
なんかすっごくダサい感じがする。作者の狙い通りというか。

まあ、ぼくは泣いちゃったんですけど。しかも電車の中で。


ぜんぜんうまくないんだよ、小説として。へたくそといっていいぐらい。
文章も稚拙だし、芸人が書いてるのに笑えないし、思い出したままに書いているから時系列もめちゃくちゃだし、小学生の作文みたい。
だからこそ、相方が脳死宣告を受けるくだりなんか、ド直球で感情をぶつけられるように感じた。小説を読んでいるというより友人の語りを聞いているような気分。そりゃ泣くぜ。こんなので泣くかいと思ってたのに泣かされてしまった言い訳だけど。

でもこんなの小説として認めないからな!(涙ぐみながら)



ところで ベイブルースというコンビのバランスについて思ったこと。

河本は相方に対して、一字一句間違えず、間の取り方まで寸分の狂いもない「精密機械であること」を要求し、相方もまた「精密機械でいよう」とその期待に応えようとした。

「これからは相方として絶対に絶対に力になるから」
 今さらその考えを変える必要はない。この男について行けばいいだけだ。間違いない。河本の才能があったからこそ、僕も一緒にここまでこれた。僕1人の才能では到底無理だった。
「精密機械になれ」
 その通りにしたら、ここまでこれた。僕のペースにも少しは合わせてほしい……これは少しでも楽をしたいという、僕自身の甘っちょろい考えだ。プロはそんな生ぬるいことなんて言わない。少しでも河本が僕のペースに合わせたら、ごく普通の芸人人生で終わるかもしれない。河本が抱いている大きな夢には届かない。好きにしてくれ、自分が思った通りに突き進んでくれ。それが時にどんなイバラの道に迷い込んでしまおうと、僕はついて行くから。

すごい信頼関係だと思う。でも同時に、怖い、とも感じる。

相方が死んで思い出が美化されて書いているだけかもしれない。
でも元気に活動しているうちから「こいつは天才だから、その才能を輝かせるために俺は自分を殺してすべてを捧げよう」って姿勢でいたとしたら、怖い。
それってどういう気持ちなんだろう。

献身性って怖くない?
ぼくは、高校野球のマネージャーも怖いんだよね。何が楽しくて他人のためにあそこまでできるんだろうって思う(応援団とかチアリーダーは応援じゃなくて自己満足でやってるように見えるからべつに怖くない)。
いや、マネージャーも自己満足なんだと思う。「みんなのために尽くしてる一生懸命なアタシ」が好きなんだと思う。それはわかる。わかるんだけど、なぜその献身の対象が赤の他人なんだろう。
尽くす対象が「大好きな恋人」とか「愛する我が子」とか「おれのかっこいいバイク」とかなら理解できるんだけど。それは自分の所有物(と思っているもの)だから。
「がんばってる君が好き」よりも「南を甲子園に連れてって」のほうがまだ健全な気がする。

「がんばってる君が好き」という感情って、ほんのちょっと方向性がずれたら、攻撃性に変わっちゃいそう。「がんばってない君は存在しちゃいけない」と表裏一体というか。



この本を読んだ後は「もし河本が生きていたらどうなっていただろう?」と考えずにはいられない。
ベイブルースはどんなコンビになっていたのだろう?
「才能のあるこいつのために俺は精密機械になる」という強い意志は、いつか壁にぶつかって「こいつの才能は枯渇したのかもしれない」となったときに、同じような関係を続けることができたのだろうか?

コンビとしてはどうだっただろう。
ひょっとしたら今でも第一線を走っていたのかもしれないし、生きていたとしてももう活動していないかもしれない。早逝したから実際以上に評価されているだけで、凡百なコンビだったのかもしれない。

こうやってあれこれ想像してしまうのは、ベイブルースというコンビがそれだけ魅力的だったからなんだろうね。



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2017年4月7日金曜日

【読書感想エッセイ】 小松左京・筒井康隆・星新一 『おもろ放談―SFバカばなし』


小松左京・筒井康隆・星新一
 『おもろ放談―SFバカばなし』


1981年に刊行の対談集。もちろんとっくに絶版。

どうですか、このメンバー。一部のファンにとっては垂涎ものでしょう。
20年くらい前に古本屋で買ったもので、ぼくの宝物。
主にしゃべってるのは小松左京・筒井康隆・星新一の3人だけど、他にも平井和正・豊田有恒・矢野徹といったSF作家もときどき参加。
久しぶりに読み返してみたけど、おもしろいなあ。

筒井 まあ、しかし最近世界各地でたくさん飢えて死んでますね。あれ、ひとまとめにして埋めときゃ石油になるのかな(笑)。
小松 そんなに早く石油になるもんか(笑)。まったくもう、血も涙もないな(笑)。
筒井 とにかくね、人間が死んでそのままというのがもったいないんですよ。死にかけてるのを日本へつれてくればね、古々米はいっぱいあるし、残りものでもなんでも食わせてやれば大きな労働力に(笑)。
小松 ひどいことを(笑)。ヒューマニズムのかけらもないな(笑)。
 しかし、本人たちにしてみれば、飢え死にするよりはいいかもしれんぞ。

はっはっは。不謹慎だなあ。
まちがいなく今だったら掲載できないな。冗談と本気の区別がつかない人が多いから。
いや、そこの区別がつかない人は昔もいっぱいいたんだろうけど、無視してたんだろうな。「ばかが文句言ってるわ。ほっとけほっとけ」ってな感じで。

ちょうと最近、筒井康隆が不謹慎なことをTwitterで言ったといって炎上していた。
まあ不謹慎な発言だし、怒る人がいるのもわかる。ぼくも、褒められた発言だとは思わない。
でも筒井康隆は何十年もこんなことを言い続けてきた。本に収録されているだけでもこんなんだから、現場ではもっと俗悪なことも言ってたんだろう。
当時と違うのは、今はこういう発言を拡散したり記事にしたりして、それを聞いて嫌がるであろう人に「あいつがあんなこと言ってますぜ。言わせてていいんですか」とわざわざ届けにいくゲスい人がいること。そのための手段があること。

ものを表現している以上、誰かを傷つけるリスクはつきまとう。表現者は、それに対して責任を負うべきだと思う。
でも、「代憤(ぼくがつくった言葉。当事者の代わりに勝手に憤慨すること)」をしてるやつはまったく相手にする必要がない。
地震の被災者を冒涜するような発言があったら、被災者は大いに怒ったらいい。謝罪を要求したらい。
でも、被災者でもないのに「被災者の気持ちを考えろ! 謝罪しろ!」と怒ってるやつは、他人の怒りを横取りして溜飲を下げたいだけのクズだから無視すればよい。
身内向けに語られたちょっと不謹慎な発言を「こんなこと言ってるやつがいる。被災者の反発が予想される」なんて煽り文付きで広めようとする記者は、自分で火をつけておきながら第一発見者になる放火魔といっしょだから、火あぶりにされればいい(言いすぎた)。


とにかく、代憤が嫌いだ。それを煽るやつも嫌いだ。
だってみんなトクしないじゃない。
怒ってるやつも、怒られてるやつも、知らなくてもいい不愉快なことを聞かされる本来の被害者も、イヤな気持ちになるだけ。
それを記事にした放火魔だけが第一発見者としてお手柄をあげられてトクをするけど。



「人間を食って何が悪いのか」という話。

小松 ひとつ問題があるのはね、そこでやっぱりヒューマニズムが踏んばらなきゃいけないのは死んだら食ってもいい、しかし生きている人間をぶっ殺して食うのはいかん、つまり食う側の人間と、食われるための人間とを作っちゃいけない、ここを頑張らなくちゃいかん。
筒井 しかし、食われるためのクローン人間を作った場合は、しかたないでしょう。
小松 クローン人間ができるのはまだまだだから、むしろヴァン・ヴォグトの『虎よ虎よ』に出てきた、ニワトリの肉の組織培養、あの方が簡単だろ。
 そんなら、たとえばガンだって、どんどん作っちゃ切り、作っちゃ切りして食えばいいんだな(笑)。
筒井 あれ、食っても大丈夫かな。
小松 一応、焼いて蛋白として食やあ、なんにもねえだろ。ガンのオドリ食いってのはよくないけどね(笑)。
筒井 いやあ、どうせなら、ナマのまま塩もみして、酢のものにして食えば(笑)。
小松 ばか、ばか、やっぱりサッと湯通しぐらいはしろ(笑)。
 人間を食ってはいかんというのは、今、野坂が「四畳半裁判」にかかってるけど、あれと同じだろ。結局もとは(笑)。人間食ってなぜ悪い。
小松 そうなんだ。この問題、とにかく意識の上で突破しなきゃな。不思議な思想だけど、こういうのがあるんだ。紀元前七世紀、ゾロアスターが、最後の審判、つまり最終戦争みたいなものがあって、そのあと人間は復活する、そういう思想を出した。その復活する時にボデーがないと大変である(笑)。その前にも、エジプトでも同じ思想が出てる。それで死体を損壊したらいけないということになったんだな。一方じゃラマ教か何かの風葬みたいに、死体を鳥に食わせるというやつもあるが、これだとエコロジカルサイクルに入ってくる。とにかく、焼くってのがいちばんいかんよ。炭酸ガスになるだけだ(笑)。
 焼くだけのエネルギーもいるしな(笑)。

ばか話をしてたのに、急に知識を放り込んでくる小松左京。
小松左京って知の巨人とか言われてたけど、そういうすごさって書くものより会話に現れるね。とっさに関連知識を引き出せるってのはすごい。
(※ ちなみに、「ヴァン・ヴォグトの『虎よ虎よ』」という一文があるが、『虎よ、虎よ』を書いたのはヴァン・ヴォークトではなくアルフレッド・ベスターなのでこれは小松左京の記憶違いと思われる)

深く考えたことなかったけど、死んだ人間を食うのってそんなに悪いことじゃないよな。もちろん心理的抵抗はあるけど、ちょっと訓練したらその抵抗は取り払えそうな気がする。
今のところは食うに困ってないから必要ないけど、『ひかりごけ』みたいな状況になったときに意識の切り替えができるだろうか。
そうなったときに「ゾロアスター教やエジプトの復活思想があるから食ったらいけないと思われてるんだ」という知識を持っていれば、案外切り替えができるかもしれない。
こういう何の役にも立たなさそうな知識が、極限状態の命を救うかもしれない。



反体制運動について。

小松 反体制運動が続いているけれども、なぜ先進諸国で完全にひっくり返すことができないかというと、実は情報がありすぎるからではないだろうか。たとえばベトナム報道でもそうなんだけれども、これでもかこれでもかと写真を出していると、またか……というんで飽きちゃうんだ。今度は何か知らないけど、資生堂のビッグサマーのほうがいいぞ……ということになっちゃう。
 純粋な反体制がなくなって、売名や利益に結びついちゃっているところがあるな。反体制で新しいことをおっぱじめると、すぐテレビが飛んでくるわ、週刊誌がくるわ……(笑)。ということは、テレビでやれば視聴率も上がってスポンサーも儲ける、雑誌社がそれを広告媒体に使って儲ける。もう、すぐ体制側に組み込まれちゃって、本人もそれでタレント気どりでいい気持になって……。どういうのかなあ。すぐ体制に組み込まれちゃうシステムができちゃったせいじゃないかな。
小松 だまってコツコツやらにゃいかんですよ。
筒井 もっとも、弾圧すればするほど強くなるんですね。あれはいじめないから全然強くならないわけで、むしろそれを育ててやろうというんで、保護的傾向がある(笑)。

SEALDsなんかも見てて思ったけど、反体制運動ってむずかしいよねえ。
権力をひっくり返そうと思ったら、武力だとかお金だとか人気だとかが必要になる。それってつまり、ひっくり返す側も権力を手にするということ。そうなると広い支持は得られなくなるし、権力をめぐって内部紛争も起こる。
そうなると社会党みたいに分裂をくりかえして縮小するか、共産党みたいに「確かな野党」として勝利をあきらめるか、公明党みたいに反体制のふりをしたまま体制につくかしか道はないような気がする。

筒井康隆が言ってるように、弾圧すればするほど結束も固くなって強くなるんだろうな。生死にかかわるような弾圧を受けていれば、少々の考えの違いがあっても目をつぶって団結するしかないもんね。

治安維持法で捕まって獄死した牧口常三郎(創価学会の初代会長)とか、社会主義者だったために処刑された幸徳秋水とか、そういう不遇な目に遭った人がいたからこそ、活動が盛り上がったのかもしれない。
今の日本だと、何を言っても殺されることはないもんね(たぶん)。自由にものが言えるからこそ、逆に発言の重みはなくなって運動を主導する力もなくなるように思う。
イエス・キリストが磔になって殺されてなかったら、はたしてキリスト教がここまで世界中に広まってたかどうか。

逆に言うと、権力を握る側にしたら、言論や思想の自由を与えるほうが体制を守ることになるのかもしれない。
身の危険を感じずに自由にものが言える環境だったら、命を賭してまで体制をぶっこわそうとは思わないもんね。

気に入らないやつには、そこそこいい地位を与えてやる
これこそが賢い権力者のやることかもしれない。



幼稚園の話。

筒井 今の幼稚園、たいていカトリックかプロテスタントかどっちかでしょ。あれももっと、いろんな宗教の幼稚園作れば面白いですよね。邪教のさ(笑)。なんだっけ、ほら、アモン神の、ツタンカーメンとかね(笑)。拝火教なんて。子供がゾロアスター拝んでるの。豚の頭とか(笑)。
小松 大きくなると放火魔になるんだ(笑)。
 今にアラブが作るな。カトリックに対抗して(笑)。イスラム幼稚園(笑)

(中略)

 似たようなものですよ(笑)。フロイト幼稚園(笑)。
筒井 マルクス幼稚園(笑)。
 ソ連も作るべきだな、日本みたいに(笑)。
筒井 ソ連の幼稚園はもともとそうなんだ(笑)。
 だから日本に出店を作るんだ(笑)。

この後「神道の幼稚園がないから靖国神社幼稚園を作ろう」なんて冗談を言い合ってるけど、最近冗談じゃなくほんとにやっちゃった一派があったからなあ。

酒の席でするような、ほんとにくだらない話が満載。
「どんな入れ墨をするのが面白いか。背中にへその入れ墨なんてどうだ」とかね。

小説はけっこう残るけど、こういうばか話はほとんど後世に残らない。
「昭和時代の人が酒を飲みながらどんなばか話をしてたか」ってのを後世に伝える、貴重な史料だね。



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【読書感想エッセイ】 川端 裕人『PTA再活用論―悩ましき現実を超えて』

川端 裕人『PTA再活用論―悩ましき現実を超えて』

内容(「BOOK」データベースより)
「親」どうし、顔を見て、一緒に仕事をするというのは、すごく健全なことだ(著者)。大変化を迎えた公教育の一断面をリアルに見すえた力作。忘れられた「PTA」を蘇らせる処方箋とは。

2008年刊行。
「きちんと調査したこと」と「個人的体験」が入り混じって書かれているので読みづらかったけど、PTAの問題についてはこの1冊でだいたいわかるんじゃないかな。

PTAは交通安全協会とはちがうのか


最近、「PTAに入るかどうか」がちょっと話題になってるみたいだね。
そんな議論が出るまで「PTAは任意加入」だってこともぼくは知らなかったし、まして「任意加入なのに保護者の意志も聞かずに勝手に加入させる」こともあると聞いてびっくりした。
勝手に加入させるって、もう詐欺集団じゃないか(全部のPTAじゃないにせよ)。

PTAに関する議論を耳にして、交通安全協会を思いだした。

運転免許を取得したとき、「運転免許申請費」と「交通安全協会加入費」を払うように言われた。
ん? なんだこれ? 免許申請費があるってことはそれさえ払えば免許はとれるのでは?
単純に疑問に思った(そのときは交通安全協会のことをまったく知らなかった)ので、窓口のおばさんに「交通安全協会ってのは加入しなくてもいいんですか?」と訊いてみた。

するとおばちゃんは血相をかえて、「加入は義務じゃないですけどねっ。でもみなさん入っていただいていますよっ! 交通安全協会はうんたらかんたら……」と怒りの説明をはじめた。それを聞いて「あ、これはヤバい団体だな」と察して「加入しません」と言った。
「みんなやっている」を押し文句として使うやつは、ろくでもないものを売りつけようとしていると相場が決まっている。
おばちゃんはその後も「んまあ、我らが交通安全協会に入らないなんて何考えてるのかしら……」みたいなことをつぶやいていたが、ぼくは黙ってその場を離れた。

その後「交通安全協会は警察OBのための天下り組織だから金を恵んでやる必要はない」という認識が広まって、「まるで義務であるかのような加入のさせ方」は、ぼくが知っているかぎりなくなった。

いや、交通安全協会の組織や活動を否定するわけじゃないんだけどね。騙して加入させようとする手口が悪質だったから嫌いなだけで。

だからまずぼくが思ったのは、「PTAも誰かの金儲けのためにある集団なのかな?」ということだった。
でも、どうやらそうではないみたいだ。



PTAの負担ってどれぐらい?


作者の川端裕人さんは、小学生の親としてPTAの役員をやったことがあるそうだ。
PTAの役員業務の負担についてこう書いている。

 やったことがある人でないと分からない、と経験者は言うけれどたしかにそうだ。
 そこで「数字」の力を借りる。「大変さ」の質はさまざまだが、定量化できる部分は定量化しておきたい。日々の役員業務を書き留めたいわば「航海日誌」から、PTA活動に費やした時間を抽出してみた。
 その数字は――、年間166日、計403時間だ。
 これは学校に赴いての仕事や対外的な会議などでの「拘束時間」であって、PTAについての個人的な勉強、自宅に帰ってからの連絡仕事、文書作成、さらには「自分がやりたい企画のための調査研究」などの時間は入っていない。
 この「数字」を述べた時に、役員経験者は「そんなものね」と首を縦に振り、非経験者は「そんなのありえない」と呆然とする。

年間166日!
1回あたりの時間は長くないとはいえ、主婦がパートに出る日数より多いかもしれない。

さらに、個々の学校のPTAの上位組織として日本PTA全国協議会というものがあり、その役員(これも保護者の中から選出される)にいたっては年間700時間ぐらいの拘束もあるという。

この時間を仮にパートにあてていたら数十万円。さらに1校あたりの役員は数十人いるから、1つの学校につきざっと1千万円。日本全体でどれだけの小中学校があるのか知らないけど、全国規模で見たら数千億という額になるだろう。
賃金換算するととんでもない労働が、ボランティアという名前の半強制システムによって吸い上げられている。

ぼくは震えあがった。
これだけの労働を搾取され、しかもそれが「ベルマークを切って貼る」という不毛な作業に費やされるなんて!

うちの娘はまた就学前だが、PTAにはぜったいに入るもんか!
同調圧力には負けないぞ!
と拳を握りしめた。



PTAって必要なの?


そもそもPTAってなんなのか。
いや、知ってはいる。Parent Teacher Associationの略だろう。すなわち保護者・教師連盟。
ぼくが小学校のときもあったし、母が役員をやっていたこともある。
母は「みんなやらないといけないのよ……」とため息をつきながらもPTAの集まりに参加していた。さいわい母は専業主婦で時間の余裕もあったし我が家は経済的にも困窮していたわけではなかったから、負担は大きくなかっただろう。

でも両親とも正規雇用で働いている家庭や、貧困や離婚や病気といった事情を抱えている家庭ではPTA役員をする負担は大きい。だからといって個々の事情を勘案していては役員選びは余計に難航する。

そこまでたいへんなPTAだが、小学生のぼくには、何をやっている組織なのかまったくわからなかった。学校の一室に集まってお茶を飲みながらおしゃべりしているおばちゃんの集まり。それぐらいの認識だった。
いや、大人になった今でもPTAが何をやっているのかわからない。
「やらないといけない」という情報はあるのに、「何をやっているか」はほとんど伝わってこない組織、それがPTA。
そもそも Parent Teacher Association なのに Teacher のイメージはまったくないぞPTA。

筒井康隆の作品に『くたばれPTA』という小説があったけど、あれは必ずしも筒井康隆だけのゆがんだイメージとは言い切れない。けっこう世間一般にも「くたばれ」とまではいかなくても「PTAはなくてもいい」というイメージがあるんじゃないかな。




PTAの歴史について。
GHQ(マッカーサーのアレね)からPTAを作ることが推奨され、PTAは「保護者と教師が共に学んでいく場」として誕生したらしい。

 そして、この場合、「成人教育」はとりあえず脇に置かれて、「子どものために」がクローズアップされるのがごく自然だった。戦後の貧しい時代だから、教員の生活補給金や、学校給食の実施、学校のさまざまな備品、図書館の整備のためなどの費用をPTAが負担せざるをえなかったという。
 こと給食に関しては「PTAなくしては学校給食なし」という地域が多く、「公立校ではなくPTA立校」と揶揄された。PTA会長には、集金能力に長けた地元有力者が就任し、いわゆる「ボス会長」が続出した。学校側もPTAに対して頭が上がらず、一方、保護者側も金銭的な負担にあえぐことが多々あった。
 日本が高度経済成長期を迎え社会が豊かになりつつあった60年代後半に状況が変わる。東京都の場合、67年、東京都教育長が各教育委員会に対して、義務教育の学校にかかる費用は公費負担として、PTAから寄付金を受け取らないよう指導した。また、それを実現するために必要な予算措置もとった。

なるほどねえ。
当初は重要度の高い組織だったんだね。この頃は「PTAなんかなくてもいい」という人はいなかっただろうねえ。
昔の貧しい家庭で育った人が「1日3食のなかで給食がいちばんまともな食事だった。ぼくは給食で大きくなった」なんて書いているのを読んだことがある。その給食を支えていたのがPTAだったのだ。

1960年代、日本全体が豊かになってきたことでPTAの支援がなくても学校教育にかかる費用は公費でまかなえるようになり、このへんからPTAの活動目的もあやしくなってくる。
教育を受けられることはあたりまえのことになり、「より質の高い教育」のための活動に向かうこととなる。
悪書追放運動を起こし、1978年には『テレビ番組ワースト7』を発表して改善がない場合は番組スポンサーの不買運動を起こしたという。
おそらくこういった活動が「子どもの楽しみを奪おうとする偏狭な考えのおばちゃん集団」のイメージをつくったのだ。
筒井康隆の『くたばれPTA』もこういった時代背景を受けて書かれたものだろう(たしかに筒井康隆には "悪書" も多いが、筒井康隆を読む子は賢い子だと思うけどね)。
手塚治虫もPTAの悪書追放運動のやり玉に挙げられたらしく、『鉄腕アトム』までもが非難の対象になっていたそうだ。今では多くの学校の図書館に手塚治虫作品が置いてあることを考えると、時代は変わったなあ。

ぼくが子どもの頃に『クレヨンしんちゃん』がヒットしたけど、あれもPTAから攻撃されていた。まあPTAが攻撃すればするほど話題にもなるし子どもは見たくなるだろうから、敵に塩を送っているだけなんだけどね。
とはいえ、「何をやっているのかわからない」けど、とにかく「子どもの楽しみを奪おうとする」というPTAのイメージはぼくが少年時代を送った1990年代には完全に定着していた。

PTAの悪口を言う人はいっぱいいても、「PTAがあってよかった!」と口にする人はいない。
おまけにみんなやりたくないのに半強制的に役員をやらされている。

じゃあいったい何のためにある組織なんだ?



結局悪いのはぼくらなんだけど


ぼくはPTA未経験だが、保育園の「保護者会の役員」というものは経験した。
保育園の行事のお手伝いをする係だ。

1年やって、ぼくも妻も不満がいっぱいあった。
  • 毎年役員のメンバーが変わるんだから、ちゃんとマニュアル作ろうよ。そのときはたいへんでも翌年以降は楽になるから。
  • 重要なことは口頭じゃなくて書面で伝えましょうよ。
  • すべての行事に全役員が参加することないでしょ。せっかく手伝いにきてもらったのに明らかに手持ち無沙汰な人いるよ。交代でやろうよ。
  • 会議のために集まってるけどほとんど確認作業だけなんだからメールとかチャットワークとかで良くない? みんな働いてるんだし。
  • なんで事前に出欠確認とらないの? 人数を把握しといたほうがぜったいに当日スムーズにいくじゃない。
  • ある程度の人が集まったらモラルにばらつきが出るのはあたりまえなんだからどうしても守らせたいルールは明文化しておこうよ。

とかね。
どれも、仕事だったらやっててあたりまえのこと。

でもぼくの不満のほとんどは、妻に対して愚痴をこぼしただけで改善の提案はしなかった。
いくつかは提案してみたけど、保育園側から「今まではこうやってきたから……」というわけわかんない理由で反対されて、「あ、そうですか」とあっさり引き下がった。

こんな顔になった


だってどうでもいいもん。
どうせ来年はうちが役員じゃないし。
来年以降の役員の苦労を取り除くために、わざわざ波風立てたくないし。
マニュアル作るのに苦労するのは自分だから、反対されてまでやりたくないし。


こうやって世の中は悪くなっていく。




PTAは変わりつつある(一部では)


「PTAは必要なのか?」という疑問を持った人はいっぱいいるようで、この『PTA再活用論』が刊行されたのは2008年だけど、その時点でさまざまな改革がなされていることが紹介されている。
「参加自由形」で「自由にものが言える風通しのよい雰囲気」で「保護者が楽しく活動」していて「保護者も一緒に学んでいける」場であるPTAがあるのだとか。

まあ、そういうとこもあるんでしょう。
やる気に満ちあふれていて、周囲の人をまきこむ魅力があって、行動力のある人というのはけっこういると思う。

しかし、大多数はそうではない。
PTAは基本的には学校ごとに独立した組織だから、日本のどこかにすばらしいPTAがあったとしても、自分の校区がそうでなければ意味がない。

 本当は義務ではないことが義務として成立してしまい、やりたくなくてもやらされる。自立した市民どころか、自発意識を削がれ諦めモードに入って身を守る者が続出する。そんなことが常態である共同体のモデルを容認していいのだろうか。ぼくの表現でいえば、2000万人近い人たちがかかわる、きわめて大きな「現象」がPTAだ。「特殊な場所での特殊事例」として済ませるわけにはいかない。これが当たり前の社会など、想像するだけで、息が詰まるし、恐ろしい。
 つまり、ぼくはPTAの潜在力に強い期待を抱きつつ、今のままだと「社会を悪くする」と懸念する。そして、期待と懸念は実は表裏一体で、良い方向に進めるのも、悪い部分を正すのも、同時に取り組まねば何も変わらないと感じている。

この文章が、PTAの抱える問題をすべて表している。

自分の子どもが通う学校のためなら、少々のめんどくさいことを引き受けたっていい。
地域の子どもが喜んでくれるなら、ただ働きをしてあげることもやぶさかではない。

ぼくはそう思っているし、たぶん世の中の保護者もだいたいそんなもんだろう。

ただ、問題は「どの程度の労務を提供しなければならないのか」であり、「それが本当に子どものためになるのか?」である。
月に1~2回手伝うぐらいならいいけど、1年に100日以上も学校に行きたくはない。
運動会のお手伝いならするけど、「悪書追放運動」には加担したくない。

これはつまり「参加が義務化されている」から起こる問題で、「自分が参加したい活動だけ参加する」という制度であれば問題にはならない。

というわけで、結局最初に書いた「任意団体なのに強制的に加入させれらる」という問題に還ってくるんだよねえ。


著者は「強制的に加入させられることがあってはならないけど、でもなるべくみんなに入ってほしい」と書いている。
ぼくも同じ立場だ。

さっき「PTAにはぜったいに入るもんか!」と書いたけど、ちょっと思い直した。

とりあえず、自分の子どもが小学校に入るときには、入会も検討してみようと思う。でも何も考えずに入ることはしない。
ちゃんと活動内容の説明を受けた上で、入るかどうかを検討しようと思う。

積極的に変革をするまではいかなくても、無条件に加入する人が減れば、PTAも無駄の少ない魅力的な組織に変わらざるを得ないんじゃないかな。


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2017年4月5日水曜日

「このとき作者の言いたかったことを答えなさい」が教えてくれること

学校の国語の授業で「このとき作者の言いたかったことを答えなさい」ってあったけど、そんなの作者本人じゃないんだからわかるわけないじゃない!

どうせ「締切早く終わらせなきゃ」とかでしょ!


……ってな批判をよく目にするよね。

言ってる本人は鋭い批判してるつもりなのかね。

たぶん何十年間も、何万人もの人が言ってると思うけど。

締切に追われる作者


それはそうと ぼくは「作者の気持ちを答えなさい」はいい設問だと思う。
「正解のない設問」に対して頭を使うのは、とても大事なことだ。

「作者の気持ちなんてわかるわけないじゃない!」と言って思考停止してしまう人間にならないためにも、こういう問いに対して頭を使う訓練を学校でやったらいい。



もちろん 作者の気持ちなんてわかるわけがない。
でもぼくらは想像することができる。
正解を出すことはできなくても、論理的に思考を組み立てて、他者を納得させるだけの解を導きだすことはできる。

「私は、作者は〇〇と言いたかったのではないかと思います。なぜならば、□行目に~という記述があるからであり、△行目の……という描写もそれを裏付けているように思います。またこの結論は直前で書いている××という記述とも矛盾しません」
という推論を述べ、それを明確に否定するだけの根拠を他者が文章中から見つけだすことができなければ、その解答は「とりあえず誤りとはいえない」ということになる。

ふつう、ぼくたちが生きる社会において信用されるのは、
この「とりあえず誤りとはいえない」解を導きだす作業ができる人であって、
他者の推論に対して「そんなの100%正しいとはかぎらないだろ! ぜったいに正しいっていう証拠を見せろよ!」とまくしたてる人ではない。



だから 「このとき作者の言いたかったことを答えなさい」は、論理的な思考力を養ううえでとても優れた設問だとぼくは思う。

さらにみんなにアンケートをとり、「クラスの60%はAだと思い、20%はBだと思った。Cだと思ったのは1人だけだった」と結果を出せば、もっと多くのことを学べる。

「自分の考えは多数派に属しているものなのか、独創的なものなのか」を知ることはとても大事なことだ。どっちがいいとか悪いとかではないけど、知るだけは知っておいたほうがいい。

「このとき作者の言いたかったことを答えなさい」のトレーニングは、相手をやりこめることを目的にしたディベートよりも、ずっとずっと学問やビジネスの役に立つと思うよ。

ディベート


それにさ。 妻から「なんであたしが怒ってるかわかる?」って聞かれたときに、「そんなの本人じゃないんだからわかるわけないじゃない!」って言って逃げるわけにはいかないんだよ、夫という弱い立場にあるものとして……。

正解はわからなくても、とりあえず今持っている手がかりを材料にして推論を組み立てて、いくつもの「これだけは言っちゃいけない」言葉を慎重に避けて、「とりあえず誤りとはいえない」答えを導きださなきゃいけないんだよ……。




【読書感想文】 つのがい 『#こんなブラック・ジャックはイヤだ』

つのがい 『#こんなブラック・ジャックはイヤだ』

内容紹介(Amazonより)
手塚先生ごめんなさい!禁断のB.Jギャグ
原作崩壊!?ゆとりのB.J、良い子なキリコ、パリピなロック達にピノコのツッコミが炸裂する!彗星の如く現れた新人イタコ漫画家、つのがいが天才的画力で描いた神をも恐れぬブラック・ジャックパロディ、ついに単行本化!しかも手塚プロダクション公認!!著者のSNSに公開された作品だけでなく、この本でしか読むことができない合計40ページを超える描き下ろし漫画(B.Jレシピや学園モノや手塚治虫タッチに目覚めるまでのエッセイコミックなどなど)も収録。そして巻末には、マジメに描いた美麗カラーイラストギャラリーのオマケもあります。

10年以上前に田中圭一の『神罰』を見たときは、「すげー! 手塚治虫の絵をここまでコピーできるなんて!」と驚いたけど(内容はヒドかったが。いい意味で)、それを上回るレベルの手塚治虫コピー漫画が出た。
いや、これぞ完コピ。
絵柄が似ているのはもちろん、コマ割り、手書き文字、テンポ、キャラの動きまでぜんぶ本物そっくり(特にピッチングフォームの酷似っぷりに驚愕した。そうそう、手塚キャラってリリースポイントが早いんだよね)。

さらに後書き漫画を読んで驚いたんだけど、絵を描きはじめて1年ぐらいでこの精度にまで達したんだとか。信じられない。

内容はというと、ブラック・ジャック、ピノコ、キリコ、その妹、間久部緑郎(ロック)らが織りなすドタバタギャグ。
正直、ギャグだけ見ると水準が高いわけじゃないけど、手塚治虫の絵そのものだから何をやってもパロディとして成立していておもしろい。意味わかんないネタも多いんだけどね。

Amazonサンプル画像より

ぼくは、母が手塚治虫ファンだったので物心ついたときから『ブラック・ジャック』『火の鳥』『三つ目がとおる』『鉄腕アトム』『ドン・ドラキュラ』『ブッダ』なんかが手の届くところにあった(今思うとよく小学生に『奇子』や『きりひと讃歌』なんかを読ませていたものだと思う)ので、手塚作品の間や呼吸というものは体に染みついている。
そんなぼくから見ても、この漫画は手塚治虫作品だ。「っぽい」のではなく「そのもの」なんじゃないかと錯覚してしまうぐらい。

手塚治虫のトリビュート作品もいくつか読んだことがあるけれど、結局、手塚作品を題材にしているだけで、主張はその漫画家のものだった(まあトリビュートってそういうもんだからね)。
だけど、つのがい作品はその逆で、「つのがい氏のギャグ漫画を借りて手塚作品が主張している」ように感じる。まるで「イタコの口を借りて霊が語っている」ような憑依っぷりだ。

この本に収録されているギャグでない作品『おるすばんピノコ』なんて、もうほんと「手塚治虫の未発表原稿が出てきた!」といって発表したらファンでもみんな騙されるんじゃないかってぐらいの作品。手塚先生の息遣いを感じるようで(いや本物の息遣いも知らんけど)、ちょっと泣きそうになった。
ギャグだけじゃなくて『ルードウィヒ・B』とか『グリンゴ』とかの未完作品の続きも描いてくれないかなあ。


ひょっとしてつのがい氏の正体は七色いんこで、手塚治虫の代役をしているのでは……?



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2017年4月3日月曜日

【作家について語るんだぜ】 近藤 唯之


よく読んだ作家について語ってみるという企画をやってみようと思う。

題して【作家について語るんだぜ】。

で、記念すべき第1回目にとりあげるのは 近藤唯之 



誰それ、知らねーという声が聞こえてきそう。

一応作家ではありますが、小説家ではないからね。スポーツライター。
なぜ作家について語る企画の第1回がスポーツライターなのか。それは「昔どんなの読んでたっけ」って思ったときにぱっと出てきた手頃な人だったから。
手頃というのは、よく読んでいたけど今は思い入れが強くないから書きやすそう、と思ったということ。大好きな作家について書くと、どうしても書きづらいからね。



さて近藤唯之についてですが。
スポーツライターというか、プロ野球ライター。
スポーツ記者として報知新聞から東京新聞、さらに夕刊フジへと渡り歩き、記者をやりながら野球の著作を次々に出した。

Wikipediaの近藤唯之の項には62冊の著作が並んでいるが、そのうちタイトルに『プロ野球』という文字が入っているのが34冊。タイトルだけですよ。
タイトルに入っていない著作も『王貞治物語』『白球は見た』『背番号の運命』『運命を変えた一球』『ダグアウトの指揮官たち』とか、とにかくプロ野球の本ばかり書いていた。
プロ野球選手以上にプロ野球で飯食っていたんじゃないか。

ぼくは小学校3年生ぐらいからプロ野球を観るようなり、甲子園球場や(今は名称なき)グリーンスタジアム神戸にもときどき足を運んでいた。
そのころ出会ったのが、近藤唯之の文庫本。
野球と読書が好きだった少年からするとすごくおもしろくて、1985~95年くらいに出版された文庫本は全部持っていたんじゃないかなあ。



なんかね、すごくおっさんくさいんだよね。
内容も古めの話が多くて、当時現役だった落合とか清原とかの話もあったけど、それより古い話が多かった。この人が記者をやっていたのは1950~70年くらいだから、その時代のプロ野球の話が中心。三原脩とか榎本喜八とか大杉勝男とか上田利治とか。ぼくにしたら、自分が生まれるよりずっと前の話なんだけど。

でもこの人の本がおっさんくさかったのは、古い時代の話を書いていたからだけじゃない。

とにかく文章が浪花節。
なにかあるとすぐに「男の人生」とか「男の涙」とか「悔しさをぐっとこらえた」とかのど根性フレーズが出てくる。
ただのスポーツのはずなのに、近藤唯之の手にかかるとこれは巌流島の戦いかというぐらいに一世一代の大勝負になってしまう(もちろん真剣にやってるわけだけど)。

これはもうスポーツノンフィクションではなく、活劇小説といっていいぐらい。
じっさい、資料にあたらずに記憶に頼って書いていた部分も多いらしく、まちがった情報も多い。でもそんなことは大した問題じゃない。小説なんだから!



この人は多筆で、1年に2冊くらいのハイペースで本を出していた(しかも新聞社の仕事もしながら)。
当然ネタの使いまわしも増えるわけで、宇野が星野に「またぶつけちゃいました――」と言った話とか大下弘の「月に向かって打て」なんか、何度読んだことか。
しかも記憶にもとづいて書いているわけだから、書くたびにエピソードの細部が微妙に変わっていってる。このへんは野村克也の本も同じことが起こっているらしく、スポーツについてたくさん本を書くと、どうしても「少しずつ内容を変えて伝わる」口承文学現象が起こるのは避けられないようだ。



プロ野球を題材にしているけど、サラリーマン小説といっていいかもしれない(スポーツの本なのに、PHP研究所から多く本を出していたし)。
特にこの人は(当時はそれほど多くなかった)転職を二度も経験したことから、トレードについてはいろいろと思い入れがあるらしく、「トレードの悲哀」みたいなことをよく書いていた。
今のようにFA宣言をして選手が自由に球団を選べる時代じゃなかったので(日本プロ野球でFA制度が導入されたのは1993年から)、昔のトレードは「新天地で活躍」というより「島流し」みたいな雰囲気が強かった。「望まれて行く」というより「必要なくなって追い出される」という感じ。
特に落合博満がロッテから中日に移籍したときなんか "1対4" という破格のトレードだったから、「4人のうちの1人」にされた選手の心中はつらかっただろうなあ。

そういう話を浪花節で語るもんだから、読者の気分はもう『プロジェクトX』(ぼくが読んでいた頃は『プロジェクトX』の放送開始前だけど)。
「男は、思った。古巣を見返してやる、と――」なんてナレーションが聞こえてきそう。

サラリーマンになった今読み返したら泣いちゃうかもしれないなあ。
全部処分してしまって手元にないんだけど、また買いなおしてみようかな……。