2016年2月29日月曜日

【映画感想】『長い長い殺人』

『長い長い殺人』(2007年)
暴走車に轢かれ、頭部を殴打された男の死体が発見された。被害者の妻・法子(伊藤裕子)は愛人がいる派手好きな女、しかも夫に3億円の保険金をかけていたことが発覚する。世間やマスコミは法子と愛人・塚田(谷原章介)に疑惑の目を向けるが、2人のアリバイは完璧だった。そして事件を担当する所轄刑事の響(長塚京三)、探偵の河野(仲村トオル)は不可解な連続殺人事件へ巻き込まれていく。

原作は宮部みゆきの同名の小説。

原作を読んだのはもう20年以上前なのでストーリーはほとんど忘れてしまった。
覚えていることといえば、
「小説の語り手が財布」だということと、
「おもしろかった」ということだけ。

(あの頃の宮部みゆきはほんとに神がかっていた。それまでミステリといえば江戸川乱歩と赤川次郎しか読んだことのなかった中学生のぼくにとって、『我らが隣人の犯罪』『スナーク狩り』『長い長い殺人』はめまいがするほどおもしろかった)


さて。
映画『長い長い殺人』、丁寧な作りの秀作だった。

映像化にあわせてストーリーを調整しながらも、原作者のメッセージの中核となるところにはしっかりと時間を割いている。
重みを置くべきところを心得ている、というアレンジのしかただ。

10ほどの章に分かれていて、かつ章ごとに視点が変わるという独特な構成。ともすれば散漫な印象にもなりかねなかったが、そのあたりもうまく処理している。
章のたびに緊迫感のある展開を用意していて、退屈させない。

まず事件の概要を説明し、容疑者が浮上し、観客の中でもこいつが犯人だという確証が高まったところで、決定的な証拠を提示。
いよいよ逮捕かというところで容疑者の無罪を証明する完璧なアリバイを出してきてひっくり返してしまうという展開は、ほんとにスリリング。

全体的に静かな映画だったが、それがかえっていい緊張感を与えていた。


ただ惜しむらくは「語り手が財布である」必然性を感じなかったこと。

原作では、視点をころころ変えるわけにはいかないこと、事件関係者を語り手にしてしまうと情報を小出しにできないこと、といった小説特有の事情があり、いつも身近にあってプライベートな情報を多く持つ“財布”というアイテムからの視点にすることが優れた効果を生んでいた。

だが映像の場合は、視点を変えることも情報をあえて描かないことも比較的容易だから、あえて財布に語らせる必要はなかったとおもう。
「語り手が財布」というのが小説の最大の特徴だから切り捨てにくかったんだろうけど。

あと、『長い長い殺人』の重要なテーマとなっている劇場型犯罪者の心理については、20年前には斬新だったのだろうが、その数年後に、やはり宮部みゆきが『模倣犯』という金字塔的な作品が送り出した後の今となっては、正直目新しさは感じない。

ただ映画化された『模倣犯』は超がつく失敗作だったので、それと比べると『長い長い殺人』は完璧に近い映像化だといってもいいね。


2016年2月28日日曜日

【エッセイ】完全犯罪の夢

月に1回くらいのペースで、完全犯罪のトリックを思いつく夢を見る。

夢なので、起きたときにはほとんど覚えていない。
今朝も「完璧なトリックを思いついた!」と思って目が覚めた。
このままだと忘れちゃう! と思ってあわててメモをとった。
だが、今メモを見たら、

・てんとう虫に糸を結びつけて飛ばすことで脱出可能

という謎の記述だけ。

おそらく密室殺人のトリックだと思うのだが、いったいこれでどうやって犯行現場から立ち去れるのかは、今となっては完全に迷宮入りだ。

1ヶ月のメモを見ると

・カーニバルの日に交通事故に見せかけて殺す

とある。
トリックもわからないし、そもそもカーニバルの日がいつなのかもわからない。

それでも、メモしたときは
「すごいトリックを思いついた! 来年の乱歩賞はぼくのものだ!」
という興奮さめやらぬまま書いているのだから、きっとすばらしいトリックだったのだろう。

とはいえ。
実際のところ、乱歩賞どころか、ミステリ小説を書こうとすら思っていない。
それどころか、最近はほとんどミステリを読んですらいない。
それなのに、どうして完全犯罪(らしきもの)の夢ばかり見るのか。
これは、誰かを殺したいという真相心理の表れなのではないだろうか。



私は、胸のうちに密かな殺意を飼っている。

あまり私を怒らせないほうがいい。
さもないと、カーニバルの日に、糸のついたてんとう虫があなたの部屋から飛び立つことになりますよ。

ふっふっふっ……。


2016年2月26日金曜日

【クイズ】ものとその重さ

シンプルだけど難しい物理の問題。
某国立大学の物理学科卒の友人でも答えられなかった。

問1
体重計に乗り、壁を強く押す(壁に体重を預けるぐらい強く)。
体重の目盛りはどうなる?

1 増える
2 減る
3 変わらない


問2
体重計に乗り、前方に腕をすばやくつきだす(正拳突きをする)。
その瞬間、体重計の目盛りはどうなる?

1 増える
2 減る
3 変わらない


2016年2月25日木曜日

【思いつき】血を見ることになるぜ

おれも昔は相当悪かったよ……。

知らない奴との喧嘩は日常茶飯事。

目があっただけで殴りあいになったりした。
ましてや、会話なんかしたらすぐに喧嘩になってたよ。

“口を開けばすぐキレる”ってことで、
『冬場の乾燥くちびる』ってあだ名で呼ばれて恐れられてたぜ……。



2016年2月24日水曜日

【エッセイ】いちばん嫌いな映画

いちばん嫌いな映画ですか……。
たしかに、ちょっと難しい質問ですね。
「つまんない映画」は山ほどありますけどね。
でも、つまんない映画って意外と憎めないんですよね。
あそこもだめだった、ここもつまんなかった、って挙げていくのは愉しみですらありますからね。
そうやって悪口を云ってるうちに愛着が出てくるんでしょうね。
映画史に燦然と輝く駄作と名高い『シベリア超特急』『北京原人』『デビルマン』ですら、なんだかんだでけっこう愛されてますから。

前置きが長くなりました。
ぼくが選ぶ、嫌いな映画ナンバーワンは、2006年公開『手紙』ですね。
東野圭吾の原作を映画化したやつです。


あ、ことわっておきますが、原作小説はおもしろかったですよ。
嫌いなのは映画だけ。

映画『手紙』の何が嫌いって、ひとことでいえば「観客をなめてる」に尽きます。

まず主人公の職業が、原作ではミュージシャンだったのが、映画ではお笑い芸人に変わっています。
察するに、「歌のうたえない役者にミュージシャン役はムリだな。ま、お笑い芸人ならいけるっしょ!」って感じで職業変更したんでしょうね。
はい、観客をなめてるポイントその1ですね。

案の定、間もへったくれもないど素人のお笑い芸人の演技を見せられます。
イタい大学生のコンパを延々見せられてるような苦痛。

おまけに主人公が芸人としてそこそこ出世するというストーリーなので、リアリティのかけらもありません。
さらには原作では「ミュージシャンとして刑務所の慰問に訪れて、収監されている兄の前で歌おうとするも涙ぐんでしまい歌えない」というシーンだったクライマックスでしたが、
これをお笑い芸人にしてしまったせいで、
「漫才師として刑務所の慰問に訪れた主人公とその相方。収監されている兄の前で漫才を披露するも、事情を知っているはずの相方がなぜか兄いじりをはじめる。自分で兄いじりをはじめたくせに、やった後に直後に『しまった』という顔をする。もちろんまったくウケない。途方にくれた主人公はマイクの前で呆然と1分以上立ち尽くす」
というどうしようもないシーンに変わり果てています。

どこで感動すればいいんでしょうか。


次のなめてるポイントは、女優の妙な方言。
大阪弁っぽい言葉で話すのですが、大阪人じゃないぼくが聞いても、どうしようもなく耳ざわり。
イントネーションが汚すぎる。
まったく方言指導をしなかったんでしょう。

ま、それはいいです。
そんな映画、いくらでもあります。昔のハリウッド映画なら、日本人役のはずなのに中国語をしゃべってましたからね。

『手紙』がひどいのは、そもそも女優が大阪弁をしゃべる理由がまったくないってことです。
舞台はずっと関東。大阪に行くシーンもない。大阪から来ました、という描写もない。だから方言を話す必然性がまったくないわけです。
なのに大阪弁。そしてそれがどうしようもなくへたくそ。
何がしたいんだ、としか思えませんね。


ストーリーに関しては、原作がしっかりしているので、目も当てられないほどひどいということはありません。
ぼくは原作を読む前に映画を観たのですが、
「ああ、原作のほうはおもしろいんだろうな」
と思わせてくれる程度には、映画のストーリーは崩壊していませんでした(細かいところを挙げればキリがありませんが)。
だからこそ映画観賞後すぐに原作小説を読み、ああよかった東野圭吾はちゃんとしたものを書いていた、と安心したものです。


映画の話に戻りましょう。
いちばん観客をなめてると感じたのは、さっきも書いたクライマックスシーンです。
収監されている兄の前で漫才の慰問に訪れた弟が、相方から「おまえの兄貴は犯罪者ー!」といじられて涙ぐむというシーン(笑)ですね。
はっきりいって、失笑しかないですよね。

ここで、大音量で流れるのが小田和正の『言葉にならない』です。
テレビCMでも使われていた、いわゆる「泣ける曲」のド定番ですね。
これが唐突に流れます(主題歌よりもいいところで使われます)。

なんと親切なんでしょう。
「はいここが制作者が意図した泣くポイントですよー!」
とわかりやすく教えてくれているのです。

ぼくは劇場でこの映画を観ていたのですが、人間の反射というのはふしぎですね、それまで失笑に包まれていた劇場内で、この曲が流れたとたんにすすり泣きが聞こえてきたのです。

店内で『蛍の光』を耳にしたら「そろそろ帰らなきゃ」と思うように、『言葉にならない』を聴いたら「あっ、そろそろ泣かなきゃ」と思ってしまう人が世の中には少なからずいるのです。

「これ流しときゃどうせ泣くんでしょ♪」と、脈絡なく小田和正を流す。
観客をなめてるといわずしてなんといいましょう。

調べてみると、映画『手紙』の監督は生野慈朗という人。
テレビドラマの演出家だそうです。

ああ、どうりでいかにもテレビドラマ的な安い演出のオンパレードなわけです。
「こういうときはこうしときゃいい」というテレビドラマのセオリーが骨身に染みついてるんでしょうね。


というわけで、観客ばかりか映画そのものもなめきった態度で作られた『手紙』。

10年たってもいまだに不快感が消えないため、嫌いな映画ナンバーワンとして自信をもって推薦させていただきます!

2016年2月23日火曜日

【ふまじめな考察】頭脳明晰1回転

ニュース番組を観ていたら、アメリカでスノーモービルのフリースタイルっていう大会が開かれたニュースを伝えていた。

スノーモービルっちゅうのはあれです。
でっかい電動そり。
ビッグスクーターみたいなやつですね。
その大会。

あー、雪道を走ってタイムを競うわけねー。
と思って見てたら、どうもちがうわけ。
なんかジャンプしてんの。

雪上にジャンプ台が作ってあって、スノーモービルでそこに突進して、勢いよくジャンプするわけ。

のみならず。
あろうことか。
あにはからんや。

ジャンプしながら、空中でスノーモービルにつかまりながら逆立ちしたり後ろ向きに座ったりするわけ。
そんで、誰がいちばん難易度の高い跳びかたができたかを競うわけです。

もちろん、たいへん危険です。
何百キロもあるスノーモービルごと、10メートルは跳ぶわけですからね。
着地に失敗すれば、いくら雪の上とはいえただではすまないし、スノーモービルにぶつかったりしたら命にもかかわるわけです。

しかし危険と紙一重なところこそがフリースタイル競技の魅力であるようでして、若干二十歳ぐらいの男たちは果敢にもスノーモービルでジャンプして宙返りをしたりするわけです。

それを見て、ぼくは思いました。
この競技やってるやつの平均偏差値、30届かないぐらいだろうな、と。

だってそうでしょう。
電動そりに乗ってジャンプしながらぐるぐる回って後ろ向きに座るとか、どう見ても、頭脳明晰な人間のやる競技じゃないでしょう。

だってそうでしょう。
何の必要性もないのにスノーモービルで逆立ちしようとして転倒して半身不随になるとか、どう考えても、ハイスクールの弁論大会で西海岸代表に選ばれるタイプの青年のやることじゃないでしょう。

しかし。
うらやましいのもまた事実。
なにしろ、齢二十歳ぐらいにして、スノーモービルのジャンプの大会に出られるぐらいの技術を持ってるわけです。

たいへんな金持ちですよね。

スノーモービルを買ったことがないので知りませんが、でっかいバイクみたいなスノーモービル、原付買うぐらいのお金では買えないでしょうね。

しかもふつうのスキー場ではスノーモービルのジャンプの練習はさせてくれないでしょうから、貸し切るか、自分専用のコースを所有するか、人里離れた雪山に行くかしないといけない。

これ、相当な金持ちのボンボン息子か、あるいはアラスカで熊狩りしてる猟師の息子かじゃないとできないことですよ。

なんてうらやましいバカたちだ……!

2016年2月22日月曜日

【エッセイ】くすむ!日本レコード大賞

妻が云う。

お父さんと一緒に映画『阪急電車』のビデオを観たの。
そしたらお父さんが
『こないだ観た汽車の映画が……』っていうの。
汽車なんかずっと前になくなってんのに、いまだに電車っていう癖が抜けないのよ。
どうして年寄りってああなのかしらね。

と語っていたので、

「君も今、DVDのことをビデオっていってたよ」

と指摘した。

「うわー!
 そういうことかー!」

と妻は頭を抱えていた。


2016年2月20日土曜日

【読書感想】ライマン・フランク・ボーム『オズの魔法使い』

ライマン・フランク・ボーム (著),毛利孝夫 (翻訳)『オズの魔法使い』 

内容紹介(Amazonより)
フランク・ボームによるオズの物語全14作中、第1作にあたる名作「オズの魔法使い(The Wonderful Wizard of Oz)」を、ルビ付きの完全新訳、縦書き表示でお届けします!
竜巻でオズの国へ飛ばされた少女ドロシーが、かかし男、ブリキの木こり、臆病ライオンたちと繰り広げる冒険の世界!
初版で掲載されたW.W.デンスローの美しいカラーの挿絵を76点収録!

みんな大まかには知りながら、じつはよく知らない物語。それがオズの魔法使い。

かくいうぼくもよく知りませんでした。
「ええっと……。竜巻でぶっ飛ばされたオズ? が、かかしとかライオンたちと旅をして、次々に襲いかかってくる敵を知恵と勇気と魔法でやっつけて、最終的にまた竜巻に飛ばされておうちに帰ってくる話、かな……?」
ぐらいの認識でした。

いまさら児童文学を読むのもなあということで一生『オズの魔法使い』をうろ覚えのまま生きていくつもりだったんですが、もう版権が切れているのでKindleで安く買えるというので、読んでみました。
(電子書籍の最大の魅力はこういうところですね。著作権なんてのは作者が死ぬと同時に切れてしまえばいいのに。大半の創作者にとっては、子孫に小金が入るよりも自分の死後も作品が読まれつづけることのほうが大事でしょう)

そんなわけで、30歳を過ぎてはじめてまともに読んだ『オズの魔法使い』。
感想はというと、
「少年時代に読んでおけばよかった!」

奇想天外なキャラクター、荒唐無稽なようでじつはしっかりと組み立てられたプロット、次々に試練が襲いかかるスリリングな展開。
児童文学としては最高傑作といってもいいほどの出来映え。


なによりすばらしいのは、説教くささをまったく感じさせないところ。

人々を困らせていた東の魔女と西の魔女をドロシーがやっつけるわけですが、その決め手となるのは力でも策略でも勇気でも友情でもありません。
“まったくの偶然”によってドロシーは魔女を打ちたおすのです。
オズの正体を暴くのも偶然。さまざまな困難を切り抜けるのもほぼ偶然。
「家に帰る」という最大の目的だって、最後にはあっけないほどかんたんに達成されてしまいます。
(なにしろ「もしその力を知っていたなら、この国に来たその日に、あなたはエムおばさんのところに帰れたのですよ」と言われてしまうぐらい)

“努力と根性で道を切り開く主人公”に食傷している身からすると、運命に身を任せて「このままじゃおうちに帰れないわ」と困っているだけのドロシーの存在はかえって痛快でさえあります。


さらに、もうひとつの目的である「知恵の足りないかかし」「ハートを持たないブリキの木こり」「勇気のないライオン」が、それぞれ自分に欠けているものを手に入れるまでのいきさつについても、まったく教訓的ではありません。
彼らは、旅をすることで知恵と優しさと勇気を手に入れるわけではありません。また、はじめからそれらを持っていたことに気づくわけでもありません。
「だまされて、知恵と優しさと勇気を与えられたと思いこまされる」ことによって、彼らは心の底から満足するのです。

知恵も優しさも勇気も、そして幸せも、手に入れるものではないのです。
持っていることに気づくものでもない。
そんなものは、あるといえばあるし、ないといえばない。
それらを持っている人と持っていない人の違いは、「持っていると思いこんでいる」かどうかだけ。
そこに努力は要らないのです。


……とまあ、教訓的でないお話から教訓を導きだしてしまうのは野暮というもの。

そのへんのくだらない意味など忘れて、100パーセント純粋なエンタテイメントとして楽しめる『オズの魔法使い』。
とりあえず我が子には必ず読ませようと思います。



2016年2月19日金曜日

【思いつき】Democratic

今夜はみんな、ライブに来てくれてサンキューな!

ここで、チーム民主主義のイカれたメンバーを紹介するぜ!


まずは立法担当、国会!
法律をクリエイトするのはお手のもんだ!

続いてのメンバーは、内閣!
担当は、行政!
国会が作った法を見事なテクニックで演奏してみせるぜ!

最後はこのおれ、裁判所!
司法は任せろ!
法の番人って呼んでくれよな!


今日はみんな、盛りあがっていこうぜ!

サイコーにデモクラティックな夜にしようぜ! イエーイ!


2016年2月18日木曜日

【エッセイ】オオオオオオオペラ

妻のお父さん(つまり義父)から誘われた。
「今度オペラを観にいこうと思うんだけど、よかったら一緒にどう?」


オオオオオオオペラ!?

オペラとミュージカルとバレエと能と歌舞伎の区別もついてないぼくが、オペラ……!?


そういやお義父さん、クラシック観賞が趣味だといっていたな。
そうか、そういう人はオペラを楽しむのか。
「今度、近くのホールに桂米朝が来るってよ! チケットとっといたから! その日は平日だからあんた学校休みなさい」と、息子に小学校をサボらせて半ば強引に落語に連れていったうちの家とは大違いだな。

クラシックも聴かないしオペラといえば怪人が出没するらしいという知識しかないぼくだけど(その知識もまちがってる気がする)、義父母とは良好な関係を築いておきたいし、何事も食わず嫌いはよくない。
一度行ってみたら意外と楽しめるかもしれない。

「へえ、オペラですか。いつやるんですか?」

 「8月だよ」

「けっこう先ですね」

 「そう。ドイツの田舎町にいいオペラハウスがあるんだけどね。そこを作った作曲家が8月に生誕100年を迎えるんだ。その記念公演があるから……」

「ちょっと待ってください。ドイツの田舎町に行くんですか……!?」

 「そう。ほんとに何もない町だけどね。でもいいホールだってオペラ界では有名なとこなんだよ」

「ってことはドイツ語でやるんですよね……?」

 「そりゃオペラだからね。日本公演でも日本語ではやらないよ」


クラシックも聴かないのに、ドイツで、田舎町で、オペラ界で有名なホールで、ドイツ語で、しかもお義父さんと……。
初心者にはハードルが高すぎるっ……!


「すみません、8月はちょっと仕事が忙しい時期なので。せっかくですけど……」

 「そうか。残念だけど、仕事ならしょうがないな」

「ええ、ぼくも残念です。また誘ってください。できたら落語かストリップとかのときに……」


2016年2月17日水曜日

【思いつき】西洋の行事に疎い人

西洋の行事に疎い人

「ええっと、バレンタインデーって、好きな男性にお菓子をくれなきゃいたずらするぞっていえば、七面鳥とカラフルな卵を靴下に入れてもらえる日だったっけ?」


2016年2月16日火曜日

【写真日記】たしかにサプライズ


カバン屋さんで見かけたPOP。

「BAG in チョコレート」

バッグをチョコレートでコーティングする時代……!

2016年2月15日月曜日

【考察】メガネ理論


あまり意味のないもの。

メガネ屋には置いてある鏡。

自分のメガネをはずして、お店に置いてあるメガネをかけてみる。
似合うかどうか鏡を覗いてみても、メガネに度が入ってないから見えない。

素早くメガネをかけかえれば鏡には残像が残っているから見えるかも……。
と思ってチャッ、チャッとすばやくかけかえるけどやっぱりだめ(光が目から鏡までを往復するより速くかけかえれば理論上は可能なはずなのに……)。

メガネを買いかえるためにコンタクトレンズが必要になる。
これは不便。

だからメガネ屋に置くべきは、鏡ではなく、デジカメかビデオカメラだと思うよ。

2016年2月14日日曜日

【エッセイ】バレンタイン・ピンハネ

朝から熱っぽい。咳が出る。食欲もない。
本格的に風邪ひいたようだ。

身体は絶不調だが、おまけに日曜日だが、今日はどうしても会社に行かなければならない。
どうしてもやらないといけない仕事があるから?
否。
今日はバレンタインデーだからだ!

今日仕事を休んで家で寝ていたら、なんのために生きているのかわからない。
甘いものとカカオが(あと女の人が)大好きなぼくにとって、チョコレートを無料でもらえる(それも女の人から)イベントは、宇宙や恐竜や昆虫と同じくらいロマンを感じさせてくれるものだ。


もしかしたら、かわいい後輩マネージャーが顔を赤らめて下駄箱の前でぼくを待ちかまえているかもしれないじゃないか。
そんな日に休むなんて人の道に外れたことをどうしてできようか!

会社に下駄箱はないしこの歳になって後輩マネージャーなんているわけないしそもそもぼくは学生時代、帰宅部だったけど。
でもそんなことは地球環境問題と同じくらい些細な問題にすぎない。
ぼくの生まれたこの国には、太古の昔から義理チョコというすばらしい文化が脈々と受け継がれているんだもの。
義理チョコばんざい。

でもさ。
ホワイトデーにお返しをしなくちゃならないから、義理チョコもらっても結局損じゃね?

みたいなことを言う輩がいる。
そういうやつは、財は時間とともに指数関数よりも大きな割合で減価してゆくことを知らない愚か者だから、
「結局出すんだからごはん食べるの無駄じゃね?」
とか言いながら餓死してゆけばいい。

ホワイトデーなんて恐るるに足らぬ。
ちょっと頭を使って考えれば、ふみたおしとか自己破産とか亡命とか、いくらでもホワイトデーから逃れる道はあるものである。


とまあそんなわけでぼくはこのバレンタインデーとかいうイカくさいイベントをけっこう楽しんでいるわけである。

だが、せっかくぼくが地に頭をこすりつけるように懇願してかき集めてきたチョコレートも、残念ながらほとんどぼくの口に入ることはない。
なぜなら、妻がぼく以上にバレンタインデーを楽しみにしていて、ぼくは彼女にチョコを上納しなければならないからだ。

彼女のピンハネ率ときたら、年貢でいったら週三で百姓一揆が起こるぐらいの暴利で、残念ながらぼくが口にできるのはチョコレートの包み紙に付いたわずかなチョコ屑くらいのものである。

 「せっかくぼくがもらったのになあ……」
と、妻に不平を垂らす。

「いいじゃないどうせ義理なんだし。
 あなたにとっての義理の父は妻の父。
 ってことはあなたの義理チョコは妻のチョコよ」

 「む……。へりくつだがなかなか筋が通っている……」

「でしょ」

 「でも、でも。もしかしたら義理じゃなくて本命チョコかも」

「お義理に決まってるでしょ。
 三十すぎて抜け毛が増えてきたおじさんを誰が本命視するの」

 「ぬ、抜け毛は関係ないだろ!!」

と最終的にはぼくが泣きべそをかくことで丸く収まるわけだが、問題はホワイトデーである。

べつにホワイトデーにお返しをすることはやぶさかではないのだが、そのお返しには妻は協力してくれない。

バレンタインのチョコを食べる案件に関しては、あれほど田中角栄ばりの牽引力と実行力を発揮して事を推し進めていったというのに、ホワイトデーでは動かざること山の如し。

 「あんなに食べたんだからお返しのお金もせめて半分くらいは出すべきじゃない?」

「あなたはほんとに女心がわかってないのね」

 「なんで」

「だってそのチョコレートは、会社の女の人が想いをこめてプレゼントしてくれたんでしょ。その気持ちにはあなた自身がきちんと向き合うべき。そのお返しを別の女に用意させるなんてサイテー! デリカシーってものがないの?」

 「義理チョコに決まってるんじゃなかったのかよ!」

2016年2月13日土曜日

【考察】思いついたままの文章を書いてみましょう

子どもに音楽を教えようと思ったら、いろんな歌を聞かせて、楽器の演奏方法や音譜の読み方を教える。

文章を書かせるには、文字と文法を教えて、たくさんの文章を読ませて表現技法を身につけさせる。

野球もそう。ボールの投げ方、バットの振り方を教えて、お手本となるプレーを見せてその真似をさせる。


何を学ぶにしても、基本技術を叩きこんで、優れた作品を多く見せて真似をさせることが必要だ。


なのになぜ、幼稚園や小学校ではなんの技法も教えずにクレヨンだけ渡して、
「さあ、見たままの絵を描いてみましょう」なのでしょうか。


2016年2月12日金曜日

【エッセイ】こたつと政権交代

ひとり暮らしの醍醐味といえば、やはり「こたつで寝てもいい」ということに尽きる。
小さい頃は、こたつで寝てしまったら親に布団まで運ばれた。
運んでもらえるのはありがたいけど、布団に入ったとたん、布団の冷たさで起きてしまう。
まず布団を持ってきてこたつに入れてあたためて、よくあたたまった布団にあたしを入れて、しかる後に布団ごと運んでくれたらいいのに、と思っていた(自分が親なら、布団まで運んでやった子どもにそんな要求されたら戸外に放りだすけど)。

もう少し大きくなったら布団まで運ばれることはなくなったけど、「そんなとこで寝ないで布団で寝なさい」と言われるようになった。
聞こえないふりをして寝ていたら、こたつの電源を切られた。
あたしがグレて消しゴムを最後まで使いきらずに早めに新しいやつをおろすようになったのは、この悔しさがきっかけ。



だからあたしがひとり暮らしをはじめて最初の冬。
かねてからの念願だった、こたつで朝まで寝る計画を実行に移すことにした。

準備は周到に。
敷き布団をこたつの下に敷き、枕をセット。
熱すぎないよう、こたつの温度は最低。それでも喉がかわくことを予想して、手の届くところにお茶を配置。
こたつの上にはお菓子を並べ、寝たままでもテレビを観られるように軽く模様替え。

カンペキ。

で、結果は云うまでもなし。
こたつで寝たことある人ならわかると思うけど、夏場のアスファルトの上にへばりついてるミミズ状態。
こたつの温度を弱にしてるのにぜんぜん弱くない。強烈な強さはないのに、じわじわと攻めてくる。往年の貴ノ浪みたいな粘り腰。

そんで喉がからからになって目が覚めて、お茶を飲んで、電源をオフにする。
で、寒くて寝られない。
で、電源オン。
で、アスファルトミミズ。
で、電源オフ。

ずっとそのくりかえし。
アメリカ民主党と共和党みたいに、一晩中電源オンとオフが交互に政権とってた。
あたしのこたつが二大政党制。



そして政権交代をくりかえしているうちに朝を迎えた。
次の日は眠さしかなかった。喜怒哀楽あらゆる感情が眠さにとってかわられた。
こたつの脚に四方固めきめられてて寝返りも打てなかったから、背中も腰も痛かった。

そしてあたしが学んだ教訓がひとつ。

こたつでの睡眠と 頻繁な政権交代は、国民を疲弊させるってこと。

2016年2月11日木曜日

【エッセイ】男のシャンプー

男向けシャンプーの効能を見るのは楽しい。

女の人向けのシャンプーは、
『髪に豊かなうるおいを』
『しっとりなめらか』
『海の恵み』
『フローラルの香り』など、
おとぎ話のように美しくて抽象的な言葉がならんでいて、おもわずゲロを吐きそうになる。

その点、男のシャンプーはいい。
『汗のにおいを抑える』とか
『皮質の汚れを落とす』とか
『フケ・かゆみに効く』とか、
何に効くのかがじつに単純明快でわかりやすい。

腹がへったから食う!
くさくなったから洗う! みたいな。

そんな男シャンプー界においてダントツのいちばん人気を誇るのはやはり『抜け毛予防』だ。
もちろん抜け毛が気になるお年頃であるぼくも、シャンプーを選ぶポイントは「一にハゲない、二にハゲない、三、四がなくて五にハゲない」だ。
フローラルの香りなんかどうでもいいから、とにかく生えるやつを!


各社、抜け毛予防シャンプーを出しているが、どの会社の製品がいいのかは、「人はなぜ生きるのか」というテーマと同じく、いまだにこれといった正解が出ていない。
だからそれぞれの製品の効能書きから、自分で判断するしかない。
契約書はろくに読まずに印鑑を押しちゃうぼくだけど、シャンプーの効能だけは熟読する。全製品、二度ずつ目を通す。
成分表まで読んで、おお、このα-オレフィンオリゴマーというのは効きそうだなとか、このラウリル硫酸アンモニウムというやつは頭皮に悪いんじゃないのかとか、わかんないなりにいろいろと推測をする。

そんな男シャンプー効能書き愛好家のぼくには、許せないことがひとつある。

抜け毛予防に効果アリと謳うシャンプーの用法に
「適量を手にとり、頭皮をマッサージしながら髪全体によくなじませてください」
と書いてあるのだ。

ずるい!
それでハゲを防げたとしても、それはシャンプーじゃなくてマッサージの力じゃないか!

2016年2月10日水曜日

【エッセイ】未風呂人


そうなんです、風呂は好きなんです。
だから余計にふしぎなんですよ。

風呂が嫌いなら、わかりますよ。
熱いお湯に浸かるのがいやだとか、
身体に泡をつけるのが気持ち悪いとか、
狭い風呂場に閉じこもるのが怖いとか。
そういう理由があって風呂が嫌いだという人も世の中にはいるでしょう。

けれどぼくはそうじゃない。
風呂が好きなんです。
ゆっくりお湯に浸かっていると一日の疲れがとれるし、風呂で読書をするのは至福のひとときだし、風呂から出たあとはほどよく疲れて気持ちよく眠れる。

だのに。
だのになぜ。

風呂に入るのってあんなにめんどくさいんだろう。


そろそろ風呂入らないと……。と思いながらも、行く気になれない。

眠いなあ。風呂に入らなかったら30分多く寝られるなあ。

風呂場まで遠いしなあ。
ここから4メートルもあるしなあ。

風呂上がりに着るパジャマを用意するのもめんどくさいなあ。
どうせすぐ服を着るのになんで脱がなくちゃいけないんだろ。

運動をしたわけでもないからそんなに汚れてないしな。
2週間くらいは風呂に入らなくても平気だと思うな。

そもそも誰が風呂なんて考えたんだろ。
卒業式で在校生代表が送辞を読む儀式と同じくらい、誰も得しない風習だよなあ。

だいたい“在校生”ってなんだよ。
『学校に在るほうの生徒』と書いて在校生。
なんだそりゃ。生徒って学校にいるのがふつうだろ。
なんで出ていくやつ中心の視点で語ってんだよ。
たいていは学校を出ていくやつより残る生徒のほうが多いんだから、多数派にあわせろよ。

学校にいる生徒のことを“在校生”っていうんだったら、生きてる人間のことを『命があるほうの人』って書いて“在命人”っていえよ。
死んでいくやつ目線で生きてるやつのことを語れよ。
 
◆ ◆  ◆ ◆  ◆ ◆  ◆ ◆ 

……と、そんなことをうだうだ考えているうちに、もう15分たってるわけで。
15分前より眠さも増しているから、その分、風呂に入りたくないという気持ちは15分前より強くなっているわけで。

こんなことならさっき入っときゃよかった。


しかしほんとふしぎ。

風呂に入るのは気持ちがいい。
快楽を与えてくれる。

快楽を与えてくれる行為は、ほかにも食事とか睡眠とかセックスとか飲酒とかいろいろあるけど、どれも後悔というリスクをともなう。

「あのときあれ食べなきゃよかったな……」

「なんでおれあのとき起きなかったんだろ……」

「あんな男に身体を許すんじゃなかったわ……」

「飲むんじゃなかった……」

そんな経験、一度や二度ではないだろう。

快楽をもたらす行為には、常に後悔がつきまとう。


ところが。
あなたにはあるだろうか!?

風呂に入ったことを後悔したことが!

ぼくには、ない。

生まれてこのかた1万回は風呂に入ってきたけど、これまで一度たりとも
「あー! 風呂に入らずに寝とけばよかったー!」
って思ったことはない。
「やっちまった……。風呂に入っちまった……。どうしてあんなことしちまったのかな。魔が差したんだな……」
って悔やんだこともない。

そう、風呂はノーリスクなのだ!


ノーリスクで快楽を与えてくれるもの、それが風呂。

ギャンブルとか違法ドラッグとかハイリスクな快楽を追い求めている人に教えてあげたい。

風呂はノーリスクで気持ちよさを味わえる!

風呂こそが快楽の王様!

こうして風呂に入れるなんて、生きててよかった!
在命人でよかった!


◆ ◆  ◆ ◆  ◆ ◆  ◆ ◆

……と、そんなことをうだうだ考えているうちに、もう40分たってるわけで。


2016年2月9日火曜日

【読書感想】スティーヴン・キング『グリーン・マイル』

内容(「BOOK」データベースより)
大恐慌さなかの一九三二年、アメリカ南部、コールド・マウンテン刑務所。電気椅子へと続く通路は、床に緑のリノリウムが張られていることから通称“グリーン・マイル”と呼ばれている。ここに、双子の少女を強姦殺害した罪で死刑が確定した黒人男性ジョン・コーフィが送られてくる。看守主任のポールは、巨体ながら穏やかな性格のコーフィに一抹の違和感を抱いていた。そんなある日、ポールはコーフィの手が起こした奇跡を目の当たりにしてしまう…。全世界で驚異的ベストセラーとなったエンタテインメントの帝王による名作が、十七年の時を経て鮮やかに蘇る。

『刑務所のリタ・ヘイワース』と並んで有名な、キングによる刑務所を舞台にした作品。
『刑務所のリタ・ヘイワース』ときいてもピンとこないかもしれないが、映画『ショーシャンクの空に』の原作だと云われれば、ああ、あの。とうなずく人も多いだろう。
『グリーン・マイル』も、スピルバーグ監督の同名映画のほうが有名だ。

エンタテインメントとしては、『刑務所のリタ・ヘイワース』のほうがずっとおもしろい。
謎解きの要素やどんでん返しがあり、勧善懲悪的なストーリーなので、最後はすかっとする
『グリーン・マイル』のほうは、全体的に重たくて、読むのに体力を要する。
前半は何もおこらないし、残酷きわまりない描写はあるし、終始イヤなやつが主人公と読み手を不快にさせるし、善人が救われないし。
明るくハッピーなだけの物語を読みたい人にはまったくおすすめできない。


『グリーン・マイル』は“神”の物語だ。
ぼくはこの本を読みながら、遠藤周作の『沈黙』を思いだしていた。

『沈黙』のストーリーはこうだ。
江戸時代、キリシタンの男が厳しい弾圧に遭い、拷問を受ける。男は神の救済を一心に信じて拷問に耐えつづけるのだが、事態は一向に改善しない。信仰心に報いずに「沈黙」を貫く神に対して、ひたすら神を信じていた男はついに疑念を持つ……。

一方、『グリーン・マイル』には神の使いのような男が登場して、病気を治したりネズミを助けたりといった数々の奇跡を起こす。
だがその奇跡は大きな問題を解決しない。
無惨に殺された双子の少女は助けられない。痴呆を治した相手は事故死する。そして、奇跡の使い手である男は無実の罪で死刑に処せられることが確定している……。

どちらの作品でも描かれているのは「信じるものを救わない」神の無慈悲さであり、信仰する神に疑念を抱いた人間の、信じたいが信じられないという葛藤である。

無宗教の人間からするとそんな神様さっさと捨ててしまえばいいじゃんと思うのだが、やはり信者からするとそういうわけにはいかないのだろう。

ぼくは宗教を持たないが、それに代わる拠り所はある。
国家が己のために何もしてくれなかったとしてもぼくは日本人でありつづけるだろう。
親が自分にとって害をなすだけの存在になったとしても、やはりかんたんに親子の縁は切れないだろう。

自らを形成しているものが破壊されたとき、ぼくは自身を再構築できるんだろうか。
途方もなくめんどくさそうだ。
めんどくさいあまり、『グリーン・マイル』における神の使いのように、死を選んでしまうかもしれない。


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2016年2月8日月曜日

【エッセイ】エッジ・トーク

会社の後輩と話していて、うちに2歳の娘がいるという話になった。

「うわー。いちばんかわいいときですね。お父さんとしては、今から娘さんが結婚したら……と考えて悲しくなったりしないですか?」

と訊かれたので

「いやー。それはべつに悲しくないなー。逆に、結婚できなかったらと思うと悲しいけど」

と答えたら、
「そうか……。あー、そうですね……。うわー……」
と、落ち込ませてしまった。

29歳独身女性を無意識に刺してしまった。


2016年2月7日日曜日

【ふまじめな考察】妖怪の意味について考える

妖怪の「意味」について考えてみる。

妖怪が実際に存在するとしても、想像の産物だとしても、妖怪を思い描いて他人に伝承するときには、その人の意図が介入する。
人は事実をそのまま伝えることが苦手だから、必ず「解釈」や「願望」や「恐怖」が投影されているはずだ。


■ こなきじじい
ものの本によると、山の中で赤子に化けて泣き、旅人がおんぶをすると石のように重くなり、ときには旅人を死に至らしめる妖怪だという。
旅人の親切心につけこんだずいぶん非道な妖怪だが、これも「意味」を考えれば理解できる。
かつてはどの家も貧しかったから、口減らしのために赤子を捨てることもあったにちがいない。だが、捨てられている赤子がかわいそうだからといって連れてかえっていたら、家計を圧迫することになり、場合によっては一家全員が食っていけなくなる。
「捨てられている赤子はかわいそうだけど、拾ってやるわけにはいかない」という慚愧の想いが、「あれはこなきじじいだから拾わなくてもかまわない」といって自己を正当化するための妖怪を創りだしたのではないだろうか。


■ ぬりかべ
ものの本によると、歩いていると目の前に突然大きな壁が現れ、通せんぼをするのだとか。それがぬりかべで、押しても引いても先に進めなくなってしまうらしい。
これはやはり、君子危うきに近寄らず、というような意味がこめられているのだと思う。
人生においてさまざまな試練(=壁)が立ちはだかることがある。そんなときは無理に乗り越えたりせず、早々に諦めて引き返すべきだという教えだろう。
昔は、試練に挑戦する者の大半が命を落としていただろうから。


■ あかなめ
ものの本によると、風呂にたまった垢をなめる妖怪だという。


この妖怪は「風呂はきれいに掃除しましょう」という教訓によって生みだされたものだと考えられる。

現代人であるぼくらは「風呂をきれいにしてないとカビが生えるよ」と聞かされているが、それと同じようなものだ。

なにしろカビを見たことはあるが、実際にカビが悪さをするところは目にしたことがない。
カビはおなかをこわしたり病気になったりする原因だとされているが、はたしてほんとうだろうか。

「カビが生えてるパンを食べたからおなかをこわしたんだよ」
「目に砂が入ったのは砂かけばばあのしわざだよ」
いったいどれほどのちがいがあるのだろう。

カビやウイルスや複雑な家庭事情は、人に害を与えるとされている、現代の妖怪だといえるね。

2016年2月5日金曜日

【ふまじめな考察】女性が速球派投手になる日

女の人が髪を切ったことには、まあ気がつかない。

そもそも女の散髪前後の変化率ときたらマジカル頭脳パワーのまちがいさがし頭脳指数200の問題かってぐらい些細なもんだから、ストーカーでもないかぎり気がつくわけがない。
そんな類い希なる注意力持ってたらとっくに青山剛昌にマンガ化してもらっとるわ!

そんなわけだから、女が髪を切ろうが彼氏との縁を切ろうが、さっぱりわからない。
でも世の中には女性の微妙な変化にいともカンタンに気づく男がいる。
すぐ「化粧品変えた?」とか「新しいカバンだね」とか言っちゃう男。

あーやだやだ。

まあだいたいいけ好かない男ですよ、そういう手合いは。
そんでうらやましいわけですよ、正味な話。
だってね。モテるもん、細かいところに目がいくマメな男は。

そりゃそうだよね。
自分に興味をもたれて悪い気はしないよね。

ぼくなんか、自慢じゃないけど会社で毎日顔をあわせている人がパーマあてたことにも気がつかなかったからね。
ある日帰宅したら妻がスプーンおばさんみたいに縮んじゃってたとしてもしばらく気づかない可能性あるよね。あれそんなサイズだったっけ、まいっか先に寝るわ、なんつって。



そんなぼくだけど、女性を見ていて唯一気づく変化がある。
それは「太った」ということ。
よく会う人だろうと、久しぶりに会った人だろうと、なぜかこれだけはわかる。
「あ、あの人太ったな」

どうして太ったことだけわかるんだろう。
はじめは、ぼくが女の人の身体ばかりエロい眼で見ているからかなと思った。
でも、不思議なことに痩せたことはわからない。
人間だから太ることもあれば痩せることもあるだろうに、ぼくが気づくのは太ったときだけ。
どうして痩せたことには気がつかないんだろう。あんなにエロい眼で身体を見ているのに。

太ったことに気づくのだってひとつの才能だけど、問題はそれを披露する場がないってこと。
なぜなら、聡明なぼくは知っているから。
「最近太ったでしょ」は、言わないほうがいいやつだってことを。

そんなわけで、女性の膨張に気づいても口には出さないことにしている。
胸の内でそっと「あ、太ったな」と思うだけ。

だけど。

言いたい。
せっかく気がついたんだもの。
“細かいところに目がいくマメな男”になってみたい。

言ったらどうなるんだろ。
やっぱり嫌われちゃうんだろうな。
だけど案外「気づいた?よく見てくれてんのねー」なんて喜ばれたりして。

言っちゃまずい。でも言いたい。
ずっと葛藤していたのだが、最近ひょんなことから答えが見つかった。



同僚のマナベくんが、隣の席のミサトさんにこう云ったのだ。
「こないだ1年くらい前の写真見てたんですけど、ミサトさん痩せてましたねー!」

横で聞いていたぼくは、思わずあっと声をあげそうになった。

これはやばいのでは……。

そっとミサトさんの顔色を伺うと、案の定顔がひきつっている。
一方のマナベくんはというと、まったく悪びれる様子がない。
むしろ、良いこと言った!ぐらいの表情だ。
どうやら彼は褒め言葉のつもりで「痩せてましたね」と発したらしい。

ぼくは叫びたかった。

マナベくんっ!
それたぶんあかんやつやで!
褒めてるようで実は今のミサトさんを貶めてるで!


 
ぼくには、マナベくんの発言を嗤うことができない。
だってぼくも、状況によっては同じような失言をしてしまいそうだから。

そしてマナベくんの貴い犠牲により、ぼくは学んだ。
やはり、女性に対して体重のことをあれこれ言うべきではない。
そういうのは、ジローラモか光源氏に任せておくべきことで、ぼくやマナベくんみたいな気の利かない男が体重の話題に触れるのは、イスラム国に行ってコーランについての見解を述べるぐらい危なっかしいことなのだ。

やはり「太ったね」と口にするのはやめて、「速球派投手っぽくなってきましたね」ぐらいの言い回しにとどめておくことにしよう。


2016年2月4日木曜日

【エッセイ】伝説2世

ヒポグリフという生物がいるんだとか。
といっても実在しているわけではなく、伝説上の生物なんだとか。

調べてみると、グリフォンと馬の間に生まれた生き物がヒポグリフなんだとか。
グリフォンってなんじゃいと思って調べてみると、鷲の頭と羽を持ち、獅子の胴体を持つという伝説の生き物なんだとか。

想像上の生き物から生まれた想像上の生き物……。
想像が過ぎる……。
もうオリジナルほとんど残ってないじゃないか……。


この感覚、どこかで味わったことがある。

あれだ。
ペルーの元大統領がフジモリさんだと聞いて親近感を覚えたけど、よくよく聞いたら日系3世で本人は日本語もまったく知らないって知ったときの感覚だ。


2016年2月3日水曜日

【エッセイ】20%のよこしまな感情

同僚の女性が言っていた。
「わたしが前いた会社、結婚してる男の人はみんな愛人がいたんですよ」

翌日、また別の人から聞いた。
「こないだテレビでやってたんですけど、80パーセント以上の既婚男性が不倫をしたことがあるんですって」

なんてこった。
こうしちゃおれん。

恥ずかしながら、ぼくには愛人がいない。ただのひとりも。
いってみればチェリー。チェリー・ハズバンド。

知らない間に自分が『出遅れている20パーセント』に入っていたなんて。周りに流されがちな日本人のひとりとして、このムーヴメントにはぜひとも乗っておきたいところ。
お金ならある! 月に4,000円までなら出す!

今からでも遅くはない。やなせたかしが『アンパンマン』を発表したのは50歳のときだもん。
やなせ先生、勇気をありがとう!

しかし愛人ってどうやって募集するんだろう。
80パーセントの既婚男性はどうやって募集したんだろう。
街ゆく女性に「ねえ君、愛人にならない?」と声をかけるとか?
そんないかがわしいこと、人見知りのぼくにはできない。

どっかに求人広告を載せるのかな。
リクルートあたりが愛人情報専門のフリーペーパーとか出して駅に置いてそうだな。
それともあれかな。
『Oggi』『25ans』みたいな満たされない女が読んでそうな雑誌にそういうコーナーがあるのかな。ぼくが知らないだけで。


誰か、愛人を紹介してくれる人を紹介してください!

2016年2月2日火曜日

【エッセイ】オール・フォア・お茶漬け

予兆はいくつもあった。

周囲の居酒屋がどこも満席なのにその店だけ空いていたし、さほど客が多いわけでもないのにおしぼりを持ってくるのがやけに遅かったし、やっと現れた店員はものすごく愛想が悪くて化粧の濃いねえちゃんだったし。

「なんかこの店やばそうだな」
ぼくと友人はひそひそと話した。
しかし席に着いてしまった以上は注文せずに店を出るわけにはいかない。それに腹もへっている。
「一杯だけ飲んで、次の店に行こうか」

ということで我々は、ビールを一杯ずつとフライドポテトとお茶漬けを頼んだ。
最小限のつまみと、ふつうは締めに頼むお茶漬けをいきなり注文するという、早期撤退ムードを全面に出したオーダーだ。
これなら大丈夫だろうと我々は思った。
この注文なら、どんな店だろうとまちがいない。

ところが。
ときに現実は、想像をはるかに凌いでくるものだと我々は思い知らされた。

まずビールがぬるかった。
まあこれぐらいは想像の範囲内だ。
付き出しの枝豆が、冷凍していたのだろう、水っぽい。
これもたまにあることだ。

次に、フライドポテトがしょっぱすぎた。
このへんで「思っていた以上にやばい店だな……」と、ぼくらはささやきあっていた。
「冷凍食品をレンジでチンしただけでももっとおいしいけどな」
いつもならなんでもうまいうまいと云って食べる友人が、首をかしげた。

そして。
お茶漬けがまずかった。

ぼくは、腹立たしさを通りこして、思わず笑ってしまった。
ちょっとした感動さえおぼえた。

だって。だって。
お茶漬けがまずいんだよ?

みなさんに訊きたい。
みなさんは生まれてこのかた「まずいお茶漬け」を食べたことありますか!?

ないでしょう?
そうでしょう。そりゃそうでしょう。
だってお茶漬けだもの。
ご飯にお茶をかけるだけだもの。
ご飯はあったかくてもいいし、冷えててもそれはそれでうまい。
かけるお茶だって、熱くてもぬるくても成立する。
それがお茶漬けという料理だ。
まずくなりようがない。
失敗のしようがない(せいぜいお茶をこぼすぐらいだ)。

ところが。
ぼくらが食べたお茶漬けはまずかったのだ。
奇跡としか言いようがない。

勝手にわさびはお茶に溶かれてるし、しかもわさび多すぎだし、お茶っ葉がぷかぷか浮いてるし、ご飯は芯が残ってるし、お茶はこぼれてるし(失敗の基本もちゃんと押さえてる)、ふた口と食べられるような代物ではなかった。

お茶漬けのすべての要素が、失敗という目標に向かって一丸となっている。
すごい。
ワンフォアオール、オールフォアワン。
ノーサイド(お茶とわさびの垣根がなさすぎるという意味で)。

現代技術の粋を集めてまずいお茶漬けを作りました、というようなハイスペックなまずいお茶漬けなのだ。
日本の技術って、もうこんなところまで進んでいたのか……!