2016年1月31日日曜日

【エッセイ】ぼくのHong Kong


小学三年生のとき、家族で香港旅行に行った。
香港がイギリスから中国に返還されたのが1997年。ぼくが訪れたのは香港返還の少し前、まだイギリスの租借地だった時代だ。
(ところで「香港」は英語で「Hong Kong」だから、「香港返還」は「Hong Kong Heng Kang」だ)

住んでいるのはアジア人でありながら統治はイギリス。あくまで租借地なので植民地ともまたちがい、中国とイギリスの文化が入りまじった独特の雰囲気があり、たいへんおもしろかった。
……のだろうけど、当時8歳だったぼくにはそんなことまったくわからなかった。なにしろ日本国内さえろくに旅行したこともないのだ。香港の文化が独特かどうかなんてわかるわけがない。

覚えているのは、旅行中ずっと雨が降っていたこと、泥棒市と呼ばれる市場で折り畳み式のはさみと、折り畳み式の時計を買ってもらったこと(香港人は折り畳むのが好きなのだろう)、そして満漢全席を食べたことだ。

満漢全席とは。
Wikipediaによると、
清朝の乾隆帝の時代から始まった満州族の料理と漢族の料理のうち、山東料理の中から選りすぐったメニューを取りそろえて宴席に出す宴会様式である。後に、広東料理など漢族の他の地方料理も加えるようになり、西太后の時代になるとさらに洗練されたものとなった。盛大な宴の例では途中で出し物を見たりしながら、数日間かけて100種類を越える料理を順に食べる場合もあったと言われる。
だ、そうだ。
さすがにぼくが食べたのは数日かけて食べるようなものではなかったが、それでも30以上の料理が順に出てくるコースだった。

電子レンジが古くなって、10分稼働させないとごはん一杯をあたためられなくなってもまだ買い替えず、ついにはお茶を温めながらぼかんという音を立てて大量の真っ黒い煙を噴きだすという、20人以上から一斉に刺されて死んだカエサルに匹敵するぐらいの壮絶な最期を遂げるまでボロい電子レンジを使いつづけた我が家からすると、一家心中前夜かと思うほどの贅沢だった。


まずはじめにフカヒレスープが出てきた。
フカヒレスープを食べるのは生まれてはじめて。
一口すすって、驚いた。
世の中にこんなにうまいスープがあったなんて。

スープといえば、家で出てくる具だくさんすぎて豚汁みたいになってるコーンとかぼちゃとにんじんのポタージュか、給食で出されるねじで出汁とってんのかってぐらい機械油くさいワカメスープしか飲んだことのなかったぼくにとって、はじめて口にするフカヒレスープは衝撃的なお味だった。


ものすごくうまかったフカヒレスープだが、そのときのぼくは半分ほどしか飲まなかった。
なぜなら、両親からこう言われていたから。「30種も料理が出てくるコースだから、全部食べてたら途中でおなかいっぱいになっちゃうよ」と。
なるほど。
30種のコースの最初に出てくるスープなど、しょせんは序ノ口。この後、二段目、三段目、十両、前頭、小結、関脇、大関、横綱、親方と徐々に手強い相手が出てくるにちがいない。
ぼくはさらなる美味に備えるため、フカヒレスープには半分しか手をつけなかった。

そして。
その後に出てきた料理は、ことごとく口にあわなかった。
子どもの味覚は保守的だ。食べなれた味を好み、珍しいものはあまり食べようとしない。動物の本能が濃く残っているのかもしれない。
そんな味覚保守党の8歳のぼくの口には、外国の料理などもちろんまったくあわなかった。

これはおいしくない。
これは辛すぎて食べられない。
これは風味にクセがありすぎる。

次から次へと出てくる料理を次から次へと残す。
さっき残したフカヒレスープをまた飲みたいと思うが、コースだからとっくに皿は下げられたあとだ。
こうして、途中でおなかいっぱいになるどころか最後までおなかに余裕を残したまま、ぼくの満漢全席デビュー戦は終わった(そしていまだに再戦を果たしていない)。

あれから二十余年。
今ではぼくも毎日おやつ代わりにフカヒレをかじれるぐらいの収入を手にするようになったが(サメ絶滅するわ!)、あのときの味を超えるフカヒレスープにはいまだに出会っていない。

やはりあのとき、後のことなど考えずにフカヒレスープを飲みほしておくべきだったと、今でもZang Nengでならない。

2016年1月30日土曜日

【読書感想】Newton別冊 『統計と確率 ケーススタディ30』

Newton別冊『統計と確率 ケーススタディ30』


統計の本は何冊か読んだけど、入門書としてはこの本が優れているように思う。
正規分布や標準偏差といった基本中の基本から、疑似相関や標本誤差といった陥りがちな失敗例まで取り上げている。

株価の変動、新薬の開発、スポーツの八百長調査、生命保険の掛け金の決め方、世論調査、ギャンブルで理論的に儲ける方法、迷惑メールの振り分け方、DNA鑑定が間違う確率など、社会のあらゆる分野で統計と確率は根幹を支えている。

この本では、ケーススタディというだけあって、それらをひとつひとつ、事例と図と数式で懇切丁寧に説明している。
統計を専門的に学ぼうという人よりも、むしろ数学も統計も苦手という人に読んでもらいたい。
なにしろ、さっきも書いたようにこの社会のありとあらゆるところで統計と確率は使われている。
ということは裏を返せば、統計と確率を知らなければ、さまざまな局面で不利益を被るということなのだから。



この本の中で紹介されている「疑似相関」について紹介。
1)
日本人男性の年収と体重には相関関係があります。体重が重い人ほど、年収が高い傾向がある。

2)
理系が文系かということと、指の長さの間に相関関係があります。理系の人々には人差し指が薬指より短い人が多く、文系の人々には同じくらいだという人が多いのです。

3)
図書館が多い街ほど、違法薬物の使用による検挙数が多い。
上の文章は、すべて間違ってはいないが、誤解を招く内容になっている。どこが問題か、わかるだろうか?

これらはすべて疑似相関で、因果関係があるように見えるのは以下の理由によるものだ。

1)年収が高いのは体重のためではなく、男性は年齢を重ねると体重が増える傾向にあり、年齢が高いほど年収も増えるので、因果関係があるように見える。

2)男性には人差し指が短い人が多く、男性には理系が多い。

3)図書館が作られるのは人口が多い街で、人口が多い街ほど犯罪の検挙数も多い。


わからなかった方は、統計にだまされないようにご注意を。
テレビで伝えられている統計なんか、こんなのばっかりですよ。

2016年1月28日木曜日

【読書感想文】橘 玲 『「読まなくてもいい本」の読書案内 ー知の最前線を5日間で探検するー』


橘 玲『「読まなくてもいい本」の読書案内 ー知の最前線を5日間で探検するー』

内容(Amazonより)
20世紀半ばから“知のビッグバン”と形容するほかない、とてつもない変化が起きた。これは従来の「学問」の秩序を組み替えるほどの巨大な潮流で、少なくとも100年以上、主に「人文科学」「社会科学」という分野に甚大な影響を及ぼすことになるだろう。この原動力になっているのが、複雑系、進化論、ゲーム理論、脳科学、ICT(情報通信技術)などの爆発的な進歩だ。本書では、5つの分野に分けて何が起きたかを解説、「読まなくていい本」を案内することで読むべき本が浮かび上がる構造になっており、これ一冊で効率よく知の最前線を学ぶことができる。

あとがきで橘玲氏がこう書いている。
 古いパラダイムでできている知識をどれほど学んでも、なんの意味もない。
 一九八〇年代には、NEC(日本電気)が開発したPC ─ 9800が日本ではパソコンの主流で、 98(キュウハチ)のOSを専門にするプログラマがたくさんいたけれど、マイクロソフトの Windows の登場ですべて駆逐され、その知識は無価値になってしまった。哲学や(文系の)心理学は、いまやこれと同じような運命にある。「社会科学の女王」を自称する経済学だって、「合理的経済人」の非現実的な前提にしがみついたり、複雑系を無視してマクロ経済学の無意味な方程式をいじったりしている学者はいずれ淘汰されていくだろう。

この本の主張はほとんどこれに要約されている。
ぼくが大学時代、一般教養の授業で「囚人のジレンマ」に代表されるゲーム理論や、マルクス経済学や、フロイトやユングなんかを学んだ。講義で指定されているテキストは何十年も前に発刊されたものだった。
コンピュータの世界だと、十年前のテキストなんか何の役にも立たない。
ところが経済学や心理学の世界では、へたしたら百年前の理論が幅をきかせていたりする。あれだけ多くの人が研究しているのに、何の進歩もないのか?
まさか。

もちろん古いものが役に立たないわけではない。ダーウィンの進化論は(誤りもあるにせよ)大枠のところでは今でもさまざまな進化論の土台になっている。
だが、この本では、こんな例を説明している。
 フロイトは一九世紀末のウィーンの女性たちに蔓延していたヒステリーの治療から、無意識の影響力の大きさに気がついた。そして、神経症の原因は社会的・文化的に禁じられている欲望を無意識に抑圧しているからだという精神分析理論を唱えた。
(中略)
だがフロイトの評価が難しいのは、そこから先の理論がほとんど間違っているからだ ─ ─ それも、とんでもなく。
 エディプスコンプレックスなんてなかったし、女の子は自分がペニスを持っていないことで悩んだりしない。どのような脳科学の実験からもリビドー(性的エネルギー)は見つからないし、意識が「イド、自我、超自我」の三層構造になっている証拠もない。夢は睡眠中に感覚が遮断された状態で見る幻覚で、抑圧された無意識の表出ではなくたんなる「意識」現象だ。

役に立たないならまだしも、誤解を生むだけのまちがった理論がずっと教育の現場では栄えつづけていたりする。
ぼくが中学校のときの教科書には「原子はそれ以上細かく分けることができない。ある原子から新たにべつの原子をつくることもできない」と書いてあったが、もちろんこれは真っ赤な嘘だ(たぶん今の教科書にも書いてあると思う)。
古い教科書で学んだ人が教師になり、自分が教わったことをそのまま次の世代にも教える。教科書を作っている人も今の研究なんか学んでいないから、何十年たっても何も変わらない。
新しいことをやっている人は学生に教えている時間がないし、教えている人は新しいことを学ぶ時間がない。

ぼくは、学生のときにリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』と池谷裕二の『進化しすぎた脳』を読んで、めまいがするほどの衝撃を受けた。
新しい知見を得て、学校で習ってきたことはなんだったんだ! と叫びたくなった(ドーキンスはそのときでもすでに生物学の世界では古典だったけど)。
「人はなぜ生きるのか」という問いに対する答えは、科学の世界ではとっくに明らかになっている。「遺伝子を残すため」が答えであり、脳はそのために設計されているから、人の行動はそれで説明がつく。もっと早く教えてほしかった。



以下、再び『「読まなくてもいい本」の読書案内』より引用。
まず、次の二つの質問を考えてほしい。

質問一 あなたには以下の二つの選択肢があります。どちらを選びますか。
選択肢A 一〇〇万円が無条件で与えられる。
選択肢B コインを投げ、表が出たら二〇〇万円が与えられるが、裏が出たら何も手に入らない。

質問二 あなたは二〇〇万円の借金を抱えています。そのとき、以下の二つの選択肢が提示されました。どちらを選びますか。
選択肢C 無条件で負債が一〇〇万円減額され、負債総額が一〇〇万円になる。
選択肢D コインを投げ、表が出たら負債が帳消しになるが、裏が出たら負債総額は変わらず二〇〇万円のまま。

 この実験はとてもかんたんなので、欧米だけでなく世界じゅうで行なわれているが、文化のちがいに関係なく、質問一では圧倒的に選択肢A(一〇〇万円が無条件で手に入る)を選ぶひとが多い。ところが選択肢Aを選んだほぼ全員が、質問二では選択肢D(コイン投げで表が出たら負債は帳消しになるが、裏が出たら借金はそのまま)を選択する。でもこれは、「合理的経済人」の行動としてはものすごくヘンなのだ。
(中略)
 ひとがこうした選好を持つ理由は、進化心理学で明快に説明できる。 進化適応環境(EEA)である石器時代には、そもそも「負債」などという概念はなかった。原始人が知っていたのは、獲得する(利益を得る)か、奪われるか(損をする)かの二者択一だ。そのうえ原始時代には、富を蓄える手段がほとんどなかった。獲得するものの多くは生の食料で、たくさんあっても腐らせるだけでほとんど役に立たなかった。大事なのは大量に獲得することではなく、確実に獲得することなのだ。
 それに対して、損をする=獲物を奪われることはただちに死を意味した。ぜったいに損をしないことが生存の条件で、万が一損をしたらただちに取り返さなければならない。そう考えれば、「生きる望み」のある選択肢Dが選好されるのは当然だ。
ぼくもやはりAとDを選んだ。
シンプルだが、明快で力強い考え方ではないだろうか。
こういうことを知らずにミクロ経済学を論じた本をいくら読んでも無駄だとわかるだろう。



はたまた、「正義」についての脳の研究。
 正義についてはむかしからあまたの思想家・哲学者がいろんなことを語ってきたが、現代の脳科学はここでもたった一行で正義を定義する。正義は娯楽(エンタテインメント)である。
(中略)
 復讐はもっとも純粋な正義の行使で、仇討ちの物語があらゆる社会で古来語り伝えられてきたように、それは人間の本質(ヒューマン・ユニヴァーサルズ)だ。そればかりか、「目には目を」というハンムラビ法典の掟はチンパンジーの社会にすら存在する(仕返しは認められるが、過剰な報復は禁じられている)。
 ひとはなぜこれほど正義に夢中になるのか。その秘密は、現代の脳科学によって解き明かされた。脳の画像を撮影すると、復讐や報復を考えるときに活性化する部位は、快楽を感じる部位ときわめて近いのだ。

人間が善行をするのも罪を犯すのも、すべては「脳が遺伝子を残すための設計になっているため」だ。
ほどほどに正義感を持ち、ほどほどに悪いことをする人間が遺伝子を残す上で有利であったため、そういう人間だけの世の中になった。
すべては遺伝子を残すための戦略だ。
その事実を知っているかどうかで、ものの見え方はまったくちがう。
「ゴミの排出を減らすには」「臓器提供者の割合を増やすには」「脱税をさせなくするには」といった問題に対する進化行動学からの見事な解答も、この本では紹介されている。

最新の脳研究については、医学や薬学だけでなく、哲学や倫理学、心理学、経済学、政治学、法学、教育学なと、あらゆる学問に携わる人間が知っておくべきことだ。

古くて役に立たない考え方がわかるようになるし、なにより、新しい見方で世界をとらえられるようになるのはおもしろいことだから。


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2016年1月27日水曜日

ムダを避けようとしてムダなことをする話


たとえば、電車に乗って友人の家に行くとする。


友人の家は、A駅とB駅の間にある。
A駅からだと歩いて15分、そのひとつ先のB駅からだと5分かかる。
A駅~B駅間は、電車だと3分だ。運賃はどちらで降りても変わらない。

この場合、B駅まで電車に乗って5分歩くほうが、A駅から歩くよりも早く目的地に着く。
でも、ぼくはA駅で降りる。
7分余計に歩くとしても、A駅から歩く。
なぜなら「引き返したくない」から。
さっき通った道を、まっすぐ引き返すのはムダだから、極力したくない。

A駅から歩くほうが時間も体力も無駄にしていると理屈ではわかっているけど、
「来た道をただ引き返す」という精神的なムダに比べればずっとマシだ。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

べつの例。
昼食を食べようと、定食屋に行く。
だがちょうど店はいっぱい。
店員に「5分ほどお待ちいただくことになります」と云われる。
だったらぼくは、この先5分歩いたとにあるべつの定食屋に行く。

5分待つくらいなら5分歩いて遠くの店に行くほうがマシだ。
5分先の店が空いているかもわからないし、食べおわったあとにまた5分歩いて戻ってこなければならないわけだから、実際はここで待ってたほうがずっとムダがない。
でもいやなのだ。
「ただ並ぶ」という時間がすごくムダに思えてしかたがない。


さっきは「来た道を引き返したくない」といっていたくせに、今度は「5分歩いて向こうの店に行って、また5分歩いて戻ってくる」という選択をするのは矛盾じゃないかと思われるかもしれない。
しかし、これはぼくにとってはぜんぜん別の話だ。
後者は、行きは「ごはんを食べに行く」、帰りは「家に帰る」という目的がある。
目的のために歩くのはぜんぜんムダじゃない。

こういう、ムダを避けるあまりムダなことをしてしまう感覚、うまくことわざとかで言い表せないだろうか。
「皿洗いたくなくて新しい皿買いに行く」みたいな。

2016年1月26日火曜日

【エッセイ】世界三大がっかり料理 ~駅弁編~


ちょっと待って。
冷静に考えてみて。
それ、ほんとにおいしいわけ?
ほら、あなたが今、おいしいおいしいって云いながらパクついてる駅弁のこと。
誰も言わないならあたしが言う。
何度も駅弁に騙されてきたあたしが言う。

駅弁はおいしくない!

揚げ物は冷めてるし、ごはんは固いし、刺身はぬるいし、傷まないように保存料は多いし、ボリュームのわりに値段はけっこう高いし、改めて考えたら駅弁にいいとこなんかひとつもない。

え?
……あー、はいはい。
なるほど、なるほど。

はい、反論出ました。
旅情によるおいしさ3倍説ね。
駅弁は雰囲気を含めて味わうもの説ね。

当然、駅弁擁護側からそういう反論が出ることは予想していました。
あたしは声を大にして言いたい。

風景だとか旅情だとかに騙されちゃいけない!
そんなものは言い訳にすぎない。
それってほら。

夫には先立たれ、ひとり暮らしも長くなり、孫たちが大きくなってからはめったに寄りつかず、そんなときに現れておばあちゃんおばあちゃんといってほんとうの孫よりもなついてきたあの青年。
老後のために蓄えていたお金は騙しとっていったけれど、あの優しさは本物だったと信じたい……!

っていうおばあちゃんの気持ちと一緒。駅弁がおいしいと思いこむのって。
いくら親切にされたって詐欺は詐欺。
旅情なんか駅弁があなたを騙すための見せかけの優しさよ。
そんな甘い誘いに乗っちゃだめ。すぐに途中下車して。駅弁だけに。

あたしも、これまで何度、駅弁に裏切られてきたか。

旅情によっておいしくなる説がほんとうなら、コンビニのパンでもかまわないと知りながら。

その土地のものを食べたいのなら、電車を降りてお店に入ったほうが同じ値段ではるかにおいしいものを食べられると知りながら。

それでも、けなげに駅弁を買った。
いつかこの人(駅弁)は、まじめに働いてくれる。あたしのひたむきな愛に誠意を持って応えてくれるひが必ず来るはず。

けれどもあたしの思いもむなしく、駅弁はまたもおいしくない。


なんてだめな人。
あたしが支えてやらなければ。
デパートの駅弁フェアに足を運んだりもした。
でもやっぱり駅弁は変わらない。
駅弁のわたしに対する態度は、駅弁の揚げ物と同じくらい冷めている。

そしてあたし気づいたの。
駅弁は、このままじゃもっとだめになる。

だから、こうして駅弁の悪いところをさんざん挙げていってるわけ。
これはあたしから駅弁への決別宣言。

そう。
駅弁を愛しているから!

【エッセイ】世界三大がっかり料理 ~チーズフォンデュ編~

【エッセイ】世界三大がっかり料理 ~パエリア編~

2016年1月25日月曜日

【エッセイ】世界三大がっかり料理 ~パエリア編~


犬派か猫派かってよく訊かれるけど、あたしはだんぜん、ごはん派。

だって日本人だもの。お米の国の人だもの。
お米の国の人だからもう米国人といってもいい。意味変わっちゃうけど。

そりゃ炊きたての銀シャリもいいけど、あたしはやっぱり色ごはんが好き。
“色ごはん”ってわかる?
炊き込みとかの色のついたごはんのことを、色ごはんっていうの。あたしの家だけの呼び方かもしれない。
栗ごはんはもちろん色ごはんだし、チャーハンも色ごはん。カレーライスの境界線部分も、ビピンパのかきまぜた後のやつも色ごはん。

ごはんの魅力って、どんな味でもしっかり受けとめてくれるところよね。
辛さも、しょっぱさも、甘酸っぱさも、旨さも、全盛期のような古田敦也捕手のような安心感で受けとめてくれる。

だから色ごはんにはずれはない。
豆ごはん、釜めし、牛丼、オムライス、ピラフ、ドリア、リゾット。
どれもおいしいし、見ただけでわくわくする。

中でも、見た目がいちばん刺激的なのはパエリア。
アツアツ感を演出する鉄鍋に、ほどよく焦げ目のついたごはん、そしてこれでもかと言わんばかりに贅沢に乗せられた海老やムール貝などの魚介類。
こんなにおいしそうな料理、ちょっと他に見あたらない。

だからあたしは、メニューに「パエリア」の文字があったら必ず注文する。
そして裏切られる。毎回。



まず誤解のないように云っておかなくちゃいけないけど、パエリアはおいしい。
これまでおいしくないパエリアにあたったことはない。
でもそれと同時に、あたしの期待以上においしいパエリアに出会ったこともない。
あたしののどを通りすぎていったパエリアはどれもみんな“そこそこ”おいしかった。
ものたりなさだけが募る。

そう、すべてはあたしのせい。
あたしの期待値が高すぎるせい。パエリアは何も悪くない。それは知っている。
でもあたしは待っている。
いつの日か、見た目も味も何もかもがあたし好みのパエリアが、あたしの前に現れる日を。

男に高望みしすぎて40歳になっても結婚できない女のようだと笑うがいい。
ここまで来たからには、そのへんのチャーハンやケチャップライスで手を打つわけにはいかないのよ!

【エッセイ】世界三大がっかり料理 ~チーズフォンデュ編~

【エッセイ】世界三大がっかり料理 ~駅弁編~



2016年1月24日日曜日

【エッセイ】世界三大がっかり料理 ~チーズフォンデュ編~


「三大がっかり料理」を選ぶとしたら、あたしは
・チーズフォンデュ
・パエリア
・駅弁
を推薦する。

まずチーズフォンデュ。

あたしはチーズが好きだ。とくに熱いチーズには目がなくて、居酒屋で「とろとろチーズの焼きトマト」みたいなメニューがあったら、迷わず注文する。ぜったいに頼む。おなかいっぱいでも頼む。頼んでから後悔する。
でも、とろとろチーズを頼んだことは後悔しない。とろとろチーズを食べる前におなかいっぱいにしてしまったことを悔やむ。
それぐらいとろとろチーズが好き。
とろとろチーズはいつだって正しい。

そんなあたしだから、はじめてチーズフォンデュという料理の存在を知ったときのことは今でも覚えている。
そう、あれは高校1年生の冬だった。
テレビで観たチーズフォンデュと一目で恋に落ちたあたしは、 うれしさを通りこして不安になった。不安のあまり、当時中学生だった弟を蹴飛ばしてみた。弟の「いてえ。なんだよ」という不機嫌な声を聞いて、やっと現実世界に戻ってこられた。
それぐらいチーズフォンデュというのはあたしにとって衝撃的な食べ物だった。

だって、好きな食材を、好きなだけとろとろチーズに浸けて食べていいのよ。
極楽かっ!
地獄では鬼が亡者を釜茹でにしてるその一方、極楽では天使たちがきゃっきゃ云いながらチーズフォンデュを楽しんでいる。


そんな光景があたしの脳裏に浮かんだ。

でも、あたしがチーズフォンデュ様に心を奪われてから、実際に食べるまでにはじつに3年を要した。
なんせあたしが育った田舎町にはチーズフォンデュなんてこじゃれた料理を出す店なんかなかった。せいぜいナポリタンがミートソーススパゲティかオムライス。ケチャップかけときゃ洋食だと思ってやがんのよ。

だから都会に出てきてこじゃれたバーで「チーズフォンデュ」の名前を見つけたときは小躍りした。「欣喜雀躍!」って声に出して叫んだ。
もちろん即座に注文した。
こじゃれたバーだからみんな静かに女を口説いたり男に口説かれたりしてんのに、あたしだけ寿司屋の常連ぐらいのテンションで「へいマスター、チーズフォンデュ一丁!」って。
バーのマスターも釣られて「あいようっ!」って言いかけてた、きっと。

それなのに。
嗚呼、それなのに。
はじめて食べたチーズフォンデュは。
夢にまで見たチーズフォンデュは。
イマイチだった。

なんだろう。たしかにチーズはとろとろなのに。好きな食材を好きなだけチーズにからめて食べてもいいのに。
なぜだかあんまりおいしくない。

その店のチーズフォンデュが悪いのかと思った。
しょせん気どったバーだもんね。
ちゃんとしたとこで食べたらちゃんとおいしいはず。
そう思って、イタリアンレストランにも行ってみた。チーズフォンデュを食べるために。
でもやっぱりもうひとつ。

いや、決してまずいわけじゃない。どっちかっていったらおいしい。

でも。
 
でも。

こんなもんじゃないだろチーズフォンデュ!
おまえはもっとやれる子だ!
「OLが選ぶ かばんに入れて持ち歩きたい料理 ベスト3」に入ってもいいぐらいのポテンシャルは持ってるはずだ!

食べるたびにそう吠えるのだけれど、あたしの咆哮はチーズフォンデュには届かず、毎回期待を裏切られてばかり。
いまだに、これはうまい! と思えるチーズフォンデュに出会ったことはない。

思うに、カマンベールとかゴーダとかグリュイエールとかのしゃれたチーズを使っているのが、あたしの舌にあわない理由なんだと思う。
グリュイエールだかアリエールだかしらないけど、そんな高いチーズはあたしの安い舌は受けつけない。
もっとやっすいやつでいいのよ。ピザ用のとろけるチーズとかで。雪印とかで。
あとワインも入れなくていい。昆布だしでいい。あっ、おいしそう。

昆布だしととろけるチーズのチーズフォンデュ、これぜったいおいしいわ。
誰かやってみて。

あたし?
あたしはやらない。
だってチーズフォンデュって、死ぬほど皿洗いがたいへんそうだもの。
チーズフォンデュを考案したのって、自分では洗い物しないやつだよぜったい!

【エッセイ】世界三大がっかり料理 ~パエリア編~

【エッセイ】世界三大がっかり料理 ~駅弁編~


2016年1月23日土曜日

【エッセイ】イノセントワールド


朝から妻の機嫌が悪い。

なにか怒られるようなことをしただろうか。
胸に手を当てて考えてみたが、思いあたるふしは4つぐらいしかない。


あれは証拠を残してないはずだし……

あれはみんなやってることだし……

あれはもう時効が成立してるし……

あれはまだばれてないはずだし……


うん、大丈夫。
すぐさま怒られそうな案件はひとつもない。
清廉潔白の身だ。イノセントワールドだ。


じゃあなぜ。
なぜ彼女はかようにも怒っているのか。
おもいきって聞いてみた。男らしく、おそるおそると。

 「えーっと……。どうかした……?」

「すっごく腹立つ夢を見たの」

 「夢……?」

「そう、洗濯機のすすぎが終わりかけてるときに、あなたが洗濯機の扉をむりやり開けて汚れた洗濯物を追加する夢。せったく
すすぎが終わりかけてるのにまたやり直し! って腹が立ったわけ」

 「あー……。それは……。うん、ごめんなさい」

2016年1月22日金曜日

【エッセイ】エジプトで見て見ぬふり

世界各地にチャイナタウンがあったり、地方から出てきた人たちが集う県人会があったり、たいていの人は同郷の人間に対して親近感を覚えるものだ。
だが、世の中にはそういった間隔とは無縁の人もいる。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

ぼくの同僚Sさん。
秋田県能代市から出てきて、大阪で働いている。
その人の部署に入社してきた新入社員が、自己紹介で「秋田県能代市出身です!」と語った。
大阪で東北出身者に出会うだけでもめずらしいのに、市まで同じ。すごい偶然だ。

にもかかわらず。
Sさんは、くだんの新入社員に対して、自分が能代市出身だと明かしていないらしいのだ。何度か話しているのに。

「すごいことじゃないですか。なんで言わないんですか」
と訊いても、
「べつにわざわざ話すようなことじゃないでしょ」
と、にべもない。

わざわざ話すことだろうよ!

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

また、高校の同級生Gさん。
Gさんはエジプト人男性と結婚していて、エジプトに住んでいる。
こないだ久しぶりに帰国していたGさんがこんなことを云っていた。
「そういやこないだエジプトのカイロ空港で、Tくんとすれちがったよ。ほら、高3のときに同じクラスだった」
 「えー! すごい偶然だね! さぞかしTくんもびっくりしてたでしょ?」
「いや、向こうはわたしに気づいてなかったと思う。声かけなかったし」
 「えっ。なんで!?」
「そんなに仲良かったわけじゃないし……」

信じられない。エジプトで知り合いにばったり会ったとき、声をかけずにいられるだろうか。
仲がいいとか関係ない。なんなら、エジプトで日本人に会ったら、たとえ知り合いじゃなくても日本人だというだけで話しかけてしまうかもしれない。

さらに驚くべきは、Gさんは大学でエジプト史を専攻していたという事実だ。
エジプトの歴史研究してるのに自分の歴史に興味なさすぎ!


2016年1月21日木曜日

【読書感想】 萩尾望都『11人いる!』


萩尾望都『11人いる!』

 (Wikipediaより)
「11人いる!」は、漫画雑誌『別冊少女コミック』1975年9月号から11月号に連載された[1]。1976年、第21回小学館漫画賞少年少女部門を受賞。
宇宙大学の入学試験最終テスト(最終日程の最後の科目)の会場“外部との接触を絶たれた宇宙船”を舞台に、宇宙のさまざまな国からやって来た11人の受験生が、疑心暗鬼のなかで反目しつつ、信頼関係を築き合いながら友情や恋を培い、非常事態を乗り越えようとするさまを描く。

名作だとの評判は耳にしていたが、大昔の少女漫画をいまさら読むのもなあ……。ってことで読んだことはなかったのだが、そのインパクトのあるタイトルはずっと頭に残っていた。
Kindleで売られているのを見て、ようやく買って読んだ。

いやあ、噂に違わぬ名作だった。
まず40年前の少女漫画なのに、ちっとも古びていない。
もちろん絵柄は古いしギャグのノリも見ちゃいられないんだけど、ストーリーは古びていない。
独創的な世界観、綿密な構成、スリリングな展開。さらにラストまで明かされない「11人目の存在の謎」がいいフックになっていて飽きさせない。
男か女かわからないキャラクター、相次ぐ事故、なぜか宇宙船の内部に詳しすぎる人物といったミステリ要素にも丁寧に伏線が張られており、SFとしてだけでなくサスペンスとしても凝った造りになっている。

ほんと、これが40年前の少女コミック誌に掲載されていたということに軽い目眩を覚える。



この本には表題作のほかに、続編の『東の地平 西の永遠』と同じ世界観のコメディ『スペース ストリート』が収録されている。

『東の地平 西の永遠』は、宇宙を舞台にしたSFでありながら宰相の陰謀によって戦争に向かう国の運命に翻弄される王様や敵国の姫たちの悲劇の物語……という感じで、『ロミオとジュリエット』や『ベルサイユのばら』のようなテイスト。
3つの星の争いを舞台にしている点をのぞけば、正直、少女漫画としてもさほど新しい展開ではない。
とはいえ、日蝕の描写に代表されるような細部の設定はさすが。
『11人いる!』に比べるとすこしものたりないが、これも十分秀作。


『スペース ストリート』は……。
昔のギャグなので今笑えないのはしょうがないのだけど……。
『11人いる!』のネタバレになるので詳しくは書かないが、主人公と○○のいちゃいちゃ恋愛をどういう感じで見ていいのかわからなかった。
二次創作のボーイズラブを見ているような気持ち悪さがあって(ぎりぎりネタバレじゃないよね)、ギャグ以前にそのへんがどうもね……。
おまけページだと思えばまあいっか。

そういや、今はどうだか知らないけど、少女漫画ってやたらとおまけページが充実してたよな。
スピンオフ漫画があったり作者の自分語りがあったり。あれなんなんでしょう。
作者の人物像も含めて楽しむのが少女漫画の読み方なのかな。

2016年1月20日水曜日

【エッセイ】文明人だもの


よく、落ちた食べ物を拾って食べる。
さすがに砂利の上に落ちたソフトクリームは食べないけど、自宅の床に落ちたバーニャ・カウダぐらいだったら迷いなく拾って口に入れる(おっしゃれー!)。

育ちがいいので
「おぼっちゃま、食べ物を粗末にしてはいけませんよ」と言われて育った。
だから落ちた物も食べるし、もちろんヨーグルトのふたもべろんべろんなめる。

その点、妻は教育を受けずに育ったのか知らないが、落ちたものは決して口にしようとはしない。
それだけなら
「あら、落ちたものを捨てるなんてどこの蛮族出身なのかしら? バルバロス? それとも匈奴?」
で済む話だ。

でも、あろうことか彼女は、食べ物を粗末にしない夫を尊敬するどころか、むしろ蔑んでいるようなのだ。
あまつさえ、
「子どもが将来真似するからやめて」
と説教まで垂れる(しかもこの言葉からわかるように彼女は子どもの心配をしているだけで、夫の健康状態には露ほどの関心もない)。
粗野な人間が、徳の高い人間をこばかにする。
こんなことが許されていいものか。
水が低きから高みへと流れてよいはずがない!

妻はどうも勘違いをしているらしい。
夫は汚い食べ物のほうが好きだと思っているようなのだ。
その証拠に彼女は、調理中にうっかり落としてしまったおかずや焦がしてしまった食材は、必ず夫の皿に盛る。

勘違いしないでくれ。

ぼくだってべつに、落ちたものが好きなわけじゃない。
落ちたご飯と落ちていないご飯だったら、だんぜん落ちていないご飯派だ。
ぼくは拾い食いをするのは、ただマナーとしてのことだ。
サラリーマンだからネクタイをするけど、べつにネクタイを愛しているわけじゃない。
世間が許すなら、ネクタイだってズボンだってとっくに脱ぎ捨てている!

だけど。
ぼくはそれをしない。
だって19歳ぐらいからぼくは文明人として生きているんだもの!
だから窮屈でもネクタイをするし、
暑くても外出時はズボンを履くし、
落とした食べ物はちゃんと食べる。
文明人はじめました!



ということを滔々と妻に語ったところ、
「落とさないようにするという選択肢はないの?」
と云われた。

うっ……。
それは……。
ま、本を読みながらご飯食べてたら、そりゃあ落とすことだってあるさ。

文明人だもの。

2016年1月19日火曜日

【エッセイ】歩かざるもの靴買うべからず


男女数人で食事をした後、友人(男)が「靴を買いたい」というので、みんなで靴屋に行った。

その友人は棚をざっと見て、靴を探しだし、試し履きをして、サイズがあわなかったのでワンサイズ大きいのを選び、ちょうど足にあったのでそれを持ってレジへと進んだ。

「えっ、もう買うの!?」
ひとりの友人(女)が驚いた声を出した。

男「いや、買うけど……。なんか問題ある?」

女「でもまだ店に入ってから3分くらいしかたってないよ」

男「試し履きしたよ。3分見たら十分だろ」

女「うそ。あたしが靴を買うときは、まずゆっくり店内を一周する。で、気になった靴は片っぱしから履かせてもらう。少なくとも10足は履くかな。履いて鏡を見たりもするし、やっぱりさっきのやつのほうがよかったかなって思って履きなおしたりもする。だから1時間は店にいるよ」

男「まじか。靴買うだけでそんなに時間かけんの!?」

女「ううん。1時間見ても、結局買わずに店を出ることのほうが多い」

男「えー。たかが靴で……。いくら毎日履くものとはいえ……」

女「毎日なんか履かないよ! だっていろんな靴履きたいじゃない。今履いてるこの靴も、年に数回しか履かない」

男「信じられん……」


2016年1月18日月曜日

【考察】自己啓発書を数学的に否定する

トーマス・エジソンは
「私は一度も失敗したことがない。“灯りがつかない”という発見を2万回しただけだ」
と言ったそうだ。

これはなかなかしゃれた言い訳でおもしろいが、この言葉が“ビジネスマン”の口から出た途端に驚くほどつまらない教訓になるから不思議だ。

ビジネス書や自己啓発本を執筆しちゃうような“ビジネスマン”というのは、控えめに言っても99%の人間は論理学の“ろ”の字も知らないおばかさんだから、
「成功者はみな過去の失敗から学んでいる」ことを以てして
「失敗から学んだ人はみな成功する」と思いこんでいる。
これは言うまでもなく、論理の誤りだ。
成功者は全員おならをするけれど、おならをしたら成功するわけではない。



ぼくはのどが弱いので自己啓発本を極力読まないようにしているが(なぜなら反吐が出てのどに悪いから)、自称“成功者”の書いた本にはこの手の論理の誤りが非常に多い。
今から、成功者が書いた自己啓発本を読むことが自身の成功の役に立たないことを【数学的に】証明しよう。

ビジネス書を読む人の動機は「成功したい」だ。
だから「Xをする人は必ず成功する」という「X」を見つけるために、成功者の書いたビジネス書を読む。
だがよくよく考えていただきたい。

たとえば「早起きをするならば、成功する」
これを命題Aとする。
命題Aの真偽を明らかにするためには、
「早起きをして成功した人」をどれだけ見つけてきてもまったく無意味である。
たとえすべての成功者が早起きをしていたとしても「早起きをするならば成功する」とは言えない(先ほどのおならの例でわかるように)。その裏には、早起きしたけど成功しなかった人が隠れているかもしれないからだ。

命題Aが真であることを示すためには、命題Aの対偶である 「成功しないのは早起きしなかったから」 ということを示さなければならない。そのためにはすべての“成功しなかった人”を観察して、成功しなかった原因を突き止める必要がある(1)。
逆に、反証である「早起きをしたけれど成功しなかった」人をひとりでも見つけることができれば、命題Aは偽であるとわかる(2)。
(1)(2)いずれも、成功しなかった人を観察しなければわからない。
つまり、成功しなかった人を観察することによってしか成功の秘訣は導きだせない。

よって、成功した人の話を読むことが成功につながるというのは誤りである。
(証明終わり)

2016年1月17日日曜日

【読書感想】岸本 佐知子『気になる部分』

内容(「BOOK」データベース)
眠れぬ夜の「ひとり尻取り」、満員電車のキテレツさん達、屈辱の幼稚園時代―ヘンでせつない日常を強烈なユーモアとはじける言語センスで綴った、名翻訳家による抱腹絶倒のエッセイ集。待望のUブックス化。

思うに、おもしろい小説を書く才能とエッセイを書く才能はべつなのだろう。
小説家やエッセイストの書くエッセイは総じておもしろくない。林真理子やよしもとばななのエッセイなんか、銀行に置いてある投資信託のパンフレットぐらいおもしろくない。
型にはまっている、という感じなのだ。エッセイとはこうあるものだ、という様式があって、きっちり起承転結をつくっている。読んでいて、このへんに着地するだろうな、というところに着地する。

おもしろいエッセイを書く人は、たいてい物書き以外の職業に就いている人だ。
東海林さだお(漫画家)、鹿島茂(フランス文学者)、土屋賢二(哲学者)、米原万里(通訳)、穂村弘(歌人)、加藤はいね(看護師)……。
みんな自分の文体を持っているが、どれも小説の文脈からは逸脱している。だからこそ読み手に驚きと興奮を与えてくれる。

そんな「本業じゃないけどおもしろいエッセイを書く人」のひとりが岸本佐知子だ。元OLで、本職は翻訳家。
ぼくが、今いちばんおもしろいと思うエッセイを書く人だ。
彼女のエッセイは、正気と狂気のすれすれを走っている。たとえば次の文章。
 しかし、何といっても一番おそろしいのはゴキブリだ。黒光りするボディがこわい。長い触覚がこわい。毛の生えたたくましい脚がこわい。素早い走りがこわい。飛ぶからなおのことこわい。裏返したときのおなかの横縞がこわい。わしづかみにして手の中にゆるく握ったときの、じたばたと手のひらを蹴る感触がこわい。噛むと口いっぱいに広がる、ちょっと苦い味もいやだ。

(『気になる部分』「オオカミなんかこわくない」より)
よくある題材だと思っていたら、急にこの展開。市内巡回バスに乗っていたと思ったらいきなり時速200キロで走りだして急カーブを切られたような感覚。ぜったい振り落とされるわ。

読者にどう思われるかなんてまるで考えていないかのよう(もちろん実際は考えているのだろうけど)。
本業じゃない人のエッセイの強みはここにある。
「これ書いて二度と執筆の依頼がこなくなってもいいや。本業があるし」
という姿勢が、エッセイに説得力を与えてくれるのかもしれない。

いやほんとすごいよ岸本佐知子。


2016年1月16日土曜日

【エッセイ】プリン・スクロール・ロック

スマホにプリン落としたらぜんぜんスクロールできなくなった。
ティッシュで拭いてもだめ。

なにこれ。
2年近く使ってるけど、こんな機能(プリン・スクロール・ロック機能)があるなんてぜんぜん知らなかったよ。
ドコモショップのおねいさんも教えてくれなかったよ。


2016年1月14日木曜日

あたらしい道徳の話 ~キャバクラ編~


ブランド品のバッグやアクセサリーを安く買いたいなら、年明けすぐと3月下旬が狙い目なんだそうだ。

クリスマスやホワイトデーに、男たちがキャバクラ嬢にブランド品を贈る

もらったキャバクラ嬢はすぐに古物商やネットオークションで売る

一気に中古市場に供給が増えるので値くずれを起こす

だから、クリスマスとホワイトデーの直後は未使用のブランド品を安く買えるのよ。
あたしはいっつもこの時期オークションで買うの。

と、友人の女性が教えてくれた。



この話を聞いて、ぼくは思った。

ほぼ見返りがないと知りながらプレゼントを贈る、男性の博愛の精神。

不要なものでも無駄にしたくないという、キャバクラ嬢の清貧の心。

少しでも安く買おうという、友人女性の倹約の気持ち。

この話には、日本人の美徳があふれている。
道徳の教科書に載せたいぐらいのお話だ。

2016年1月13日水曜日

【エッセイ】墓地散歩のすすめ その4

2歳の娘が、なかなかおひるねをしてくれない。
そんなとき、ぼくは娘をだっこして墓地へと足を運ぶ。
都会の喧騒とは無縁の墓地の散歩は、幼児にとっても気持ちがよいのだろう。5分も歩いているとすぐに眠りに落ちてくれる。

その日もぼくは娘を抱いて、墓地を歩いていた。
おひるねしたくないとぐずっていた娘もやがて眠けに襲われ、すやすやと寝息をたてはじめた。
そこで異変に気づいた。

あれ。
寝息がもうひとつ聞こえる。

娘のすうすうという愛らしい寝息にかぶさるように、少し離れたところから、ぶおぅぶおぅという規則正しい音が聞こえてくる。

いた。
寝息の発信源は、墓の前で熟睡しているおっちゃんだった。

……墓の前で!?


ぼくの住んでいる地域では、外で寝ているおっちゃんは決して珍しくない。
彼らはホームレスとはちがう。
一応家はあるらしく、服はさほど汚くない(決してきれいでもないが)。ひげも伸びていないし、散髪もしている形跡がある。
昼間だけ公園でチューハイを飲んでいるか寝ているかしているから、きっと夜は家に帰っているのだろう。
そんな半野良のおっちゃんらが多い地域に住んでいるぼくでも、墓場を寝床にしているおっちゃんがいるとは思わなかった。


あまりにも豪快に眠っているので、ひょっとしたら墓に埋めわすれた死体なんじゃないかと思った(土葬かよ)。
しかしまちがいなく寝息は聞こえてくるし、よく見たら新聞紙を布団に、リュックを枕にして万全の体制で寝ている。

死体ではないにせよ、人間ではなく、夜は墓場で運動会をして、昼は寝床でぐうぐうぐう♪のタイプのおっちゃんなのかもしれない。

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【エッセイ】墓地散歩のすすめ その2

【エッセイ】墓地散歩のすすめ その3


2016年1月12日火曜日

【エッセイ】墓地散歩のすすめ その3

ぼくの行きつけの墓地には、殉職した警察官の墓コーナーがある。

ここは他の墓よりも見ごたえがある。
というのは、墓の側面に死因を書いてくれているのだ。
「君ハ昭和○○年○月○日ニ□□ノ路上ニテ暴漢ニ襲ワレ非業ノ死ヲ遂ゲル」
ってなぐあいに。
ぼくのように無関係の墓を見るのが好きな人に親切な設計だ。

警察官の殉職といっても、そのすべてがジーパン刑事のようにドラマチックなわけではない。
パトロール中に車にはねられて死んだとか、警らをしていて風邪をひき肺炎をこじらせて死んだとか、それって殉職にカウントするの?みたいな死因もある。
だが、華やかさ(といっていいのかわからないが)に欠ける死だからこそ、よりその文章が現実感をともなって胸を打つ。
映画や小説ではほとんど描かれることのない、交通事故や肺炎による警察官の殉死によって我々の暮らしは支えられているのだ。
この殉職墓コーナーは、警察のPRのためにももっと広く知られてもいいと思う。


ところで疑問が一点。
殉職した警察官にも、ほとんどの場合は家族がいたはずだ。家があれば、墓もあるだろう。
殉職した場合、そっちには入らないのだろうか?
それとも分骨して、殉職墓コーナーと家の墓と、半分ずつ入れるのだろうか。
だとすると魂の行方はどうなるのだろうか?
霊魂も半分に引き裂かれるのか?

ってな疑問を、知り合いの坊さんに訊いてみた。

「魂の居場所には現世的な場所なんか関係ないね。だから墓がふたつあったって、両方に魂は存在するのさ」
と坊さんは云った。
なるほど。
もっともらしい答えだ。

でも、ちょっと待ってくれ。
魂の居場所に現世の場所が関係ないんだったら、そもそも墓なんかいらなくない?


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【エッセイ】墓地散歩のすすめ その1

【エッセイ】墓地散歩のすすめ その2

【エッセイ】墓地散歩のすすめ その4


2016年1月11日月曜日

【エッセイ】墓地散歩のすすめ その2


ぼくの行きつけの墓地はかなり古い墓地なので、最近の墓に混ざって、明治や大正時代の墓も並んでいる。
明治時代に墓ができたわけだから、その子どもどころか孫ですらもうこの世にいない可能性大だ。
墓石が削れたり傾いたりしているが、だからといって勝手に修復したり撤去したりできないのが墓管理の難しいところだ。
今にも隣の墓にもたれかかりそうな絶妙なバランスで、古い墓はたたずんでいる。

古い墓を見るのはおもしろい。
「俗名 桃太郎」なんて墓があったりする。


最近の親は子どもにひどい名前をつけるなんて云われているが、墓石に刻まれた名前を見ているかぎり、明治時代のほうがよっぽどひどい。
ステとかサルとかイシとかの明治の適当なネーミングに比べれば、“てぃあらちゃん”のセンスのほうがよっぽどマシに思えてくる。

昔の墓といえば、男尊女卑が墓にも露骨に表れている。
「○○家之墓」という立派な墓があって、その隣に「○○家之妻之墓」がある。女はべつの墓なのだ。
その墓もほんとに質素で、砂浜でやる棒倒し遊びぐらいの墓でしかない。
かわいそうになってくるが、よく考えるとこういう墓を作ろうと考える夫と同じ墓に入るよりかは、簡素でもべつの墓のほうが死後気楽かもしれない。

古い墓を見ているといろんな発見がある。
ワインと墓は古いほうがいい。

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【エッセイ】墓地散歩のすすめ その3

【エッセイ】墓地散歩のすすめ その4


2016年1月10日日曜日

【エッセイ】墓地散歩のすすめ その1

散歩には墓地がいい。
車も来なくて歩きやすいし、なにより人がいないのがいい。
墓地が繁盛するのは盆、お彼岸、年末年始だけなので、その時季を避ければはほとんど人と出くわさない。誰かいたとしても、墓地では誰もが寡黙になる。静かでいい。

ぼくがよく散歩するのは図書館の裏の墓地。
すぐ近くを高速道路が走っているのに、そこだけすっぽりと音が抜け落ちたように閑静。ここに比べると図書館が騒々しく感じるほどだ。

ただ近所にあるというだけで、ぼくとはまったく縁のない墓地だ。
知っている人の墓はひとつもない。それが落ち着く理由のひとつかもしれない。ここにはぼくのことを知っている人はひとりもいないし、おまけに全員死んでいる。
とても愉快だ。

墓地を散歩するというと、怖くないのとか、罰当たりな、とか云われる。
だが、すでに墓に入っているジョン・レノンも言っていたではないか。想像してごらん、と。

ぼくが死んで墓に入ったら、と考えてみる。
自分の子孫が墓参りに来るのは年に1回。
隣家の墓だって似たようなものだ。
お彼岸などの繁忙期をのぞけば墓地全体が閑散としている。
ああ。
ひまだ……。
なんせ死後の世界には試験も学校もないのだ。テレビもねえしラジオもねえ(いや「テレビはもう死んだ」とか言われているからひょっとしたら死後の世界にもテレビはあるのかもしれないけど、若いタレントはほとんどいない)。
誰か来ないかな。誰でもいいんだけどな。
赤の他人でもいい。
誰か通ったら、あいつの顔は38点、とかひまつぶしができるのに。

と思っているはずだ。まちがいなく。

という理由をつけて、死者たちのひまつぶしにつきあうためにぼくは墓地へと足を運ぶ。


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2016年1月9日土曜日

【エッセイ】宝くじ信者

宝くじを買う人はえらいと思う。
ぼくなんかできることなら1円だって税金を払いたくないと思っているのに、宝くじ購入者の方々はわざわざ自分の財産を公共の福祉のために投じているんだからね。

宝くじは逆累進課税方式の税金だといわれている。
所得が多いものほど税率が上がるのが累進課税方式だが、宝くじはその逆で、所得や貯金額が低いものほど一発逆転を狙って宝くじに金銭を投じる。もちろんそのほとんどは当たらずに公園やバリアフリー設備に使われたりする。そのため、逆累進課税方式の税金と呼ばれるわけだ。

誰もが知っているが、宝くじは当たらない。
それなのに買うなんて、よっぽどのばかだ。
あ、まちがえた。すごくえらい。
公共の福祉のために資材を投じる方々のことをばか呼ばわりするのはよくないからね。


こうやって宝くじを買う人のことをこばかにしていると、宝くじ信者は決まってこう言う。
「当たらないことなんかおれだってわかってるよ。でもいいんだよ。おれは夢を買ってるんだよ、夢を」

なるほどね。
その気持ち、わからなくもないよ。
1億円当たったらどうしよう、っていろいろ空想するのは楽しい。その楽しみのためと思えば、宝くじは決して高い買い物じゃない。

でもさ。
1枚でよくない……?

夢を買うんでしょ。
だったら1枚でいいじゃん。

宝くじ信者っていっぱい買うよね。
なんで何十枚も買ってんの?
100枚買ったら1枚買ったときの100倍夢を見られんの?
たしかに100枚買えば1枚のときと比べて当たる確率は数十倍になる(ここで100倍じゃないの?と思うやつは確率のことをまったくわかってないから高校の勉強やりなおしてこい。そしたら宝くじ買おうと思わなくなるから)。
でもそれって、サハラ砂漠のどこかにある砂粒を探す作業が、鳥取砂丘のどこかにある砂粒を探す作業に変わるだけだよね。
見つかんねえって!

2016年1月8日金曜日

【エッセイ】地球外生命体の焼き魚定食

定食屋で焼き魚定食を食べた。
まあまあ大きい魚だったので、出されたのは半身だった。
尾頭付きの半身の魚を食べながら、ふと気がついた。
あたしが食べているのは、魚の左半身だ。

よくよく考えるとちょっとおそろしい。
だって「魚の半身を焼き魚にしてお客さんに出す場合、それは必ず左半身でなくてはならない」のだから。
尾頭付きの魚の場合、頭を左にして食卓に置くというマナーがある(カレイをのぞく)。
右半身の魚を、頭を左にして置こうと思ったら、上下逆さま(背ビレが手前にくる)にするか、裏返し(顔を下にする)にしかない。いずれも不恰好。
だから半身の焼き魚にするのは左半身しかありえない。



あたりのテーブルを見渡してみると、焼き魚定食を頼んだ客の前に置かれているのは、やはりみんな左半身だ。
問題は「じゃあ右半身はいったいどこへいったのか?」ってこと。

きっとフライにしたり切り身にしたりしてるんだろうけど、ボウルいっぱいに右半身ばかりが数十匹分入れられている光景を想像するとぞっとする。
あたしは自分が死んだ後の肉体は解剖でも鳥葬でもどうとでもしてくれと思っているが、右半身ばかりを数十人と一緒に積まれるような扱いだけは受けたくない。

だから初詣であたしが祈願することはただひとつ。
「この惑星を侵略しにきた地球外生命体が『地球人を食べるときは頭が左にくるように置くこと』というマナーを持っていませんように!」
ただそれだけ。

2016年1月7日木曜日

【思いつき】ささえさせられ

なーにが「若者3人が老人1人を支える社会」ですか。

「支える」ってのは能動的な行為ですからね。
選択肢があってはじめてそう言えるわけです。

正しくは「若者3人が老人1人にのしかかられてる社会」ですよ。

2016年1月6日水曜日

【思いつき】鳴くに鳴けないホトトギス

村上春樹
「鳴かぬならそれだけのことさ。やれやれ。ホトトギス」

三国志
「 鳴かぬなら馬謖を斬れぬホトトギス」

岡本真夜
「鳴かぬなら こらえた涙の数だけ強くなれるよ ホトトギス」

ジョジョ
「鳴かぬならッ 君が鳴くまで殴るのをやめない!ホトトギス」

ラノベ
「ぼくのホトトギスがこんなに鳴かないはずがない!」

アメリカンジョーク
「そこでぼくは日本のホトトギスにこう言ってやったんだ。『もうみんな鳴きましたよ』ってね」

予備校講師
「いま努力しないホトトギスがいつ鳴くの!?」

判決文
「被告ホトトギスはさえずるという業務上の義務を怠り原告を不安に至らしめたため、ホトトギスに対して鳴くことを命ずる」

Amazon
「このホトトギスを鳴かせた人はこんなホトトギスも鳴かせています」

【エッセイ】痔と核廃絶

 ようやく完治して、心の傷も癒えてきたので書く。

 一夜にして痔になった。
 それも医師が驚くほどの立派な痔に。
 痔なんて一夜でなるもんじゃない、と思うでしょう。
 ええ、ぼくも思っていましたよほんの一ヶ月までは。

 ある日曜日の晩、突如として尻の穴が痛みだした。
 辛さ100倍カレーを喰った翌日のような痛みである(喰ったことないけど)。
 香辛料を大量摂取したのだろうかと思ったが、その前日にぼくが食べたのは豆乳鍋だ。いかにもお尻によさそうなのに!

 寝れば治るかと思ったが、寝ても痛みは引かない。というか痛みで眠れない。
 ぼくはその晩、あまりの尻の痛みのあまり、自分がゲイにレイプされる夢を見た。


 もちろん夜が明けてもケツは痛い。
 痛みはひどくなるばかり。
 そのまま仕事に行ったが、歩くだけで痛い。お上品に小股でそろそろと歩かねばならない。
 座っていたらもちろん痛い。30分と座っていられない。
 立ち上がるときはケツに力が入るから痛い。
「立てば激痛 座れば悶絶 歩く姿は百合のよう」である。

 ちなみに後からわかったことだが、この日のぼくは仕事中ずっと痛みと闘っていたので、同僚から「あいつ目に涙を浮かべてるけど、ペットの熱帯魚でも死んだんじゃないか」と噂されていたらしい。
 このことからも、どれほどぼくがつらい思いをしていたかがわかってもらえるだろう。
 もっともこの噂が後で意外な役に立つのだが、その話はまた後で。

 とにかくぼくは目に涙、そして肛門には脂汗を浮かべながら仕事をこなし、ドラッグストアへ走った(実際にはケツを押さえながらそろそろと歩いた)。
 深夜営業のドラッグストアにこれほど感謝したことはない。
 なにしろそのときのぼくは「痔の薬!それがないなら救急車もいたしかたなし!」と思うくらい追い詰められていたから。
 痛みに涙を流しながら痔の薬を買う。
 ちなみにボラギノールではない。あのまっ黄色のパッケージと有名すぎる商品名、これをレジに持って行けばバイトの女子大生でも「こいつの肛門はおびただしく爛れてるんだ」とわかってしまう。
 そっけないネーミングとパッケージの薬を買うことが、ぼくに許された人間としての最小限の尊厳だった。

 今のぼくにとってはカンダタにとっての蜘蛛の糸にも等しい痔の薬を抱えて家に帰る。
 家人に「痔になった!地獄の苦しみだよ!ただいま!」と言い残して風呂場に駆け込む。
 パンツを脱ぎ捨て、鏡にむかってくるりとケツを向ける。
 仰天した。

 おもいきり身体をひねった不自然な体勢でぼくが鏡の中に見たものは、肛門の前に鎮座するホタテだった。
 むっちりとした質感、薄い桜色に輝く表面、そしてワタリ4センチはあろうかという豊かな肉づき。ホタテそっくりだ。
 寿司屋の板前だったならばまちがいなく「本日のおすすめ」として上客の若旦那のために握って出すような立派な代物だ(もちろん「肛門から飛び出したものでなければ」という条件付きだが)。
 ケツから直腸(?)が4センチも飛び出して、尻肉と椅子に挟まれているわけだ。これが痛くなかろうはずがない。
 嘘だと思うなら肝臓でも心臓でもいいから、内蔵を体外に出して万力でぎゅっと押しつぶしてみなさい。痔が、核兵器と同じくらい憎むべき存在であることがわかるから。

 ケツから飛び出したホタテを見てぼくは思わず叫んだ。
「ピノコ、オペの準備だ!」

 だが、よく考えたらぼくは天才外科医じゃないし、メスも持っていない。
 おまけにかわいい助手もいないから切除手術ができない! アッチョンブリケ。
 ぼくにできることといえば、さっき買ってきた薬を注入することだけだった。
 ちなみにケツに痔の薬を注入するときの屈辱感たるや、やったことのある者にしかわからないものだ。
 ナポレオンが痔に悩まされていたのはわりと有名な話だが、あのナポレオンだってケツに薬を注入したときには、べそをかいて「ごめんなさい、ぼくちんの辞書には不可能という文字しかありません。っていうか辞書すらありません。あるのは薄汚い私の尻だけです」とその場に崩れ落ちていたはずだ。

 薬を注入したが、痛みは引かない。
 あいかわらず、立っても座っても痛い。
 こういうときはさっさと寝てしまうにかぎる。
 ところが。
 寝ても痛いのだ。
 そりゃそうだ。直腸が尻と布団に挟まれるわけだから。
 あおむけだと痛くて眠れない。
 うつぶせだと苦しくて眠れない。
 いったいどうすりゃいいんだよ!
 重力か! 重力があるから痛いし苦しいのか!
 ぼくはこのときほど宇宙飛行士になっときゃよかったと思ったことはない。
 これはぼくの推測だが、毛利さんも若田さんも秋山さんも星出さんも、宇宙飛行士はみんな痔持ちにちがいない。
 痔の苦しみから逃れるために、厳しい訓練に耐えてでも無重力空間に飛び出したかったのだろう。
 ぼくにはわかるよその気持ち。うん。

 だが結局地球上で夜を過ごすはめになったぼくは、うつぶせで寝た。
 翌朝になっても尻の痛みは強くなるばかり。
 そろそろ命の危険を感じはじめたぼくは、仕事を休んで病院に行くことにした。どっちにしろこの痛みでは仕事にならない。パソコンを開いても、Yahoo!知恵袋で「痔に効く薬を教えてください。痛みさえ引くなら薬じゃなくても、キノコでもおまじないでも何でもいいです」と訊くだけだ。
 問題は、上司に何と説明するかだ。
 ぼくの直属の上司は、他人の不幸とうわさ話が大好きなお方だ(つまりぼくとは非常に気が合う)。
 痔が痛むので休ませてくださいなんて云った日には、あわてて全支社に向けて題名に【重要!】という文字を入れたメールを送信し、朝礼でも「最近痔が流行っているので全員くれぐれも注意するように」という訓示を垂れることはまちがいない。
 ぼくは仮病をつかうことにした(実際に身体の具合が悪いからあながち仮病とはいえないのかもしれないが)。
 自慢じゃないが、仮病をつかうのは初めてだ(病気なのに元気なふりをして遊びに出かけたことは何度もあるが)。
 うまく嘘を突き通せるか心配だったが、一応リハーサルをしてから上司に電話を入れた。
「おはよう。どうしたん?」
「実はですね、昨日からちょっと体調が……」
 すべてを語る前に上司は
「おーそうかそうか。昨日めちゃくちゃしんどそうやったもんなあ!ずっと涙目やったから、ペットの熱帯魚でも死んだんちゃうかってうわさしとったんや!」
 あっさり仮病が通った。
 涙目になっててよかった。熱帯魚が死んだんじゃなくてよかった。

 すぐに病院に駆け込んだ。
 今のぼくにとっては「肛門科」の看板が、町娘にとっての遠山の金さんの桜吹雪と同じくらい頼もしく見える。
 肛門科医は、水墨画のようなおじいちゃんだった。
 よかった、美人女医じゃなくて。恥ずかしいんだもの(世の中には美人女医に尻を見られることに悦びを感じる人もいるらしいが)。
 水墨画じいさんはぼくの身体を横に倒し、尻を覗くなり、待合室にまで聞こえんばかりの大声で叫んだ。
「うわー。こりゃすごいね。相当痛いでしょう」
 痛いなんてもんじゃないですよ先生。この痛みたるやスカイツリー級ですよ。
 少なく見積もっても明治時代から肛門科をやっているであろう水墨画じいさんが、これは痛いはずだと驚くほどの痔なのだ。
 どれほどのポテンシャルを秘めたものか、理解してもらえただろう。
 水墨画医師の話では、血流が悪くなって血栓ができたために一夜にしてホタテ痔という堅牢な城が築かれたそうだ。血栓性外痔核というらしい。
 薬を注入して(また注入かよ!)二週間も待てば、強固な守りを誇ったホタテ痔城であっても必ずや陥落するであろう(つまり炎症は収まるはずだ)、と水墨画医師はおごそかな口調でぼくに告げるのであった。

 はたして水墨画の云ったとおり、十日ほどでホタテは体内という大海に還り、ぼくの尻は再び天下泰平の時代を迎えたのであった。
 あの水墨画医師、(ぼくの肛門を素手で触った後に手を洗わずにカルテを書いていたことをのぞけば)かなりの名医であったと言えよう。

 血栓性外痔核は、痔の気のない人にも突然起こりうる病気だ。
 明日血栓性外痔核になるのは、これを読んでぼくのことをばかにしているあなたかもしれない。
 そして今度の総選挙でどの党が政権がとるかはわからないが、政治家のみなさん!

 ぜひ日本の明るい未来のために「核(血栓性外痔核)の廃絶」を!

2016年1月5日火曜日

【思いつき】ニッポンのシンデレラ

 ゴーン ゴーン ゴーン

「まあたいへん、除夜の鐘が鳴りはじめたわ! 百八つ鳴りおわるまでに戻らなきゃ」

お殿様と踊り念仏を唱えていたシンデレラはあわてて駆けだしました。びろおどの下駄が脱げましたが、かまっていられません。
シンデレラがお寺の長い階段を駆けおりると同時に仏法の効力が切れ、立派な牛車はたちまち南瓜の駕籠に戻ってしまいましたとさ。

2016年1月4日月曜日

【写真エッセイ】本供養

本を売ったり捨てたりするときは供養のために写真を撮ってから見送ることにしている。








特に思い入れが強いのは、北杜夫『船乗りクプクプの冒険』と『さびしい王様』シリーズ。
これらに出会ったのはぼくが小学生のとき。
ほとんど児童文学しか読んだことのなかったぼくに、大人向けの本もおもしろいということを教えてくれた本だ。
井上ひさしの『ブンとフン』『偽原始人』や『モッキンポット氏』シリーズも小学生のときに読んだ本。
読書の道に引きずりこんでくれた。

椎名誠の『あやしい探険隊』シリーズと青春3部作は、高校生のときに読んで、ぼくも仲間たちとこんな日々を送りたい!と思わされたエッセイだ。
今でも高校時代の友人たちと山登りをしたりキャンプをしたりしているのは、椎名誠の影響が大きい。

こういった「若いうちに読んでおいてよかった本」を再読することはもうないだろう。
にもかかわらずこれらの本を捨てずに置いていた理由は「いつか生まれてくる自分の子どもにも将来読んでほしいから」だった。

でも実際に自分の子どもが生まれてみて、我が子と接するうちに少しずつ考えが変わってきた。
この子はぼくとはちがう人生を送るのだから、ぼくとはちがう本から刺激を受けたほうがよい、と思うようになった。
ぼくが影響を受けた本ではなく、子どもが大きくなったとき、その時代のおもしろい本を読んでくれたほうがずっといい。

だってほら、大人たちが薦めてくる本って死ぬほどつまらなかったでしょう?
教科書で読んだときはクソみたいにつまらなかったのに、後で自分で買って読んだらすごくおもしろかったという経験、本好きなら一度や二度や三度や四度は経験があるはずだ。

おもしろい本は薦められるものじゃない。
まず自分の勘をたよりにおもしろそうな本を探しあてることから、読書の楽しみははじまっているのだ。

2016年1月3日日曜日

【ふまじめな考察】おい日本の教育

「学校で習ったことは社会に出てから何の役にも立っていない。日本の教育には問題がある」
居酒屋でおっさんが力説していた。

たしかに。
ぼくは小学校で理科の実験をやったり音楽をやったり跳び箱やったりしてたけど、今はぜんぜん役に立ってない。
日本の教育がちゃんとしてれば、今ごろぼくは、物理学者とピアニストと体操選手の3足のわらじをはいていたはずなのに……。
ぼくがノーベル賞とアカデミー賞と金メダルを同時受賞をしていないのは日本の教育のせいだ!

おい日本の教育~。
ちゃんとしとけよなー!

2016年1月2日土曜日

【エッセイ】ハツカネズミの親子

 不思議な光景を見た。

 若い親子が電車に乗っていた。
 父親は赤ちゃんをだっこしていて、母親は妊娠しているらしく、大きなおなかを抱えて大儀そうに歩いていた。
 それだけならどうということのない微笑ましい光景なのだが、問題は父親が抱いている赤ちゃんがどう見ても生後3~4ヵ月の乳児だということだ。
 はじめはなんとも思わなかった。
 でもなんとなく違和感を覚えて、よくよく考えてみると、
あれ? 計算合わなくない?

 一目で妊娠していることがわかるってことは、少なくとも妊娠4ヶ月くらいは経ってるよね。
 だったら生後3~4ヵ月の赤ちゃんがいるはずないよね。
 じつにミステリアス。
 何度見ても、赤ちゃんは生まれたばかり(だってまだ首が据わってないもの)。
 ひょっとしてお母さんが産後太りしてるだけ?と思ったけど、こっちもどうみても妊婦(鞄にマタニティバッヂ付いてるし)。

 ううむ。
 不思議だ。
 仮説を立ててみた。

1.二人は夫婦ではない。
  たとえば兄と妹とか。

2.二人は夫婦だが、妻は赤ちゃんの母親ではない。
  養子だとか、亡くなった兄夫婦の忘れ形見だとか、夫の浮気相手が産んだとか。

3.二人は夫婦で、赤ちゃんもお腹の子も、どちらも夫婦の子。
  ただ双子の片方だけが何ヶ月も先に出てきちゃったとか。

4.じつはぼくが知らないだけで、医学の進歩だかアベノミクス効果だかによって、そうゆうことが可能になっている。

5.あの夫婦はじつは人間ではなく、ハツカネズミ。

2016年1月1日金曜日

【エッセイ】2番目に好きな人

小学3年生のとき。
クラスにMさんという女の子がいた。とびきりかわいくて、快活な子だった。
男子の半分はMさんのことが好きだった。
ぼくもそのひとりだ。

あるとき、Mさんからこう言われた。
「わたし、君のこと、2番目に好きだよ」

1位でないのは残念だったが、喜ばしい気持ちのほうが大きかった。
大人だったら「1位じゃないなら意味がない」と思うかもしれない。でもしょせん小学3年生、1位だったとしてもデートするわじゃないのだ。
「2位じゃだめなんですか!?」という問いを誰が否定できよう。

なにしろ、10人以上の男子が彼女に恋心を抱いていたのだ。その中で2位というのは、モテないぼくからしたら奇跡的な好成績だ。
ぼくは「ひょっとしたら1位浮上ということも十分にありうるぞ」と考え、Mさんへの想いをさらに強固なものにして、あの手この手で彼女の気を惹こうとした。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

人心掌握術について書かれた本を読んでいると、こんな記述を見つけた。

独裁者、軍の司令官、犯罪組織のリーダーらが部下を統治するのに使う方法として「部下たちを順位付けする」というものがある。
部下たちに順位をつけ、さらに順位によって待遇に差をつける。1位は優遇し、最下位には厳しい罰を与えることで、上位を目指すように仕向ける。
さらに順位付けの基準を明確にしないことで、部下たちはトップの顔色だけを窺うようになり、ひとつでも順位を上げようと、上からの指示には絶対に服従し、メンバー間の密告が増えて裏切りも防ぐことができる。特に1位を狙える位置にいる者や、あと少しで最下位に転落しそうなものほどその効果は顕著に表れて、たいへん支配しやすくなるのだとか。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

うわ、Mさんすげえ。
小3にして支配術を使いこなしていたなんて(使いこなしていた証拠に、ぼくは完全に支配されていた)。

魔性の女どころの話ではない。
天地を統べる逸材だ。