2015年9月30日水曜日

【エッセイ】うまかったよ、大将!

 外食をして、これは!と思う味に出逢ったときには、なるべく料理人に対して賞賛の言葉をかけるようにはしている。
「おいしかったです」と。
 だって自分が料理人だったら云われたいから。

 なのだが。
 なのだが。
 これがすこぶる難しい。
 以前、定食屋で食事をした後、店の主人に
「ごちそうさま。おいしかったです」と云ってから店を出た。
 押しつけがましくないように、かつ真心が伝わるように、微笑をたたえながら。
 ところが店を出たあと。
 一緒にいた同僚から「そんなに嫌そうに云うぐらいなら云わなきゃいいのに」と指摘された。
「えっ。嫌そうに聞こえた?」
「うん。なんか云わされてるって感じだった。
 いじめ問題が発覚したときの校長の謝罪会見ぐらい気持ちがこもってなかった」
「そんなに嫌そうだった!?」
 なんてこった。
 自分の中では梅雨明けの空に一陣の西風が吹きぬけたかと思うぐらいさわやかに言ったつもりだったのに。

 ごきげんな振る舞いで
「ごっそさん! 大将、うまかったよ!」
 たったこれだけのことなのにどうにもうまく云えない。
 ナプキンで口まわりのソースを拭いながらウェイターに
「たいへんいい味だった。
 シェフに挨拶したいから呼んできてくれないか」
と伝えられればいいのだが、そういう気どったことをしていいのは年収2000万円以上の人だけだと、たしか小学校の道徳の教科書に書いてあったはず。
 海原雄山ばりにキレて
「この料理をつくった者は誰だ!」
と怒鳴っておいてから、
 びくびくしながら現れた料理人に
「いやあ、うまかったよ」
とにっこり微笑むという『緊張と緩和効果で褒められた喜び倍増計画』も考えたのだが、多大なる胆力を要求される上に逆に怒られそうな気がするのでいまだ実行には移せていない。

 クッキングパパの登場人物みたいに、料理を口に入れた途端によだれと自尊心を垂れ落としながら
「うまかー!」
と叫べたらどんなにいいだろう。
 あれだけバカみたいな顔をしてうまさを表現できたなら、きっと作った人もクッキングパパみたいにしゃくれながら喜んでくれるにちがいない。

 だがしかし。
 球技大会でクラスの女子が応援にきてるときのサッカー部に負けず劣らず自意識ビンビンのぼくとしては、やはり恥ずかしい。
 がんばって「おいしかったです」と云うようにしているのだが、いつも照れくさくてボソボソ云ってしまうので相手にきちんと伝わっているかわからない。
 もしかしたら相手は
「今の客、帰り際にぶつぶつ言ってたな。文句があるならはっきり言えばいいのに」
と思っているかもしれない。
 これでは逆効果だ。

 そうだ。
 口に出して云うから恥ずかしいのだ。
 幸いにも日本には「背中で語る」というすばらしい文化がある。
 うまいとか愛しているとかは言葉で表すものではなく、態度で伝えるものなのだ。
 島国根性ばんざい!

 というわけで、うまいものに出逢ったときはとにかくたくさん注文する、という戦略を取り入れることにした。
 身の丈を超えて大量に食っていれば、きっとぼくが感じた「うまい!」という感情も感謝の気持ちも伝わるはず!


 ……といういきさつを経て、
食いすぎでトイレで吐いたのが昨夜のこと。
 絶品の海鮮あんかけ焼きそばを作ってくれたご主人。
 トイレから出たぼくに優しく「大丈夫ですか」と声をかけてくれたご主人。
 ぼくの「うまかったよ!」のこの思い、ゲロの匂いとともに無事に届きましたでしょうか。

2015年9月29日火曜日

【思いつき】主婦界の三猿

見ざる、言わざる、着飾る。
(値段を見ずに、夫に報告せずに、高い洋服を買う主婦を表す言葉)

2015年9月28日月曜日

【エッセイ】ガンマンの生まれかわり

後輩が『トイ・ストーリー』を観てみたいと言っていたので、DVDを貸してあげようと手渡した。

ジャケットを見た後輩、
「わっ、トイ・ストーリーだ!」

 「返すのはいつでもいいよ」

「これ、中身入ってます?」

 「入ってるよ」

「でもどうせ中身がぜんぜんちがうDVDなんでしょ?」

 「なんでだよ」

「あれっ、ほんとにトイ・ストーリーだ。あーわかった。どうせディスクが傷だらけで再生できないんでしょ」

と、ディスクを裏返してまじまじと傷チェックをされた。


どんだけ信用ないんだ。

え? なんで?
親切心でしてあげたことでどうしてこんなにぼくが傷つかなきゃならないの?

前世のぼくが、決闘の相手を背後から撃ち抜く卑怯なガンマンだったとか?

2015年9月27日日曜日

【エッセイ】嘘のマネジメントについて


 最近、自分のついた嘘が覚えられない。

 誕生日はいつですかとか、身長はいくつですかとか、好きなタレントはとか訊かれると、あたしは咄嗟に嘘をついてしまう。
「尊敬する人は女医の西川史子さんです」
なんてありえない答えを云ってしまう。

 なぜだかわからないけど、自分のパーソナルデータを正直に申告するのが気恥ずかしい。
 だから徳島県出身ですとか福祉系の大学に行ってましたとかのどうでもいい嘘をつく。
 あまりにどうでもいい嘘なので、ついたあたしですらすぐに忘れてしまう。
 それでも世の中には気持ち悪いほど記憶力のいい人がいて昔の細かい嘘を執念く覚えていたりするから困ってしまう。

 ついた嘘をきちんと覚えていればいいんだけど、物覚えが悪くなってきているので細かい嘘をいつまでも覚えていられない。
 これはよくない。
 こんなことを続けていれば、いつか嘘がばれてあたしの信用が失われちゃう。

 そこであたしは対策を講じた。
 いつ誰に対してどんな嘘をついたのかを手帳に記録するようにしたのだ。
「9/19 三浦さんに『バツイチ。原因は夫の浪費癖』と嘘」といった具合に。

 これでしばらくはうまく嘘を把握できていたのだが、嘘の量が増えてくるにつれ、手帳のメモだけではシステマティックに管理するのが難しくなってきた。

というわけで誰か、嘘を管理するアプリ知らない?

2015年9月26日土曜日

【エッセイ】盛っちゃえ睡眠薬


同僚のSさんが、睡眠薬を盛ったらしい。

すごい。
「睡眠薬を盛る」なんて、「魔法をかける」とか「夢をかなえる」と同じくらい現実味のない響きの言葉だと思っていた。
実際にやってしまうなんて。すごい。

「睡眠薬を盛ったことありますよ」とこともなげに語る同僚がなんだかまぶしく見える。現実という檻をひょいと飛び越えたみたいに、足どりも軽やかだ。夢をかなえた人ってこんな感じなんだろうか。

しかしSさんは理知的で落ちついている人だ。とても睡眠薬を盛ってしまうような人には思えない。

「誰に盛ったんですか!?」

 「息子です」

「ええっ! それはやはり親子間の骨肉の争いというか……」

 「はっはっ。そんなんじゃないですよ。だって息子はまだ九歳ですからね」

「いったいどういうことですか。九歳の息子さんに睡眠薬なんて……」

彼が語ってくれたのはこういう理由だった。
寝つきが悪くて仕事中に眠くなってしまうので病院に行くと睡眠薬を処方された。
睡眠薬を飲んだことがなかったので、これが睡眠薬かとしげしげと見ているうちに疑問がわいてきた。
飲んだ後にどんな様子になるのか。何分くらいで眠りに就くのか。服用後に眠くなったとしても、それは薬効ではなくひょっとしたら「睡眠薬を飲んだ」という思いこみのせいで眠くなるというプラシーボ効果もあるのではないか。
もともと理系の人なので、実験をしてみないとわからない、それも事情を知らない被験者を選ぶ必要がある、と思いたった。

「それで息子さんを選んだわけですか……」

 「そうです。しかし実験は失敗しました」

「なぜですか」

 「お茶に混ぜて飲ませたのですが、吐きだしてしまったのです。『パパ、このお茶 苦い!』と言って」

「鋭いですね。本能的に察したのでしょうかね」

 「いや、これはわたしも知らなかったことなのですが、製薬時にわざと苦い味をつけているようなのです。おそらく悪用されないためでしょうね。わたしのようにこっそり誰かに飲ませようとする人がいてはいけませんから」

「そうですか……」

 「まあそれがわかっただけでも発見です。求めていたデータはとれませんでしたが、実験をやった甲斐があったといえるでしょう」

「しかし怖いですね。子どもに睡眠薬を飲ませるなんて……」

 「あ、もちろん危険がないように与える量は減らしましたよ。体重から算出したので心配はないです」

「いや、わたしが怖いのはそういうことではなく、もっと道義的なことなんですけどね……」

2015年9月25日金曜日

【エッセイ】2歳児ジャパン

2歳の娘が、サッカー日本代表の本田圭佑がリフティングをするOLYMPUSのCMを観て
「じょうずー!」と手を叩いていた。

本田くん、君、上手なんだってよ!

2015年9月24日木曜日

【コント】世界の半分を君に

「はっはっは。よくぞここまでたどりついたな勇者よ。おまえの力はなかなかのものだ。殺すには惜しい。どうだ、わたしの手下にならぬか? 世界の四分の一をおまえにやろうじゃないか」

 「四分の一だと? ふざけるな魔王! ぼくらがこれまでどれだけの犠牲を払ってここまでたどりついたと思っているのだ!」

「というと……?」

 「四分の一では割に合わないと言っているのだ!」

「なるほど正直なやつだ。では三分の一でどうだ?」

 「こちらとしてはそれは呑めない条件だ。これまでのコストを考えると、70パーセントはもらわないと利益が出ない」

「70パーだと! そんな法外な」

 「こちらとしてはおまえを倒してすべてをもらってもいいのだぞ」

「そこまで言うのならこちらとしても考えがある。じつは、べつの勇者グループにも見積もりをとったのだが、そこは55パーセントでやるといっている。そちらにお願いして、共同事業でおまえらを倒すとしよう」

 「なにっ。待て待て待て。ほかにも勇者がいるなんて聞いてないぞ」

「相見積もりをとるのはビジネスの基本だ」

 「……わかった。しかたがない。50パーセントずつ折半しようじゃないか」

「たしかにそのへんが妥当だろうな。今後の付き合いもあるから、ここで無理にごねて遺恨を残したくはない。よし、50パーセントで手を打とう」

 「だが問題はどう世界を半分に分けるかだ」

「それはもちろん、この魔王の城がある北半球をわたしがもらい、おまえたち勇者グループは南半球を統治するのだ」

 「ふざけるな! こちらのほうが圧倒的に不利じゃないか! 世界の主要な都市のほとんどは北半球にあるのだぞ」

「しかし南半球にもエアーズロックとかマチュピチュとか、けっこう有名な観光スポットがあるが……」

 「ぼくらは観光のためにここまで戦ってきたんじゃないぞ! ビジネスのためだ!」

「しかしわたしはこの城を離れたくないし……」

 「じゃあこうしよう。この城のあるユーラシア大陸はおまえが統治するがいい。ぼくらは南北アメリカ大陸とアフリカ大陸をもらう」

「それだと逆に当方が不利じゃないか?」

 「ではオーストラリア、南極大陸と他の島々をおまえにやろう」

「……まあそれなら良いか。中国、ロシア、インドなどの今後の経済成長が見込める国々も手に入るしな」

 「あとは細かい話になって恐縮なのだけど、契約書を作るにあたって収入印紙はどちらが負担するのかとか、形としては贈与にあたるので贈与税をどうするのかとか、そのあたりも決めないといけないな」

「それならわたしどものほうにいい司法書士や税理士の先生がいらっしゃるので、相談してみよう。どうすればいちばん税金を抑えられるか聞いてみよう」

 「そうしていただけると助かるぞ魔王!」

2015年9月23日水曜日

【エッセイ】ハートフルエッセイ ~子どもの手なずけかた~

 数少ないぼくの特技のひとつに “子どもを手なずけるのがうまい” というのがある。
「子どもと遊ぶのがうまいね」とよく云われる。
 そんなぼくが数多くの子どもと遊んできた経験から導きだしたテクニックのひとつが、
「おしりをさわらせたらもうこっちのもの」
というものだ。
 これは金言として居酒屋のトイレに貼っといてもいい。

 子どもがぼくのおしりをさわったら、おおげさに嫌がる。「きゃっ、やめてやめて!」と叫ぶ。
 これで子どもはイチコロだ。
 けたけたけたと笑い、もっと困らせようとぼくのおしりをさわろうとしてくる。
 あとは両手でおしりを押さえながら「やめてやめて!」と逃げればいい。猫じゃらしを振られたネコのように、子どもは逃げまどうおしりを追いかけずにはいられない。
 その後は走って逃げたり、ときどきわざと捕まったり、逆襲して子どものおしりを軽くたたいたりすればいい。
 あっというまに子どものテンションはマックスまで上がる。子どもの数が多ければ多いほど興奮の度合いは高まる。


 さて、誰しも気になる問題は “それはわかったけど、じゃあまずどうやって子どもにおしりをさわらせるの?” だろう。
 これはなかなかむずかしい。
 ぼくほどの達人になると、相手の年齢、性別、性格、ごきげんその他あらゆる状況を解析して、四十八ある技のいずれかを瞬時にくりだして、おしりをさわらせる。

 四十八の技をここで紹介してもよいのだが、それでは諸君のためにならない。
 他人から教わったおしりさわられ術で子どもを手なずけようなど、虫がよすぎる。ぜひ各人、日々鍛練して、己のおしりさわられ道を究めていただきたい。
 さすれば君たちのおしりは自然と魅力を増し、子どもばかりか大人ですらふれられずにはいられないほどのフェロモンを漂わせはじめることであろう。
 ぼくほどの達人になるとそういったおしりがすぐわかる。フェロモンを出しているおしりが光輝いて見え、「さわってよ」というおしりの声が聞こえてくる……。

 と、ここまで書いたところで読みかえしてみたのだが、子どもとのふれあいについて説明するハートフルエッセイだったはずなのに、いつのまにかベテラン痴漢の独白みたいになってきたので、このへんで筆を置く。

2015年9月22日火曜日

【ふまじめな考察】ナンパをできるやつは喪主もできる

『ナンパをできるやつは葬式の喪主もできる』
 これはぼくの座右の銘である。

 ぼくはナンパをしたことがない。
 だからナンパのできる人には素直にあこがれる。
 ナンパをする男は、どうして見知らぬ女性(それも美しい女性)に声をかけられるのだろうか。不思議でしょうがない。
 ぼくなんて、知り合いであっても美しい女性と話すのは苦手だ。
 美しい女性を前にすると、緊張して思っていることの1パーセントも伝えられない(もっともぼくが考えていることの100パーセントを伝えたとしたらまちがいなく変態呼ばわりされるだろうから、伝えられなくてむしろラッキーだ)。
 ところがナンパ屋さんたちは、見知らぬ女性に声をかけるだけでなく、その話術と情熱をもって相手と仲良くなってしまったりするらしい。
『プロジェクトX』級のビッグプロジェクトだ。

 できたら楽しいだろうなあ、ナンパ。
 べつにかわいい女の子とどうこうなりたいからナンパをしたいわけではない。
 ……。
 いや、本当はもちろんどうこうなりたいんだけど。
 ……。
 あー。
 どうこうなりたーい!

 いかんいかん、思考100パーセントのうちの2パーセント目が出てしまった。話を戻そう。
 ナンパの成果云々は別にして、「見知らぬ人に気安く声をかける」という行為自体にあこがれる。
 かわいい女の子でなくてもいい。居酒屋で隣に座った小太りのおっさんでもいい。
 小太りのおっさんに
「Hey, そこの彼、どっから来たの? ひとり?」
と話しかけられたらどんなにいいだらう。
 きっとその先に待ち受けるのは夢のように楽しい時間だ。
 だけど。
 無駄に自意識だけが高いぼくは、恥をかくことをおそれるあまり、その一歩を踏み出すことができない。
 ナンパした相手に無視されたり、
「はぁ? マジキモイんですけど」
と云われたら、二度と立ち直れない。
 自らを否定されたショックでゲロ的なものを吐いてしまうかもしれない。

 しかし。
 そのプレッシャーに立ち向かい、克服したものだけが、皆から「ナンパ師」という称号で呼ばれることができるのだ。
 ナンパ経験のあるお方と未経験のチキン野郎では、持っている力がちがう。
 普段その違いは目に見えない。
 一生に一度あるかないかの大舞台が突然やってきたとき。そのときナンパ力の有無が決定的な差となってあらわれる。
「突然やってくる一生に一度あるかないかの大舞台」とは何か。
 それが“喪主”である。

 それはある日突然やってくる。
 はじめてだからといってリハーサルはさせてもらえない。失敗したからといってやり直しは許されない。
 まさに一世一代の大勝負だ。

 葬式という舞台における主役が死体なら、喪主は監督であり総合演出であり脚本家だ。
 喪主がいなくてはどんなに立派な死体もただの遺棄死体。葬儀において、死体を活かすも殺すも喪主の腕にかかっているわけだ。死んでるけど。

 ぼくの父親はまだピンピンしていて週3でゴルフに行ったりしているが(どう考えても行きすぎだ)、人生というやつはわからないものだから、明日死んでしまうかもしれない。
 そのとき、長男であるぼくは立派に喪主を務めあげることができるだろうか。
 まったくもって自信がない。
 見ず知らずの参列者たちとうまく挨拶できる気がしない。へらへらしてしまいそうだ。
 喪主挨拶で緊張して「本日はお日柄も良く……」とか云ってしまいそうだ。
 なぜぼくには喪主が務まらないのか。
 それはナンパをしたことがないからだ。

 見知らぬ相手と落ち着いて会話をおこなう社交性。
 つらくても常に己を保つ強い精神力。
 本心を押し殺して確実にことを運ぶ冷静さ。
 一方でときには感情を表に出す素直さ。
 どれもが、ナンパと喪主の双方に必要なものである。
 ナンパという修羅場をいくつもくぐってきた百戦錬磨の兵士に、葬式の喪主が務まらないはずがないのだ。
『ナンパができるやつは喪主もできる』
 自信を持って提唱しよう。


 葬儀だけではない。
 たとえば異星人とのファーストコンタクトにおいても、ナンパの経験は成否の鍵を握っている。
 西の空に強い光が差し、あたりが真昼のように明るくなった。
 空から、30億人は乗れるかという巨大な船がゆっくりと降りてきた。それほど大きな宇宙船が地上に降りたったというのに、あたりは怖いくらいに静かだった。それが彼らの科学力の高さを示していた。
 地球人たちが集まり、誰もが固唾を飲んで宇宙船を見つめている。
 やがて。
 船の中からそれは姿を現した。
 誰もがはじめて見る地球外生物。さすがは宇宙人。頭に三本のツノを生やしているぞ。あれは地球のものではないな。地球人であんな頭をしているやつは、スネ夫をのぞけばひとりもいないからな。
 まだ彼が敵なのか味方なのかわからない。どうやってコミュニケーションをとっていいのかもわからない。
 
 あっ。

 ひとりの地球人が宇宙人に近づいてゆくぞ。
 誰だあいつは。
 雑誌で見たことあるぞ。たしか『LEON』とかいう雑誌で。
 そうだ、あいつはジローラモだ!

 さすが八年連続でナンパ・イタリア代表に選ばれただけのことはある(選考委員はぼく)、あっという間に宇宙人を口説きにかかっちまった。
 なんてナンパな野郎だ。見てみろよ、もう打ち解けちまった。スネ夫型宇宙人と熱い抱擁を交わしている。
 まちがいない、ナンパができるやつは宇宙人とだって仲良くなれるんだ。
 ナンパは数万光年の距離だって軽々と超えるんだ!

 ジローラモを皮切りに、次々に世界中のナンパ師たちが宇宙人と仲良くなってゆく(説明するまでもないが、宇宙人はたくさんの人と同時に会話する技術を持っている)。
 ぼくだって異星間交流を深めたい。宇宙人に向かって「その頭、地球の漫画に出てくる人と同じでかっこいいですね」と言ってあげたい。
 だけどナンパをしたことのないぼくは、宇宙人に声をかけることができない。
 どんなタイミングで話しかければいいのか。なんて言葉をかければいいのか。気味悪がられるんじゃないだろうか。高い知性を持った宇宙人にばかにされるんじゃないだろうか。
 フォアグラのように肥大しきった自意識に邪魔されて、ぼくは話しかけることさえできない。

 いつまでも逡巡しているぼくを後目に、スネ夫型宇宙人は仲良くなった地球人たちに呼びかける。
「おおい親愛なる地球人たち。
 立ち話もなんだからさ、うちの星に寄っていかない? うちの星でSVD(スペース・ヴィジュアル・ディスク)でも観ない?
 うちの星は地球とちがって、差別もないし、貧困もないし、戦争もないし、おまけに肉ばなれもないんだよ。うちに来たらいいじゃん」

 さすがは単独で地球にやってくる宇宙人、なんてナンパがうまいんだ。
 ぼくも行ってみたい。戦争と肉ばなれのない世界へ。
 人類のおよそ半分がすでに宇宙人と仲良くなったころ、ようやくぼくも決意を固めた。
 一世一代の勇気をふりしぼってスネ夫型宇宙人に話しかける。
 あのう。ぼくも連れていってもらえませんか。あなたの星へ。
 だが、スネ夫型宇宙人はその三本のツノをかきあげ、スネ夫特有のイヤミな口調でぼくに云う。
「悪いなのび太、この宇宙船30億人乗りなんだ」

 なんと。
 ぼくの前の人がちょうど30億人目だったのだ。
 もっと早くに声をかけていれば!
 日頃からナンパのトレーニングを積んでさえいれば!

 そして宇宙船は、地球上のすべての「ナンパのできるやつ」を乗せてゆっくりと地上から飛び立っていく。
 残されたぼくたちはショックのあまりゲロ的なものを吐きながら、去りゆく宇宙船を呆然と眺めるばかりだ。

 選ばれなかった絶望感はでかい。
 こんなつらい思いを抱えて、とても生きていける気がしない。かといって死ぬわけにもいかない。だって喪主をできるやつらは全員宇宙人に連れていかれちゃったんだもの。死んでも葬式もあげてもらえない!
 ぼくたちの悲痛な叫び声は銀河の彼方には届かない。

 だが、次第に気持ちも落ち着いてきた。
 いつまでも落ち込んでいてもしょうがない。
 そうだ。ナンパのできる30億人は連れていかれてしまったが、まだ地球には約40億人もいるじゃないか。
 このナンパのできない40億人でこれから仲良くやっていこうじゃないか!

 とは思うのだが、ナンパのできないぼくたちはやっぱり互いに声をかけることができず、地球上にはただ気まずい沈黙だけが漂っているのであった。

2015年9月21日月曜日

【思いつき】教えておばあさん

「ねえおばあさん、おばあさんの自尊心はどうしてそんなに大きいの」

「それはね赤ずきん、幼いうちから『あなたはできる子』と育てられたから、自分にできないことを受け入れたくないがために、失敗をおそれるあまりはじめから難しいことには挑戦しようとせずに困難から逃げ回りつづけてきた結果、根拠を伴わない自信だけが肥大化していったのよ」

「まあなんて正確な自己分析!」

【読書感想】 真保 裕一 『奇跡の人』

真保 裕一 『奇跡の人』

「BOOK」データベースより
31歳の相馬克己は、交通事故で一度は脳死判定をされかかりながら命をとりとめ、他の入院患者から「奇跡の人」と呼ばれている。しかし彼は事故以前の記憶を全く失っていた。8年間のリハビリ生活を終えて退院し、亡き母の残した家にひとり帰った克己は、消えた過去を探す旅へと出る。そこで待ち受けていたのは残酷な事実だったのだが…。静かな感動を生む「自分探し」ミステリー。

 いっとき「自分探し」という言葉が流行った。有名サッカー選手が「自分探し」を引退の理由に挙げたりしていたが、最近は堂々と口にするのが恥ずかしい言葉になった。たぶん。
 いい歳して自分探しなんて恥ずかしいとか、自分を探すのに縁もゆかりもないインドに行ってどうすんだよ、とかのつっこみを受けて、ダサい言葉として認識されるようになった、ってのが最近の潮流だ。

 しかし自分探しをしたくなる気持ちはわかる。
 ぼくは中国で一ヶ月ほど暮らしたことがあるが、そのときなぜか女にすごくもてた。日本では彼女もいなくて童貞だったのに、中国では二人の女性からあからさまに好意を示され、他の女性からも「あなたはすてきな人だ」と言われた。
「ひょっとすると本来のぼくの居場所はここなのかもしれない。これがぼくの本当の姿なのでは……?」と思ったものだ。
 小学生のころは「もしかするとぼくは養子で、ある日大富豪の両親が迎えに来てくれて……」と妄想した。
「ここじゃないどこかに今よりすばらしい自分がいるはず」と思うという点で、これもまた自分探しだ。
 自分が変わる努力はしなくても環境だけが劇的に好転するなら、こんなにいいことはない。ぼくは買ってもいない宝くじに当たりたい。自分が『みにくいアヒルの子』であってほしい。
 だから引退の理由に自分探しを挙げてしまう中田英寿を誰も責められない(あっ名前書いてしもた)。


 というわけで、自分探しは人間の本分だ。
 で、『奇跡の人』である。事故で過去の記憶をなくした主人公が、過去の自分を探す物語である。
 周囲からは「今の君は生まれ変わったんだ。昔は関係ないじゃないか」と云われる。読者も、読みすすめているうちに「あーこれ知ろうとしないほうがいいやつだわ。やめときゃいいのに」と思う。好ましくない過去が出てきそうな予感がする。
 しかし立ち止まれない。ふつうの人でも自分を探してしまうのだ。過去の記憶がなければ、その空白の期間にすばらしい自分を探してしまうのは避けられない。
 かくして、次第に自分探しにとりつかれた主人公はずぶずぶと深みにはまり、現在持っているものまで失ってゆく……。


 という、たいへんおそろしい物語。梗概に「静かな感動を生む」なんて書いてあるからハートウォーミングな話かと思っていたらとんでもない。

 自分なんて探すことなかれ。
 宝くじがめったに当たらないように、より良い自分より悪い自分が出てくる可能性のほうがずっと高いんだから。

2015年9月19日土曜日

【エッセイ】さらばおれらの時代

高校野球を観ていると

最近の高校生はみんなうまいなー。
おれらのときよりレベルが高くなったよなー。
おれらのときよりずっと科学的で効率のいい練習をしてるんだろうなー。
って思うんだけど、

よく考えたらおれ野球部じゃなかったわ、ってことない?
おれは毎年思うんだけど。

2015年9月18日金曜日

【エッセイ】ぶどうの学校

知り合いが、ぶどうの学校に通っているという。

「ぶどうの学校……。そんなのがあるんですか」

 「そうなんですよ」

「ほんとですか」

 「ほんとにあるんですよ」

「あっ。“武道”の専門学校ですね」

 「いえ、“葡萄”のです。食べるほうの」

「ほんとですか」

 「ほんとにあるんです」

「……。あっ、わかった。ワイン作りを教えるんですね」

 「いえ、ワイン用とはべつの品種です。学校でやるのは食べる用です」

「ほんとですか」

 「ほんとですってば」

「ぶどうを育てるんですか」

 「そうです。育て方を教えてくれるんです」

「……。ああ、農業高校みたいなのですか。それの果樹コースとか」

 「そこまでじゃないです。ぶどうを育ててみるだけです。他の果樹や野菜はやってません」

「ほんとですか」

 「ほんとなんですって」

「なぜまたぶどうを」

 「生徒を募集してたんで。ぶどう嫌いじゃないですし」

「そんな理由ですか」

 「そんなもんですよ。わたし、以前ダンスを習ったこととありますけど、そのときもなんとなく楽しそうだったからっていう程度の動機でした」

「いや、ダンスはわかるんですけど。気楽にはじめてもいいと思います。でもぶどうの学校は……」

 「ぶどうも同じでしょう」

「ぶどう狩りでいいじゃないですか。わざわざ学校で習わなくても」

 「収穫だけじゃなくて栽培もしてみたかったんです。ちゃんとした先生に教わって」

「ぶどうだけをですか……。
 ああ、わかった。ご実家がぶどう農家なんでしょう! そしてあとを継ぐ予定なんですね。だからぶどう栽培について学ぼうと思った。なるほど、それなら理解できる!」

 「いえ、実家はサラリーマン家庭です。親戚にぶどうを育てている人はひとりもいません」

「だめだ……。ぼくの理解の範囲を超えている……!」

2015年9月17日木曜日

【考察】若者よ、手を抜け。あと生き馬の眼も。

他人に優しくできる人は、余裕がある人よね。
精神的に余裕がないときには、周りを助けたりできないもの。

心に余裕があるのは、一生懸命じゃないから。
いつも全力の人は周りに気を配れない。


100パーセントの力でがんばれとか。
常に本気でやれとか。
あたしは周りに迷惑をかけたくないから、そんなことしちゃだめだと思ってる。
一生懸命がんばっていた時期があたしにもあったけど、あの頃は周りに優しくできなかった。

だいたいどの世界でもトップランナーは周囲から嫌われているけど、あれは余力がないからなんだろね。

ラブ・イズ・手抜き。

2015年9月16日水曜日

【エッセイ】女性用マスクの快感

 風邪をひいてマスクをしていると、サイズがあっていないと指摘された。
 マスク大きすぎですよ、と。
 鼻の横にスキマあいてますよ、と。

 翌日ドラッグストアへ行って「小さめ。女性用」と書かれたマスクを買ってきた。
 さっそく装着してみる。
 女性用のマスクを身につける、という行為はちょっと変態みたいでどきどきする。でも嫌いじゃないぜ。

 ぴったり。ジャストサイズだ。
 マスクってこんなにも顔にフィットするものだったのか。
 なんてことだ。
 花粉症を発症してから10年あまり、通算で1,000日はマスクをかけつづけてきたが、ずっと大きめのものをかけていた。
 1,000日間ずっとぼくの鼻の横にはスキマがあいていた。
 だけどそれを疑問に思ったことはなかった。
 その間ずっと花粉やウイルスがスキマから入り放題だったにもかかわらず、
「マスクしてるのにあんまり効果ないなあ」
と鼻水をたらしたアホみたいな顔で首をかしげていた。
 いってみれば、車に鍵をかけながら運転席の窓を全開にしていたわけだ。
 それで「最近車内のものがなくなるなあ」と首をひねっていたわけだから、我ながら相当なおばかさんだ。

 二次元の布で三次元の顔をスキマなく覆うことはできないものだと思ってあきらめていた。
 高い壁に直面したとき、乗り越える方法を探すよりも、乗り越えられない言い訳を探してしまう。
 いつからだろう、そんな大人になってしまったのは。

 なんてちっぽけな人間なんだ、ぼくは。
「小さめサイズ」がお似合いの人間だ。
 自分を過大評価して「普通サイズ」をかけていた自分が恥ずかしい。
 小さめの穴があったら入りたい。

2015年9月15日火曜日

【写真エッセイ】有用の長物


大阪市内で発見した、謎の建造物。

ついにトマソン(参照リンク)を発見した! と色めきたって写真を撮ったのだが、よくよく見るとこれはトマソン(無用建造物)ではないような。
こいつには意図を感じる。誰かがなんらかの目的を持って、わざわざ設置したような。

思ったのは、バリアフリーのためのスロープではないかってこと。
でもどう見たって車椅子でここを通行できるとは思えない。落下一直線だ。
作りかけなのかな? 2025年完成予定なのかな?
でもすでにビルの敷地からはみ出てるしな。
このまま延長していったら、スロープが地面に着くころには道路を越えて、向かいのビルに達するだろうな。

スキーのジャンプ台みたいにも見えるな。
でもそのわりには傾斜が小さいからな。
これじゃあK点は越えられないよな。

台の部分に注目してたけど、よく見たら中が空洞になってるな。
あんまり強度はなさそうだ。
これは上になにかを乗せるためのものじゃないのかも。

そうか、あれか。ガリバートンネル。ドラえもんのあれ。ちっちゃくなるやつ。

ここをくぐってちっちゃくなって中に入れば、ごくふつうのビルが巨大建造物に!
狭いスペースを広く使える、未来都市にぴったりのすばらしいアイデアだ!

ただ失敗しているところがただひとつ。
ガリバートンネルの隣に、通常の階段を設けていること。
これだと、階段を通って、ちっちゃくならずに入ってきた人に踏みつぶされちゃうよ!

2015年9月14日月曜日

【読書感想】 貴志 祐介『青の炎』


貴志 祐介『青の炎』

内容(「BOOK」データベースより)
櫛森秀一は、湘南の高校に通う十七歳。女手一つで家計を担う母と素直で明るい妹との三人暮らし。その平和な家庭の一家団欒を踏みに じる闖入者が現れた。母が十年前、再婚しすぐに別れた男、曾根だった。曾根は秀一の家に居座って傍若無人に振る舞い、母の体のみならず妹にまで手を出そう としていた。警察も法律も家族の幸せを取り返してはくれないことを知った秀一は決意する。自らの手で曾根を葬り去ることを…。完全犯罪に挑む少年の孤独な 戦い。その哀切な心象風景を精妙な筆致で描き上げた、日本ミステリー史に残る感動の名作。

 殺人犯の立場から書かれた小説は、そう珍しくない。ミステリの世界には“倒叙もの”というジャンルがあるぐらいだ。
 ただそのほとんどにおいて、殺人犯は読者の共感は集めない。あくまで主役は探偵役であり、殺人犯は(多少の同情の余地こそあれ)許すまじ非道な人物だ。
 善良な市民である多くの読者は悪がのさばることを望んでいない。ピカレスクもののストーリーが支持を集めることは難しい。

 その難関に挑戦して、見事成功したのが『青の炎』だ。
 悪と戦うために自ら悪事に手を染める秀一は、殺人者でありながら、まぎれもないヒーローだ。

 ぼくは殺人を犯したことはない(まだ)。
 実刑を食らうような罪も犯したことはない(つもりだ)。
 なのにというか、だからというか、犯罪者として警察に追われる夢をよく見る。すごく怖い夢だ。追われつづけるのは自分が死ぬよりも怖い。もちろん夢だからすぐに覚めて、ああ夢か、よかったとため息をつく。
 その安堵のない日々が続いたらと思うと。
 いっそ捕まったほうが楽だとも思うし、でもやっぱり捕まるのもおそろしくてたまらない。

 逃げ場のない恐怖。それを嫌というほど味わえる小説。
 現実では味わいたくない感情を味わえる。小説の魅力をめいっぱい感じさせてくれる名作だ。



2015年9月13日日曜日

【ふまじめな考察】よく見たら収納もない

とあるミステリ。
人里離れた館に閉じこめられてそこで殺人事件が起こる、というよくあるやつ。
どうやって犯人は誰にも気づかれずに殺人現場まで移動したのか、という話になって館の間取り図が出てきた。

あれっ。

ないっ……!

風呂がどこにもない……!

どういうことだ。
21世紀にもなって風呂なしの家なのか。
年老いた大富豪が晩年を過ごすために建てた館なのに。
まさか銭湯まで通ってるのか、大富豪。
人里離れた館なのに、歩いていける距離に銭湯があるのか。
だとしたら、犯人はこの中にいるとはいえないんじゃないか。風呂屋のおやじも容疑者のひとりなんじゃないか。

大富豪は大の風呂嫌いで、見るのもいやだから館に風呂をつけさせなかったのだろうか。
そうにちがいない。
そんな館に人を招くなよと言いたくなるが。


待てよ……。
間取り図をよく見ると、ないのは風呂だけじゃない!
トイレもないっ……!

そんなはずはない。風呂はともかく、トイレのない館なんてありえない。

図面には書いてない2階があるのだろうか。トイレは2階にだけあるのか。
しかし年老いた大富豪だぞ。
歳をとるとおしっこは近くなるし、そのたびに階段を昇り降りするのはたいへんだ。

そうか。
離れがあるのか。
たしかに、古い日本の家だとそういう造りになっていることもある。便所が離れにあって、庭に出ないと行けないようになっている造りの家。
館というからてっきり洋館かと思っていたが、まさか古い日本家屋だったとは。
謎はすべて解けた!

いやいやいや。
そうなるとまたべつの疑問が。
昨夜は、この館に人の出入りはなかったはずだ。そのことはお手伝いさんが証言している。セキュリティシステムがはたらいているので誰かが出入りしたらわかるはずだと(だから風呂屋のおやじは犯人ではない)。
そして、朝早くに大富豪の死体が発見され、居間に全員集められた。

と、いうことは。

ここにいる全員、昨夜から朝にかけて誰もトイレに行っていないということになる。
全員に「トイレには行けなかった」というアリバイがあるのだ。
どうなってるんだ。平気なのか。
昨夜はごちそうがふるまわれていたぞ。ワインで乾杯もしていた。一晩トイレに行けなかったら、相当尿意もたまっているんじゃないか。風呂がないから風呂場で用を足すわけにもいかないし。

みんな我慢しているのか。
殺人犯におびえている女も、冗談じゃないと怒っているおじさんも、冷静に推理をしている探偵も、そしてばれないだろうかとひやひやしているであろう真犯人も、みんなおしっこを我慢しているというのか。

しかしそうは見えない。
みんな、いたって落ち着いている。
ひとりずつ昨夜の行動を確認している場合じゃないだろう。「おれは部屋に戻る!」とか言う前に、まずはトイレだろう。
なぜ誰も「ちょっとトイレ」の一言を言わないんだ?

まさか、この館の人間は、誰もおしっこを我慢していないのか……?

ということは、なんらかの方法で既に排尿を済ませたことになる。
彼らはいったいどんなトリックを使っておしっこをしたのか……。
謎は深まるばかりだ。

2015年9月12日土曜日

【エッセイ】弁当道


 合気道や茶道が究めるべき道であるように、お弁当もまた人がその人生を賭けて探求する「道」である。

 お弁当作りは単なる家事ではない。
 己自身と真摯に向き合い、胸に去来する種々の感情を食材とともに「これっくらいの、おべんとばこ」に詰めたもの、それがお弁当だ。
 まさしく「弁当道」と呼ぶにふさわしい。

 手作りのお弁当には作り手の人間性が表れる。
 だから、もし妻に
「あなたの作るお弁当は泥みたいで汚い」
と云われた夫がいるとしたら、その男はまちがいなく泥のように汚い性根の人間だ。

 そう、ぼくのことである。

 我が家は共働きなので、ぼくもたまには弁当をつくる。
 飽きないようにメニューを変えているし、それなりに栄養のことを考えて作っているつもりだ。
 だが妻に云わせると
「泥みたい」
なのだそうだ。
「弁当箱の蓋をあけるたびに、スコールが降った後の砂利道かと見まちがえる」
のだという。
「こんな悪路、ジープでも走れないわ」
なのだそうだ。

 ここまで云われては、一家の副あるじであり、サブ大黒柱であるぼくとしては黙っていられない。

「ごめんなさい。気をつけます」
 妻に逆らって得をすることなどひとつもない。

 たしかにぼくの作るお弁当は、彩りが悪い。
 味付けはたいてい醤油、気分を変えて味噌、中華風にしたければオイスターソースを使う。
 いずれにせよ茶色くなる。
 プチトマトやパセリを入れれば色鮮やかになるだろう。
 だけどぼくには井脇ノブ子級に美的センスがないので、彩りなんぞは食材を選ぶ決め手にはならない。

 ぼくがスーパーで買い物をするときは、
[(可食部分の重量)+(おいしさ)×0.25+(栄養素)×0.5]÷(価格)
で表される式の値を求め、この値が最大となるように食材を選んでいる。
 要は、安くて腹に溜まる食材が優先され、色合いについてはまったく考慮に入らないということだ。
 その結果、ジャガイモだとかソーセージだとか古くなって30%引きのバナナだとかの茶色い食材ばかりを手に取ってしまい、パセリやパプリカやフルーツなんぞの彩り豊か系は見向きもされないということになる。

 茶色い食材を使い、茶色い調味料で味付けをするわけだから、完成した弁当が何色になるかは火を見るよりも明らかだ。
 かくして、お昼時に弁当箱の蓋を開けたら一面の泥色が広がっていることになる。

 泥っぽいのは色合いだけではない。
 弁当の水分含有量という観点から見ても、ぼくのつくる弁当は「泥」だ。
 調理したものをそのままフライパンからどばっと弁当箱に詰めてしまうせいだろう。たいてい箱の中がびちゃびちゃになっている。
 いや、中だけで済んでいればまだいいほうだ。運搬方法が悪かったときは弁当箱から煮汁が染み出して、弁当包みはおろか鞄内に同居していた書類までが泥、じゃなかった、汁まみれになってしまう。

 これはひょっとしたらお弁当箱の構造が悪いのではないかと思ったぼくは東急ハンズに向かった。
 難しいことはよくわからないけど最近はタブレットとかWi-Fiとかのすごいシステムがあるらしい。ITの力でお弁当の汁漏れもなんとかなるかもしれない。

 ハンズには多種多様なお弁当箱があった。
 さすがはハンズ。
 軽いやつとか保温性にすぐれたやつとか、重箱みたいなやつまである。
 だが「汁漏れしにくい!」をうたった商品は見あたらない。
 ぼくはハンズの店員さんをつかまえて訊いてみた。
「この中でいちばん水はけの悪いお弁当箱はどれですか」
 「えっ。水はけ、ですか……?」
「いやね、いつもお弁当箱の中がびっちょんびっちょんになるんで……」
 「あー。でしたら、お弁当仕切りを使われてはいかがでしょう」
 そう云って店員が薦めてくれたのは、プラスチック製の小さなカップだった。
 なるほど。
 こいつを使えば、汁を切らずに適当に詰め込んだとしても、他のおかずに浸水被害が及ぶことは少なそうだ。
 おまけにそのお弁当仕切りたちはオレンジやグリーンなど、実に鮮やかな色をしている。
 色合いの面でもお弁当が泥化するのを食い止めてくれそうだ。
 ぼくは直ちにお弁当仕切りを購入した。
 これで少しは妻の不機嫌も解消されるだろう。

 しかし。
 よく考えてみると、カラフルなお弁当仕切りを買ったからといって、おかずの色が汚いとか、煮汁がお弁当箱からあふれだすとかいう根本的な問題はまるで解決されていないのだ。
 障壁の本質を見ようとせず、その場しのぎの安易な逃げ道に走る。
 まったくもってぼくの生き方そのものではないか。
 泥のように汚い生き方だ。

 やはりお弁当作りは、作る人の人間性がはっきりと表れる「弁当道」なのだ。

2015年9月11日金曜日

【考察】もしもあなたがスリならば

たしか20年ほど前は、電車内で
「スリの被害が発生しております。ご注意ください」
というアナウンスが流れていた。

最近は耳にしない。
まさかスリが根絶されたのだろうか、いやいやまさかそんなことはあるまいと思って調べてみたら、意外なことがわかった。

「スリにご注意ください」
とアナウンスされると、乗客は、自分は大丈夫かなと心配になる。
で、ポケットやかばんに手をあて、財布が盗られていないことを確認する。

この行為が、スリに財布の場所を教えるようなものなのだ。
スリ被害を防ぐためのアナウンスが、逆にスリの手助けすることになっていた。
というわけで、各鉄道会社はスリに注意のアナウンスをしなくなったんだってさ。

2015年9月10日木曜日

【考察】もしもあたしがスリならば

あたしがスリなら、電車内でスマホゲームに夢中になってるやつらだけ狙うよね。

あいつらほんと鈍くなってるから、ズボンごと財布スられても気づかないよ、絶対。

2015年9月9日水曜日

【エッセイ】ダメあかん!

2歳の娘が、気に入らないことがあると
「ダメあかん!」
と言うようになった。

奇妙な言葉だ。
もちろんわが家にはそんな言い回しを使う人間はいない。「ダメ」は言うが、「あかん」は子どもにたいしては使わないようにしている。
娘が通う保育園の先生に、世間話のついでに聞いてみた。
「娘が『ダメあかん!』という言葉を使うようになったのですが、そういうことを言う子がいるんですか?」

すると保育士さんは恥ずかしそうに
「あー……。それは、わたしたち保育士が言うからですね……」
と、そのわけを教えてくれた。

大阪の保育園なので、家で「あかん!」を聞かされて育つ子どもがいる。
一方、「ダメ!」と言う家庭もある。
保育士さんが子どもに注意をするときは危険が迫っているときが多いので、子どもに瞬時に言葉を理解させないといけない。
そのとき、ふだん「あかん!」と言われている子に「ダメ!」と言っても理解できない可能性がある。
そこで、どちらのケースでもすぐに伝わるように「ダメあかん!」なのだそうだ。

なるほど。
こうやって、大阪の園児たちは知らず知らずのうちにバイリンガルになってゆくのか。

2015年9月8日火曜日

【ふまじめな考察】ヘアスタイルの自主決定権


美容院に行くと「どんな感じにしましょう」と訊かれるけど、あれなんとかならんものかね。

ぼくはいっつも「前髪は眉にかからない程度で、横は耳にかからないぐらいで、あとは適当に」と言うことに決めている。
こう言っておけばだいたい思ったとおりにしてくれもらえる。
だが、ときどきふと思う。
はたしてこれが正解なのだろうか。
美容師さんからは「なんだよそのいいかげんな指示は。もっと具体的に言ってくれなきゃわからないよ」と思われているのかもしれない。
かといって、
「前髪は眉の上4ミリまで。耳まわりはy=2/3x^の放物線を1/4ラジアンの角度で傾けた図形を描くようにして、頭頂部は福山雅治のつむじと近似になるように。かつ前頭葉から海馬の外殻にあたる部分は……」
みたいな細かい指示を出したら、(しょうもない顔面のくせにうるせえなあ。おまえの頭に関心あるやつなんかいないから頭髪の代わりにもずくが乗ってたって誰も気づきゃしねえよ)と思われることはまちがいない。

病院だと、ほとんどクライアント(患者のこと)が口をはさむ隙がない。
医師や診察をし、臨床検査技師が検査をおこない、
「あなたの血圧は正常値より高いです。このままだと脳溢血を引き起こすリスクがあります。血圧を下げる薬を処方しますので一日に三回服用してください」
と、すべて決めてくれる。
クライアントは、プロがそういうのならまちがいないと、安心してエスカレーターに乗っかっているだけでいい。



ぼくは「どんな分野であれ素人が口をはさむとろくなことにならない。プロに一任するのが最も効率的でいい結果を生む」と信じているから、できることなら髪のことに関しては美容師さんに全権委譲したい。

美容院に行くと、美容師がぼくの顔立ち、頭部の形、髪質などを入念にチェックしたのち、
「あなたの今の髪型は男性の15パーセント、女性の45パーセントからダサいと思われる髪型です。このままだとロマンスのチャンスをみすみす逃す可能性があります。モテモテになるのは無理だとしても、そこそこ見られる髪型にしてあなたの髪質にあった整髪料を処方しておきますので、一日一回、鏡の前でヘアセットしてください」
という診断を下してくれるのだ。

これは便利ー!
ぼく程度の人間に、ヘアスタイルの自主決定権なんかいらないんだよ!


2015年9月7日月曜日

【エッセイ】完全犯罪の憂鬱

 完全犯罪を成し遂げたことがある。

 中学2年の冬だった。
 社会科の先生が体調不良のため休職することになり、代理で非常勤の教師が来ることになった。
 代理で来るのは若い女の先生らしい。
 彼女がはじめて授業をおこなう日。かしこいぼくは、クラスの男子全員を集めて提案した。
「どうだ、全員の名前と座席をシャッフルしようじゃないか」

 代理の先生はぼくたちの顔と名前を知らない。だから別人の名前を名乗ってもバレないはず、とふんでのことだった。
 そして我々は、それぞれが別人の名前を名乗ることにした。
 ぼくの名前はT木になった。
 ぼくの名前と座席は、M山に貸した。
 学ランに名札が縫いつけてあったため、学ランごと交換するという念の入れようだった。

 よくこんなくだらないことにクラスの男子全員が協力してくれたものだと感心する。
 生徒会役員のやつも、不良のやつも、クラスの人気者も、ほとんど登校拒否のやつも、なぜかそのときだけはみんな協力してくれた。
 文化祭でも合唱コンクールでもばらばらだったクラスが、ようやくひとつになった瞬間だった。

 結果は、大成功だった。
 あたりまえだか代理の先生は変装した男子たちの正体に気づかず、ぼくらは嘘の名前で堂々と自己紹介までしてみせた。
 代理の先生はそれを素直に信じ(クラスの男子全員が偽名を名乗っている可能性を疑う教師がこの世にいるだろうか)、ぼくらは終始笑いをこらえながらその1時間を過ごした。

 なかなか大がかりないたずらだったが、最近友人から「こんなこともあったよな」と言われるまで完全に忘れていた。
 ぼくにとってあまり印象的な出来事ではなかったらしい。
 いたずらというやつは、たいていバレて叱られた思い出とセットで記憶されているものだ。
 とうとうバレることのなかった「学ラン交換」は、ぼくの中で消化されずにどこかへ流れてしまったらしい。

 誰にも知られない完全犯罪なんておもしろくない。
 アルセーヌ・ルパンをはじめとする大泥棒たちがわざわざ犯行予告をする理由が、ぼくにはわかる気がする。

2015年9月6日日曜日

【読書感想】 九井 諒子『ダンジョン飯』


『ダンジョン飯』

九井 諒子

内容(Amazon.co.jpより)
待ってろドラゴン、ステーキにしてやる!
九井諒子、初の長編連載。待望の単行本化!
ダンジョンの奥深くでドラゴンに襲われ、
金と食料を失ってしまった冒険者・ライオス一行。
再びダンジョンに挑もうにも、このまま行けば、途中で飢え死にしてしまう……。
そこでライオスは決意する「そうだ、モンスターを食べよう! 」
スライム、バジリスク、ミミック、そしてドラゴン!!
襲い来る凶暴なモンスターを食べながら、
ダンジョンの踏破を目指せ! 冒険者よ!! 

 なんというか、すごく説明しにくいんだけど、あえて既存のジャンルにあてはめるなら、料理漫画である。『クッキングパパ』のように具体的なレシピがあり、『美味しんぼ』のような食の蘊蓄も得られ、『孤独のグルメ』のように精緻なレポートで食欲をそそる。
 が、扱う食材はすべて架空のものである。魔物や鎧や肉食植物を調理して、そして食らう。

 小説やゲームなどのファンタジーの世界に食事シーンは少ない。ぼくらが見たこともない動植物が跋扈する世界なのだから、そこの住人たちも当然ぼくたちとはちがうものを食っているはずである。なのに、その描写はほとんどない。
『ドラゴンクエスト』の冒険者たちは何を食っているのだろう。数々のアイテムがあるけど、食べ物ってあったかな。やくそう、ちからのみ、まもののにく。どれも食料じゃないな。

 どんな奇妙な世界だって、そこに生きている人は腹もへるし糞もするし眠くもなる。しかし日常的な行為はあまり語られない。
 歴史的に重要なできごと ー 戦争や地震や革命 ー は記録に残る。しかし、市井の人々が何を食べ、どうやって寝て、どうやって歯を磨いていたのかの文献は少ない。あえて記録に残すほどではないと思うから。

 過去だけじゃない。
 たとえばイタリア。ぼくらはイタリア料理に関する知識を持っている。ピザやパスタはよく口にするし、カプチーノも飲む。
 けれど、「今日は昼飯遅かったし、晩はかんたんでいっかな」というとき、日本人ならお茶漬けなんかで済ませるが、イタリア人ならどうするのか。マルゲリータで済ませたりするのか。
 イタリアの男子高校生はどんなお弁当箱を使っているのか。パスタソースがお弁当箱から染みださないようにどんな工夫をしているのか。
 和菓子職人に選ばれたお茶は綾鷹でしたが、ティラミス職人はどんなコーヒーをたしなむのか。
 ぜんぜん知らない。

 Twitterやブログが広まって誰でも手軽に情報を発信できるようになった今でも変わらない。旅行に行ったことやめったに作らないごちそうを作ったことは記録しても、サンスターで歯をみがいたことや、ヤマザキの食パンで朝ごはんを済ませたことをわざわざ世に発信する人は多くない。


 だから『ダンジョン飯』は、ファンタジーの世界を知る上で、貴重な記録である(ファンタジーだからもちろん空想の記録だけど)。
 魔物と戦う冒険者たちが、何を食べ、どのように栄養バランスを考え、トイレをどう処理しているかまで丹念に書かれている。単なる想像ではない。しっかりとした科学的知識に裏打ちされた、筋の通った理論が世界観を強く支えている。生物学の教科書を読んでいるような気にさえなる。

 “無人島に持っていきたい一冊”というものがあるが、まぎれもなくこれは“ダンジョンに持っていきたい一冊”だ。


2015年9月5日土曜日

【考察】女子とおばさんの境界線

自分のことを「女の子」「女子」というようになったら、もう女の子じゃないし、
「おばさん」と言われて怒るようになったら、おばさん。

2015年9月4日金曜日

【ふまじめな考察】善人の道案内

みんな知ってるー!?

知らない人に道を訊かれたとき、
ふつうに教えても
「どうもありがとうございます」
ぐらいだけど、

一度でたらめな道を教えて、相手が歩きだして1分後ぐらいしてからあわてて追いかけて「やっぱりこっちでした!」ってほんとの道を教えると、
「ええ!? そのためにわざわざ追いかけてきてくれたんですか! なんていい人なんですか!」
ってなかんじで、ものすごく感謝感激してくれるんで、超オススメだよ☆

2015年9月3日木曜日

おっさんだけどおっさんじゃなかった

50歳くらいの小太りの男性が、駅前に立っている。
全身から汗をかき、うちわでぱたぱたぱたぱたとせわしなく扇いでいる。
そこにやってきた、連れの男性(こちらも50歳くらい)。
「おまえ、そんなだらしない格好してたらおっさんみたいやで」

お っ さ ん み た い や で 。

ぼくの目にはどっからどう見てもおっさんにしか見えなかったのだが。
まさかおっさんじゃなかったなんて。
いやあ、人は見た目によらないものだ。

2015年9月2日水曜日

遠き遠きモテの世界

「自分はモテないし、この先もモテることはない」
という現実をぼくが知ったのは、小学3年生の春のことだった。

 遠足で隣県の山に登ったときのことだ。
 山頂でお弁当を食べたあと、ぼくらは付近の斜面を走り回って遊んだ。
 斜面を駆け上がり、その後駆け下りる。そしてまた上る。
 その行為のどこに悦びを見いだしていたのかは今となっては謎だが、自分のしっぽを追いかけて回り続ける雑種犬よりアホだった小3のぼくらは、その生産性ゼロの遊びに数十分以上も耽っていた。
 その間にも南米の密林がどんどん減少して砂漠へと変わっていることも知らずに。

 突然、鋭い悲鳴が響いた。
 女の子たちが騒然としている。
 走り回っていた女の子のひとりが斜面から転げ落ち、さらに悪いことに石に頭をぶつけたのだ。
 彼女の意識ははっきりしていたが頭からは血が出ていた。
 すぐに担任の先生がとんできたが、ぼくは彼女がそのまま死んでしまうのではないかと思った。
 小学生にとって「頭から血が出る」というのは、あのベジータがあっさりフリーザにやられてしまったときと同じくらい絶望的な状況だった。
 遊んでいた誰もが、ぼくと同じようにオロオロしながら、けれど何もできずに頭から血を流す女の子を遠巻きに見ていた。

 そのときだった。
 同じクラスのヨシダくんがけがをした女の子に駆け寄り、ハンカチを差し出したのだ。

 衝撃的な出来事だった。
 今でも当時の感動とともに、その光景を鮮明に思い出すことができる。
 まちがいなくその場にいた全員(教師も含め)が、ヨシダくんの振る舞いにときめき、そして彼に惚れたはずだ。
 もちろんぼくもそのひとりである。
 傷ついた女性にさっとハンカチを差し出す紳士的な振る舞いもさることながら、何よりぼくが驚嘆したのは、彼が「ハンカチを持っている」ということだった。

 当時のぼくにとってハンカチというものは、パーカライジング(リン酸塩の溶液を用いて金属の表面に化学的にリン酸塩皮膜を生成させる化成処理)と同じくらい、自分の生活とは縁遠いものだった。
 トイレに行っても手を洗わないし、よしんば洗ったとしても濡れた手の処理は
・ズボンでごしごしする
・友だちの背中になすりつける
の二択だったぼくにとって、手をハンカチで拭くなんて、手にリン酸塩を塗ることぐらいありえないことだった。
 つまり、ぼくはごくごく普通の小学3年生男子だったわけだ。
 ところが、ぼくと同じ歳月しか生きていないヨシダくんは、ハンカチを所持していただけでなく、これ以上ないというベストなタイミングでポケットから取り出し、あろうことかさりげなく女の子に差し出してみせたのだ。
 なんて破廉恥な小学3年生なのであろう!

 そして彼がハンカチを差し出した瞬間、ぼくは稲光に打たれたように悟ってしまった。
 「モテる」とはこういうことだ、と。

 このときぼくがはっきりと認識した「モテる」世界は、眼前に見えているにもかかわらず、西方浄土よりも遠く感じられた。
 自分が立っている場所との落差を感じ、深い絶望を覚えた。
 とても自分が、傷ついた女性にさりげなくハンカチを渡せる男になるとは思えなかった。
 8歳のぼくが感じた予感は悲しいことに的中し、30歳をすぎた今でも女性に対してハンカチを差し出すことはおろか、お世辞のひとつすら言えない。

 ああ。
 なんて遠いんだ「モテる」世界よ!
 ぼくには一生かかってもたどり着けそうにないよガンダーラ!!

2015年9月1日火曜日

受け取るな!のビラ

 路上でビラ配りをしている男女が
「こんなの受け取ろうと思います?」
「あたしだったら絶対に受け取らないー」
とおしゃべりしながら配っていたので、
もらおうとした手をあわてて引っ込めた。